礒山先生の訃報

三澤洋史 

コンガ奏者としてデビュー
 大森いちえいさんがチラシを持ってきた。彼が指揮者として行う「帆船日本丸を愛する男声合唱団・第23回定期演奏会」のチラシだ。一番下を見て驚いた。ゲッ、僕の名前が出てるやんけ。うわっ、恥ずかしい!
 そうなんです。前に一度この「今日この頃」で書いたのだけれど、6月1日になんと僕はコンガ奏者としてデビューするのです!昨年、ラテンロック・バンドのサンタナのライブを聴きに日本武道館まで行って、すっかりハマり、その結果、コンガという楽器に傾倒して楽器を買い、そしてMissa pro Paceというミサ曲を生み出し、それだけでは飽き足らず、演奏会にコンガ奏者として出演することになったのである。


帆船日本丸演奏会


 新国立劇場の楽屋で見ていたら、他の男声団員たちが、
「三澤さん、今度演奏する時は、なんか芸名を考えた方がいいですよ」
というので、そうだなあとも思う。みなさん、僕に会ったら、なんか良い芸名を教えてくれない?
 ちなみに7月29日の新町歌劇団の「ノアの方舟」公演(新町文化センター)でも、指揮しながらコンガを叩く予定。僕ねえ、コンガを叩いていると、お腹にズンズンと響き、精神も体調も良くなってくるんだ。これこそ、原始のパワーというものだ。
 
 スキー・シーズンが終わったら、もうコンガの練習に明け暮れるのだ。ということで、興味のある人はこの演奏会に来て下さい。まだ先の話だけれど・・・・。  

礒山先生の訃報
 音楽学者の礒山雅(いそやま ただし)先生が亡くなった。とても悲しい。バッハの権威者であり、東京バロック・スコラーズ(TBS)でも、講演会を中心に、プログラムの対訳や曲目解説などで大変お世話になった。

 TBSでは、立ち上げ間もない頃から、当団の演奏を気に入っていただいて、特に「マタイ受難曲」の時には、
「もうこれ以上の演奏は出来ないだろう」
と最大限の賛辞をいただいた。
 しかし同時に、折ある毎に、
「何故、オリジナル楽器でやらないんだね?」
と言われ続けて、挙げ句の果てに、当団の演奏スタイルに難を付け始めたので、僕との間で何度かメールによるディスカッションが行われたのもなつかしい。
 礒山先生の気持ちも分かるけれど、僕は僕で、今このオリジナル楽器至上主義の世の中で、あえてモダン楽器で演奏するスタンスを今後生涯に渡ってとり続けていこうという意思を固めているので、どうしても譲るわけにはいかず、とっても困った。
 しかし、だからといって先生との仲がこのまま冷えていくのは、自分としても不本意だったので、折ある毎にアプローチをし、再び講演会をお願いしたりして、演奏美学に関しては互いに距離をおきつつ、なんとか再び仲良くする道を見出して、今日に至っていた。

 昔の話になるが、2003年のバイロイト音楽祭に礒山先生がやって来て、僕は彼を自分のアパートに招待して、日本食を振る舞った。ちょうど何日か経って脂っこい向こうの食事に飽き、日本食に飢えていた頃だったので、先生は僕の作った拙い料理を喜んでむさぼるように食べてくれた。なにかのオーディションの審査員としてご一緒し、審査基準で意気投合して、一気に仲良くなったすぐ後のことである。


礒山先生2003年バイロイト

 写真を見ると、白いご飯に味噌汁、それに冷や奴や、インゲン豆を茹でて醤油と鰹節をかけただけのものとか、梅干しとか海苔の佃煮とか、日本風に味付けした肉の炒め物料理とか、いろいろ料理が並んでいる。きっと僕も、礒山先生が来るというので一生懸命作ったのだろうな。

 礒山先生は、本当はとっても優しい人。ある時、先生が親切に僕に貸してくれたバッハのカンタータのスコアのマヌスクリプト(自筆楽譜)を返しに、孫の杏樹を連れて自転車で、まずお菓子屋レ・アントルメに行ってジャムを買い、それを持って先生の家を訪れた。礒山先生のお宅は僕と同じ国立市内にあり、自転車に乗ったらわずか5分くらい。先生は杏樹を見るなり、目をいっぱいに細めながら杏樹の頭を撫でてくれた。その顔が忘れられない。

 でも先生は、ひとたび音楽に向かうと、歯に衣着せぬ言葉で自分の思ったことをずけずけと遠慮なく言う人。だから敵も少なくなかったろうし、敬遠する人もいた。でも、僕はずっと、そんな正直な礒山先生がとっても好きだった。

 ある東京バロック・スコラーズのレクチャー・コンサートで、スピーチの間に僕はちょっと間違ったことを言ってしまった。すると演奏会が終わってから先生にすごく怒られた。
「公の場でしゃべる時は、どんな小さな事でも決して嘘を言ってはいけません」
それがレクチャーをする者の良心だと先生は言いたかったのだ。
 実は、その情報の出所はネット上のWikipediaであった。これは礒山先生には言っていない。もし言ったら、どんな罵詈雑言を浴びせられるか分かったものではないから。本当は、きちんと調べようと思ったのだ。しかし、そのピンポイントの情報にヒットする本は家にはなかったし、大学に通っていた時は図書館があったからついでに調べられたけれど(僕は本来、図書館大好き人間なのだが)、今は図書館に行くのもおっくうで、それでついネットに頼ってしまった。
 僕が探していた情報にはネットで簡単に辿り着いた。便利な世の中である。しかしながら、Wikipediaに記載されていた情報は、右とも左ともとれる曖昧な書き方をしてあった。それで僕は、まんまと事実と正反対に受け取ってしまったというわけだ。それでも、普通の人には分からなかっただろうし、分かったところで天地を左右するような問題でもないと僕は高をくくっていたと思う。
 そんな安易な僕の横っ面を張り飛ばすような勢いで礒山先生は僕を怒った。僕は怒られながら、むしろそんな細かいことまで熟知している先生の知識に驚嘆していたし、先生が普段からどれだけ誠意を持って、きちんと事に当たっているか知って背筋を正した。
 そして、大事なことはもう玉石混淆のWikipediaなどに頼ってはいけないと思った(おいおい、反省するのはそっちか?)・・・いやいや、人の前で話すならば、どんな労力を払ってでも、きちんと出所がはっきりしている情報のみを使わなければいけないと肝に銘じた。そういうことを教えてくれた礒山先生に、今あらためてとても感謝している。

 礒山先生は、東京に大雪が降った時に、転んで意識不明の状態に陥り、そのまま意識が戻ることなく帰らぬ人になったと聞く。先生のブログの最後に、先生の訃報と葬儀の予定が詳しく書かれていたが、その前の先生自身で書かれたブログは、2月26日のもの。そこに気になる記述がある。

「昨夜ゲームをやって就寝したら、ゲームの先々で蛇がたくさん湧いてくる夢をみました。こういう夢、縁起はどうなんでしょうね。」

 やっぱり、虫の知らせってあるんだ、と思った。なかなか、こういうネガティブなことは、あえて書いたりしないだろうに、書いてくれた正直な先生に感謝。先生は、自分に起こりつつある異変に気付いていたのではないかな。しかも、病気とかによる体の物理的異変からくるものではないから、僕には、この夢はやっぱり霊的な暗示のような気がする。考えすぎかもしれないけれど・・・・。
 それにしても、70歳を過ぎた礒山先生、ゲームやるんだ?と思った。若いね。だから、あんな風にいろんな研究に対する興味を失うことなくアクティブに活動できたんだね。僕も、そんな礒山先生の背中を見ながら走ってきたと思う。

 僕は言わない。
「礒山先生、安らかにお眠り下さい!」
なんて、決して!
 だって先生、嫌でしょう。眠っているわけないでしょう。もしかしたら、こんなこと書いている僕を中空から見ているでしょう。昏睡状態のこの一ヶ月あまりはもしかしたらぼんやりしていたかも知れない。でも、今はきっと解き放たれて、先生の魂は大空に向かって飛翔して、またいろんなものに興味を持ってアクティブに活動するのでしょう!新しい生を、新しい体で生きていくのでしょう!知ってますよ。僕は。
 いつか、僕もそっちに行ったら、またお会いしましょう。その時まで、僕も先生に少なくとも、
「三澤さんのやったことは、まあ、それなりの筋は通したね」
と言われるように、もう少し、こっちでバッハを頑張りますからね。そしたら、僕がバイロイトで振る舞ったように、天国新米の僕に、天上のワインをご馳走して下さいな。

 と、ここまで書いていたけれど・・・やっぱり、生きている内に、
「三澤さんのモダン楽器のバッハは、これはこれで辻褄が合っているんだね」
と、本人の口から言わせたかった。
畜生!悔しい!礒山先生、なんでこんな早く死んじゃったの!

巡り逢う才能~音楽家たちの1853年
 以前、ブラームスとシューマン及びクララとの関係を調べていた時、あるいはワーグナーのドレスデン革命への荷担と逃亡生活及び「ニーベルングの指環」創作のことを調べている時、やけに1853年という年が出てくるなと思っていた。
 新国立劇場の「ホフマン物語」立ち稽古の休み時間、隣のオペラシティ2階にある「くまざわ書店」に立ち寄って、いろんな本をペラペラめくったりしていたら、ふと目に入った本がある。ヒュー・マクドナルド著 森内薫訳「巡り逢う才能~音楽家たちの1853年」(春秋社)。そのサブタイトルの1853年という年号に思い当たるものがあり、手に取ってみた。
 しかしながら、文章はやや煩雑で読み易い本とは言い難いし、三千円と高いので、買わずに本屋を出た。ところが、家に帰っても気になって気になって仕方がない。そこで次の日真っ先に「くまざわ書店」に寄って他の本には目もくれずに購入した。


巡り逢う才能


 この本が画期的なのは「水平的な伝記」であること。伝記というと、通常なら、たとえばひとりの音楽家の生涯を数十年にわたって描くものだが、これは1853年という年だけに的を絞って、多数の音楽家達が行き交い混じり合い、影響を与え合う様を描いているのである。
 そして(まだ最後まで読んでいないので確実なことは言えないのであるが)、最終的には、1853年という年を、ロマン派の折り返し点である重要な年として位置づけようとしているのではないかと推測される。シューベルトやシューマンなどの初期のロマン派が終わり、ワーグナーに代表される後期ロマン派の胎動がすでに始まっている年。
各章のタイトルと、焦点を合わせる音楽家を並べるだけでも興味があるだろう。
第1章 ブラームスの旅立ち(ブラームス、ヨアヒム他)
第2章 再起をかけて(ベルリオーズ他)
第3章 宮廷楽長フランツ・リスト(ブラームス、リスト他)
第4章 亡命者ワーグナー(ワーグナー、リスト)
第5章 新音楽の胎動(ベルリオーズ)
第6章 大学に憩い、ラインの川辺を歩く(ヨアヒム、ブラームス)
第7章 保養地にて(リスト)
第8章 “楽劇”が動き出す(ワーグナー)
第9章 カールスルーエ音楽祭(リスト)
第10章 「新しい道」(シューマン、ブラームス)
第11章 古巣パリにて(リスト、ワーグナー、ベルリオーズ)
第12章 すれ違い(ベルリオーズ、ヨアヒム、ブラームス)
第13章 三人目のB(ブラームス、ベルリオーズ、リスト)
第14章 冷たいライン川に(シューマン、クララ)
 現在、第8章をほぼ読み終わったところであるが、一番面白かったのは、ワーグナーが、イタリアの港町ジェノヴァから汽船で海辺の小さな街ラ・スペツィアに行き、極度の体調不良の中で突然「ラインの黄金」の変ホ長調の出だしを着想するくだりだ。そしてついに、1853年11月1日火曜日、帰宅したチューリヒで、ワーグナーは机に向かい、「ニーベルングの指環」の最初の音符を書き始めたのである。
 もうすぐ第10章で、若きブラームスがシューマンに逢う。それはつまり、クララとの邂逅をも意味する。とっても楽しみ。それにしてもこの1853年だけ見ても、この頃の音楽家達は、いろんな人達と交流を持ち、パリからチューリヒやワイマールに至るまで、本当に頻繁に旅行をしていた。鉄道が思ったより発達していたというのもあるが、まだまだ馬車の時代である。
 それと、特筆すべき人物はリストである。リストは、ワーグナーの亡命の手助けをしたり、ある時期ブラームスをもワイマールの自分の館に住まわせたり、結構、音楽家達を結びつける触媒のような役割を演じている。1853年にはすでに41歳。超絶技巧による華麗なピアノ演奏で淑女達を失神させていた青年時代はとうに過ぎ去り、ワーグナーに傾倒しながら、指揮者、作曲家としての活動の方に軸足を置いていたのだ。

 すごく俗っぽい意見を言えば、現代に名前の残っていない音楽家はもう少しカットして、全体をすっきりまとめ、1500円くらいで売れば、とっても売れるだろうに・・・とも思うんだが、この人学者だから、やっぱりここまで書きたいんだろうなあ。たとえば、カールスバートのような温泉地にいろんな音楽家がニアミス的に行き来するのが面白いが、きっとマクドナルド氏は、調べている時に楽しくて仕方なかっただろうなあ、と思う。

 みなさんにお薦めしたいが、そんなわけで読みやすい本ではないよ。でも、読むだけの価値は充分あります。



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