横隔膜と日本人の文化

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

新車で白馬行き
 先ほど、家族は新しいトヨタのクロス・フィールダーで白馬に向けて出発していった。この白馬行きに間に合わせるように購入した新車だ。僕は運転免許証を持っていないので妻の車。
 前の車もフィールダーで、妻にとっては乗りやすかったようで、なんと17万キロも走った。3.11直後から、石巻やいわき市に通ったし、僕の代わりに何度も群馬のお袋のところに行ってくれたので、その度に走行距離が伸びた。元を取ったというレベルではなく、まさに乗りつぶしたって感じ。
 買い換えるにあたっては、他社の車も合わせて家族みんなで検討した。最初ハイブリッド車を考えていた。でも、同じように車を買い換えようとしていた角皆君が、
「ハイブリッド車は、必ずしも経済的とはいえないし、思ったほどエコでもない」
と言うので、調べてみたら確かに彼の言う通りだった。
 燃費は確かにガソリン車と比べて安いが、その分、車自体の値段が高い。それをプラスマイナスしてみると、10万キロ以上乗らないと元が取れないという計算がネットの至る所に出ている。それにハイブリッド車はバッテリー交換にもお金がかかる。車内には電磁波が飛び交っているらしい。要するに、ハイブリッドではなにもかも良いというのは、企業戦略のようなものらしい。
 一方、妻は最初からお気に入りのフィールダーにしたかったようだ。それで、同モデルの後継車を検討したが、前から見るデザインが一新していて、顔が不細工だ(笑)。どうしようかなあと思っていたら、クロス・フィールダーという、なんちゃってオフロード車の四輪駆動タイプがあった。こっちの顔の方がちょっとだけマシ。それで決定。
 前の車は赤だった。新車は黒。赤の方が、乗せてもらうばかりの僕には見分けやすくていいと主張したのだけれど・・・まあ妻の車だから・・・妻の要求を却下するほどの強引さは持ち合わせていない・・・もともとは僕の稼ぎなんだが・・・。


クロス・フィールダー


 この新車は、もっと早く我が家に到着するはずだった。でも結局、かなりギリギリになってしまった。おまけにスキー板のアタッチメントが手違いで間に合わず、板は宅配便で送らねばならないわ、たった一回の雪道運転のために、わざわざ1シーズン早くスタットレスタイヤを買わなければならないなど、いろいろトホホな状態で無理矢理行く感じになってしまったが、まあとにかく四輪駆動でスタットレスだ。どんな雪道でも任しとき!うひひひ・・・ところが・・・角皆君の話だと、スキー場には雪があるが、もう道路には雪がないそうだ。普通の道とおんなじように来れるとさ。ガッチョーン!

 妻と二人の娘、それに孫娘の杏樹の一行は、午前中はのんびり準備して、ペンション・カーサビアンカ五竜の夕食までに間に合うように着き、その後、妻が杏樹を寝かしつける一方で、娘達はナイター・スキーをすると言っている。
 僕は一人で残ってこの原稿を書き上げている。今日は、新国立劇場で「ルチア」3回目の公演。その後に白馬に向かうが、高速バスだと到着が午前0時とかになってしまうので、値段は高いけれど、新幹線で長野駅まで行き、長野から白馬行きのバスに乗ることにした。「ルチア」が5時半に終わり、10時にはもうカーサビアンカの居酒屋“おおの”で、“へしこ”をつまみながらビールのジョッキーを傾けていることだろう。

 嬉しいのは、妻がついにスキーをする気になったことだ。角皆君の奥さんの美穂さんがレッスンしてくれることになった。前にも言ったが、彼女は小学校6年生の時に、スキーで骨折して以来トラウマになっていた。20代の頃は僕や仲間達と二、三回行ったが、すっかり臆病になっていて、それ以来、僕や娘達がどんなに説得しようとしても駄目だったのだ。
 杏樹も、同じタイミングでスキー・デビューも考えた。でも、彼女はなんでも、最初にちょっとでも嫌な想いをしてしまうと、それが躓きとなって遠のいてしまう傾向があるので、次のシーズンまで見送ることにした。だからもっぱらソリ。
 スキーとは話題がはずれるが、杏樹は、最近まで恐がってほったらかしにしていたストライダーに、ここのところ乗り始めている。昨日19日日曜日に、志保と杏奈が杏樹を連れて、一橋大学構内にお弁当持ってピクニックに行った。その時も、一緒にストライダーを持って行った。
 それで乗っていたら、保育園で同じクラスのA君とばったり会った。彼は今シーズン、スノー・ボードを覚えて、もうガンガン乗っているという。またストライダーも乗るというので、彼はわざわざ家まで戻ってストライダーを取ってきた。それで3歳同士でツーリング。A君に刺激されて、杏樹も随分上手になったという。


ツーリング

 スキーって、自転車とバランス感覚がとても似ているから、これから夏の間にたっぷりストライダーをやったら、恐らく杏樹は、次のシーズンに素晴らしいスキー・デビューを飾れるに違いない。
 妻も杏樹もスキーするようになったら本当に楽しい!今でも楽しい白馬行きが夢のようになるであろう。今シーズンは、もう終わろうとしているけれど、来シーズンに夢と希望をつなげるから、あまり淋しくなくなってきたぞ。

 僕の角皆君による個人レッスンは、明日の午前中に入れている。シーズン初めに彼からレッスンしてもらって基本を叩き込まれ、それを元に、ガーラ湯沢で修行に明け暮れ、そしてシーズン終わりにまたシメのレッスン。そこで教わったことを残りの1日半で練習する。
 この白馬での2日間、悔いのないように滑り、沢山の学びを与えて下さい、神様!お願いします・・・って、どの神様にお祈りしたらいいんだろう?イエス様でもマリア様でもないような気がする。まあ、誰でもいいので、叶えて下さい。お願いします!

  

横隔膜と日本人の文化
 先週は、ずっと新国立劇場合唱団の新人募集オーディションと、現メンバー次期シーズン契約更新のための試聴会を行っていた。一年で最も憂鬱な時といえる。僕とすると、一緒に働いている仲間を落としたり、差し替えたりしなければならないのは身を切るように辛いからだ。それによって、彼等は、精神的に落ち込んだりするだけでなく、実際に収入にもかなり影響してくる。
 しかしながら、新国立劇場が、年間10本以上の演目をそれぞれ数回上演する我が国で唯一かつベストレベルの劇場であれば、その合唱団のレベルも最高の状態を維持していなければならない。それどころか、可能な限りさらなるレベルアップを図っていかなければならない。とすれば、僕が変に私情を交えて判断を怠っていてはいけない。仲良しグループを作るのが目的ではないから。
 また、優れた新人が巷にいたら、それらの人達が、
「入りたい!」
と思う夢の職場でなければいけない。そのためには、コネクションや学歴などによらず、純粋に“上手であれば入れる”という公平性を持って優秀な新人を招き入れなければならない。それが僕の使命である。

 現行メンバーの試聴会はともかく、新人募集オーディションというのは、本来もっと楽しいはずだ。世の中のどこかに優秀なる人材が眠っているかも知れない。その人材を発掘する喜びというものがあるはずだ。しかし、実はこれも憂鬱なんだ。現行メンバーに対してとは別の意味でね。
 新人オーディションの審査を始めてみると、毎年つくづく思う。我が国の声楽の教育レベルの低さを。先週、「ルチア」出演中のバリトン歌手ルチンスキーのテクニックを科学してみたが、彼が完璧に行っていること、すなわち、ベルカント唱法において何よりも最優先させるべきテクニックである、「横隔膜を下げて下腹に圧を作る」ということを実行している者が、全応募者の3割にも満たないという事実である。

 それを知らずしてどうやってオペラが歌えるというのだろうか?しかも、その3割に入っている人も、それをシステマティックに教え込まれているわけでもなく、なんとなく分かっている程度の人がほとんどで、中音域は良いけれど、高音域になると自然に上体が上がってきて肩で息をしている、などというように極めて中途半端なのだ。また、ある時はたまたま出来ていて、ある時は全然出来ていないというように、実に気まぐれなのだ。
 ということは明らかに、「これが出来ていなければ何も始まらない」とは思っていないということで、それは、とりもなおさず、そう教育されていないということが一目瞭然なのである。   

ベルカント唱法の神髄
 ベルカント唱法は、横隔膜に始まって横隔膜に終わるといわれる。
「歌は腹式呼吸が基本だ」
とは、一般的に言われていることだが、ベルカント唱法は、厳密に言うと腹式呼吸とも違う。いや、途中までは重なるけれど、腹式呼吸は、息を吸う時にお腹が出て、息を吐く時はお腹がひっこむ呼吸法である。それに対して、ベルカントは、息を吸ってお腹が出た状態で、それをキープしながら息を吐く方法なのである。
 お腹をキープしてしまったら、せっかく入れた空気がたまったままで吐けないではないかと思われるかも知れないが、一度お腹が出るように息を吸った後、そのお腹をキープし、さらにもっと吸えるのを確認してみよう。
 実は、腹式呼吸と言ったって、お腹で呼吸しているのではない。当たり前だけれど、呼吸は肺で行う。子どもに、
「いっぱい息を吸い込んでごらん」
と言うと、決まって肺の上の方に息をいっぱい入れて、肩があがる呼吸をする。これを胸式呼吸という。これは、肺の上の方に空気が入っていて、本人とっても沢山息を吸っている意識であるが、肺という臓器は下の方がふくらんでいるので、実はそっちを使わないと空気は沢山入らないのだ。
 腹式呼吸は、その反対に肺の下の方に空気を入れる呼吸法。そうすると、下に膨らんだ肺が横隔膜を下げて、その下部の腸などの内臓を圧迫する。圧迫された内臓は、行き場を失って、一番柔らかいおへその下あたりの部分を前に押し出す。つまりお腹が出るということだ。要するに、腹式呼吸とは肺の下部に空気を入れる呼吸法ということである。
 さて、腹式呼吸で肺の下部に空気が入っても、なおかつ肺の上部には空気が入る部分が残されているだろう。テレビなどでオペラ歌手が歌う姿がアップで写されてみると、あれっ?腹式呼吸といっても、肩があがっているじゃないの・・・と思う人はいるだろう。そうなのだ。究極的なベルカントでは、胸式呼吸も行うのだ。つまり、入るところには全て空気を入れるのだ。

 もう一度整理してみると、ベルカント唱法の呼吸法の基礎はこうである。
まず腹式呼吸を行う。お腹が前に出て横隔膜が下がるように息を吸う。そしてそのままキープ。しかしながら、キープといっても筋肉を硬く止めてしまってはいけない。パンと張った風船のように、あるいは漬け物を上から漬け物石で押し続けるようなイメージで、弾力性を持って横隔膜で下方に圧をかけ続けること。
 それが基本。それから実際に歌唱をするための息を取り込む。肺のあちらこちらから残りの息をかき集めてくるのである。勿論胸式呼吸も含むため、肩もわずかではあるが上がるのを厭わないように。本当は、それを同時に行うのだけれど、慣れない人は一度腹式呼吸をしてキープしてから残りの空気を取り込むことを薦める。
 それから、今度は息を出し始めながら歌唱に入るわけだが、すぐに息が出て行ってしまわないように調節するのがキープされている横隔膜の圧なのである。ヴァイオリンの弓の運びと同じで、なるべく均等に息を供給しながら最後まで歌うが、その間横隔膜はずっと一定の圧で支えていなければならない。
 まれに、とても長いフレーズをどうしても歌わなければならず、息が本当に足りなくなったら、
「第2ロケット切り離し!」
という感じで、お腹を引っ込めながら歌ってもいいが、その際でも、横隔膜から上げてはいけない。周到に横隔膜を下に引っ張りながら、お腹の圧をしだいに弱めていくのだ。

 さて、今僕が言ったことを、もし声楽を習ったことのあるあなたが知らなかったとしたら、はっきり言うが、すぐ先生を替えるか、指導方針を変えてもらわなければならない。僕は横隔膜が動いていない人はひとりも新国立劇場合唱団には入れないから、どんなに望んでも新国立劇場合唱団には入れないことだけは断言しよう。

 そんなわけで、現在新国立劇場合唱団にいるメンバーには、この横隔膜のことを全く知らない人はひとりもいないはずなのだが、困ったことに、入団して活動している間に、横隔膜の動きが弱くなってしまったり、うまく働かなくなってしまう人はいる。そういう人は、たまたまある時期良かっただけで、本当のところ、それが必要だと分かっていなかったということなのだろう。なんと残念なことなのだ!それは、どっちの方向を向けば目的地に着くということが分からなくて、あてずっぽうに歩いているようなものだ。

横隔膜は出発点に過ぎない
 さて、発声はこれで終わりではない。横隔膜はそれ自身では不随意筋なので、本当は横隔膜そのものを自分で動かすことは出来ないのであるが、肺の膨らみの運動や腹筋あるいは背筋などの動きで、間接的に動かすことが出来る。さらに慣れてくれば、あたかもそこに神経が通っているかのように認識し、随意筋のように動かすことも可能である。この“横隔膜の意識化”にまで辿り着かなければ、次のステップには進めない。

 次のステップとはどういうことかというと、先ほど言った、均等に息を運ばせることが出来るということは、とりもなおさず、音楽の必要性に応じて、自由自在に息の運び方を変えていくことを可能にする。つまり、無意識のうちに息の供給にムラがある内は、意識的に多様な供給量の変化は自由自在に行えないわけである。
 フォルテやピアノなどの強弱の使い分けや、クレッシェンドやディミヌエンドなどの移行、ないしはアクセントやスフォルツァンドやフォルテピアノのような急激な変化は、横隔膜を自由自在に仕えないと出来ないし、仮に出来たとしても、深みのない薄っぺらなものになってしまい、とうてい成熟したベルカント唱法としてのそれは望めない。
 それから、共鳴のさせ方や、低音域、中音域、高音域といったそれぞれの音域の音色に統一感を与えたり、チェンジ区域におけるギャップのない音色の移行のテクニックなど、様々な技巧が、横隔膜を基本に操作される。つまり横隔膜が仕えないと何も始まらないのである。

 こう述べてみただけでも、オペラを歌おうとする者は、まずこの時点からブレることは許されないと思うだろう。ああ、それなのに、我が国ではそんなことも教えられずに、音大声楽科をまんまと卒業出来ても、歌のイロハさえ知らない。

 はっきり言っておくけど、こんなことはヨーロッパの国々では考えられない。ヨーロッパでは、歌劇場が沢山あるので、声楽家は、それで食べていくことが出来る職業だから、本番の数も多いししのぎを削る必要性もある。最初は地方の小さい劇場から出発する若い歌手も、力量に応じてしだいに大きな歌劇場に移っていき、出世を狙える。そうしてキャリアを積んだ人が、ある程度歳を取って大学に入り生徒を教える。音大で学ぶ学生の数は日本よりずっと少ない一方で、劇場などへの就職率が高いから、一生懸命勉強する。
 しかし、それだけではないなあ。やはり日本の先生達の発声的レベルが低すぎる。それに学生も学生で、これだけ情報社会で、DVDでもブルーレイでもYouTubeでも何でも観れるのに、何を勉強しているのだろうか。とにかく、難しいことはいいから、声楽家になりたいのだったら、まず横隔膜だけはきっちり学ぶこと。

横隔膜に見る日本の貧困さ
 ここまで書いてから、あることを思い出し、書いてみたくなった。それは、朝日新聞主催の合唱コンクールの全国大会の審査員をやった時のこと。特に高校生の部の、それぞれの学校の完成度の高さと過当競争にとまどいを覚えた記憶だ。いや、とまどいというよりは違和感なのだ。その違和感の正体を、僕は横隔膜に見たのだ。

 日本では、これまでずっと最も基本的な横隔膜のことが大事にされてこなかったのである。特に合唱の世界では・・・・つまりこうだ。高校生達は、横隔膜を縦横に使って彫りの深い表現をする喜びを知らない。何故ならば、彼らを教える先生達が、意図的に横隔膜を教えることに背を向けているからだ。
 何故か?それは、そこに背を向けないとあのような仕上がりが期待出来ないからだ。横隔膜を習得するのは、それなりに時間がかかる。特に変声期過ぎたばかりの高校生に3年間で教えることは困難だ。
 とすると、その途中の中途半端な状態でコンクールに出すことは、ミスを犯すリスクばかりを背負うことになる。そこで、指導者達は、発声に関してはそこそこで目をつむり、音程、リズム、ハーモニーというところに絞っての過当競争に加わるのだ。
 だからみんな同じような黄色い声になるので、出発点が一緒だから、過当競争も激しくなる一方で、審査はし易くなる。ミスをしたら減点すればいいのだから。

 まれに、発声のことに気をつけて、高校生ながら幅の広い表現をめざしている学校が出てくる。僕なんかは、そうした学校に良い点をつけるのだが、なにせ表現の幅が広い反面、ミスするリスクが大きいし、実際音程が甘くなったり、ハーモニーが崩れたりする。それで、僕はとっても悩むのだが、まわりの審査員達ははっきりしたもので、
「はい駄目!」
と、あっさり切り捨てる。
 全国大会で優勝するような学校では、ミスがないだけでなく、それなりの表現も出来ているのは認める。でも、やはり発声的には成熟した大人の表現からは遠く、いわゆるホンモノの音楽表現ではない。
 でも、勝利を手にした生徒達にそれは見えないだろうなあ。そうすると、自信を持った彼ら生徒達は、今度は自分達のモノサシでプロの合唱団を眺める。そして思う。
「ツメが甘い。雑だな」
と。そして自分の興味から圏外に追いやってしまう。
 僕は、何故あれだけ合唱に打ち込んでいたのに、その後音大に行ったり、音楽の道に進んだりして発展させるどころか、高校生で燃え尽きちゃうんだろうか?と疑問に持っていたが、最近気が付いた。
 彼らは燃え尽きてはいないんだ。そうではなくて、それがホンモノではないんだということを教えられていないので、自分達がやってきたことが頂点に感じられ、他を物足りなく思ってしまうのだ。
 真実は違う!音楽の道は遠い。声楽や合唱の道は、本当は、もっともっと深い。表現の道には果てがない。そのホンモノの表現の入り口に、きちんと横隔膜を使った発声法があることを誰も教えてくれないとすると、それは大人達の罪だ。彼らを根拠のない傲慢に置いているとすると、それは深遠なる音楽に対する冒涜だ。

 うーん・・・話が大きくなってきてしまったが、このへんのことが我が国が抱える問題として全部つながっている。
日本の声楽界が、真に世界のレベルと肩を並べるまで、まだしばらくかかる。その時まで、僕は叫び続けることをやめるべきではないと思う。

横隔膜から全てを始めよ!・・・と。



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