原田茂生先生の訃報
僕の声楽の恩師であるバリトン歌手の原田茂生(はらだ しげお)先生の訃報が飛び込んできた。12月12日火曜日に亡くなり、葬儀は近親者で済ませてしまったという。何か出来ることをしたかったが、知らせを受け取った時にはなにもかも終わった後だったので残念。
享年85歳。3月くらいに「お別れの会」をするということだ。
僕は、群馬で師事していた先生が芸大で原田先生と同期だということで紹介してもらい、高校三年生から西荻窪にある原田先生の自宅レッスンに通うようになった。「オペラ座のお仕事」にも書いたけれど、僕がワーグナーに傾倒したのは原田先生のお陰だ。
先生は、京都大学工学部を卒業後、芸大に入ったインテリで、オーディオ・マニアでもあり、ワグネリアンでもあり、フィッシャー=ディースカウ著「シューベルトの歌曲をたどって」(白水社)の翻訳者でもあり、レコード芸術のCD批評をしていた人だ。
本業の声楽家としては、ドイツ歌曲の我が国の権威。今でも先生のシューベルト、シューマン、ブラームス及びヴォルフのリサイタルでの歌唱は耳に残っている。特にブラームスの「五月の夜」が好きで、Und die einsame Träneという箇所を、長いブレスで美しいフレーズを描いて歌っていくのを、惚れ惚れと聴いていたものだった。先生からフレーズで音楽を形成していくことを習ったといってもいい。
シューベルトの「冬の旅」の「菩提樹」のレッスンでは、最後の方でDu fändest Ruhe dort!
(お前はそこに憩いを見い出したであろうに)というフレーズをフォルテで歌ってから、もう一度ピアノで繰り返すが、そのピアノの時に、
「このfändestの瞬間だけは支えを取っていいんじゃ。そしてDeckung(上あごをかぶせるようにして歌うこと)もあえてしないで、むしろ顔を上に向けて響きを逃がすように、ほら、こうやるんじゃ」
と、声の使い方まで丁寧に教えてくれた。
原田先生のドイツ歌曲のレッスンは、田舎者の僕にとっては目からうろこの連続であった。僕が現在、合唱指揮者としてドイツ語合唱曲の指導を、単語のニュアンスと立体的表現に至るまできめ細かく出来るとしたら、全て原田先生のお陰だ。
あの頃、僕は原田先生の全てを真似しようとしていた。発声のテクニックとしては、先生にはKnödel(だんご)と言われる掘った声の癖がややあったが、それも何の疑問もなく真似たし(後で直すのに苦労した)、ちょっと猫背になってガニ股で歩く癖まで真似た。
とにかく原田先生にあこがれていて、原田先生のようになりたかったのだ。本当は、先生のいる芸大声楽科に入りたかったが、それも叶わず、国立音大声楽科に入って中村健先生に師事するようになっても、原田先生の自宅レッスンに通うことは続けていた。中村先生もそれを知っていたが、見過ごしてくれていた。そんな寛大な中村先生も大好きだけれど・・・。
とにかく、僕にとってひとつの時代が終わった。
原田先生、ありがとうございました!
先生から教わったことを胸に秘めながら、これからも生きていきます。
どうか安らかに。
稀有なる名演、マイスター君のマーラー
コルネリウス・マイスター君とはdu(君)で呼び合っている。僕は彼のことを大好きだし、彼も僕のことを信頼して任せてくれる。そんな彼の指揮するマーラー交響曲第3番は、期待にたがわぬ素晴らしい仕上がりを見せた。特に4楽章から6楽章までの流れが良く、マーラーがこの曲を書いたモチベーションである彼の世界観に迫るものを感じた。
マーラーは、一度書いた各楽章の表題を、後に自ら消したが、やはり曲はその表題に従って書かれている。勿論、この表題に関して、ここの部分は具体的に何を表現しているとか交響詩的に詮索するのは野暮というもので、そこまで標題音楽ではない。音楽が一度始まってしまうと、作曲者は音楽的要求に従って心の赴くままに書いてあるから、その意味では絶対音楽的要素で書かれているといえよう。
でも、やはり第2楽章は、野に咲く花や様々な植物のひそやかな世界が感じられるし、第3楽章では、森の動物たちがやんちゃな生命を満喫している最中に、遠くから聞こえてくるノスタルジックなポストホルンの響きに、動きを止めてしばし聞き惚れる、といった具体的なイメージを想起する。
牧神が目覚め、夏がやって来るという第一楽章が、自然をイメージさせるとすれば、作者の眼は、進化論的に自然~植物~動物~万物の霊長としての人類に至るわけであるが、だんだん神の世界に近くなるのに、どうして人類は深い苦悩の中にいるのか、という疑問が自ずと湧いてくる。
その第4楽章で、藤村実穂子さんが、
O Mensch!(おお、人間よ!)
と歌い始めた途端、会場全体の空気が変わった。そのアルトの深い響き!神から分かたれ、ポツンと苦悩の中に置き去りにされた孤独な人間存在を代表するような“うた”!
交響曲という器楽のジャンルに、声楽を持ち込んだのは、ベートーヴェンの第九が初めてである。それは本来、ピアノ・ソナタの中で突然ピアニストが歌い出すくらい奇妙なこと。しかしながら、それを奇妙に感じさせないとしたら、人間の声というものをどうしてもここで入れたいという必然性だ。
マーラーは、全ての被造物の中でたったひとつ“存在そのものにおいて苦悩する種”すなわち人類というものをアルト歌手によって表現しようとした。その真実に藤村さんの歌唱は触れているのだ。こんな歌手はなかなかいるものではない。
その藤村さんとは、バイロイト以来仲良くさせてもらっているが、ちょっとしたエピソードを語ろう。本番の日、サントリーホールに行くと、すぐに楽屋エリアで藤村さんに会ったが、彼女はとっても小さい声でしゃべる。それでいて、人に気を遣うことを忘れず、僕と新国立劇場プロデューサーのTさんに向かって、
「ごめんなさいね、今はこれ以上大きな声を出せないんです」
と言う。そういえば、バイロイトでも、とても体調管理に気を遣っていて、僕たちが気軽な気持ちで、
「ねえ、飲みにいかない?」
と誘っても、なかなか一緒に来てくれなかった。
僕は逆に、そのストイックな姿勢と、本番に賭ける真摯な態度にリスペクトを覚えていた。それは単に声を大切にするという物理的なことではないのだ。つまり精神性という意味において、彼女は本番に対して極度に集中し、最良のものを引き出そうとしているのである。
そうした姿勢が、彼女の歌う第4楽章で見事に証明されている。つまり藤村さんは、もはや上手な歌手とかいう次元ではないのだ。変なたとえかも知れないが、本番中の藤村さんを見ていて、僕は“巫女”のようだと思った。
Die Welt ist tief!(世界は深い)
何故、人間だけが、その世界の深淵の中にどっぷり浸かっているのだ?何故、人間だけが、罪の意識に押しつぶされ、絶望と孤独の中に沈んでいるのだ?
そう思って自分の意識も沈んでいると、突然、鐘の高らかな響きと共に、少年合唱のBimm, Bammが始まった。世界が再び一変!人類よりもうひとつステージの上がった天使の世界だ。ここは光明のみが支配する輝ける天界。
その天界から天使たちが人類を見ている。すると、ペトロが罪を犯したといって苦悩している。でも、天界においては、その良心の呵責や苦悩さえ、その重圧を解かれて飛翔していくようだ。何故なら、天使たちの世界では、人類の苦悩よりも神の光と慈愛の方に、よりリアリティがあるから。
天使たちは、ペトロが十戒を破ってしまったという良心の呵責に対して、からかっているわけではないけれど、こんな風に言う。
Hast du denn übertreten die zehen Gebot, | 十戒を破ったのかあ |
So fall auf die Knie und bete zu Gott! | それじゃあ、神様に跪いて祈るんだよ |
Liebe nur Gott in alle Zeit, | どんな時でも、ただ神様を愛するのさ |
So wirst du erlangen die himmlische Freud. | そうすれば、天国的な喜びが得られるんだよ |
(三澤訳) |
第九が始まった
マーラーの第3交響曲の練習中、読響の事務局は落ち着かなかった。来日を予定していた指揮者のエマニュエル・クリヴィヌが、眼の病気でドクターストップがかかり、急遽キャンセルせざるを得ない状況に陥ってしまったからだ。急いで代役の手配をしていたし、仮に代わりのマエストロが決まっても、就労ビザのことだとか、いろいろな手続きが解決しないと、演奏会自体が出来ないのだ。
実は、すでに例年通り80名の新国立劇場合唱団員に発注をかけてしまった後で、クリヴィヌ氏は、「古楽っぽいアプローチをしたいので合唱団員を60名に減らしたい」という意向を示してきた。みんなスケジュールをそのために空けてしまった後なので、20名をキャンセルするわけにいかず、こちらとするといろいろ試行錯誤したあげく、団員達の希望も取り入れながら、ローテーションを組んで各公演に60名ずつエントリーさせることにした。
その矢先のキャンセルだ。しかもほとんどドタキャンである。
「こんなに引っかき回しておきながら・・・それに、キャンセルするならいっそのこともっと早くしてくれたら80人乗れたのに」
とボヤいても後の祭り。オケもいつもより少人数になっている。これで古楽的アプローチが全く出来ない指揮者が代役で来てしまったら、聴衆に「いつもより迫力ないな」と思われてしまうだけだ。さすがの僕もかなり危機感を覚えた。
さいわい、サッシャ・ゲッツェルが代役を引き受けてくれた。でも、ピアノによるマエストロ稽古が12月15日金曜日に予定されていたが、ゲッツェル氏の来日が間に合わず、その日は中止(だから僕は狭山スキー場に行った)。マエストロとご対面出来るのは、公演初日の前日である16日土曜日のオケ合わせであった。
しかし、さすがだね。これだけ急に頼まれたにもかかわらず、ゲッツェル氏は慣れた手つきで第九の練習を進めて行った。しかも、最初のクリヴィヌ氏が意図した古楽っぽいアプローチも、ゲッツェル氏なりに踏襲して、あたかも最初からゲッツェル氏でこのコンセプトが計画されたかと錯覚したほどだ。
たとえば、Ihr stürzt nieder Millionen?の前のヴィオラ以下の弦楽器が奏でる箇所では、完全なノンビブラートを要求し、これがなんとも清冽な響きで心を打つ。合唱団もそれに合わせてビブラートをほとんどかけないで対応する。
僕の方も、直前のマエストロの解釈による路線変更に対応して、オーケストラ練習後、合唱団員達に与えるサジェスチョンで丁寧にフォローした。そして昨日12月17日、池袋の東京芸術劇場において初日を終えました。マエストロは、第4楽章に入ると、それまでの様式感に従った演奏が豹変し、実にエネルギッシュな演奏を繰り広げた。合唱団も必死でついていった。
ふうっ!でも、これはこれで楽しい。この第九も、名演です!
狭山スキー場でトレーニング三昧
狭山スキー場に行ったという話を角皆優人(つのかい まさひと)君にメールしたら、こんな返事が返ってきた。
三澤君は覚えているかなあ?だって。
三澤君、わたしのバレエに音楽を付けてくれるために、狭山まで来てくれたことがあるんだよ。
三澤君は滑らないのに、雪の上まで来てくれて、ずっと観てくれたんだな。
あれは凄く嬉しかった。
ドリルとしてはプルーク姿勢で内足を上げてクロスする練習に飽きたら、パラレルでスキーをクロスする練習も良いです。
スピード次元が高くなり、切り換え時が少し複雑になります。
クロスして滑りターンを終了したら、パラレル状に踏み換えて、切り換え、ターン前半から少しクロスし、後半に向けてクロスを大きくする練習です。
ジャベリンターンという名前でレーサーがたくさんやっているので、YouTubeで Javelin Turnと検索したら、きっといっぱい出てくると思います。
Speed Charger&244