「蝶々夫人」と指揮のテクニック

三澤洋史 

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この一週間
 先週は、高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」の練習が佳境に入ってきた。7月3日月曜日と4日火曜日は、AキャストBキャストそれぞれのオケ合わせ。5日水曜日と6日木曜日は、やはりそれぞれの組の舞台稽古。7日金曜日と8日土曜日は、オケ付き舞台稽古。その間に「おにころ」の練習をしたり、7日オケ付き舞台稽古の後には、新国立劇場音楽スタッフのシーズン納会があったりして、まあ、なかなか充実した一週間であった。

 7月9日日曜日。東京カテドラル関口教会の10時のミサを指揮する。今日のミサは、叙任司祭の古郡忠夫(ふるごおり ただお)神父の司式であったが、ミサの流れの中で、古郡神父と典礼音楽の霊的なキャッチボールがとても円滑に行われ、礼拝における音楽の役割の重さをあらためて感じた。
 この日の福音書の箇所は、マタイによる福音書11章25節から30節で、その中でもとりわけ28節以降は、僕の大好きな箇所だ。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 ヘンデル作曲「メサイア」の第1部最後でも使われているこの箇所では、キリストのやさしさが最も良く表現されている。実際キリストは、娼婦に対しても、
「娼婦なんて汚らわしい仕事を辞めてからでないと、わたしのところに来る資格はない」
などと突き放すようなことは決してせず、そのままで受け容れていた。キリストは、おそらく彼に出遭う全ての人達の魂の本質のみを見つめていたに違いない。だから誰をも拒まず、その存在をゆるし、受け容れ、絶対的な愛で包んでいたに違いない。

 そうした福音書の流れを受けて、古郡神父の説教も実に胸を打つものであった。
「家もないような日雇い労働者でも、池袋で夜のお仕事をしている女性でも、本当に誰でも、この教会には来ていいのです」
さらに、すぐ後の奉納の聖歌は、典礼聖歌集には載っていないが、高田三郎の「来なさい、重荷を負うもの」で、もう一度、福音書の内容を噛みしめながら味わうことが出来た。

 ミサの後は、聖歌隊の練習があったが、その後関口教会を後にし、大宮から新幹線に乗って高崎に行き、「おにころ」の合唱団集中練習に出た。ここのところ7月30日の公演に向けて、毎休日を返上して集中練習が行われているが、子役も含め、合唱団全員が集中力を持ち、かつ熱気に包まれて、とても充実した練習を行うことが出来た。
 その背景には、伝平役でもある初谷敬史(はつがい たかし)君の、普段の的確な合唱指導がある。彼は、細部に至るまで曖昧なところを許さず反復練習してくれるので、歌も演技もダンスも、今の時点にしては結構仕上がっている。
 いつもギリギリまで出来ていなくて、公演間近のラストスパートと、本番での火事場の馬鹿力でなんとか乗り切っている新町歌劇団ではあるが(笑)、こうなると逆に安心しちゃって、今回はラストスパートが効かなくて、結局不発に終わるのではないかと、変な心配をしちゃうほどだ。
 一方、東京では、初役のソリスト達がとても頑張っている。主役のおにころ役の萩原潤さんをはじめ、妖精メタモルフォーゼの國光ともこさん、母親代わりのうめ役の黒澤明子さんなど、みんな良い意味で心配性なので、早い内から練習がどんどんはかどっている。さらに今後も立ち稽古の予定がしっかり組まれている。萩原さんは、歌もセリフもしっかり出来上がっていて、あとは自分の感じる「おにころ像」を構築するというレベルにまで達しているので、相手役の桃花を演じる前川依子さんなどは大喜び。  


「蝶々夫人」と指揮のテクニック
 7月10日月曜日は、高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」の公演初日。手前味噌で傲慢に聞こえるけれど、僕の指揮は随分変わったと思う。勿論、愛知祝祭管弦楽団の「ワルキューレ」などで、その実感はあったのだが、今回、振り慣れた「蝶々夫人」で、しかも、すでに25回も指揮している東京フィルハーモニー交響楽団をあらためて指揮して、実感は確信に変わった。
 近年、自分の指揮の運動性を見直し、いろいろ試行錯誤しながら模索した結果がやっとひとつの形に結晶したのだ。その背後には、明らかにスキーと水泳がある。これは拙著「オペラ座のお仕事」でも書いていることであるが、あれからさらに僕の研究は進んでいたのだ。

 言ってみるとごく当たり前のことであるけれど、まず指揮の運動の基本になっている、物理的な放物運動の徹底がある。たとえば、野球でバッターがボールを打ったとすると、ボールはバットからの衝撃力と重力との関係で、斜め上方にきれいな放物線を描いて飛んでいく。速度的な観点から言うと、当たった瞬間が一番速くて、それから一定の割合で減速が行われる。カーブを描きながら飛んでいくボールの一番高いところが一番速度が遅く、そこから今度は重力にひっぱられるようにして加速が始まる。そして上昇とほぼ対称的なカーブを下方に向かって描きながら地面に落ちる。ここが再び最大速度。
 だからボールの着地時間や着地地点は予測可能なのだ。慣れた外野手だったら、ボールが打たれた次の瞬間に経験的にそれらを読み取り、すでにその方向に向かって走り出しているだろう。
 このように、この地上に働いている重力が一定な限り、打たれたボールの速度と方角及び角度から、常に計算可能な法則性を持っている。その点については、その道のエキスパートである外野手だけでなく、我々凡人でさえも、日常生活でそうした重力の法則性については慣れているのだ。だから外野手ほどではないとしても、勘によってだいたいの着地の予測はつくのである。

 指揮法の運動の基本は、こうした誰が見ても分かる放物運動だ。だから、正しい放物運動をもって指揮すれば、それを見ているオーケストラ奏者は、次の拍がどのタイミングで来るか、はっきり分かるわけである。
 指揮者は、まずその事を先生から教わる。ところが、指揮というものはやっかいなもので、他の楽器のように明確なメソードというものが確立されていないし、「音楽性さえあれば形はどうでもいい」というような常識がまかり通っているし、さらには、「曰く言いがたし」と言いながら、わざと分かりにくく指揮するのをよしとする風潮まであるのだ。
 僕も、若い頃からその風潮にだまされていた。でも最近、スキーや水泳をやるようになって、その常識は完全に誤りであると悟るに至ったのである。

 スキーも水泳も体幹がきちんと把握されていないと何も始まらない。どんな体勢にもなってしまう流動的な水の中や、どうとでも体が滑って行きやすい雪原においては、あたりの環境に対して、まず自分がこれから何かを描くための座標軸を設定しないといけない。
 それはどこに設定してもいいのかも知れないけれど、少なくても、一度その座標軸を基本にして動き出したならば、その基本の軸がブレてしまっては、何もその上に構築できない。
 その座標軸の上に、そもそも何をどの法則に従って描くかという基本法則が定まらないといけない。それがフォームである。このフォームもブレることは許されない。さらに、そのフォームがなんらかの外因によって崩れた時のために、リカバリーをして、なるべく速やかに元のフォームに戻る術を身につけなくてはならない。
 考えてみるとスポーツの世界では当たり前のことであるし、楽器演奏においてもほとんど当てはまることであろう。それなのに、指揮者の中で、これをきちんと把握している人が何人いるだろう?

 僕は、「曰く言いがたし」のえせ美学を、自分の指揮法からすべて抹殺した。そして、純粋な運動美学から導き出された、「なるべく分かり易く、かつ、自分の音楽的イメージがなるべくストレートに奏者に伝わるための指揮法」を模索していたのである。だって、早い話、自分のやりたい音楽がダイレクトに伝わらなくて何が指揮者か?
 さらに(これにみんな悩まされているのに、これに言及する人がほとんどいないのは何故だか分からないのだが)、指揮者が打点を振り下ろした瞬間は、オーケストラからは音が出ていない。オーケストラ奏者達は、それを見て弾き始め、楽器によっては音が響いてくるまでにある程度の時間がかかるからだ。
 だから、指揮者にとっては常に打点と音との間にタイムラグがあるわけで、それまでの間に、振り上がってしまった手をどうにかしなければならないのである。しかも、それでいながら、運動としては一定の割合での放物運動を行っていなければ、奏者達は次の打点を予測することが出来ないのである。

 そのひとつの解決策として、たとえば有名な斉藤メソードでは、先入といわれる技法を多用する。これは、半拍先に次の拍の点に入ってしまう方法で、「跳ね上げ~次の打点叩き止め~半拍そのまま止まって~再び跳ね上げ」を繰り返すのである。
 これの利点は、強制的な感じでオーケストラの遅れを最小限に抑えることが出来るのであるが、最大の弱点は、拍を刻んで揃える以外に出来る音楽的表現が少ないこと。特に、オーケストラの響きを操ることが出来ないことと、フレージングなど大きな流れを創り出すことが出来ないことなのである。

 それに対する僕の指揮法では、「オペラ座のお仕事」でも書いている通り、水泳でリカバリーの手を入水した直後、その手をまっすぐに伸ばす時に腕の内側に感じる感覚と、それから水のキャッチより始まるストロークの運動での水のタイムラグの感覚を大事にして、その感覚をヒントに“響きを操る”テクニックを取得しているのである。それは、具体的には口では言えないのだけれど、この説明を聞いた後で、僕の指揮の運動を見てもらえば、おそらく分かってもらえる。
 また、僕はレガートの場合の放物運動そのものを肩甲骨を使って行っている。ストロークでは腕の筋肉を使うが、その後半のプッシュが終わってリカバリーに入る時、まるでポケットから手を抜き取るように力を抜いて手のひらを水上に出す。その時に、腕の筋肉を休めるためにも、肩甲骨始動で腕を上げる。
 この要領でレガートの放物運動を始めると、カラヤンが得ているような弦楽器の艶やかな音色が得られるのである。もし、これを誰か指揮者の人が読んでいるなら、ダマされたとおもって一度やってみなさいと忠告したい。
 さらに、その際の打点から打点までの運動であるが、点から点を結ぶ運動と考えないように。むしろブランコの運動を思い浮かべてみよう。最大速度になる一番下の地点では、点は感じられないであろう。むしろ通過点としての(意味上の)点であって、ラインはなめらかにつながれている。僕はそれを、スキーのターンとしてイメージしている。
 たとえばコブがあって、このコブを越える、あるいは逆にくぼんだバンクを通過しようとする場合。そのコブないしバンク自体を含むターンを設定し、あたかもそのターンの中にたまたまコブやバンクがあるかのように通過していく。そして、その形状に合わせて、ひねりや足の操作を行い、場合によってはまるで整地を滑っているかのようなスムーズで柔軟な滑りが出来るのである。

 こうしたことは、なるべく最小の労力で最大の効果をあげようとする運動力学や運動生理学から導き出されたものだ。そして、タイムや点数によって常に熾烈な争いを余儀なくされているスポーツの世界で培われたものは、必ずや音楽の世界でも通用するに違いないと確信して、僕は自分自身の指揮のテクニックにそれを取り入れてきたのだ。

 このことを書き始めたら、時間がどんどん長くなってしまって、今週は月曜日の更新日に間に合わなくなってしまいましたが、ご容赦下さい。恐らく、また来週、6回公演を指揮し終わっての感想を書きたいと思います。
 ちなみに昨日、第1回目の公演を終わったけれど、脱力がうまくいったので、全く疲れていない自分に驚いてた。それだけでも、このテクニックの正しさが証明されているような気がする。
今日はこれから第2回目の公演。
それでは行ってきます!



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