「マエストロ、私をスキーに連れてって!」キャンプ

三澤洋史 

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夏の終わりに想う
 毎年この時期がくると同じ光景に出くわす。早朝散歩に出ると、そこかしこに蝉の死骸が落ちている。その数がハンパではない。7年間も土の中で生活し、やっと地上に出てきたかと思ったら一週間ほどでその生涯を終えると言われている蝉(最近ではいろいろ異説もあるが)。それぞれの蝉は、その生涯を全う出来たのかな?夏空の下、心ゆくまで鳴き、満足して臨終の日を迎えることが出来たのかな?そんなことを思いながら歩みを進める。
 台風が、あれだけ強い残暑を一蹴してくれたお陰で、急に肌寒いほどの気候になった。上着が必要なくらいで驚いている。勿論、まだまだ楽観してはいけない。まだ9月のはじめだもの、太陽が出てきたら即気温が上がり、エアコンが必要になってくるだろう。

 この時期になると、愛犬タンタンのことを思い出す。2012年に死んだから、もう5年も経つのだけれど・・・。やんちゃで、しつけようとしてもちっとも言うことを聞かないお馬鹿犬だった。ミニチュア・ダックスフントで足が短く、胴体と地面との距離が極端に短いため、夏の間は早朝ですらお散歩するとすぐに暑がってハアハア言いながら舌をベロベロ出していた。
 蝉の死骸が散乱するこの時期には、毎年タンタンに話しかけていた。
「さあ、これから楽しいお散歩の時期が来たね!」
だからタンタンが死んでしまって最初の夏が終わろうとした時、もうタンタンの舌のベロベロの心配をしなくていいと思ったら、体の奥底から慟哭の感情が込み上げてきた。
 あの、いいようのない悲しみの感情は、しかしながら、今はない。それが逆に現在の自分をもっと悲しくさせる。あれだけ痛めた心が痛くないのだ。あの耐え難い苦しみが、今はストンと自分の心から抜け落ちていて、ただ夏の終わりのしみじみとした心象風景があるのみ。
 では、自分はもう、あれだけ愛したタンタンを忘れてしまったのか?自分はそんな薄情な人間なのか?こんな自問自答をしている自分が、なにか情けない。諸行無常。そう、全ては流転していく。すべてが穏やかになり、忘却の彼方に溶けていく。
 しかし、忘れていくのではない、とも思う。タンタンの思い出は、タンタンの死に直面した当初では、「タンタンの死の悲しみ」を中心に形作られていたが、時が経つに連れて次第に、2000年から2012年の11年と数ヶ月に及ぶタンタンと過ごした全てのしあわせな瞬間の集合に変わってきた。
 そうだ、僕には、タンタンと一緒に生きた「人生においてかけがえのないしあわせなひととき」がまぎれもなくあったのだ。タンタンが僕の人生を「しあわせ」で彩ってくれたのだ。タンタンありがとう!この感謝の気持ちだけは、永遠に風化してはいかないのだ。

 今、僕のそばには3歳9ヶ月になった孫の杏樹がいる。タンタンが死んでから1年半ほど経ってからこの世に生を授かり、愛を注ぐ対象を失っていた僕にとっては新しい相手となった。もう可愛くて仕方がない。でもね、杏樹はタンタンではない。タンタンの代わりはつとまらない。タンタンはタンタン、杏樹は杏樹だから。

 9月3日日曜日は、珍しく地方にも行かず、新国立劇場もお休みだったので、朝、関口教会に行って岡田大司教着座記念ミサを指揮し、そのまま聖歌隊に練習をつけた後、家に帰って来て杏樹と公園に行った。
 ブランコが大好きで、僕にビュンビュン押してくれという、しかも後ろからだと顔が見えないので、前から押してというので、こちらに振られてきた時に、台座のところを向こう側に押して勢いをつけてあげる。
「もっと速く、もっと、もっと・・・」
というので、思いっ切り勢いよく押したら、お尻が台座からすっぽ抜けて、杏樹はブランコの下から斜め向こうに足からうつぶせに落ち、その落ちていく頭に上から戻ってきた台座がコンと当たった。杏樹はブランコの向こう側に倒れ、勢いよく泣き出した。
 大変だ!大けがをしたかな?僕は全速力で駆け出して杏樹をギュッと抱きしめた。しかし子どもって凄いね。かすり傷ひとつ負わない。すぐ泣き止んだから、
「じゃあ、ブランコはやめて滑り台に行こう」
と言ったら、
「ヤだ、もっとブランコ乗る」
と言う。ちっとも懲りてないんだ。
「ごめんね、じーじ強く押し過ぎたね」
「ううん・・・杏樹、じーじのこと大好き!」
 杏樹は、それからもブランコに滑り台にと飽きずに遊んでいる。僕もそんな杏樹に寄り添い、手を貸し、遠くからじっと眺めている。眺めているだけで、自分の中からどんどんやさしい感情が溢れてきて、しあわせでいっぱいになる。

 白馬での、角皆優人君及び山下康一君との対談中、角皆君が、
「芸術家って、苦しみの深さだけ、芸術が深くなるのでは?」
と言ったことに対して、山下君が反論した。
「それは、少し切り離して考えた方がいいような気がします。みんな簡単にそう言うのだけれど。苦しめば必ずその人の芸術が良くなるというものでもないし、苦しまないと良いものが創れないというものでもないし・・・」
それで僕はこう言った。
「僕はね。今とってもしあわせだ。人生でずっと、出世よりも何よりもしあわせを求めて生きてきたし、実際、様々な選択肢の中で、しあわせを最優先してきたような気がするんだ。だからいつもしあわせだったし、そんな自分を感謝してきた。
宗教も、本当はきちんと生きていけば人間は普通にしあわせになれるのだ、ということを教えているのだと思う。キリスト教は、教祖があんな死に方したから、どうしても『キリストに倣って十字架を背負って』みたいなペシミスティック志向になる傾向があるけれど、キリストの言っていることも、本来は、敵を愛せとか、自分がして欲しいことを人に成せとか、しあわせになるための方法を教えている。
自分が人の上に立っている時、僕は、みんなが適材適所でそれぞれの力を充分に発揮出来る環境を整えることを優先してきた。つまり、自分の自己実現よりも、自分の下で動く人達の自己実現を優先した。その結果、それが究極的な自己実現であることを知った。みんなが僕を信頼して付いて来てくれる。僕はしあわせなんだ。
そうした生き方をしてきた僕がね、苦悩が少ないから芸に深みがないと言われたら、それはそれでいい。しあわせに生き切った音楽家がひとりくらいいたっていいじゃないか」

 勿論、ベートーヴェンのあの作風と、人の胸ぐらを掴むような説得力は、ベートーヴェンの苦悩から生まれたことは間違いない。でも僕はむしろ全ての自分の苦悩を、しあわせに変えてしまいたい。というか、苦悩の中から、なんとしてでも何らかの学びをつかみ取りたい、そして学べさせてくれたことを神に感謝したい。
 そんな僕は、しあわせを感じながらタクトを持ち、作曲の筆を持って、自分の芸術を生涯にわたって紡いでいきたいと思っている。その結果、どんな芸術が生まれるのかは・・・・自分ではなく後世の人達が判断すればいい。これが僕の生き方。

 あと2週間もすれば、彼岸花が咲き始める。すがすがしい秋がどんどん深まり、11月の末が来れば杏樹は4歳になる。時の経つのは早い。
 

「マエストロ、私をスキーに連れてって!」キャンプ
 今度の冬で僕は自分のスキーを“キメ”ようと思っている。数年前からスキーに取り憑かれている僕は、スキー・シーズン中、ほとんど全ての休日を返上してスキー場に行っているが、それでもシーズン全体でもやっと二桁になるかならないかくらいの日数しかスキー場に通えない。

 親友のプロ・スキーヤーである角皆優人(つのかい まさひと)君は、この歳でこんな短期間でこんな日数の割にはうまくなったじゃないかと褒めてくれるが、自分としてはまだまだ下手っぴいで、ちっとも満足していない。
 まあ、目の前にこんなスキーの大天才がいれば、自惚れたり満足したり出来るわけがない。でもそのことは、僕が慢心したりしないで、スキーに正面から関わることが出来た要因となり感謝している。実際、角皆君の指導は常に適切で、自分がうまくなるために何が必要かをいつも見極め指導してくれていたので、僕は最短距離でここまで上達してくることが出来た。
 特にコブに魅せられている僕を、コブに特化することなく、スキー全体の実力を上げることによって最終的にコブの攻略に最善な方法で導いてくれた事は、どんなに感謝しても足りない。コブの理想的な滑り方とは、適切なショートターンを良いフォームで行ったら、そこにたまたまコブがあったかのような状態で滑ることにあるのだ。

 スキーというのは、上達すればするほど、楽しさが何乗にも倍加してくる。実力に応じて、これまで恐くて入れなかったゲレンデに飛び込んでいけるし、スピードが増すごとに爽快感が増し、高速でターンすると遠心力が重力と拮抗するスリリングな喜びを体感することが出来る。苦手だと思っていた荒れた斜面は攻略の達成感に変わる。コブではスキーでないと決して得られない浮遊感を得ることが出来る。
 こんな素晴らしいスキーというものを、もっともっと味わい尽くしたいのだ。でも、グズグズしていると、僕は来年の3月が来れば63歳になるんだ。もう年寄りなのだ。60の声を聞かない内に死んでしまった友達も何人かいるし、病床に伏している知人だっている。自分自身、明日脳梗塞で倒れるとか、心筋梗塞で死んでしまうことがないとは言い切れない。そうでなくても、歳を重ねて体がだんだん衰えてきたら、いつまでスキーが出来るか分からないじゃないか。だったら体の動く内に、後悔のないように少しでも上手になっておきたい。

 ということで、来年の1月から3月までは、我が儘を言って、かなり仕事をセーブした。これで迷惑がかかる人もいるかも知れないが、人に気兼ねして人生の最後にやりたい事も出来なかったと後悔するのは嫌だ。一度しかない自分の人生だもの。それで、無理矢理オフ日を結構作って、それをスキーにあてることにした。
 勿論基本は独りでガシガシとストイックに技を究めることに費やす。ニセコにも、少し長く滞在してあの変化に満ちた広大なゲレンデを我がものにしたい。しかし、それと同時に、たまには、独りででも家族とでもなく、僕に関わっている団体の人達を誘ってみんなでスキー場に行くのもアリかと思い始めた。

 それで、8月前半に白馬に行った時、角皆君といろいろ相談して、僕の知り合いだけを集めた特別キャンプをやろうと決心した。まだ細かいところはいろいろ詰めないといけないのだが、本日はまず第一報として、今決まっている情報だけ流します。

 特別キャンプは、白馬五竜スキー場にて二回に分けて行われる。
一回目は、2月3日土曜日及び4日日曜日。ただし、僕が前の日、夜まで仕事なので、キャンプは3日の午後から4日午前午後の一日半。
二回目は平日で、3月8日木曜日及び9日金曜日。こちらは8日朝から受付で、丸二日間。

キャンプのタイトルは、恐らく、
「マエストロ、私をスキーに連れてって!」キャンプ。
となると思われる。あははははは。
 でも勘違いしないでね。僕がみんなにレッスンをするのではないよ。レッスンは、角皆優人君が行う。そして、僕もみんなと一緒に角皆君のレッスンを受ける。日本のフリースタイル・スキーの草分け的存在で、かつてスノウ・バレエ、モーグル、エアリアルという三種総合で全日本チャンピオンの座を7年間も守り抜いた角皆君のインストラクターとしての素晴らしさは僕が保証する。さらに、レッスンの中で、僕が参加者になにかをやらせるコーナーも作る。

 僕は、東京バロック・スコラーズなどの練習で、常日頃から、
「バロックはコブだ!」
と言っている。出来れば、このキャンプで参加者に、コブを越える時のあの浮遊感を味わってもらい、それを音楽における音符の運動性への認識へとつなげていきたい。

 ただし、このキャンプに実際レッスン生として参加するのには条件がある。これを角皆君と詰めていたが、最終的に次のような結論に達した。それは、
「整地でパラレル・ターンが出来てストックが突ける人」
というもの。

 うーん・・・一気にハードルが上がった。これで誰でもいいというわけにはいかなくなってきた。まあ、SAJ検定二級資格以上とか、そんなんではないので、自分でパラレルが出来ると思えばそれでいいんだけど。
 しかしながら、パラレル・ターンなんて奥が深くて、僕だって今でもきちんと出来ているとはいえない。角皆君の最後のレッスンでも直されていたしね。でも、一方で、パラレルが曲がりなりにも出来ないと、その先出来ない事って沢山あるんだ。
 また、ストック・ワークは、ある意味もっと重要で、ストック・ワークがきちんと出来ない人は、コブを滑るのはかなり難しいことは言っておこう。僕の場合は、白馬に来て角皆君と最初に滑った時に、彼から言われた。
「ストックは指揮者なんだよ。指揮者がいなくても合奏は出来るだろうけれど、いざズレた時に、正しいリカバリーに導いてくれるのは指揮者しかいない」
 それはその通りなんだ。勿論、ストックなしでも加重抜重のウエイト・シフトは出来るのだが、ストックはその運動を目に見える形で見せてくれる。だから、少しでも体勢がおかしいとストック・ワークに現れるわけだ。まあ、これはストックを全く使えない人でなければ、レッスン中に学ぶことは出来る。むしろこのキャンプでストック・ワークを正しく学んだら、その後の滑りが画期的に変わることは言っておこう。

 ということで、実際にレッスンに参加する資格のある人は、先の条件を満たした人で、さらにレッスンの効率を考えると、参加人数は10人以下に絞られる。また、最初の日に基礎練習を行いながら、参加者のレベルを見ていて、2日目は部分的ではあるが、レベルによって角皆君とその奥さんの美穂さんの2つのグループに分けて行い、時には滑るゲレンデそのものも変えた方がベターだと思われる。そうでないと、ある人には難しすぎ、ある人には物足りないということが起こってしまうからね。勿論、最後には合流するわけだけれど。

 さて、これを読んでいる人は、ここまできてかなりモチベーションが落ちてしまったかも知れない。でも、みなさん心配ご無用!考えてもみよう。レッスンには直接参加出来なくても、そばで見ているのは自由だ。つまり見学自由。レッスンの近くで勝手に見よう見まねで滑っていたっていい。少なくとも、同じ時に同じゲレンデにいるのを禁止する権利は誰にもないじゃないか。
 ということで、キャンプの日に僕と同じゲレンデにいるというユルい参加者も大募集します。あのね、角皆君の場合、もしかしたら初日はパラレルが出来る人を集めておいて、ボーゲンばかりやるかも知れないよ。
「たかがボーゲン、されどボーゲン」
と言ってね。でもね、角皆君のボーゲンのレッスンは凄いんだぜ。それにボーゲンをナメてはいけない。ボーゲンの中に全ての進歩の鍵があるんだ。

 それでね、ユルい参加者にも特典がある。それは、まだいろいろ決めなければならないのだけれど、なるべく僕と同じホテルに泊まってもらって、まず夕方、僕は特別講演を行う。タイトルは恐らく「スキーと音楽」というようなもの。これは音楽家や音楽愛好家にとってはとても有意義なものになることを保証する。それからね、待ちに待った懇親会を行うのだ。

 まあ、そんなわけで、とどのつまり、ある意味スキー場でのオフ会のようなものとなるわけだ。早い話、最終目標は、
「スキー場で僕と一緒にみんなで飲もうぜ!」
という感じ。
 ね、楽しいと思わないかい?さあ、みんな、僕といろいろお話ししたくて、スキーに興味ある人は、今のうちに手帳に日程を書き込んで下さい。



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