白馬の朝~仕事始め

三澤洋史 

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白馬の朝
 8月10日木曜日。白馬滞在最後の朝。外に出て深呼吸をしながら体中を伸ばし、そのまま散歩を始める。森林浴とはよく言ったもので、樹木の気があちらこちらから降り注いでくる。滞在中、天気は必ずしも良いとは言えなかったが、今日はもしかしたら一番良い日かも知れない。空は青く晴れ渡っているが、朝靄(あさもや)が漂っている。上を見るとクリアー、あたりに視線を移すと神秘的。


朝靄1

 川に出る。向こう側はHakuba47ゲレンデの下部。川面に漂う靄を見ていると、新しい一日が始まるのを川がまだ拒否しているように感じられる。でも同じ場所の同じ瞬間、ふと視線を川上に移すと、全く違う風景が飛び込んでくる。ゲレンデあたりの山肌に朝日が差し込み始めている。すでに山の夏の朝がエネルギッシュに始まっているのだ。


朝靄2



夏の朝の始まり


 方向を変え、反対側の八方尾根方面に足を向ける。ジャンプ台のあたりでは、すでに気球が上がっているが、こちらにもまだ朝靄が居座っている。


八方尾根方面の朝

濃紺に沈む山の下部は、まだ眠りに沈んでいる。でも、散歩を続けている間に陽は昇り、神からの至上命令のように、世界は太陽の輝きをもってたたき起こされ、無理矢理くっきりとした稜線が映し出され、緑が鮮やかに浮かび上がり、「8月10日ここに始まれり!」という刻印を押されてしまった。道祖神が微笑んでいる。


道祖神とジャンプ台


 角皆君の知り合いの別荘をきれいにお掃除して荷物を車に積み、鍵を角皆君に返しに行った。わずか10日間であるが、人が住んでいると、いろんなものがたまるのだ。それに、ギリギリまで生活をしているわけだから、朝食の後始末とか、ゴミだってギリギリまで出る。
 杏奈は5日の土曜日に仕事のために帰り、志保は8日火曜日に帰って行ったので、最後まで残ったのは、僕たち夫婦と杏樹の3人。電子ピアノを片付け、ウクレレをケースに入れ、コンガを車に積み、ノート・パソコンや衣類や、なんでこんなもの持ってきたの、と思うようなものまで車に積み込む。その間、杏樹は、本人、大得意で手伝っているつもりなのだが、まあ邪魔以外のなにものでもない。荷物を持って移動中、ちょこまかしているので、蹴っ飛ばしてしまいそう。


角皆邸


 角皆邸について鍵を返すと、なんだか淋しくなってきた。角皆君とは、ここのところ毎年何度となく会っているが、考えてみると、10日間毎日何時間も会っていたなんてことは、高校生活以来じゃないか?スキーといったって、せいぜい二、三泊だからね。
毎日角皆夫婦と一緒に泳ぎ、昼食を共に食べ、山下康一君との対談も含めて、いろんなことを語り合った。その角皆君のことは後で書こう。

ミサ曲
 こうして僕の白馬でのバカンスは終わった。もともとは、ミサ曲の作曲のためといっていたが、譜面作成ソフトの調子が悪かったので、実際の作曲は進まなかったのだが、電子ピアノを使いながらアイデアは温めておいた。それで、国立の自宅に帰ってから、Finaleというソフトで一気に進めた。
 とはいっても、10日の午後に家に着き、10日の夜と11日は作曲に没頭したが、12日土曜日は一日名古屋でモーツァルト200合唱団の練習に出て、13日日曜日は、朝、東京カテドラル関口教会で10時のミサを指揮し、そのまま聖歌隊の練習をつけた後、群馬に帰り、お盆迎えをしたので、曲は中断したままであった。

 本来ならば、そのままお盆の帰省で群馬に留まるところなのだが、あまりに作曲が気になった僕は、14日月曜日に単身国立に帰り、午後から夜にかけてと翌15日午前中を使って曲作りに没頭し、Agnus dei~Dona nobis pacemをほぼ完成させた。
 自分で言うのもなんだけど、結構良い曲に仕上がった。特にDona nobis pacemは、最後テンポアップして賑やかに終わろうと思っていたのだけれど、白馬にいる間に、そうではなくて静かに終わろうと思い始め、これまでの自分にはない曲調になった。
「我らに平和を・・・我らに平和を・・・我らに平和を・・・」
と消え入るように終わるので、最初は、これを書き終わったら自分は死んじゃうのではないかと・・・白馬で家族が寝静まった夜、独りで電子ピアノをポロポロ弾きながら思った。
 でも、だんだん気がついてきた。この曲はそうではないのだ!これは、世界に対する“終わりのない平和への祈り”なのだと、作りながら納得してきた。作曲ってね、自分で作っていながら、最初から自分自身の頭でみんな分かっているわけではなくて、曲に教えてもらうことってあるのだ。
 14日の深夜、出来上がったDona nobis pacemをプレイバックして、一緒に口ずさみながら聴いていたら、涙が止まらなくなった。こっちの曲が先に出来たので、その前のAgnus deiの部分は、もっとメランコリックな曲にしようと思った。
 15日の朝は、気になって5時半に目が覚めて、小雨が降っていたので早朝散歩にも行かず、そのまま作曲を始めて、午前中でAgnus deiを一気に仕上げた。思い返してみると、白馬では実際に手はつけられなかったが、白馬滞在がなければ、これらの曲は決して生まれなかったであろう。

 それからあらためて15日の午後に群馬に再び帰省。その晩は親戚一同とバーベキュー・パーティー。僕は、炭を起こすのが上手なのだ。今回もバッチリうまく火が付いた。といっても、最近は着火剤が優れているので、僕のせいでもないなあ。
 翌16日は、新町の花火大会。杏樹は喜んで花火を見ていたが、夜中に珍しく激しい夜泣きをした。やっぱり3歳にあの音は衝撃的過ぎるのだろう。


花火大会を観る杏樹

 


仕事始め
 そんなわけで、8月に入ってから半月以上、仕事らしい仕事はまともにしていないので、17日に群馬の実家から戻ってきて、18日金曜日の夜、新国立劇場合唱団の「神々の黄昏」音楽練習が始まった時は、まだなんとなくバカンスぼけが抜けなかった。しかしながら、練習に入るとすぐに体が反応するんだね。ただちに細胞の隅々が引き締まってきて、いつもの仕事モードに戻ってしまった。
 「神々の黄昏」第2幕の男声合唱は、とても細かくパートが分かれていて、ハーゲンに招集されたギービッヒ家の家臣達が、少人数で互いに、、
「何だ?一体何が起こったんだ?」
とつぶやく感じで歌うように書かれている。しかし、それではあの大管弦楽に負けてしまうので、バイロイトでは伝統的にワーグナーの譜面に逆らって、歌うところをそれぞれのパートが縫うようにして、最大限の人数で歌わせていた。極端なところでは、第2バスだけと書かれていても、あえて男声合唱全員のユニゾンで歌うということさえ行われていた。
 僕も、バイロイトからそのやり方を教わったばかりの頃は、
「バイロイトに従ってさえいれば間違いない。だって本家本元だもの」
という想いから、そのやり方を踏襲していた。
 しかしながら、何回かやる内に、
「うーん・・・どうなんだろうなあ?ワーグナーはやっぱり、個々がバラバラにつぶやく感じが欲しかったのではないかな?」
と思う箇所も出てきて、オーケストラとのバランスに考慮しながらオリジナルに戻す箇所を作ったりしていた。
 そして今回も、みんなの声を聴きながら、結局は前回やった時よりももっとオリジナルに近くなっている。Alla Bayreuth(バイロイト流儀)とはいっても、作曲家ではなくノルベルト・バラッチュの個人的趣味だったかも知れないし、少なくともワーグナーは、譜面を後で書き換えたりはしなかった。それに、
「バイロイト音楽祭では代々こうやれ!」
なんて指図しているはずはない。
 バイロイトで働き始めた頃は、バイロイトこそ絶対と思っていたけれど、それよりも絶対のものがある。それは、ワーグナー本人が残した譜面だ!譜面をよく読むこと。その中に全ての解釈の礎(いしずえ)がある。バイロイト流儀からあえて離れることは、拠り所を失って心細くもある。でも、最後はやっぱり自分の足で歩くのだ。

 翌19日は、早朝から名古屋に行く。まだ6月11日に「ワルキューレ」公演を終えたばかりの愛知祝祭管弦楽団であるが、もう「ジークフリート」初回マエストロ稽古なのだ。しかも2日続きの半合宿。19日は、10時から4時半のオケ練習の後、6時から8時過ぎまで講演会。その後有志達と懇親会で11時半くらいまで食べて飲んで語り合って、実にてんこ盛りな1日でした。
 講演会は、愛知祝祭管弦楽団では恒例の行事で、初回マエストロ稽古の日に行う。「ジークフリート」のライト・モチーフの説明を中心に、物語と音楽を様々な面から掘り下げ、読み解く。これを皮切りに、毎回の練習の中で、ひとつひとつの場面や音楽をかみ砕いて説明しながら練習を進めていき、1年かけてひとつの楽劇を仕上げていくのである。
こうしたきめの細かい練習が、はっきり言ってプロでも出来ないような表情豊かな演奏を可能にするのだ。
 「ラインの黄金」の時には、江川紹子さんが、
「ライト・モチーフのひとつひとつのキャラクターが際立っている!」
と言ってくれたり、「ワルキューレ」の時には、音楽評論家の東条碩夫さんが、
「第2幕は、これまで聴いた全ての演奏の中で一番良かったかも知れない」
と言ってくれたりしたけれど、こうした演奏は、たまたま出来ちゃったりするものでは断じてない
 他の店とはひと味違うおいしい店に、客はわざわざ足を運ぶが、その全ての客が、そこのお菓子や料理の素材の入手経路や料理する時の味付けに精通しているわけではない。しかしながら、作り手の方は、たまたまおいしいものが出来ちゃった、なんてことは絶対にない。その秘密の全てを把握し、どこにこだわっていて、どこに労力や資金を惜しまないか承知の上である。
 お客は気付かないで、
「なんとなくおいしい」
でいいが、作り手の側から見ると、どんなに努力しても必ずおいしいものが出来るとは限らない一方で、おいしいものを作るためには、必ずありあまるほどの努力が必要なのである。
 僕たちが「ワルキューレ」の音楽の構築にどれだけ努力をはらったか、また、これから「ジークフリート」のサウンドを作り上げるのに、どれだけの労力を要しないといけないのか?聴衆は知らなくてもいい。でも、少なくとも僕は命を賭けているのだ・・・と思いながら、初回の練習で振り始めたら、愛知管弦楽団のメンバー達の熱気に圧倒された。そして2日間で、第1幕が結構いい感じになってきた。
 この団の熱気は、「ラインの黄金」から「ワルキューレ」と回を重ねる毎に上昇してきて、このまま天に昇っていくのではないか、と思わせるものがある。いやあ、なんとも楽しいなあ、僕の人生。このようにして、僕のバカンス後の社会復帰は見事に成し遂げられましたとさ。めでたしめでたし!

角皆君のこと
 考えてみると、いつも僕の人生の節目には角皆君がいるんだ。僕が音楽の道を志した高校一年生の時と、自分の生活の中にスポーツを取り入れてきたここ数年。

 群馬県一の進学校である高崎高校に入学した時に、僕に文化の香りをもたらし、一流大学への夢を捨てて音楽家になる決心にまで導いてくれた角皆君のことは、すでに自分の著書などに書いてあるが、ここ数年の内に僕に起こりつつあることに関しては、この邂逅がどこに向かい、どのような結果をもたらすのか、未だ良く分かっていない。
 しかしながら確実に言えることは、最近始めたスキーと水泳が、自分の指揮をする時の体幹のあり方や、指揮の技法そのものの改善に大きなサジェスチョンを与え続けていることと、そのふたつのスポーツに関わることに対して、角皆君の存在なしに考えられなかったことだ。そして、今回の白馬での10日間の滞在中に、僕にとって角皆君というのは本当に特別なソウルメイトなのだと確信するに至った。

 僕と角皆君は、高校時代からの大親友として、これまでもずっと親交を結んできたが、だからといって、いつもべったりと付き合っていたわけではなかった。時には何年も互いに連絡を取らないこともあったし、会っても、決して“つるむ”というような関係にはならなかった。
 二人の間には、いつも、なんていうのかな・・・ある緊張関係のようなものがあって、どこかで互いにライバルのように思っているところがある。二人の道はあまりに違っていて、互いに活躍する土俵が違うので、決して競うとか比べるとかいうことにはならないので、ライバルという言葉を使うのはふさわしくないような気もするが、でもやっぱり僕も角皆君も互いをライバルのように思っていることは確かなのだ。

 高校時代の僕はスポーツというものが大嫌いだった。でも、今から考えてみると、僕は本当は「スポーツが嫌い」だったのではなくて、「その中に競争しか見ようとしないスポーツへのアプローチ」が嫌いだったのだ。実際僕は、自分自身でも驚くほど闘争心のない人間で、今でも人を押しのけることに嫌悪感さえ覚えるくらいなので、最近まで自分は出世とは縁のない人間なのだと思っていた。
 一方、角皆君は、水泳部のエースだった高校時代から、熾烈な競争原理のまっただ中に身を置いていながら、不思議と僕に嫌悪感を抱かせなかった。何故かというと、彼もその本質において競争にあまり興味のない人間なのだ。それよりも自己と向き合い、自己と対峙することに興味を抱いていて、1番になるよりも自己ベスト更新にこだわっていたのだ。
 だから、他のアスリートに見られるような陽気さと騒がしさの代わりに、内省的及び思索的で、不思議な静寂が彼の周りには漂っている。その静寂に僕は惹かれているのだ。

 彼が、アスリートにしては珍しく音楽好きだったので、僕とは音楽の話題で常につながっていた。しかしながら、僕にスポーツへの興味がなかった時には、どちらかというと、彼が音楽的な話題を求めて僕にアクセスしてくる他は、僕の方からアプローチしていくことのほとんどなかった一方通行的な交流であったのだ。
 それが数年前から、僕がスポーツに向かっていくようになって、逆に僕の方から彼を求めてアクセスしていく方向性が生まれてきた。すると、彼との友情関係はこんなに長いのに、実は僕は彼のことをなんにも知らなかったのだな、と知って愕然とした。そして彼から、実際のスキーや水泳のテクニックを学ぶだけでなく、アスリートとしての様々な知識や見識をも吸収したいと強く欲するようになったのだ。

 その結果、自分の音楽の中に決定的なものが欠けていることに気付いた。それは、音楽家の「アスリートとしての面」への自覚である。分かり易く言えば、彼からスキーなどで習った体幹への意識は、音楽へも当然導入出来るものなのだ。それで、それを自分の指揮のテクニックにも応用してみた。すると・・・僕の指揮は画期的に変わったのだ。
 このことをもっと詳しく書きたいのだが、これを書き出すと一冊の本が出来てしまうであろう。だからいつか時間のある時に書くと思うが、とにかく、僕は今、自分が音楽をやるためにも、アスリートとしての角皆君をとってもとっても必要としている。だから、彼との友情は、これからもどんどん続くことは間違いない。



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© HIROFUMI MISAWA