自作ミサ曲と作曲家視線で眺めたバッハ

三澤洋史 

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湘南国際村での合宿
 9月9日土曜日と10日日曜日は、湘南国際村センターで東京バロック・スコラーズの合宿。湘南国際村は三浦半島の中央よりちょっと先端に近いところに位置している。東京湾に面している横須賀とはちょうど反対側の相模湾に近い高台にある。
 合宿の全体練習は9日午後2時から始まるが、その晩と10日の朝は、1声部1人のクァルテットでの練習。そして午後に再び全体練習で3時過ぎに終了。今回は、クァルテットにかなり時間を割いた。

 4人ずつの歌唱なので、歌っている団員以外は聴いている。従って体力的には楽なのだが、いざ歌う時の精神的プレッシャーは大きい。しかも、最初に音を取った後は、あの80番の冒頭合唱のような複雑な曲でも、無伴奏で指揮なしで、自分たちでテンポを取ってアンサンブルをしていくのである。誰かがズレたらただちに崩壊しそうだが、そのリカバリーを自分たちでなんとか行うことも練習の内。自分のパートを歌い切るだけでなく、常にアンテナを張って、自分の立ち位置や、他のメンバーの動向を把握しながら歌唱しなければならない。
 これには時間がかかるので、その時間があれば全体練習をした方が能率的との意見もあろうが、これをやった後、全体で合わせてみると、合唱団全体が俄然上手になるので、特に合宿では外せないのである。それに、聴いている時には、その時間を暗譜に使うように言ってあるし、僕の与えるコメントを聞いて自分たちの歌唱に生かそうとするなど、歌っていない時のメリットも大きい。特に、崩壊しそうになった時のリカバリーの方法論は有意義なので、むしろ時々アンサンブルが乱れてくれた方がみんなのためになるほどだ。
 合唱団というものは、同じパートを複数で歌うので、大人数になればなるほど、一人一人の責任感が薄くなる。しかも目の前には指揮者がいて拍子を取ってくれるので、危機感を感じることは少ない。ところが小アンサンブルをやると、もう危機感だらけだ。しかしながら、ある意味、これこそが合唱の醍醐味とも言えるのだ。指揮者に従うだけでなく、他のパートと合わせていく喜びを知らないというのは、アンサンブルの本質を理解していないことを意味する。
 たとえば、自分のパートが音を伸ばしている時、ただ1、2、3と数えているなど愚の骨頂だ。まあ、必要最低限にはそれでいいと言えば言えるわけであるが、この時こそ他のパートを聴く喜びがあるだろう。他のパートがどんな音楽をやっているのかを味わい、伸ばし終わって自分のパートが入ってくる時には、縄跳びの中に飛び込んでいくように、全体が創り出しているバイオリズムの中に自分を溶け込ませていくのがアンサンブルというものだ。
 これを感じないで、ただ指揮者に合わせることで思考停止しているとしたら、演奏の喜びの一番大事な部分を知らないことになる。どんな大きな合唱団でも、あるいは大管弦楽であっても、アンサンブルはアンサンブルなのである。
 指揮者はただ、演奏者が緻密なアンサンブルをするためのお手伝いをしているに過ぎないのである。だから僕は、この合宿では、指揮者というよりも、むしろアンサンブルの為の指導者なのである。いや、合宿だけではないな。僕は基本的に、「自分の指揮でみんながアンサンブルし易い」というのが理想なのだ。

 さて、僕は合宿所としてはこの湘南国際村が大好きだ。何といっても風景が良い。国際村センターの裏手の丘に登ると、相模湾の海が広がり、晴れた日にはその向こう側に富士山が見える。勿論、合宿ではゴリゴリ練習をするので、いざ練習に入ってしまうと、あたりの環境は関係なくなってしまうかも知れないが、それでも休憩時間に外に出れば、海からの風を感じたり、ゆったりとした気分になれる。


湘南国際村からの眺め

 もっと都心に近い施設だと、中途半端に帰れるので通い合宿になってしまう傾向があるのだ。でも、三浦半島に位置するここまで来てしまったらそれも難しいから、本当に日常生活から離れた特別な環境に浸れるのである。

 それに、この国際村センターには、なんと温水プールがあって、しかも朝7時から夜10時までの間、いつでも泳ぐことが出来る。僕は9日の夜、9時までの練習の後、懇親会に行くまでに40分くらい泳いだし、翌朝6時に起床して1時間くらい散歩した後、朝食までの30分間泳ぐことが出来た。そのお陰で10日は体調が絶好調!
 その時つくづく思ったよ。いいなあ、こんな風に朝食前にお散歩と水泳で1日が始められる環境に住めたらどんなにいいだろう!と。プールのある家に住むなんて東京ではとても無理だし、では温水プールのある施設の隣に住めばいいと思っても、朝7時から泳がせてはくれないだろう。


湘南国際村での合宿


自作ミサ曲と作曲家視線で眺めたバッハ
 例のミサ曲の作曲であるが、地味に進んでいる。この東京バロック・スコラーズの合宿に行く朝、Gloriaがほぼ完成した。ほぼというのは、一応完成したのであるが、この後、少し放っておきながら、ちょこちょこファイルを開けると、
「ああ、ここちょっと補正しようかなあ」
とか、
「もしかしたら、こっちの方がいいかな?」
とかいう箇所が出てくるものなのだ。昨晩も、合宿から帰ってきて、夜遅く何気にファイルを開けたら、歌詞の付け方が気になって、二、三カ所変更した。
 そんなことをしばらくやって、一通り修正し終わると、いよいよ本当に完成となる。僕の場合、一度完成してしまうと、ほとんど加筆することはない。そこまで突き詰めないと完成とは言えないのだ。

 先週は、Cum Santo Spirituでフーガを書き始めたら行き詰まってしまったが、これも、慌てることはないやとゆったり構えていたら、解決の糸口が見つかって、後半スラスラ進んだ。フーガの主題が結構リズミックで難しいのだ。本当は、バッハのようにもっとシンプルなテーマにすれば、いろいろな展開が楽なのだが、それでは面白くないのだ。
 それで、テーマに合う対旋律を苦心して作り、それで作曲を進めていたが、いわゆる常識的な和声法の範囲で書こうとしていたため、がんじがらめになり、優等生的なフーガだけれども対旋律が全然魅力的でなく、全体的にイケてない曲になってしまった。
 作曲科の試験に提出するのだったら、結構良い点数がもらえて、これで良かったのかも知れないが、僕の場合、ちょっとブッ飛んでないと嫌なんだな。それに「よく出来ている」という評価なんかどうでもいい。そもそもの存在価値があるのかどうか、という方が大事なんだ。

 それで、全部ご破算にしてテーマだけ残し、また最初から作り直した。で、やっぱり対旋律で行き詰まっていたのだが、ある時、新国立劇場の「神々の黄昏」の立ち稽古の後、帰りの電車に乗りながらi-Podでサンタナを聴いていて、ハッと閃いた。といっても、とっても単純なことに気付いただけなんだけど。
 サンタナなんか、どんなメロディーのものでも、一度アドリブに入ると、ワンコード(単一和音)の世界に入って自由気ままにインプロビゼーションするではないか。その背景には、マイルス・デイビスのように、コード(和音)ではなくモード(旋法)の考え方がある。
 一方、僕の場合、それぞれの瞬間でテーマと対旋律が和声的関係を保とうとか、旋律の中の音同士がぶつからないようにとか配慮し過ぎているから、優等生的でつまらない曲になるのだ。ここはもう開き直ってモードの考え方で、その旋法の構成音でメロディーを作るなら良しとして、ぶつかろうとどうなろうと構わず、任意の音を使って対旋律を作ろう、と決心した。
 
 それから一気に作曲が進んだ。勿論、バッハのような整然としたフーガではない。本当のフーガにはいろんな細かい決まりがあり、それに従っていたら、本当にバッハのようになってしまうからね。それではコンガの入る余地はない(笑)。

 作り終わってちょっといい気になり、東京バロック・スコラーズの合宿に行き、午後の練習で3つのカンタータの合唱部分を最初に通したが、頭を後ろから殴られたような衝撃を受けた。
「す、凄い!」
と思った。

 面白いもので、自分が作曲をしている時には、作曲家目線になっているのだ。その目でバッハをあらためて眺めてみたら、その天才度がダイレクトに伝わってきたのだ。カンタータ80番のEin feste Burg ist unser Gottの冒頭合唱曲などでは、コラールの主題を縦横に使い、しかも二つのフレーズの旋律を組み合わせ、さらにそこにオーボエにより元のコラール旋律を響かせるが、驚くべき事にコントラバスを中心とする低音部でも少し遅れて重なり合うように旋律が響く。一体、どうやったらこんな音楽を作れるのだろうか?
 ただ、こうも思った。僕は、バッハのようには作れないな、と。ヘンデルの「メサイア」をやった時に思ったけれど、ヘンデルは、自分が作ったものは聴衆に全て把握して欲しいと思っている。だから、「とても凝っているけれど聴衆は理解し得ない」という音楽は決して書かないのだ。
 それに対し、バッハの音楽は、もっとオタッキーで、これを一回の演奏で全て理解する人はいないのではないか、というほど複雑で難解である。そこがバッハの音楽の奥深さであるが、現代のように、「バッハの音楽を芸術として味わおう」という受容のされ方をしている時代でないと、むしろ敬遠されてしまう危険性を含んでいる。だから、ライプチヒでも思ったほど喜ばれなかったわけだ。人々はそんなに長くない手頃な受難曲を欲しがっていたのに、あんな手の込んだ長い「マタイ受難曲」など誰も望んでいなかっただろう。
 こんな風に、バッハに触れて「ここまで凝るのか?」という風に感じたのは、自分にとっても新鮮であった。自分のフーガで、主題が戻ってきた時に、やはりバッハのようにきちんと全ての声部で順々に主題を再現した方が良いのは分かっていたが、しつこいのでやめた。
 第1テノールと第2テノールをユニゾンにし、バリトンとバスもユニゾンにした2声で、低音部を少し遅らせたストレッタ(主題が重なり合って出ること)を作り、力強く再現して、それからもうコーダに突入していく。何故そうしたかというと、自分が聴衆になったとして、原調で一度だけ戻ってくれば充分と思ったからだ。つまりお客様目線が働いたのだ。
 そういうお客様目線とか、空気を読むとかいうのは、バッハにはないのだ。彼はどこまでも孤高の存在で、自分自身の興味あることにしか意識がいかない職人肌で、80番カンタータでも、ルターのコラールへの愛を貫き通すべく、コラールのメロディーを切り刻み、変奏し、展開し、採算を度外視して納得のいくまで仕事して、誰も作れない稀有なる傑作を世に生み出したというわけである。

 自分でも笑ってしまうが、生まれて初めて思った感覚がある。それは、もし自分が作曲科の学生で、同じクラスにこんな同級生がいたら、自分だけでなく、友達みんな作曲家になるのを断念してしまったのではないか?そのくらい彼の才能はずば抜けていただろうな、という印象である。
 自分のような凡人が、いまさら何をか言わんや、ということだけれど、いやあ、本当にバッハって凄いっす!

 さて、新国立劇場では、「神々の黄昏」の立ち稽古が進んでいる。土日はお休みだったので、合宿に行っていたわけだけれど・・・・。これまでは、合唱だけ切り離した立ち稽古だったり、飯守泰次郎マエストロのオケ練習が始まって、マエストロとセパレートで稽古をしていたり、来日したシュテファン・グールドをはじめとするソリスト達も、まだ時差ぼけなどで声を抜いて歌っていたりしてたから、特にコメントをしていなかった。
 でも、恐らく今週くらいからだんだんエンジンがかかって来ると思われるので、またおいおいこの「今日この頃」でレポートをお届けする。

では、今日もこれから劇場に行ってきます!



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