復活祭と聖週間
4月16日日曜日早朝。快晴。やや肌寒いが爽やかな朝。自転車に乗って家を後にすると、目に飛び込んでくる景色がすべて輝いて見える。花は微笑み、木々は歌い、天上から降り注ぐ光は舞い踊る。
見慣れた風景なのに、普段とは別の世界に紛れ込んだかのような錯覚を覚える。いや、もしかしたら本当にそうなのかも知れない。昨夜眠りについた世界とは違うステージの世界に僕は目覚め、知らずに新しい1日を開始したのかも知れない。
なんといっても、救世主が復活した朝なのだから。
週のはじめの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして墓から石が取りのけてあるのを見た。どの福音書を読んでも、復活の朝から後は、すべての風景が白いベールに包まれたように感じられる。キラキラとした光に、あたりが充ち満ちているように感じられる。罪のない無垢な救世主が、いわれなき罪を負って死んだことによって、空間が曲がり、宇宙は変質し、世界そのものが生まれ変わったのではないか。
(ヨハネによる福音書第20章1節)
キリストは人間の姿であらわれこの言葉につけられた高田三郎氏の音楽が素晴らしい。究極的なまでに切り詰められた音楽。高田氏の典礼音楽の作曲は、どこまで切り詰めることが出来るかという挑戦。ミサ曲の「憐れみの賛歌」は、わずかミファラの3音のみで出来ている。
死に至るまで
しかも十字架の死に至るまで
自分を低くして従う者となった
それ故神はキリストを高くあげて
全てにまさる名をお与えになった
ダブル三澤のメサイア講演会
聖土曜日だけは、どう努力しても関口教会に行くことが出来なかった。何故なら、4月15日土曜日には、東京バロック・スコラーズ主催、ヘンデル作曲「メサイア」演奏会に先だったカップリング講演会が行われたからだ。
この日に講演会を設定してしまったのは、ひとえに僕の責任である。僕は、かなり前に、この日が聖土曜日であることに気が付かないで日程を決めてしまったのだ。復活祭は移動祝祭日だ。春分の日の後、最初に来る満月の後の日曜日が復活祭ということなので、春分の次の日が満月で、さらにその次の日が日曜日である場合と、その時にもう満月が過ぎてしまった場合とでは、1ヶ月近い差が出てしまう。
復活祭と連動して、その前の聖週間と、さらに四旬節とよばれる40日間の懺悔と節制の時期も年によって違う。だから早い内にカレンダーに書き込んでおかないと、こういうことになってしまうのだ。
僕は、自分の迂闊さに自己嫌悪に陥っていた。ちなみに、4月15日土曜日は、新国立劇場では、午後2時から「オテッロ」公演があるが、夜は空いていたのである。しかし聖土曜日であることを知っていたら、本当は、何としてでも関口教会にいたかったし、いるべきであったのだ。
聖なる復活徹夜祭と呼ばれる礼拝は、聖週間の中で最も長く、特に関口教会では2時間半もかかってしまう。しかしながら、最も荘厳で、静けさと密かな歓びが同居する素晴らしい時である。この時を逃してしまうなんて僕はなんて愚かなのだろうと、ずっと自分を責めていた。
さて、今回のカップリング講演会の講師は、なんと僕と名字が同じ三澤先生なのだ。とはいっても、僕とは親戚でも何でもない。三澤寿喜(みさわ としき)先生と言って、我が国におけるヘンデルの権威であり、クリストファー・ホグウッド著のヘンデル研究の本を翻訳する一方で、ヘンデル・フェスティバル・ジャパンという団体を率いて自らも指揮活動をするし、ドイツのハレにある、国際ヘンデル協会の理事も務めている。以下、混同するといけないので寿喜(としき)先生と呼ぶ。
その寿喜先生が、開口一番こういうことを言ったのだ。
「この時に呼んでいただいたのはとても嬉しく思っています。今は聖週間の最中で、明日は復活祭です。昨日の4月14日は聖金曜日でしたが、4月14日って何の日か知っていますか?」
誰も答えない。僕は、このタイミングで聖週間の話題に触れるなんて、どうしてなんだろう?と思っていた。すると彼は意外なことを言い始めた。
「4月14日はねえ、ヘンデルの亡くなった日なんですよ」
へえ?知らなかった。というか、前に読んだかも知れないが、特に何かに関連づけたりしてないから、意識していなかった。
「ヘンデルの亡くなった1759年という年の、4月13日は聖金曜日でした。ヘンデルの体調は、その前から徐々に悪くなっていましたが、13日の金曜日に、ヘンデルは突然悟ったのです。
『やったあ、俺は、聖金曜日というこの特別な日に死ぬ!しかも13日の金曜日だ!』
こう言って、彼はとても喜んだそうです。そして、その後昏睡状態になりました。
しかし、残念ながらヘンデルはその日には死ねなかったのです。実際に息を引き取ったのは、約8時間次の日にずれこんだ14日の午前中だったそうです。その辺に、ヘンデルという人の“詰めの甘さ”というものが象徴されているように思われます。(一同爆笑)」
ヘンデルの死と、聖週間というものが関連づけられるなんて思ってもみなかった。とすれば、この日にヘンデルの講演会を設定したのも、意味のないことではなかったのだ。僕は、なんだかちょっと報われたような気がした。
寿喜先生のお話はとても楽しく、話題が次から次へと泉のように湧き出てくる。それに、端から見ていても、ヘンデル大好き、という感じがひしひしと伝わってくる。ヘンデルのことを調べて、しゃべるだけの人なら他にもいるかも知れないが、こういう風に熱意を持って話してもらうと、内容がどんどん僕たちの頭だけではなく心に深く入り込んでくる。凄いな。やっぱり、一流の人にはそれだけのものがあるのだな。
こちらが頼んだ議題は、勿論演奏会と関連づけた「メサイア」であった。しかし、実は、寿喜先生は、ヘンデルというと、みんなが「メサイア」にばかり興味を示して、他の作品には見向きもしないのが残念でならないのだそうだ。それで、他の傑作を紹介する使命を担ってヘンデル・フェスティバスを起ち上げたのだけれど、いまいち広まっていかないし、依頼される講演は相変わらず「メサイア」ばかりだし、本当に嫌になってしまうよ、と言ってみんなを笑わせていた。
「東京バロック・スコラーズにも、『メサイア』だけでなくて、他のオラトリオもやってもらいたいです」
と言っていた。うーん・・・気持ちは分かるのだけれど、「メサイア」の後は、やっぱりバッハに戻って、バッハ街道をひたすら走るつもりだから、もうしばらくは他の作曲家に浮気はしないなあ。
しかしながら、こんな楽しい三澤寿喜先生とは、今後も何らかの形でコンタクトを絶やさないでいきたい。しかも楽しいだけでなく、熱い!こんなに何かに情熱的に取り組んでいる人って、そうそういるものではないからね。僕は、そういう人って大好き!
進化する中村恵理~フィガロの結婚レポート
中村恵理さんは、文化庁オペラ研修所の時代から目をつけていて、この子は絶対にモノになると思っていた。この「フィガロの結婚」プロダクションの初演時、すなわちアンドレアス・ホモキ演出の2003年の公演では、彼女はバルバリーナ役を演じていたが、指揮者のウルフ・シルマーがただちに彼女に注目して、次に来る時の「エレクトラ」で重要な役に抜擢したいと言っていた。
僕は、新国立劇場子どもオペラ「ジークフリートの冒険」で「森の小鳥」をやってもらったり、「スペース・トゥーランドット」でタムタムの役を演じてもらったり、それから、劇場と離れて個人的にも、群馬の新町歌劇団のコンサートで歌ってもらったり、それから、なんといっても、自作ミュージカル「おにころ~愛をとりもどせ」では、おにころの相手役の桃花を演じてもらった。
今から考えるともったいない話であるが、気さくで偉ぶったところのない彼女は、それぞれ喜んで引き受けてくれただけでなく、どの舞台も真摯な態度と驚くべき集中力を持って歌い演じてくれた。
その中村さんが、ロンドンのコヴェントガーデン歌劇場の専属歌手になった時には、僕は我が事のように喜んだ。世界に出て行く器量があるとは思っていたが、思いの外早く活躍の軸足をヨーロッパに移すこととなった。あれからもう随分経った。その後ロンドンからミュンヘンのバイエルン国立歌劇場に移り、今ではフリーとなってヨーロッパ全土を所狭しと駆け巡っている。
そして今回の「フィガロの結婚」では、勝手知ったる舞台ではあるが、主役のスザンナ役として舞い戻ってきた。立ち稽古に参加して、まず彼女のセッコ・レシタティーヴォ(チェンバロ一台の伴奏で歌われる朗誦)の滑らかさに驚いた。もはやそれは日本人のレシタティーヴォではない。言葉の立て方、表情、テンポやタイミングなど、ネイティヴなイタリア人がそのまましゃべっているかと思うほど自然なのだ。
それに、彼女の発声法がさらに進歩して、声の安定感が増し、表現力のパレットが広がったことは何より嬉しい。彼女がヨーロッパに拠点を置き始めた頃、一度彼女の声を聴いたことがあるが、その時僕はやや心配した覚えがある。
誰しもそうなのであるが、ヨーロッパ人は喉が強いので、それに肩を並べようと必要以上に声を張って頑張ってしまう日本人が少なくないのだ。もちろん、彼女のキャパシティからすると、ただちに喉を壊すとかいうレベルではなかった。でも欧米で活躍する日本人が、後年必ずといっていいほど喉を壊すのを見ている僕としては、気が気でなかったのだ。
しかしながら、僕は皆さんに声を大にして言おう。今の中村さんは、どんなに歌っても喉も体も決して壊さない理想的な発声フォームで歌っている。彼女は、ヨーロッパにおいてもどこにおいても、とても息の長い歌手になるであろう。そして賢い女性だから、その間にどんどんいろんな事を吸収して、これまで欧米で活躍した日本人歌手達の中でもトップレベルまで上り詰めるであろう。
そして、その過程を見守っていくのが僕の老後の楽しみになるであろう(あれ?)。
伯爵夫人はアガ・ミコライ。敬虔なカトリック信者である彼女は、来日してから毎週日曜日にカテドラルのミサに通ってきている。僕も4月はほとんど主日のミサで指揮しているので、彼女の聖体拝領している姿を毎週見ながら拝領唱を指揮している。昨日の復活祭主日のミサでは、アガはケルビーノ役のヤナ・クルコヴァを誘ったので、ヤナは夫と幼いお嬢ちゃんを連れてミサに現れた。なんとアガは福音宣教にも役立っているよ。
美しいリリコの声と、清楚な立ち姿及び卓越した演技力で、伯爵夫人の気品と、不実な夫に悩まされる哀しみを見事に描き出している。彼女と中村さんのコンビは最高!
本屋大賞を読みたいけれど・・・
本屋大賞に選ばれた本は、なんだかんだいってほぼ毎年読んでいる。今年は、恩田陸著「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎)が、直木賞とのダブルで選ばれたと聞き、本屋に行って手に取ってみた。パラパラとめくってみたら、なんとピアノ・コンクールの話ではないか。即座にレジに持って行こうかと思ったが、思い直してやめた。
何故なら、買ってしまったら、すぐ読みたくなるに違いない。でも、今僕には全然時間がないんだ。東京バロック・スコラーズのヘンデル作曲オラトリオ「メサイア」と、志木第九の会の、ハイドン作曲オラトリオ「四季」が直近に控えているし、その他にも原稿の締め切りが過ぎていたり、編曲が間に合わなかったり、とにかく家に居ても電車に乗っていてもボーッとしている時間すらない。だから、買うのを控えてじっと我慢した。少なくとも「四季」の演奏会が終わるまではやめておこう。
本屋大賞を取る本は、みんなちょっと玄人好みである。一般的に人気がある小説とはひと味違うものの、どれも確かな筆の腕を見せるので、読んでいて充実感がある。僕は、音楽の世界では、コンクールやオーディションの審査などもするから、玉石混淆の中から光り輝くものを選び出す作業も好んでやる。それが価値のあることだと思うから。でも、読書は僕にとっては趣味だから、忙しい時間を割いてせっかく読んだのに、つまらなかったという無駄をしたくないので、こうした賞をあてにする。
芥川賞では失望することも少なくないけれど、その点、本屋大賞では失望したことがない。まだ読んでいない内に褒めるのも変だけれど、頑張れ!本屋大賞!なるべく早く読むからね。