ルターとバッハ
東京バロック・スコラーズでは、5月4日木曜日祝日の「メサイア」演奏会の後、10月22日に次の演奏会を催すことは決まっているが、肝心の曲目がまだ決まっていない。でも、演奏会のコンセプトは、はっきりしている。それは、ルターの宗教改革500年記念演奏会となるのだ。
2017年の今年から500年さかのぼること1517年の10月31日。『免罪符』に代表されるカトリック教会の腐敗を糾弾する95箇条の提題(独語95 Thesen)を書いた板をヴィッテンベルク教会の扉に打ち付けて、ルターの宗教改革の火ぶたが切られたことは、あまりにも有名である。
アメリカや日本では、ハロウィンとして浮かれたお祭り騒ぎをしている10月31日は、ドイツのプロテスタント地方では、宗教改革記念日(Reformationstag)として休日になっている。演奏会の日程がその日に近いのは、たまたまとはいえタイムリーで嬉しい。
Ninety-five Theses
Martin Luther
映画「沈黙」を観てきました
1月25日水曜日。孫の杏樹を妻の車で保育園に送っていたその足で、立川シネマシティに行って、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を妻と2人で観た。映画は、とてもよく出来ていた。日本が舞台となっている作品であるが、外国人が彼等の感性で撮ると、やっぱり外国人らしいものに仕上がるね。
僕が一番感心したのは音楽。とはいっても、音楽らしい音楽は使っていない。その意味では、全編音楽で彩られているオペラ「沈黙」とはもちろんのこと、武満徹(たけみつ とおる)の音楽を使用した篠田正浩監督の「沈黙」とも一線を画している。
冒頭、真っ黒な画面に虫の声だけが響いている。それが突然中断する瞬間、Silenceの文字が白抜きで画面に現れる。映画の中でも、いわゆるBGMのような音楽はほとんどない。しかし、聞こえてくる自然音や街に響く太鼓の音などが実に音楽的。本当に音楽を感じる者だけが分かる、究極的な感性がそこにある。本編終演後、出演者達のクレジットが出る時にも、虫の声だけが延々と続く。やるなあ・・・。
かつて武満徹は、「音、沈黙と測りあえるほどに」という著書を出して、自分の音楽が沈黙というものを破る価値があるものか問いつつ作曲していたというが、篠田正浩監督の元で、バロックのリュート音楽を現代音楽風にデフォルメした彼の音楽は、残念ながら、スコセッシ監督のようには沈黙と測りあえていなかった。音楽は興味深かったが、僕には違和感があった。ま、今はこの話題にこれ以上深入りするつもりはない。
キャスト達はみんな秀逸。一番感動したのは、フェレイラ神父を演じたリーアム・ニーソン。特に、ロドリゴとの対面の時、一徹なロドリゴが浴びせる突き刺さるような非難の言葉に、頬のピクッとした動きひとつにも深い苦悩が感じられる。その瞳の演技には、自分の感情を押し殺して生きなければならない痛ましいフェレイラ神父の内面が見事に表現されている。もちろん、彼を問い詰めるロドリゴ役ガーフィールドの、残酷なほどまっすぐで純粋なキャラクターと対比させられるから、よけい引き立つのだが・・・。
イッセー尾形の井上筑後守をなんと形容しよう。老獪といおうか。屈折する人間が見せる奇妙なしぐさや不自然な表情は、まさに芸術の域だ。彼や、通辞役の浅野忠信の彫りの深い演技を観ながら、スコセッシ監督の描く「沈黙」のストーリーは、ただ2人の神父が棄教した話ではなく、井上をはじめとする沢山の人間が、最初はキリスト教に傾倒しておきながら、様々な葛藤や苦悩及び失望を経て、自らを、キリスト教という刃によって傷つけ、魂を蝕んでいく過程を描いた作品なのではないかなと思い至った。
窪塚洋介の演ずるキチジローは、僕の抱いていたキチジロー像、すなわち、卑屈で矮小で狡猾なキャラクターとはかなり違う。カッコ良すぎるしひたむきすぎる気がした。ただ、スコセッシ監督が、映画の終わり近くで(ネタバレできないが)、あのように彼の存在感を扱うことを考えると、原作者遠藤周作氏が自嘲的に描いた自画像よりは、ポジティヴな役割を与えられているのだろう。その意図は理解できる。
その他、自身が著名な映画監督である塚本晋也(モキチ)や、演劇の演出家である笈田ヨシ(イチゾウ)など、通常だったら一役者として登場するなど考えられないようなもったいないキャストたちが名を連ね、素晴らしい存在感を醸し出している。そういう人材が喜んで馳せ参じることこそ、スコセッシ監督の人徳の成せる業なのだろう。
さて、そのような豪華キャストに包まれて、スコセッシ監督が描いた「沈黙」が、素晴らしい映画に仕上がるのは必至で、その点に対して何の疑問もない。しかしながら、そうやって描けば描くほど(またまた悪口のようになってしまうのだが)、遠藤周作の小説「沈黙」の底の浅さというか詰めの甘さが浮き彫りになってしまうように僕には感じられてならない。
つまりこうだ。キリシタン弾圧にあって、決して転ばずに勇敢に殉死した信徒たちを描くのはいい。また、棄教せざるを得なかった者達の哀しみや、その後の苦悩を描くのもいい。でも、神父が転び、その踏み絵を踏む時に、あんなに沈黙していたイエスが、
「踏むがいい」
と“神父にだけ”言って、彼の行為を正当化するようなストーリー展開には、やっぱり納得しろという方が無理だ。
キリストを裏切ったユダも許されるのかという問いには、
「然り!」
と答える僕ではあるが、ではキリストは、
「裏切るがいい。そのために私は来たのだから」
と言ってユダの裏切りを奨励したのかと問われれば、
「否!」
と答えるしかない。
親は、自分の子供が悪い子になっても、結局は許さざるを得ないが、どんな行動も微笑ましく見ているわけではないだろう。それに、「みんな神の子」として救われるかも知れないけれど、やっぱりキチジローみたいな人間とマザー・テレサみたいな人間は違うじゃないか。では、その中でフェレイラやロドリゴは、一体どのように位置づけられるのか?
この小説は、問題提起だけは衝撃的なのだが、その解決が描かれていない。すなわち、その転んだ神父のその後の内面はどうなったのか、ということだ。転んだのだから、フェレイラやロドリゴからキリスト教は消えてしまったのか?イエスへの想いは、完全に消滅してしまったのか?
むしろ、ロドリゴは、イエスの「踏むがいい」という言葉を聞いて、新たにイエスへの想いが沸き立ってきたのではなかったのか?そうじゃなかったら、そもそもこの小説を書いた意味がないじゃないか?でも、その沸き立ってきた想いは、どこへいくのだ?
その疑問に対して、さすがスコセッシ監督は、映画の結末で、遠藤氏の原作にはない展開を見せて彼なりの結論を出している。それを言いたいが、言ってしまうと、これから観るであろう人達にネタバレしてしまうので避ける。でも、ちょっとバラすくらいはいいかなあ。
たとえば、棄教してからのロドリゴはフェレイラと会う。その時、フェレイラがふとLord(主)という言葉を使ってしまったことをロドリゴは見逃さない。
「あれ?今、主っていいましたよね?」
「・・・聞き間違いだ・・・」
こういうところがいいなあ。抑圧された感情は、その人間の内面の奥底に押しやられ、封印され、もはや死に絶えたような「沈黙」の中に眠っている。しかし・・・しかしだ・・・人間の心の中にだけは誰も踏み込めない。おっとっとっと・・・もう、これ以上は言いません。
結論的にいうと、僕には、松村禎三氏の作曲したオペラ「沈黙」が一番良いように思われる。随所に感動する場面があるし、なんといっても、このやりきれない物語の中にもカタルシスがある。
スコセッシは、人間の方からの神への想いを描いたが、松村氏は、悩み苦しむ人間を包み込みながら、沈黙という大気に溶け込ませている神の慈愛を描いている。そこに僕は激しく共感するのだ。
一方で、映画って凄いなと思う。僕は、この分野に対する大きなリスペクトを新たに持った。現代って、才能のある人がどこに集まるのかなと疑問を持っていたが、そうか、その一部は間違いなく映画の分野に来ていたのかと再認識した。
なんていってもスコセッシ監督の才能が凄い。凄すぎる!画面のひとつひとつの美しさ。コマの進め方からアングルに至るまで、彼の非凡なビジュアル的センスを感じる。さらに、彼の意図を実現していく全てのスタッフ達やキャスト達のプロ意識のすさまじさを感じる。
それらのレベルの高さに驚嘆しつつ、いつもの新国立劇場に入ったら、視線が映画レベルになっていて、オペラの世界では一流の歌手たちのはずなのに、みんな演技的に素人っぽいのに気が付いてがっかりした。映画に完全に負けてる!
オペラという形式が前時代的なのだろうか。みんな必要以上に大袈裟に動くことばっかり考えていて、かえってリアリティに欠ける。少なくとも、両手を広げて五本の指を開いて、正面向いてアリアを歌うのだけは、もうやめようよ。
ニーソンのフェレイラのように、目の演技だけでゾッとするような寂寥感を表現出来る歌手っていないの?劇場だから、遠目に見て良ければいいとでも思ってるの?
こんなことでは、やっぱりオペラは滅びる運命にあるぞ。
声さえでかければいいってもんじゃない。良い声は3分で飽きる。
リアリティを追求し、そのために心して感性を磨くべし!