神は沈黙しているか?

三澤洋史 

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寒波襲来

 日本列島に寒波が襲来している。1月15日日曜日、関口教会8時のミサで指揮した後、東京駅に急ぎ、新幹線で浜松に向かう。浜松までは定刻通り動いていたが、そこから先は雪のため徐行運転が始まり、遅れが予想されると車内放送が流れていた。
 浜松というのは元来温かい所で、東京と名古屋の両方に雪が降っているような時でも、いつも楽園のようにポカポカ陽気なのに、この日だけは、これまで感じたことがないほど風が冷たく、東京よりもむしろ寒かった。
 浜松バッハ研究会の練習場は舞阪協働センターという所。浜松からさらに東海道線で名古屋方面に向かい、浜名湖の中にぽっかり浮かぶ弁天島で降りる。その瞬間、僕の体を強風が吹き抜けていった。身がブルッと震えた。
 帰りも、この駅のホームの上で電車を待つ間、浜名湖と遠州灘とを往復してしていく強い冷気に耐えきれず、自動販売機でお汁粉の缶を買って飲んだ。胃袋から体全体にじわあああっと暖かさが広がってくるのがよく分かった。

 この寒波だけれど、ヤだなと思う反面、嬉しい気持ちもある。今週一日だけのオフ日にガーラ湯沢に行く予定にしているからだ。僕にとって、ホーム・ゲレンデは二つある。白馬五竜スキー場は、レッスンを受けるゲレンデ。そして、ガーラ湯沢は、ひとりで黙々と練習するゲレンデ。その実地訓練ゲレンデに今年またデビューする。
 今年もまた去年同様、スキー場には異常に雪がなかった。年末年始の稼ぎ時に雪不足でゲレンデがオープン出来ず、厳しい状況に追い込まれている人達は少なくないだろう。でも、ここにきてやっと降ってきたから、ゲレンデ関係者及びペンションなどの経営者達はやれやれだね。みなさん、どうか頑張って下さいね!

 さて、僕が自分の弱さや恐怖心と向かい合い、自分の体幹を確認し、大自然に抱かれながら瞑想する、いわゆる行(ぎょう)三昧の日々の幕開けである。
湯沢の山々よ、今年もよろしく頼みます。

神は沈黙しているか?
 「カトリック生活」2月号が届いた。今回の特集は「『沈黙』をめぐって」というものである。21日に封切りされるマーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙~サイレンス」に合わせて組まれた特集だ。
 この中に僕の原稿がある。僕は1993年に日生劇場で初演されたオペラ「沈黙」に密接に関わっていたため、「オペラの観点から見た『沈黙』」というコンセプトで原稿依頼を受けていたのだ。
 原稿を書きながら、僕の脳裏には、初演当時の稽古場の風景がありありと蘇ってきた。僕は、作曲家松村禎三(まつむら ていぞう)さんの率直で真摯な態度が好きで、稽古の合間によく話しかけていった。松村さんも、好意を持って自分のところに来る僕に対して、心を開いてくれて、いろんなことを話してくれた。
 オペラ「沈黙」は、遠藤周作氏の原作と違う点を否定的に指摘されることも少なくないので、今回の原稿では、僕はどちらかというと松村さんを擁護する立場で書いた。
 原稿の中でこう書いている。

こんな作品を書くのだからクリスチャンに違いないと信じていた。ところがあるとき、彼は驚くべきことを言った。
「私は法華経の信者なのです」
 ええと・・・すいません・・・白状しますが、僕はこんなドラマチックに驚愕したわけではないのだ。読者の興味を煽るために、多少の脚色をしてしまった。そもそも、原稿の後半で述べているように、僕には松村さんがクリスチャンであろうがなかろうが、ちっとも重要ではないのだ。大事なことは、彼がとても信仰深い人であるという事実で、それは彼との対話の中で、最初からひしひしと感じていたこと。
 彼が法華経の信者だと告白した時も、本当はちっともびっくりしないで、「ふうん・・・」って思っただけだ。それよりも、松村氏の描く「沈黙」の方が遠藤周作氏の原作よりも、ずっと真剣に勝負しているなと思っていた。何故か?それは、松村氏の描く音楽の中には、「神は沈黙しているか?」というクエスチョンに対する明快な答えがあったからだ。

 そのことを語るのに、同じ「カトリック生活」の中のギュンタ・ケルクマン氏の「喜びと出会うとっておきのおはなし」(26ページ)の記事から引用させていただきたい。ケルクマン氏はマザー・テレサの体験を語る。
 マザー・テレサは、カルカッタで修道会が経営する女学校の教師をしていた。塀の内側の修道院と学校での生活は不自由なく平和であったが、一歩外に出ると、街では戦争、暴動、飢饉、貧困、差別などが横行していた。それを知った彼女は、
「なんとかしなければ」
というやむにやまれぬ思いを持ち始め、それは日に日に強くなっていったという。
 ケルクマン氏は言う。
このマザー・テレサのエピソードには、「神さの働きはどのような形で私たちにあらわれるのか」ということがわかりやすく示されていると思います。
(中略)
この思いが、「神の声」にほかなりません。
(中略)
このように考えてみると、「神の声」は私たちの周りに満ちあふれていることがわかります。神さまは沈黙することも、私たちを見放すこともありません。
 まさに僕が言いたかったことを言い尽くしている。しゃべらないから沈黙ということではないのだ。そりゃあ、中にはベルナデッタのように、誰かが出てきて具体的に言葉にされた啓示を受けることもあるかも知れないけれど、むしろ神さまは、しゃべるという行為以外の様々な方法を通して、僕たちにアクセスしている。
 カルカッタの街の悲惨な状況を見て、これは大変だと思った人はマザー・テレサに限らない。しかし、あそこまで彼女を突き動かしたもの。それが「神の声」だ。だから「彼女は神の声を聞き、従った」と言ったって間違いではないだろう。

 松村さんの「沈黙」の優れたところは、それを音楽で見事に表現していること。水磔刑に処せられたモキチが、満潮で溺れそうになりながら、いまわの際に歌う、
まいろうやなあ まいろう
ハライソの寺にぞ まいろう
の場面は、いつも合唱団員が泣いて歌えなくなる箇所だ。これが演奏される時、僕は常に“神の臨在”を感じる。それが稽古場であろうとも公演の最中であろうとも・・・。そして、これを作らせたのは、実は松村氏ではないことを知っている。恐らく松村氏自身も、自分を包み込む感動に我を忘れていたに違いないと、僕は確信する。この瞬間、感じられるものが「神の声」だ。だから、「神の声」はいつでも聞こえるのだ。ほら、ちっとももったいぶっていないだろう。

 「カトリック生活」の原稿では、あんまり遠藤氏を攻撃すると、遠藤氏が好きな人や、個人的に親交のあった人も読むだろうから、原作に関しての批判は最小限に抑えたが、それでもちょっとシビアにはなってしまったね。でもね、本当はもっと言いたいことがある。それはこういうこと。
 踏み絵や棄教への強制をテーマにしたこの物語を作った遠藤氏は狡いと思うのだ。何故なら、この小説を読み始めるやいなや、敬虔なクリスチャンであればあるほど、それを自分の内面に挑んでくる問題に置き換えてしまって、小説そのものに対する健全な批評精神を持てなくなってしまうからだ。
 若い頃の僕がそうだった。すなわち、
「お前は、このような状況に置かれた時、それでも自分の信仰心に少しのゆらぎも生まれないと断言できるのか?」
とか、
「お前は、どんな目に遭っても信仰を貫き通すと断言できるのか?処刑されると分かっていながら踏み絵を踏まない覚悟は出来ているのか?それが出来ないなら、お前の信仰心って一体なんなのだ?」
というツボにはまり込み、どんどん自分を追い込んでいって、しまいには自己嫌悪の穴蔵から這い上がれなかった。

 そして、結末で等身大のイエスが登場し、
「踏むがいい、踏むがいい、お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ」
と語るわけだが、ここでほとんどの信者たちは、なにか裏切られたような気持ちになるのだ。あんなに真面目に自分の弱さを責め、強くなり切れない自分にふがいない思いを持ったその末に、イエス自身が「踏むがいい」はないでしょう、と憤りにも似た気持ちが支配するわけだ。

 でも、この歳になって読み返すと、昔と全然違う印象を持つ。まあ、人間長く生きているから、遠藤氏とは違った意味で自分も狡くなっているのかも知れないが、あんなシビアな問題を提起しておきながら、作者自身は、最初からまんまと安全地帯に逃げているのが手に取るように分かっちゃったのだ。
 遠藤氏はキチジローという矮小な人間に、はじめから自分自身を投影させている。読者を信仰者の苦悩と自己嫌悪に追い込んでおきながら、自分はキチジローと一緒にさっさと踏み絵を踏み、仲間やロドリゴを裏切っている。
 そして、それでもイエスは許してくれる、という結論を袂に隠し持っているのだ。しかもキチジローだけでなく、ロドリゴにも、「お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ」などと、あたかも踏み絵を踏むことを奨励するかのような結論に導いている。要するに、自分の弱さを正当化しているようにしか、今の僕には映らないのだ。

 イエスは、確かにそれでも許してはくれる。しかし、その許す許さないとか、救われる救われないにこだわっている内は、信仰の本質は決して見えてこない。ペテロもパウロも殉教した。ペテロがガリラヤ湖畔でイエスに出遭わなかったなら、あんな辛い人生を送らなかっただろう。パウロがダマスコに行く途中で、イエスの声を聞かなかったら、あれだけの苦労を重ねることもなかっただろう。
 逆に言うと、神の声を聞いてしまったら、大変なことが人生の先に待ち構えている。それに耐えられる者だけが、神の声を聞けるのだ。あるいは、その人の器の大きさに応じて、神はその姿を現し、その使命を告げるといったらいいであろうか。
 神の声を聞いてしまったペテロもパウロも、そしてマザー・テレサも、何も迷っていないし、人の目も気にしないでなりふり構わずだ。僕も含めて、そこまでなれない凡人は、自分が凡人であることに逆に感謝しよう。要求されなかったら責められることもない。遠藤氏も、自分に神の声が聞こえないなら、聞こえない凡人であることを謙虚に感謝するだけにしておけばよかったのに。

 「カトリック生活」は、どこの本屋でもおいてあるわけでないので、購入は難しいかも知れないけれど、ドン・ボスコ社のホームページから入ってネットで申し込むことは出来ます。一冊わずか216円で、どうやら送料がかからないみたい。儲ける気ないよな。まあ、そこがカトリックの良いところだけれど。


カトリック生活2月号 (画像クリックでサイトへ)

 この2月号は、自分が出ているから言うわけでもないが、いつにもまして充実した内容に仕上がっている。他の執筆者達の文章がみんな秀逸なのだ。そうした話題を提供出来る材料としては、遠藤氏の「沈黙」は最良なのかもしれない。その意味で、やっぱり遠藤氏は偉大なのか・・・と、最後にちょっと褒めておきたい。
 最近お知り合いになった竹下節子さんも、連載の「カトリック・サプリ」で「もうひとつの沈黙」という記事を書いている。さすが比較文化の専門家だけあって、様々な面から宗教と沈黙について語っている。それよりも、文章のうまさに惚れ惚れする。竹下さんの文章を読んだ後、自分の文章を読むと、雰囲気だけで書いていて、なんてテキトーなんだろうと自分がパーに見えて仕方ない。あははははは・・・・ショボン。



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