声の出ない週末

三澤洋史 

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声の出ない週末
 考えてみると、京都から帰ってきてからずっと、体調が万全とはいえなかった。貴船神社の水を飲んだせいかな?時々思い出したように咳が出て、酒がいつものようにおいしくはない。でも、それ以上悪くなったりしてないので、通常通り生活し、時々はプールにも行った。ただ、プールに行った後、体がいつもよりずっと冷えたのを感じた。それは、例年よりずっと寒い11月のせいだと思っていた。
 いっそのこと熱でも出てくれれば、大慌てで医者に行くとかしたのに(それはそれで困るのだが)、とにかく忙しかったし、そのままで来る日も来る日も「明日は良くなるかな?」と意味のない希望を持って毎日を過ごしていた。

 声も、ずっと本調子ではなかった。ポジションが下に落ちていて、変にバリッと鳴ってしまい、柔らかいピアノが出にくかった。僕は、合唱の練習の時には、自分で歌いながら指導するので、声楽家と同じように声を使う。声楽家のように美しい声ではないけれど、発声のポジションや呼吸の仕方などを具体的に教えながら練習を進めていくので、自分の声の状態は重要だ。
 そうこうしている内に、東響コーラスの練習で、僕のサジェスチョンでみんなが即座に変わるので嬉しくなって、ちょっと無理をして声を出していたら、次の日、声が全く出なくなってしまった。それに、やっぱりこれは風邪なのかな、と今頃になって呑気にも思うようになって風邪薬を飲み始めた。

 25日土曜日、新国立劇場での「椿姫」公演では、僕のしゃべる声があまりに変なので指揮者のフリッツァに笑われた。公演が終わると、僕は群馬県高崎市にある新町歌劇団の練習に行った。そこで、ほとんど声が出ない状態で練習をつけた。みんないたわってくれたが、曲のニュアンスを伝えるのに、何もしゃべらないわけにはいかない。練習が終わって家に帰って、姉の出してくれる夕食を食べながら、はじめて、明日の関口教会のことに考えが及んだ。

 次の日の26日日曜日は、本来ならば、早朝から出掛け、東京カテドラル関口教会の10時のミサに出席して、それから聖歌隊の練習をつけることになっていた。ミサの前には、来週の待降節から始める使徒信条(信仰宣言)の歌唱練習を、一般会衆の前で指導することになっている。
(以下、カトリック信者でない人は読み飛ばして下さい)

これまで、我が国では、信仰宣言を歌唱する習慣がなかったが、実は以前から、バチカンでは信仰宣言と主の祈りの二つは歌唱されることが望ましいとされていたのだ。
信仰宣言に関しては、高田三郎氏の曲が、典礼聖歌集の中にすでに存在しているが(251番&453番)、言葉が多いこともあって、これまで一般的にはなかなか普及しなかったというのが現状だ。
  その一方で、現在、日本のカトリック教会の中枢では、ミサの言葉を全て現代の口語に直す運動が進められていて、それに伴って、バチカンと日本のカトリック教会の間の様々な齟齬を修正しようとしている。
そのひとつに信仰宣言の歌唱化もあるのだ。では、高田氏の曲をそのまま使えばよさそうなものだが、残念ながらそうはいかない。その間に、歌唱されてはいなかったけれど、口語化は進んでいたのである。
従来の信仰宣言は、ニケア・コンスタンチノープル信条という、昔からミサ曲で演奏されているような長い正式なものと、それを簡略化した使徒信条と呼ばれるものになってミサの中で唱えられるようになったが、それにマッチした新しい曲は存在していなかったのである。
  それで、最近になってから中央協議会から、新しいメロディーが小冊子で売り出され、伴奏譜はネット上で公開された。それを、我が関口教会でも、教会暦で年度の変わる来週の待降節第一週から行おうとしているのである。

余談になるが、バチカンと日本のカトリック教会との齟齬というのは、次に例を挙げるが、こんな細かいことにまで及んでいる。
たとえばミサの始まりに、司祭は、
「主は皆さんとともに」と言い、信徒は、
「また司祭とともに」
と唱えるが、これは本当は正しくない。何故なら、原語のラテン語ではこうだから。
Dominus vobiscum.(主は皆さんとともに)
Et cum spiritu tuo.(そしてあなたの霊とともに)
第2バチカン公会議の後、我が国では、このspiritoをどう訳すか協議した結果、霊や魂という言葉は、誤解を招く原因になるという理由から、意図的に削除されたと聞く。
つまり、ミサとは聖堂に集まった司祭を含む信徒同士の霊の交わりであり、そこにさらに聖霊が交わって、聖変化という奇跡を毎回体験し、キリストの最後の晩餐を今この時に時空を越えて体験する、霊的体験の機会なのである。だから本来、spiritoという言葉を削除してはいけないわけだ。
また、この「司祭とともに」もそうだけれど、たとえば福音書朗読の前に会衆が唱える、
「主に栄光」
や、朗読後の、
「キリストに賛美」
は、原語の直訳ではこうだ。
Gloria tibi, Domine.(主よ、あなたに栄光あれ)
Laus tibi,Christe.(キリストよ、あなたに賛美あれ)
この違いが分かるだろうか?つまり、日本語の場合、一般的に二人称があまり普及していないのだ。僕たちは相手に対して、なかなか「あなた」とか「君」とか言わずに、名前で呼んでしまうだろう。特に目上の人に対しては「あなた」と呼ぶこともほとんどないだろう。ところが、この名前による呼び方は、三人称的な距離感を作り出してしまう。つまり、二人称の持つ“相手に直接向かい合っている”というニュアンスが全く失われてしまうわけだ。このへんが日本文化の特徴なのだろうな。
「キリストに賛美」と唱えた場合、キリストがあなたの目の前にいるというイメージを持ちにくく、なにかよそよそしい他人事のような印象になってしまうのではないだろうか。
このような違いは、単にニュアンスや印象ということだけにとどまらず、神と我々人間との関わり方の根幹にも関わるものなので、今、こうして協議されているという話である。
 さて、話を元に戻そう。とにかくこんな声では、大聖堂の会衆の前では、とても使徒信条練習になどならないし、第一皆さんに失礼だ。それで、僕のアシスタントをしてくれているIさんにお願いして、その練習と、ミサ後の聖歌隊の練習もやってもらうことにした。
 そして、僕の方は、関口教会に行くのも断念して、もう少し群馬の実家で寝坊することにした。体も疲れているから、ここであまり無理しない方がいいと思った。

 26日日曜日は、仕事としては、午後から「薔薇の騎士」のオケ付き舞台稽古。なので、思いがけなく午前中が空いた。それだけでもかなり精神的に楽になった。それで、僕はゆったりと起きて、姉の用意していた朝食を食べた。
 実は、11月26日は親父の命日だ。昨晩仏壇にお線香を上げたけれど、よく考えてみると、早朝そそくさと家を出ないで良かった。それで親父のことをいろいろ姉と話し、それからゆっくり仏壇に向かい線香を上げながら親父に心の中で話しかけた。

 その時、ふと思った。そうかあ、午後2時までに新国立劇場に入ればいいので、どうせだからお袋の所に寄ってから行こうか・・・と。昨晩までは、どうしても関口教会に行かなければと決めていたので、発想すら浮かばなかったが、これもなにかのお恵みか。
 姉に車で送っていってもらおうと思ったけれど、姉は、日曜日だけれど9時半から仕事だというので、僕は8時半過ぎに家を出ることにした。これでも充分早いように見えるが、関口教会に行くとなったら、10時のミサのための聖歌隊の練習が9時20分からあるので、6時過ぎに家を出なければならないから、それから比べたら夢のようにゆったりだ。

 家を出る時、僕は荷物の他に、マッチと新聞紙とお線香を一束持った。自宅から新町駅までの間に親父の墓がある。そこでお線香をあげてお祈りをした。しばらく黙想した後、口をついて出た言葉はこうであった。
「ありがとう、ありがとう、とうちゃん、ありがとう、僕を育ててくれてありがとう!僕を一人前にしてくれてありがとう!」
そしたら、親父のお墓なのに、
「かあちゃん、ありがとう、僕のことを可愛がってくれてありがとう!」
それから、
「おばあさん、ありがとう、僕のこと可愛がり、いろいろ心配してくれてありがとう!」
僕は、祖母にもとっても可愛がられたのだ。それから、
「おじいさん、ありがとう!」
あんまり可愛がられた覚えはないけれど、でも僕にはいつもやさしかった。

 それから新町駅に行き、タクシーに乗って、お袋のいる介護付き施設に行った。お袋は元気だった。でも、僕がしばらく行けなかったのに、以前のように、
「なかなか来なかったね!」
とはとがめず、
「どうしたん?今日は?」
と穏やかすぎるくらい。うーん・・・とがめられていた時は、それはそれで辛かったけれど、こう穏やかに言われるとな、なんか気が抜けちゃう。認知症が、穏やかにだが確実に進行している。
もっとガクッときたことがある。
「今日はね、親父の命日なんだよ」
と言っても、反応が薄かったのだ。
「それでね、お墓に行ってお線香あげてお話ししてきた」
と言っても、
「ふうん、そうかい」
と穏やかな表情を崩さない。それで別の話題に移っていった。とはいってもねえ、親父のこと忘れたんかい?とはあえて聞けないしね。

 お嫁に来る前の少女時代のことをひっきりなしに話す。きっと、お袋にとっては、この時代が人生で一番しあわせだったのかな。
「ほら、お前も知ってるだろう。あの人だよ」
知らねえよ。お袋のお嫁に来る前の人なんか知ってるわけないだろう。
 まあ、無理もない。お見合いで、会ったこともない人と一緒にさせられ、お嫁に来たのは分かるよ。それに舅や小姑がいていろいろ居づらかったとも昔よく聞かされた。確かに、親父とは好きでどうしても一緒になりたいといって、なったわけではないかも知れない。でもさあ、僕や二人の姉たちと過ごした一家団欒の楽しい日々があったじゃないの。お袋だって、一家の中で輝いていたように見えたんだけどなあ。
 親父は、そんな僕たち家族を支えるために一生懸命に働いて、お袋がこの施設に入る時に確認したら、きちんと貯金を残していて、そのお金でこの施設に入っている。その資金がなくなったら僕のお金から払おうと覚悟していたけれど、貯金がしっかりあるので驚いた。まだしばらくは大丈夫。
 お袋が倒れる前に言っていたけれど、親父が、自分がもう長くないことを悟った時、お袋に向かって、
「貯金があるから、俺がどうなっても、お前は誰の世話にならなくてもしばらく生きていけるからな」
と言っていたそうな。そんな親父を忘れないでよ。息子としてお願いだよ。

 それでもね、別れる時にはちょっと淋しそうだった。
「じゃあまた来るからね」
と言うと、穏やかに笑った。しばらく歩いてから振り返ってみると、お袋の背中は丸まっていて、ホールのテーブルのところで車椅子に乗ったままポツンとしていた。困ったもんだ。妙に穏やかでも淋しいものがあるけれど、すがりつかれて、
「行かないで!」
とか言われるよりはいいよな。親父のことも、
「先に逝かれて、淋しくて淋しくてたまんない」
と言われたら、本当にどうしていいか分からないものね。それよりはマシか。

 群馬藤岡駅から八高線に乗り、山里の中をのんびりと行く。低い山々が、茶色と濃い緑と黄色の混じり合った秋色のセーターのようにこんもりとしている。その下を農夫が働いている。あちらこちらで焚き火をしていて、煙が上がっている。ほう、いま時、街ではこんなことしているとすぐ苦情があるのに、のどかだなあ。空は妙に晴天。僕は珍しく、何をするわけでもなく、ボーッと単線のジーゼルカーの乗客に溶け込んでいる。

 小川町で東武線に乗り換え、いつもの志木駅や朝霞台駅を通り過ぎて池袋に着いた。いつのまにか大都会に戻ってきてしまった。ここではブラームスの第3交響曲の第3楽章みたいなセンチメンタルな風情に浸っている場合じゃないの。自分を鼓舞しなければ。
 ということで、初台のオペラシティの地下にあるテキサスに珍しく行き、サーロイン・ステーキを食べた。しかもニンニク・チップや生のおろしニンニクを死ぬほどかけて。それから劇場入りした。  


「薔薇の騎士」の最終景
 「薔薇の騎士」のオケ付き舞台稽古の最終景。元帥夫人のリカルダ・メルベート、ゾフィーのゴルダ・シュルツ、オクタヴィアンのステファニー・アタナソフの3人が絶妙な3重唱を繰り広げている。この女声の高音の痺れるようなサウンドは、リヒャルト・シュトラウスの独壇場だ。こんな美しい音楽を作れる者は、世界でシュトラウスしかいない。
 そして元帥夫人が去り、ゾフィーとオクタヴィアンの2重唱になる。この2重唱のメロディーは、テンポも調性も違っているけれど、第2幕冒頭に現れるファーニナルのモチーフの変形したものだとシルマーが僕に教えてくれた。気が付かなかったよ。
 彼等が静かに立ち去ると、舞台には誰もいなくなる。これで幕か、と思いきや、音楽が妙に快活になって、子どもの召使いがチョコチョコと忘れ物を取りに来る。そして、煙に巻かれた聴衆をあざ笑うかのように一気に幕。
うわあ、見事!シュトラウスって本当に天才。



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