「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプ、申し込んで!
「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプであるが、出足は快調だった。熱心な人は、以前から僕の「今日この頃」を読んでいて、申し込み開始初日に即、申し込みを行ってくれた。最初の数日にドドドッとメールが来た。
ところが、その後は、
「マエストロ、スキーに行きまーす!」
と、僕と会えば言ってくれるのだが、なかなか正式申し込みを行ってくれない。あきらめたのかなと思って訊くと、「いえいえ、すぐに申し込みます」と言う。
メイン・キャンプの場合、2月のキャンプは週末なので参加者が多く、もうすぐ定員に達する。反対に3月は平日なので、予想はしていたが、まだ余裕があります。
ただ注意して欲しいことがひとつある。申し込み開始からある程度経ったので、今申し込んでいる人には、
「もう参加できると思ってください」
と言ってしまった。ということは、この先定員に達したら、それから全員で抽選ということはなくて、その場で受け付け終了としてしまいます。
そうなった場合、僕にメイン・キャンプ参加をほめのかしたまま、まだ申し込んでない人が本当に全員申し込むと、メイン・キャンプのエントリー不可能になってしまう人が出てしまうので、申し訳ありませんが、ここからは先着順にするので、本当に参加したい人は早く申し込んでください。
サブキャンプは定員がないから、みんなのんびり構えているようで、なかなか具体的な数が伸びません。レッスンに関してだけ言えは、みなさん側としては別に急がなくてもいいし、こちらも数に応じてインストラクターを用意するので、確かにいまジタバタする問題ではない。
問題は、3月のキャンプの宿泊場所であるペンションのカーサビアンカなんだ。3月8日の晩を貸し切りに出来たら楽しいのになと思っているから、カーサビアンカに、一般客の申し込みに対してストップをかけている。でも、先方も商売だから、いつまでそのままでいるわけにもいかない。少なくとも11月終わりくらいまでには決断をしなければならない。
この件に関しても、別に貸し切りでなくてもいい。ただ他のお客様のことを考えると、間近になってから、僕のキャンプ関係の人達が「やっぱり申し込みます!」と殺到して、結果的にほぼ貸し切り状態になったとしよう。そうなった場合、一組とか二組だけのよその宿泊客にとってはとっても居心地悪い状態になるだろうな。
地下の呑み処“おおの”は、いずれにしても貸し切りだから、使えなかったり、お風呂に入っても、ロビーにいても、僕たちのキャンプのメンバーが我が物顔で居たりするんだよ。可哀想だと思う。
だからですね。お願いです。申し込む人は、なるべく早く申し込んでください。キャンプ代はまだすぐに払えと言っているわけではないです。通常の角皆君のところのフリースタイル・アカデミーは、レッスン当日に現金で払うのが普通。振り込みだったとしても、限りなく当日に近い時まで大丈夫なので、まだ100パーセント予定が決まっていない人でも、申し込みだけはOK。
メイン・キャンプも恐れないでください。バリバリ滑れる人よりも、むしろ「パラレルはなんとか出来るけれど、自己流だから自信がないなあ」という人にピッタリのキャンプだよ。角皆君のレッスンは、常に超基礎に還っていく。そしてきちんと体幹を教え、重心移動を体系的に教え、気が付いてみたらいつの間にか上手にしかも正統的な滑りになっているというやり方。
レッスンでは音楽的に滑ることを目指すのだけれど、すでにスキーの中に音楽的な才能を感じさせていることが入門条件などということは全然ないからね。むしろ、そのレッスンの中でリズム感やフレージングを自然に学んでいくのだ。
約束したいのは、レッスンは常に和気藹々な雰囲気で進んでいく。角皆君も僕に似ていてとてもポジティヴ志向、プラス志向だから、あっという間に時間が過ぎていく。
どうしよっかな?面白そうだけど・・・と迷っている人は、瞞されたと思って申し込んでみようよ。絶対に後悔させない!スキーもうまくなり、音楽にも開眼させてあげる!
京都の休日
ロームシアターでの高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」第1回目公演と第2回目公演の間のオフ日(10月31日)は、台風が過ぎ去った後の晴天が広がった。僕は早朝から鞍馬寺と貴船神社を目指してホテルを出た。地下鉄で国際会館駅まで行き、叡山電車鞍馬線の岩倉駅まで北にちょっと歩く。それで終点の鞍馬駅に着いた。
鞍馬寺山門
由岐神社の大杉
みんなに遭う
神社への道1
神社への道2
貴船神社入り口
本宮
奥宮への道
スタバのテラス
ワッフルと雀
竹下節子さんとのやり取り
竹下節子さんが、最近新刊を出した。「キリスト教は宗教ではない」(中公新書ラクレ)というなんとも挑戦的なタイトルを持つ本だ。副題は「自由、平等、博愛の起源と普遍化への系譜」。ところが読んでみると、このタイトルのレトリックはすぐバレる。
つまり、キリストが最初に言っていたことは、むしろ生き方マニュアルのようなものであり、その中に当時のユダヤ的社会からすると革新的なものがあった。しかしながら、それがしだいに、「信仰」という形を取るようになり、その信仰が宗教という形で表現されていったわけだ。
この本では、そのようにして形成され体系化されていったキリスト教が、様々な時代の流れの中で、あるいは布教による多文化との邂逅、軋轢の中で、どのように生き延びてきたかという歴史を語っている。その中でキリスト教は、常に「生き方マニュアル」つまりイズムとしてのキリスト教と、宗教としてのキリスト教との間を揺れ動いていた。たとえば、フランス革命では、宗教としてのキリスト教は排除されたが、そのモットーである「自由、平等、博愛」の起源は、キリスト的精神(イズム)から来ている、という風に。
つまり、このタイトルの本当の意味は、「キリスト教は宗教だけではない(イズムもあるよ)」だ。
竹下さんと個人的にいろいろ話した時に、特に感じたことがある。彼女の持論は、人間の精神や行動は常に自由であるべきで、たとえば共同体のために自己の自由が犠牲になってはいけないということだ。分かり易く言うと、たとえば家の繁栄ために、好きな人と結婚できないで家と取引のある家庭の息子との結婚を強要されるといったようなこと。
教会でもそうだろう。キリストが主張していたことは、信じるにせよ行動するにせよ、常に自己の自由の中で行われなければならないということ。献金を沢山したから良い信者だとかいうことにキリストは反発していたではないか。
毎週教会に通っているから良い信者とか、教会のお手伝いを一生懸命やっているから良い信者とかね。それは共同体としてのキリスト教会にとっては良いことだしありがたいことなんだけれど、内面の信仰に関しては、それとは全く関係のないところで、神と自己とのあり方の問題なのだ。そこに齟齬がある。キリストは問うかも知れない。それを、まったく自由かつ無私な心で喜びをもってやっているかい?と。誰かに褒められたいからとか、誰かに恩をきせていないかい?と。
一方で、キリスト教が病院などをはじめとして、様々な慈善事業と結びついているのは、キリストのイズムに結びついているからで、そうした弱者にやさしいキリスト教のあり方には、キリスト教に関係ない人でもホッとする部分があるだろう。その部分を包含していることで、キリスト教は様々な時代の様々な社会のあり方に適応出来てきたのだな。
このように、竹下さんの著書は、いろんなことに気付かせてくれるし、その本を読み終わったからおしまい、ではなくて、著書をきっかけとして、いろいろ考える要素を提供してくれるから、自分の心の中で著書がいつまでも生きていると言える。
さて、その竹下さんが、東京バロック・スコラーズの「バッハとルター」演奏会に来てくれて、その後、その記事をご自分のブログに載せた。その一部をここに載せる。
22日は川口市の立派なリリアホールに「バッハとルター」というコンサートにご招待いただいた。さすが新国立劇場の合唱指揮者の三澤洋史さんだけあって、合唱のバランスは完璧だった。アマチュアコーラスが大人数だと音量がありすぎてまいってしまうことが多いのだが完全に三澤さんのカリスマに統制されている。
全体も、バッハやルターというより、三澤さんの信仰と祈りと音楽美学の結晶のようで、三澤さんからのプレゼントという感じだった。
私たちフランスバロック脳のメンバーとしては、管弦楽組曲が、カンタータと対照的な「宮廷音楽」として前座のように紹介されたのはちょっとフラストレーションだったけれど。
また、カンタータは、私は日本語の字幕を見て、メンバーのMはドイツ語を読み、Hが音楽に集中という立体的な聴き方をしたので興味深かった。
それにしても、こんなコンサートに参加する人のほとんどは経済的にも健康上にも問題なく、余裕のある人だと思う。歌詞にあるような罪深い私に救いを、と必死に訴えるような強迫観念とは縁が薄いのでは、と思った。
正直、今の日本人がバッハをカルチャーとしている意味ってなんだろう、とさえちらりと思う。
バッハはフランスバロックもよく研究していたが、この組曲のフォルラーヌを聴けばわかるが、このダンスにも、アルト(ヴィオラ)で16分音符で埋め立てようという感覚は、フランス的洗練(文字どおり、洗い尽くして、本質だけを残す)には耐えられない構築強迫がある。バッハには「間」が耐えられない。
いつも言っているが、フランスバロックは「間」や「空(くう)」と、そこに軽やかに消えていく装飾音が命で、そういう「間」を味わう感性というのはむしろ日本人的である。
ドイツは連邦国で、今でも旧領邦国家間の確執がしっかり残る。
そしてプロテスタントの峻厳さが加わる。
それに比べて、実際はともかく「単一民族」幻想のある日本や、中央集権の「太陽王」幻想のあるフランスって、いわゆるハイコンテキスト、以心伝心の幻想もあって、ひたすら洗練させていく美、というのが成立する。フランスの宮廷文化は実は日本の町人文化と似ているのだ。
もちろんどの国ののどんな人でも、戦争やら生老病死の危機は免れないから、それこそいざという時には神仏に必死にすがる、という心情はユニヴァーサルではある。
でも、バッハのカンタータは決してユニヴァーサルではないと思う。
三澤さんの情熱にユニヴァーサルな訴求力があるのと、ルターとバッハのカンタータに普遍性が果たしてあるのか、というのは別のような気がする。
このダンス(Forlane)にも、アルト(ヴィオラ)で16分音符で埋め立てようという感覚は、フランス的洗練(文字どおり、洗い尽くして、本質だけを残す)には耐えられない構築強迫がある。バッハには「間」が耐えられない。このように間を大切にするフランス的感性からすると、バッハには作曲家特有の空白恐怖症があり、音で空間を埋め尽くしてしまうわけだ。だから、いわゆるフランス・バロックの原理主義だけで押し通せないものが、バッハの舞曲にはあり、それが、竹下さんの反対側のドイツ側から見た僕の感性では、このように受け止めるのも可能ではないか?みたいになるわけである。
再び、誰が読むんだこのフラ語記事?
またまた、頼まれもしないのに、勝手に趣味の世界に入っている。先週号でも書いたシャンソンの「パリの空の下」のフランス語の歌詞を、イタリア語に翻訳し、レッスンでイタリア人の先生に見てもらった。思ったより細かな相違が多い。やはり、ラテン語オリジンの国民同士といえど、一枚岩ではないのだね。ちなみに僕の対訳も下に載せた。
Sous le ciel de paris | Sotto il cielo di Parigi | |
Jean Bretonnière | ||
パリの空の下 | ||
1 | ||
Sous le ciel de Paris | Sotto il cielo di Parigi | |
S'envole une chanson | Si alza in volo una canzone | |
Hum Hum | Hum Hum | |
Elle est née d'aujourd'hui | E nata oggi | |
Dans le cœur d'un garçon | Nel cuore di un ragazzo | |
パリの空の下 | ||
ひとつのうたが飛び立つ | ||
そのうたは 今日 | ||
ある若者の心の中に生まれた | ||
2 | ||
Sous le ciel de Paris | Sotto il cielo di Parigi | |
Marchent des amoureux | Camminano gli innamorati | |
Hum Hum | Hum Hum | |
Leur bonheur se construit | La loro felicità si costruisce | |
Sur un air fait pour eux | Su una melodia fattta per loro | |
パリの空の下 | ||
恋人たちがそぞろ歩く | ||
そのしあわせは | ||
彼らのために作られたメロディーの上に築かれていく | ||
3 | ||
Sous le pont de Bercy | Sotto il ponte di Bercy | |
Un philosophe assis | Un filosofo si siede | |
Deux musiciens quelques badauds | Due musicisti, qualche spettatore | |
Puis les gens par milliers | Poi la gente a migliaia | |
ベルシー橋の下では | ||
ひとりの哲学者が座っている | ||
ふたりの楽師に何人かの野次馬 | ||
それがいつの間にか沢山の人で溢れちゃうのさ | ||
4 | ||
Sous le ciel de Paris | Sotto il cielo di Parigi | |
Jusqu'au soir vont chanter | canteranno fino a sera | |
Hum Hum | Hum Hum | |
L'hymne d'un peuple épris | L'inno di un popolo incantato | |
De sa vieille cité | Dalla sua vecchia città | |
パリの空の下 | ||
彼らは晩まで歌っていくのだろう | ||
古い都に魅せられた | ||
民衆の賛歌を | ||
5 | ||
Près de Notre Dame | Vicino a Notre Dame | |
Parfois couve un drame | Spesso cova un dramma | |
Oui mais à Paname | Si ma a Paname(Panama) | |
Tout peut s'arranger | Tutto si puo aggiustare | |
ノートルダム寺院の近くは | ||
しょっちゅうなんらかの騒動を抱えている | ||
でも それがいつの間にかうまく収まってしまうのが | ||
パリというもの | ||
6 | ||
Quelques rayons | Qualche raggio | |
Du ciel d'été | Del cielo d'estate | |
L'accordéon | La fisarmonica | |
D'un marinier | Di un marinaio | |
L'espoir fleurit | La speranza fiorisce | |
Au ciel de Paris | Nel cielo di Parigi | |
夏の空の輝く光 | ||
船乗りの弾くアコーデオン | ||
パリの空に | ||
希望が花開く | ||
7 | ||
Sous le ciel de Paris | Sotto il cielo di Parigi | |
Coule un fleuve joyeux | Scorre un fiume gioioso | |
Hum Hum | Hum Hum | |
Il endort dans la nuit | Nella notte si prende cura | |
Les clochards et les gueux | Dei barboni e dei mendicanti | |
パリの空の下 | ||
喜ばしい河が流れる | ||
夜になるとセーヌはそのふところに | ||
浮浪者や乞食たちを眠らせる | ||
8 | ||
Sous le ciel de Paris | Sotto il cielo di Parigi | |
Les oiseaux du Bon Dieu | Gli uccelli del Buon Dio | |
Hum Hum | Hum Hum | |
Viennent du monde entier | Vengono da tutto il mondo | |
Pour bavarder entre eux | Per chiacchierare tra loro | |
パリの空の下 | ||
神様に祝福された鳥たちが | ||
世界中からやって来て | ||
おしゃべりに花を咲かす | ||
9 | ||
Et le ciel de Paris | E il cielo di Parigi | |
A son secret pour lui | ha un segreto | |
Depuis vingt siècles il est épris | Da venti secoli è innamorato | |
De notre Ile Saint Louis | Della nostra isola di San-Louis | |
でもね パリの空には | ||
秘密があるんだ | ||
もう二千年も前から | ||
パリはサンルイ島に恋い焦がれているんだよ | ||
10 | ||
Quand elle lui sourit | Quando lei gli sorride | |
Il met son habit bleu | Lui indossa il abito blu | |
Hum Hum | Hum Hum | |
Quand il pleut sur Paris | Quando piove su Parigi | |
C'est qu'il est malheureux | E perche lui è triste | |
サンルイ島がパリに微笑めば | ||
パリは青空を装う | ||
でも 雨が降るってことは | ||
パリの空が悲しんでいるということさ | ||
11 | ||
Quand il est trop jaloux | Quando è troppo geloso | |
De ses millions d'amants | Dei suoi milioni di innamorati | |
Hum Hum | Hum Hum | |
Il fait gronder sur nous | Lui si scatena di noi | |
Son tonnerr'éclatant | Con suo tuono ruggente | |
時には パリにいるおびただしい恋人たちに | ||
あまりに嫉妬してしまう | ||
そんな時は 我々の上に | ||
ものすごい雷鳴を轟かせるんだ | ||
12 | ||
Mais le ciel de Paris | Ma il cielo di Parigi | |
N'est pas longtemps cruel | Non è crudele a lungo | |
Hum Hum | Hum Hum | |
Pour se faire pardonner | Per chiedere il perdono | |
Il offre un arc en ciel | Lui offre un'arcobaleno | |
でもね パリの空は | ||
いつまでも意地悪ってわけじゃない | ||
その後 お詫びのしるしとして | ||
お空に虹を架けてくれるもの |
詩の翻訳って何なのだろう?
ふと考えた。僕は、こうしてフランス語をイタリア語に直したりしているけれど、どうして一番得意なドイツ語に直そうと思わないんだろうか?と。やっぱりね、ドイツ語ってダサいんだよ。だから、もともとドイツ語のヘッセやゲーテなどの詩はいいけど、小粋なフランス語の詩を、わざわざ野暮ったいドイツ語に直す必然性を感じないよな。
それに、ドイツ語は、自分としたら結構日本語感覚でしゃべれる得意な言語なので、今更勉強することにあまり新鮮味を感じないというのもある。まあ、ドイツ語を専門にしていたり、もっと深く研究したい欲求が出てくればやるのだろうが、今のところワーグナーの楽劇のテキストが分かるくらいで満足しているからね。
それよりも、自分で詩を勝手に訳しておいて言うのもなんだが、詩を訳すのって、そもそも意味があるのだろうか?フランス語をイタリア語に訳すのは、ほとんど同じオリジンの単語を並べればいいと言ったが、それをしたところで、脚韻などの“詩としての味わい”は当然ながら失われてしまうんだ。
たとえば、Sous le ciel de ParisのパリーのイにElle est née d'aujourd'huii オージュールドウィーのイが対応していたり、S'envole
une chansonのシャンソンのソンにDans le cœur d'un garçonのギャルソンのソンが対応している。こうした“響きの面白さ”は、もうイタリア語訳にはない。この節の全ての文章が6シラブルであることから生まれている独特のリズム感もない。
詩は小説とは違って、意味内容よりも韻律のリズム感や語感が醸し出す雰囲気そのものの方が重要だったりするから、これでは訳したところでナンセンスではないか。では訳詩というものはまったく無意味なのか?うーん、難しい問題だが、一方で、良い詩は翻訳してでも読みたい、という気持ちにも嘘はない。
この詩の中にずっと通奏低音のように流れている、古都パリの悠然としたたたずまいと、そこから日々新しく生まれ出る若きエネルギーに対する愛。それが“うた”や音楽と結びつき、立ち登ってくる文化の香り。
かつて自らの手で勝ち取った自由を謳歌する街、その自由は、浮浪者や乞食、あるいは売れない画家や古本屋である自由をも含むし、この街はどんな人でも受け容れるふところの広さを持っている。こんなパリを愛する歌が、僕のように同じようにパリを愛する者達の心を捉えて放さない。だから、この曲は、言語の壁を越えて世界中に愛されているのだ。
ああ、パリに行きたくなってきた。いいなあ、竹下さんはパリに帰れて・・・・。