恩師と共に
1月31日火曜日。「カルメン」千穐楽の日に、僕の国立音楽大学声楽科時代の恩師であるテノール歌手の中村健先生がいらっしゃった。楽屋を訪ねて来られたので、すぐに大森いちえいさんを呼び、一緒に写真を撮った。
中村先生のことは、僕の著書「オペラ座のお仕事」に出てくる。国立音大声楽科に在籍していながら指揮の道を志した僕は、和声学やスコアリーディングの勉強に明け暮れ、声楽の練習をする時間が取れない。そこで先生に相談したところ、レッスンを受けなくていいから、とりあえずレッスン時間に出席しなさいと言われ、毎回近況を報告するだけで単位をもらった。
それで、学年末の試験曲と卒業試験の曲だけ見てもらって卒業できた。また、先生が主任をしていたオペラ研修所の授業も見学させてもらったりと、本当にお世話になった。先生から歌を習ったのと同じくらい、様々な配慮に深い恩を感じている。加えて、最近では、僕のミュージカルなどの公演に足繁く通って下さる。つくづく温かい先生だなあと思っている。
「今日は僕の84歳最後の日なんだよ。明日(2月1日)に85になるんだ」
うわあ、若い。でも、もうそんなになるんだ。そうだよな。この僕だってもうすぐ62歳になるんだ。僕が中村先生に初めて弟子入りしたのは19歳の時だったと思うから、あの頃先生は42歳くらいか。若かったんだね。
大森いちえいさんは、国立音楽大学の大学院時代に中村先生に師事していたという。それから、今回車椅子を引いて先生を連れてきたのはソプラノの内田もと海さん。彼女も弟子なので、先生を囲んで、つかの間ではあるが楽しいひとときを過ごした。
恩師と共に
マーク・パドモアというテノール
親友の角皆優人(つのかい まさひと)君が、自分のブログで、マーク・パドモアというテノール歌手の歌う、シューベルト作曲歌曲集「冬の旅」KKC-5398(HMU907484)の演奏の感想を書いていた。伴奏を弾いているのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を出しているポール・ルイス。
彼が聴くのは器楽曲が主なので、歌曲を聴くのは珍しい。彼は最近シューベルトのピアノ曲に傾倒しているので、ポール・ルイスつながりでマーク・パドモアに辿り着いたのだな。そういえば、昨年末、白馬でこんなやり取りをしていたのを思い出す。
「三澤君、シューベルトのピアノ・ソナタもいいんだぜ」
「うーん・・・僕は、どうもあまりピンとこないんだ。ソナタというと、どうしてもベートーヴェンのような構造的な音楽を期待してしまうからね。それより、シューベルトの才能が花開いた最もすぐれた分野は、なんといっても歌曲だよ」
その僕の言葉が、彼の頭のどこかに残っていて、「冬の旅」に辿り着いたのか。だとしたら嬉しいけれど、実際には僕の方こそ、彼によってパドモアというテノール歌手と出遭うことになるのだから、人生持ちつ持たれつだね。
僕自身、パドモアは未知数だけれど、ポール・ルイスがどういう伴奏を弾くのかなという興味でこのCDを注文したのが正直なところ。何故なら、自分の中では、「冬の旅」はフィッシャー・ディスカウとハンス・ホッターがいればもういらない、という状況だったから、別に批評家でもないので、新たな歌手を発掘する義務もなければモチベーションもなかったのだ。
ところが、全曲を聴き終わってみたら、自分の頭の中で固まっていた典型というものは、常に壊していかなければならないと思ったし、そのためには、若い世代の奏でる音楽にもっと耳を傾けるべきだと、認識を新たにした。老化は、まるでシロアリのように、至る所から密かに忍び寄ってくるのだからね。
パドモアの歌う「冬の旅」を聴いて、あらためて思ったのは、「冬の旅」は若者の歌なんだということ。年寄りが人生を振り返ってしみじみと哲学的に語るような内容ではないのかも知れない。その意味では、深いバスの声で深遠な歌唱を繰り広げるハンス・ホッターの対極に位置される。
「冬の旅」はバス系の歌手が歌うもの、という先入観にとらわれていた僕は、テノールのパドモアが歌う第1曲目「おやすみ」を聴いた途端、
「あれっ?」
と思った。軽くて妙に明るい声。こんな声で「冬の旅」を歌うの?と、軽い抵抗感を覚えた。
ところが聴き進むにつれて、わずか31歳で亡くなったシューベルトが表現したかった「冬の旅」って、本当はこういう世界だったのかも知れないと思うようになった。素直で自然な歌唱。しかしながら、時々突然激情的になる。苛立ちや焦燥感がある。人格的に完成された者が、聴く人達を説得しようなどという表現では全然ない。むしろ、こんなアウトサイダーな若者が、悟っているはずないじゃないの、と開き直って、それぞれの想いを吐露する。
「ええっ?そんな風に自分を追い込まなくていいんじゃないの?」
という批判をも導き出しそうな歌唱に、かえって別の意味で説得力を感じる。
聴き終わってみて、僕には、全く新しい「冬の旅」が見えた。すなわち、この中にあるのは、人生への諦念ではない。むしろ深い孤独の中に響き渡る、強烈な生への執着であり、「生きたい!幸福になりたい!」というたぎるような情熱だ。
ポール・ルイスには、パドモアを差し置いて勝手な自己実現をしようという意図は全く感じられないが、「春の夢」や「からす」などでは、夢のような美しい音が聴かれるし、パドモアに寄り添い、彼の音楽を最大限に引き出しながら、同時に彼なりのシューベルト観を色濃く打ち出している。やはり稀有のピアニストである。
パドモアというテノールに興味を持った僕は、2010年にベルリンのフィルハーモニー・ホールで行われたバッハ作曲「マタイ受難曲」のDVDがあることを知り、矢も楯もたまらなくなってAMAZONで取り寄せてみた。DVD2枚組でBlu-Rayもついている。
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。ベルリン放送合唱団。ソリストも合唱団も暗譜で、シアター・ピース風に演出がついている。
マタイ受難曲のパドモア
トランプ政権、どこへいく?
やれやれ、なんであんな人を大統領にしたかね。今から騒いでも遅い。あれだけ長い間選挙運動をやって、吟味に吟味を重ねた結果がこれなんだから仕方ない。就任してからトランプ大統領がやっている政策は全て選挙運動中に主張していたし、それを踏まえて、多数決の原理でアメリカは彼を選び取ったのだ。民主主義的に見て至極まっとうな方法だ・・・なるほど、民主主義というのは、衆愚政と表裏一体なんだね。
先日テレビで彼の特集をやっていた。実業家の彼は、昔から、資金にまかせて他の企業を脅し、従わせ、買収して、自分の事業を拡大し成功させてきたという。彼のやり方は、相手と一度は敵対し、いちかばちかの勝負に出て、最終的にはお金の力で相手をねじ伏せるというもの。つまり敵対は、彼にとって忌むべき事ではなく、むしろ成功のために通るべき過程であった。その成功体験に支えられている彼は、今、一国の大統領になって、全く同じやり方でアメリカを動かそうとしている。
そうした彼のやり方を推進させるために最も効果的なのがTwitterだ。大統領ともなれば、通常は誰か部下に自分の思いを告げて、複数の人を介して情報が伝えられる。その間に、誰かにとって納得できない要素があれば、どこかでブレーキがかかる。
しかし、彼は、そんなまだるっこしい方法をとらない。Twitterこそは、つぶやき感覚で、全く誰にも邪魔されることなく、彼以外の全世界の人々にとっては全く不用意に、自分自身の思いがダイレクトに全世界に向けて発信される最良の方法。
ある意味、超個人的なつぶやき、しかし同時に世界を揺るがすほどの超公人としての影響力。これこそ新しい独裁政治のあり方なのではないだろうか。Twitterが民主主義を崩壊させる可能性があるならば、トランプ氏のこの行動は、決して放置されるべきではない。しかしながら、
「大統領はTwitterをしてはいけない」
という法律は現在のところ米国内にはないのだ。ないだろう。そんなことをした大統領はこれまでにいなかったのだから。
そして、大統領令の矢継ぎ早な発令。そんな勝手に議会とかの承認も得ないでやっていいの?と思うが、実際にそうした権限があるのは事実。良識ある大統領は、もっと慎重に行動するし、根気よくまわりのコンセンサスを得ながら政策を実行させていく。しかし、起業家の常識は違う。起業家はみんな、自分のやっていることが、どこまでギリギリ法に引っかからないか分かってやっている。
かつてホリエモンが捕まったのだって、そのギリギリの線をちょっと越えてしまったからであって、ホリエモンよりもっとあくどいことをやっている人だって沢山いる。恐らくトランプ氏も、これまで違法ギリギリのところで勝負を賭けてビジネスをやってきているだろうから、大統領になったら、今度は大統領というものがどこまで権限があり、どこまでギリギリ動けるのかを熟知している。その点では、彼はとても賢いと思う。
そんな世界に身を置いていると、結局、法に引っかかるか引っかからないかだけに興味がいって、たとえば、
「彼女を二股掛けている。法律的には何ら問題はないけれど、俺って人間として最低だよね」
などと悩むことはないんだろうね。むしろ、金にまかせて複数の女性をものにしようと、どこが悪いんだ、という発想になる。事実、トランプ氏は、「女たちは、みんな向こうから寄ってくる」と言っているしね。
オバマ氏を含めて、これまでの大統領はみんな、「大統領なんだから立派な人間に見られたい」という気持ちがあったから、なんだかんだ言ってもきちんと振る舞っていた。でも、そこのプライドがない人が大統領という権力を持つと、こんなに恐ろしいんだという見本を、僕たちは現代において見せられている。そういう人は、普通やらないことを何でもやろうとするんだ。
入国制限に反旗を翻したサリー・イエーツ司法長官代理を即座にクビにしたり、大統領令を一時差し止める決定をしたシアトル連邦地裁に悪態をついたりなどは、良心とか善意とかに導かれて行動していたら絶対に出来ないことだものね。
日本に対しては、
「日本が何年も何をしてきたか見てみろ、彼等は為替を操作して通貨安に誘導している」
と言って我が国の金融政策を批判しているが、それは、たまたまアメリカから見て、アメリカの利益を誘導しないだけであって、世界がアメリカの利益だけ考えて行動するはずないし、その必要もない。だから、それを批判すること自体間違っている。
もし、トランプ氏が日本側にいて、他国がそれを批判したら、
「はあ?何言ってる?」
と突っぱねること必至だ。
もう本当に自分のことしか考えないのはあきれる。こうした人間として誤った言動をすること自体を“恥ずかしいこと”と思わない人なんだね。
しかし、突っぱねるだけで済むことはまだいい。トヨタがあわてるまでもなく、
「メキシコで生産した車をアメリカに輸入しようとする会社に関税をかけるぞ」
とトランプ氏がTwitterでつぶやいただけで、ただちにフォードなどいくつかの自動車メーカーがトランプ氏に追従するような声明を出した。その間、政府そのものはなにも動いていないし、実際的に動けないだろう。これは政治ではないんだ。ビジネスなんだ。でも、その結果、政治的には超独裁的な行動だ。
たとえば、ユニクロでもなんでもそうだけど、物価の安い中国とか東南アジアで生産した物を日本で販売するから、我々が安い製品を手にすることが出来る。確かに、それが日本国内生産者の「もの造り」を圧迫していることは否めないが、現代において、その流れを止めることは難しい。我々は、実際、安くて良いものを手にしているんだ。
今までトヨタの車が米国内でよく売れていたのは、安くて性能がいいからだ。トランプの国内庇護政策で雇用は増えるかも知れないが、いずれ米国民は気がつくだろう。つまり、米国民は、その内、車だけではなくて、全ての分野で、高くて質の悪い国産製品しか買えなくなっちゃうんだ。
それに、メキシコとの国境で関税をかける場合、その関税を払うのは輸入元、すなわち米国内の会社だという。つまり、巡り巡ってその関税は米国企業を圧迫する。さらに、メキシコ国境に建設する壁の費用をメキシコが負担するべしとトランプは言うが、そもそも壁の必要性を感じていないメキシコが払うはずもない。子供でも分かること。すると、その費用も最終的には米国負担・・・・。
それで窮地に陥って外国に助けを求めたとしても、その前にすべての外国に対して心を閉ざして、エゴイスティックに国内の利益のみ求めていたアメリカに対して、いまさら誰が救いの手をさしのべるものか。
「ははは、孤立し、滅んでいくがいいさ!」
とみんなが見棄てる国になるための緩慢な自殺を米国はすでに始めている。
最初の話に戻るけれど、ま、そういう人を選んでしまったのはアメリカ国民だからね。
スピードという恍惚感&衝突の話
2月1日水曜日。ガーラ湯沢。快晴。しかも整地は圧雪したばかりなので、整備されたピステの縞模様が残っている最良の状態。高津倉山頂(1181m)から降りるグルノーブルという上級コースも、これまでで一番のコンディション。ここからの眺めを、僕はもう25年前くらいにデジャヴで見ているのだ。こんな風にスキーをやるなんて思ってもみなかった時期に・・・・。
ガーラ高津倉山頂
石打丸山スキー場全景
石打丸山スキー場山頂から