読書週間
三澤洋史
身体意識!
親友の角皆優人君のブログ「トナカイの独り言」の最新の記事に強く共感する。
4月2日に書かれたブログ「ゆっくり、それとも速く?」を読んでみて下さい。そこで角皆君は、何でも速く速く最短距離で辿り着こうとする現代文明のあり方に警告を告げていると同時に、僕にとってはとても嬉しいことを書いているのだ。
それは身体意識の話題だ。彼は、身体意識が、ほんの少しスピードが上がっただけで大幅に失われてしまうことが多い、と書いている。それは全くクラシック音楽の歌唱にも共通する。大きい声ばかり出そうとすればするほど、本当にバランスの取れた理想的な歌唱から遠ざかっていくし、歌唱における身体意識から遠のいていく。
それより、僕がこれまでスポーツに対して持っていた嫌悪感のようなものの正体をそこに見たようにも思ったし、今僕が何故こんなにスキーに惹かれているのかという原因にも、いみじくも触れている。昔のスポーツへのアプローチといったら、とにかくがむしゃらにやって、疲れるなんていったら根性が足りないと怒鳴られる、そんな世界だった。そして、今僕が何故スポーツに惹かれるかといったら、体幹を中心とした自分の身体意識と向き合えるからなのだ。
特に角皆君のスキー・レッスンは、丁寧に各自が自分の身体意識に目覚め、それを感じさせながら、ひとつひとつの技術を磨いていく、そんな方法なのである。だから、僕がスポーツを始めるようになった時、もし角皆君がいなかったら、僕はいつかどこかで、
「なんだ、要するに筋肉がないと話にならないのかよ。それからレースに勝たないとスポーツをやる価値がないのかよ。やーめた、やーめた!」
なんていう風に挫折し兼ねなかったかも知れない。
とにかく、しばし角皆君の文章を読んでみてください。
最近、スキーの上達につられて僕の指揮の仕方が変わったとしたら、この身体意識のお陰なのだ。
明星に歌え
4月7日土曜日午後。大野和士指揮の東京都交響楽団(都響)と共に、東京文化会館の地下練習場でマーラー作曲交響曲第3番のオーケストラ合わせ。僕は新国立劇場合唱団の女声メンバーと共に参加。共演する、長谷川久恵さん率いる東京少年少女合唱隊は、いつもながら清冽な歌唱を聴かせてくれる。彼らの音色は、我々大人の女声合唱とも溶け合いやすいので、素晴らしいコラボが実現しそうだ。
そのオケ合わせの後、僕は群馬の新町歌劇団の練習に行く。途中大宮で時間調整。本屋に立ち寄り、ふと目に入った文庫本を手に取る。
「お遍路か・・・」
なんとなく気になって、レジへ持っていった。関口尚著「明星に歌え」(集英社文庫)。たすきには「四国を時計回りに一週。全行程1200キロ。お遍路を追体験!青春群像小説」と書いてある。最後の「青春群像小説」というのが、63歳のおっさんには気になったが、まあとにかく駅中のカフェで珈琲を飲みながら読み始める。それから高崎線で結構集中して読んだ。

明星に歌え
新町歌劇団では「ノアの方舟」の全曲通し稽古。いくつか引っ掛かったが無理矢理通して、その後ダメ出し。
「次の来団から立ち稽古に入るので暗譜しておくように」
と団員に告げた。
新しい台本に、いくつか追加された曲。ノアの物語を過去のものにとどめておかないで、未来へのメッセージを込めて作り直した。未来人ジェラールという役は、新しく新町歌劇団の指導者になったバリトンの猿谷友規君が演じ、ノア役の大森いちえいさん、神の使いの鳩パーチェ役の前川依子さんと共に、過去、現在、未来を貫いて我々の生き方を問う作品に仕上がる予定。サブタイトルは「未来に生きる子どもたちに贈る-地球オペラ-」。
8日日曜日は、午前中教会に行くのはやめて、介護付き施設にいるお袋を訪問することにした。お袋は、言っていることはかなりトンチンカンなのだが、身体的には元気で、そしてとても穏やか。施設にいると何も刺激がないから、しばらくぶりでも新しい話題はひとつもない。だから相変わらず昔話ばかり。
それでも、僕がお袋の顔を見ながら「ふん、ふん」と頷いていると、どんどん楽しそうな顔になってくる。僕が帰ると、また単調で何も起きない日常に戻っていくのだろうから、こんな会話でさえ、一日の内でのクライマックスに違いない。
今日は14時から新国立劇場で「アイーダ」公演なので、僕はひとしきりお袋と話をすると、施設を出て八高線群馬藤岡駅に徒歩で向かい、そこから小川町経由で東武東上線に乗り、都心に帰ってきた。その約2時間の列車の旅で、529ページある決して短くない小説の一番おいしい部分を読んだ。途中何度かウルッと来た。
最後の40ページあまりは、夜、ひとりで芋焼酎のソーダ割りを傾けながらほろ酔い気分で読み終えた。家族は寝静まっていた。孤独の中でしあわせ感が胸一杯に広がっていた。
大ベストセラーとなるような内容の本ではない。文章も、とりたてて独創的というわけではない。しかしながら、今の僕の心境にはぴったりの本。これから自分が、再び新しい自分の道を見出し、進んでいく前に、ちょっと自分を振り返るために必要な本となった。
青春群像小説という言葉が気になるとさっき言ったが、若者に限らず、自分を変えていこうとする者は、いくつになっても青春を生きている。だから読み始めたら、主人公たちが若者であってもちっとも構わなかった。
お遍路さんをする人は、みんな何らかの問題を過去に抱えていると言われる。大切な人を失ったり、失恋したり。もちろん、もっとお気楽に単なる好奇心から参加する人もいる。でも、みんなに共通することは、この旅の間に自分の中部に何らかの変化が生まれ、未来に向けて新しい一歩を踏み出すきっかけが与えられることを期待しているのではないかな。
この小説も、そんなシチュエーションの中で、さまざまなトラブルが起こり、リタイヤする人も出る。各自がみんな自己をさらけ出し、そして対立や孤立や和解を繰り返しながら、旅の終わりに辿り着く。
ありがちなおはなしと言われればその通りだ。それぞれ違ったキャラの人達が集まって、いろいろ問題を起こすけれど、最後はみんないいひとになってハッピーエンドでしょうと言われれば、そうとも言えるしそうでないとも言える。
でも、
「最初からネタバレみたいな小説じゃん」
と言われると、ちょっと反抗したくなる。
「違う!」
と言うのではない。逆に、
「それじゃどうしていけない?」
と反論したい。
だって何人かの若者たちが一緒にお遍路さんとして四国を巡るといったら、どう考えたって落とし処は決まっているさ。でもさあ、小説の全てがダン・ブラウンや東野圭吾のようでなくったって別にいいじゃない。その代わり、構成はしっかりしていて、人物の描き方は丁寧。一般的な意味でとても良い小説だ。普通に感動するし、涙を誘う場面もある。それじゃいけない?
読み終わって、お遍路さん一度してみようかな、とチラッと思ったけれど、全長1200キロを徒歩で数十日間かけて、というのは、体力的にはともかくスケジュール的にとても無理だと思った。スキー三昧のスケジュールは空けられるのにね。
瞑想していたら、口の中に金星が飛び込んできたという空海には、激しく興味が湧く!
空海になりたい!
オリジンと崖っぷちの現代文明
聖週間から復活祭の週にかけては、「ダ・ヴィンチ・コード」で有名なダン・ブラウン著(越前敏弥訳)の「オリジン」(角川書店)を読んでいた。相変わらずの宗教ネタで、とても面白く読んだが、まあ、やっぱりテーマの衝撃性も合わせ、トータルでは「ダ・ヴィンチ・コード」にはかなわないかなあと思う。
その一方で、息詰まるような物語の運びや文章力は、よりいっそう洗練されていて、危機一髪の場面など、本を読んでいるということを忘れるくらいリアリティに満ちている。たすきの「一気読み必至」というのは、あながち嘘でもない。

オリジン
一番のクライマックスと思われる場面は、拍子抜けするくらいあっさりしていて、なあんだと思ったものだが、その後の結末にまで至る過程では、まさに背筋が震える思いをした。鍵を握るのは「進化論」と「人工知能」。
ただ、この小説は、恐らく海外ほど我が国ではセンセーショナルなものにはならないだろうな。コンピューター科学者のエドモンド・カーシュの「宗教をも巻き込んだ科学的重大発表」を、日本人がどのように捉えるか、というのが予想できるからだ。
たとえば、進化論かファンダメンタルな宗教的見解~すなわち、生命の起源というものに神が関わっているか否か(特に極端にファンダメンタルな米国人は、創世記に記述されている通り、神が7日間で世界を創造したと本気で信じている)というものの二者択一は、一般の日本人にとっては別にどうでもいいでしょう。
そうすると、カーシュの発表そのものが、日本人の生き方にほとんど影響を与えず、したがってこの小説も、別に日本人の日常生活には大きな意味を成さない。こうした日本人と西洋人との温度差を、僕は「オリジン」ではとても大きいものに感じた。
まあ、「ダ・ヴィンチ・コード」だって、聖杯の正体がマグダラのマリアであろうがなかろうが(あっ、ネタバレしちゃった!)、キリスト教徒かキリスト教にとても興味を持っている人以外には関係ない話題だ。
一方、僕のような宗教オタクにとっては、作者の本当に言いたかったことが、読み終わってからジワジワと伝わってきて、読後一週間近く経つ僕の中で、どんどんシリアスなメッセージとしてふくらんできている。
電車に乗って見渡しても、ほとんどの人がスマートフォンの小さい画面を見ている現代、我々の文化や経済がコンピューター文化に巻き込まれているのは見逃せない事実だ。プチ・ネタバレになるけれど、それが人類という種の進化や存亡に関係してくるという見解も、決してオーバーなものではないかも知れないと思うようになってきた。
人工知能の出現を待つまでもなく、商業的な一面だけとっても、我々の市場において、本屋やCD屋など一般的な店舗が軒並み経営不振に落ち込み、やがて消滅の危機にさらされる。
一方、これまでその消費文化を支えてきた僕たち音楽家の立場からすると、Petrucciがあれば楽譜を買わなくても済み、Youtubeがあれば、CDもDVDも要らない。つまり、タダで学習でき、i-Padなどを使えばコンサートまでタダで準備できるのだ。
しかしながら、過去の遺産はそれでいい。しかし、これから産み出す全ての創造物にかかるコストに人々が投資しない社会は、僕たちから創造性を奪い、未来への可能性を自ら断つことになる。人々が、その場の経済性のみを考えて行動している間に、もしかしたら人類の進化そのものが徐々に内部から蝕まれているのかも知れない。
そこに人工知能が出現して、我々人類はさらなる危機に自らを追い込んでいく。これまで人間がやっていた様々なこと-そこには単純作業や単純計算ではなく、判断や情緒的決断をも含む-を人工知能が行うようになると、本来それを支配していたはずの我々人間が、逆に人工知能に支配されるようになる。少なくともその職場を奪われる。すると、人工知能ほどお利口でもなく、適切な判断も出来ない我々凡人の居場所はあるのだろうか?むしろ我々が人工知能に見棄てられるような世の中が来るのではないか?
それと間違いなく言えることは、そんな危機があると誰がどれだけ叫ぼうとも、この進歩はもう誰にも止められないこと。i-Phoneひとつとっても、もうバージョンアップ止めなさいよと言っても無駄でしょう。だから100メートル先に滝があると知っていても、落ちるまで流れていくしかないのだ。
そういった一連のことを考えていてハッと気が付いた。この「オリジン」という小説の特異性は、これまでの、どちらかというと過去を振り返る傾向のあるテーマとは一線を画していて、未来への警告を告げる書なのだ。面白いことに、読み終わった直後よりも、その後の余韻がとても強く・・・というよりも・・・余韻がどんどんクレッシェンドしてくる本だ。
こんな本は初めてかも知れない!
それにしても、崖っぷちの現代文明よ!