大野和士のマーラー

三澤洋史 

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大野和士のマーラー
 やっぱり、マーラーは第3交響曲が一番好き!4月9日月曜日東京文化会館。4月10日火曜日サントリー・ホール。大野和士指揮、東京都交響楽団定期演奏会。新国立劇場オペラ部門次期芸術監督に就任予定の大野和士さんとのコラボレーションが、こうやって来シーズンを待たずして始まっている。メゾソプラノはリリ・パーシキヴィ。合唱は、長谷川久恵さん率いる東京少年少女合唱隊と、我らが新国立劇場合唱団。

 大野さんは、僕よりはいくつか若いが、そういうことを越えて僕は昔から彼を指揮者として尊敬してきたし、結構気が合って仲が良い。だから、彼が新国立劇場芸術監督になってくれるのはとても嬉しい。
 今回も、彼は僕のことを信頼してくれて、僕のアイデアも随所に取り入れてくれたりして、とても気持ち良く仕事が出来た。それに演奏会自体の仕上がりも素晴らしいものになったので、ますます嬉しい。

 第1楽章は「牧神(パン)が目覚める」とか「夏が行進してくる(バッカスの行進)」とかいう表題がついているけれど、僕は全くそうは感じないな。むしろ序奏のところなどは、とっても悲劇的な感じがする。第4楽章で「世界の苦悩は深い」と言っているような人類の罪と心の闇に触れているような気がする。
 「野原の花々が私に語ること」という表題の第2楽章では、本当に花の精が見えるようだったし、「森の動物たちが私に語ること」という第3楽章では、本当に動物たちのやんちゃな動きと匂いまでが感じられるほどだった。遠くから聞こえてくるポストホルンの響きには、僕たち人間も含めて全ての被造物が心の奥に持っている「ノスタルジー」というもののエッセンスをそこに見た気がした。母の胎内の暖かさと安堵感という言葉で置き換えてもいいかも知れない。
 ポストホルンの奏者は上手だったな。ただ、持っていたのは普通のトランペットだったね。本当は、フリューゲルホルンでもいいから、もっとまろやかな音が好みなんだけど、それでもトランペットであの柔らかい音を出すのだから、相当な名手だ。

 さて、この交響曲の本当の魅力と独創性は、なんといっても4楽章以後の3つの楽章だ。第4楽章「夜が私に語ること」、第5楽章「天使が私に語ること」、第6楽章「愛が私に語ること」で、マーラーは、人類と神との関係や、神というものの本質を描き切ったと僕は断言する。
 罪の中に深く沈む人類。それを上から見下ろしながら、「心を開いて素直に光を浴びさえすればいいのに」と思う天使たちの視線。そして大いなる終楽章が訪れるのだ。

 僕は、二日目の公演前、前の晩の東京文化会館での演奏に感動した勢いで、女声合唱団のメンバーに向かって、ダメを出す代わりに、
「みんな、自分たちのところを歌い終わったから仕事が終わりではないのだ。神は慈愛そのもの、慈悲そのもの、君たちの歌の後に来る終楽章を聴きながらそう気付いて欲しい。これを味わうことまでが君たちの努めなのだ!」
と熱く語ってしまった。その時はみんな、なんのこっちゃと思っていただろう。しかし、終演後、沢山の団員たちが、
「三澤さんの言葉を思い出しながら、もう溢れる涙を止めることが出来ませんでした」
と僕に言ってきてくれたのは嬉しかった。この感動を受けとめながら、次にこの曲にとり組んだら、彼女たちの天使の歌は、もうひとつ高いステージから奏でられるに違いない。

 実際、これは大野和士渾身のマーラーであった。矢部達哉さん率いる都響のメンバーたちみんな、特に終楽章では熱かった!弦楽器がうねり、管楽器はそれを支えつつ燃えていた。
僕は聴きながら感じていた。
「僕たちみんな愛されているんだ。許されているんだ。心の傷ついている人も、居場所のない人も、その存在を絶対的に受けとめてくれている大きな慈愛そのものの海の中で泳いでいるのだ。『何も心配することはない。何も恐れることもない。生きていていいんだよ。いや、生きていて欲しいんだよ。ほら、背中を押してあげるから、前を向いて進んで行きなさい』と、至高なる存在は、全人類に向かって絶対的愛を放出している!これまでも・・・そしてこれからも・・・永遠に」

ああ、しあわせ!
マーラーって素晴らしい!
音楽って素晴らしい。
人生って素晴らしい!

杏樹のモダンアート
 4歳の孫の杏樹は、最近絵に熱中している。保育園から帰ってくると、ずっとテーブルの上で集中して絵を描いている。最初は、グチャグチャで何が何だか分からなかったものが、しだいに変化し、形を成してきた。いつの間にか、きちんと人間らしくなっている。
 その進歩の過程は一直線上ではなく螺旋状で、髪の毛を全然書かない時期があったり、胴体が鉛筆のように細い時期があったりした。今は何故か片腕だけ書くのがブームのようだ。それまで正面からしか人物を描かなかったけれど、恐らく横から描くことに興味があるとみられる。
 ディズニーのプリンセスが好きで、
「アリエル(人魚姫)書いて!」
と言うので、本を見ながら模写してあげると、それをじっと見て研究している。すると、次に描く人物画の目の中に瞳がついた。眉毛がついたり、まぶたがついたり、睫毛(まつげ)がついたりしてきた。腕が棒だけだったので、その先に手の平や指を書いてあげると、手や指を書くようになり、さらに爪まで掻くようになった。
 この絵(1)は、「眠れる森の美女」でオーロラ姫に呪いをかける邪悪な魔女マレフィセントだそうである。頭上の角が大きく強調されている。(2)は、「リトルマーメイド」のアリエル(右)と、アリエルに人間の足をあげるかわりに声を奪う魔女のアースラーだという。真ん中に「まま」と書いてあるが、最近は「じーじ」とか「あんじゅ」とか、いくつかの言葉を書くようになった。
 これらの絵は、幼児のなぐり書きというよりは、まるでモダン・アートのように思えない?単なるジジ馬鹿かも知れないけれど・・・。


マレフィセント



アリエルとアースラー


 こういうのを見ると、「末は画家か?」などと大人はすぐ思い、「では、絵を習いに行かせなければ」などと考えるけれど、それじゃあつまんないんだよな。子どもは「未熟な大人」などではない。その時その時で完成されているのだ。だから「これを発展させて」などと考えてはいけない。ましてや、正しい人間を描きましょうなどと矯正しようとしてはいけない。好きなように好きなだけ書かせておこう。これこそ独創的な人間を作り出す最良の道!

ケンプの音楽
 角皆君からケンプのCDが送られてきた。こんなことをしてもらうようなことは何もしていないんだが、キャンプが楽しかったと手紙に書いてあった。角皆君同様、ケンプは僕の最も好きなピアニストのひとりであるが、考えてみると、これまでベートーヴェン以外の作曲家の演奏はあまり聴いていないかも知れない。


Kempf-Collection

 今回送られてきたのは、10枚組のモノラル録音を中心とした古い録音のCD集と、1962年のリサイタルの実況録音。曲は、ラモー、クープランといった古い作曲家の小曲にベートーヴェンの22番ヘ長調のソナタとシューベルトのイ短調のソナタなど。
 10枚組のCD集では、なんとリストのピアノ協奏曲なども収められているのでビックリだ。時間がある時にゆっくりひとつずつ聴いているが、今まで気づかなかったことがある。それは、どの曲を聴いても、みんなそれなりの説得力をもって仕上がっていることだ。これは驚くべき事である!
 何故なら、ケンプというと、一般的には「テクニックのないピアニスト」という評判であるからだ。しかしながら、聴いている最中に、
「あーあ、これだから技巧が達していないと悲しいね」
などと思う箇所は皆無である。むしろ、そう思いそうな箇所に限って、
「ほう・・・いつもはみんな弾き飛ばしてしまうから気が付かなかったけれど、ここってこういう味わいがあるんだ」
と気付かせてくれる。
 自転車で通り過ぎてしまったら見えない景色が、ゆったりとお散歩していたら、なんて道ばたには豊かな自然が息づいているのだと気付くようなもの。つまり彼は、自分があえて取り上げた曲に関しては、どんな場合でも、自分が語るべきものをその曲に投影しているのだ。その意味では、彼の演奏に足りないものは何もない。こっちが勝手に期待さえしなければ。

 その意味では、ケンプは徹底した“芸術家”なのだ。僕は、先日の「今日この頃」で紹介した角皆君のブログでの「スロー・モーグル」という言葉を連想し、ひとりで微笑んでしまったけれど、ケンプの演奏にも同じ事を感じる。そうなのだ、ケンプの稀有なるところは、彼のピアニストとしての身体意識が抜群に高いことなのだ。

 ピアニストは、細かいパッセージを何度も何度も練習する。最初は「この音がこの指で」などと考えているけれど、しだいにそれがオートマチックになっていって、無意識の領域にまで落とし込んでくる。アスリートがするように・・・。スポーツ科学的に考えると、こうならないといけない部分もあるが、それをケンプはあえて「意識化」しながら弾いている。これもこれで凄いんだ。

 ポリーニのベートーヴェン初期ソナタなどでは、速いパッセージの部分になると、モードが切り替わるのが分かる。
「はい、ここは技巧の披瀝の部分です」
そして弾き飛ばす。それが僕には気にくわない。でも、ケンプの演奏にはそれがない。すべての瞬間に、音楽的必然性という赤い血が通っている。

 ブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴く。この曲は技巧的にというか体力的にもかなりしんどいので、シューマンの妻クララなども弾くのを避けていたというが、聴き通して驚いた。少しも不満を感じることなく、むしろとても感銘を受けた。もとよりリリックな箇所の表情はケンプの独壇場であるし、第3楽章のような超絶技巧の箇所でも、充分な説得力を見せた。
 リストのピアノ協奏曲も、おっかなびっくり聴いたが、不思議だ!テクニック的脆弱さを感じない。勿論、技巧そのものを堪能するという感じではないから、かえって曲自体の底の浅さを露呈させることになってしまうのが皮肉だ。ショパンの幻想即興曲なんかは、
「うわあ!うまいじゃない」
と思うほどだ。

 ここでテクニック的な弱点をあえて探すとすると、一点だけある。それは指が動かないということではない。そうではなくて、フォルテで弾いた時の音の堅さだ。つまり他のヴィルトゥオーゾ達のようにしなやかではない。
 それは、たとえばジャン・リュック・ブラッサールのモーグルのように、完全に能率良く肉体を使い切った者のみが到達出来る、ある種の優美さにケンプの肉体が到達していないという事で、素人の人には判別がつかないかも知れないレベルでの話だ。

 しかしながら、僕ははたと考え込んでしまった。これでいいんじゃないの。演奏自体に何が足りない?そもそも、僕たちが「足りない」と思う時、何と比べているのだ?そもそも比べる必要があるのだろうか?
 たとえばオリンピックをテレビで観る。世界のトップレベルのアスリートたちのプレイがお茶の間で簡単に観れる。あまりにハイレベルなので、誰が一番なのかよく分からなかったりもするけれど、解説があるのでなるほどなと納得出来る。応援している選手が負けると、「ああ、負けた、銀メダルか、なんだよしっかりしろよ!」
などとつぶやくことも出来る。別に知り合いでもないのに。

 そうした現代的状況に対して、もしケンプの演奏会に僕たちが行ったとしたら、それは、その人にとってはまさに一回こっきりのかけがいのない体験となる。そうした聴衆の期待に、ケンプは常に答えてきた。
 でも、現代に生きる僕たちは、ケンプを聴いた後にすぐアシュケナージやポリーニのCDを聴き比べして、誰が世界で一番うまいか、なんてオリンピックのように上から目線で判断しようとする。そういう視点から見ると、ケンプは“冴えない”かも知れない。
部分的なパッセージの箇所を聴き比べて、
「ほら、この人のここは音の粒が立っているね」
とか言う競争でケンプが勝つ可能性は低いかも知れない。

 でも、見たまえ。ケンプは、どの演奏を聴いても、表現としても成立していて、そしてそれを成し遂げるだけの技巧を持っている。それでいいではないか。アスリートと違うのは、世界一になって金メダルを取る必要はないのだ。
ケンプはケンプとして、ケンプにしか出来ない演奏をすればいいのだ。

そんなことに気付かせてくれた角皆君に感謝!


Kempf-Collection

ミサ曲の練習開始
 4月12日木曜日。久し振りにアカデミカ・コールの練習に行く。曲目は自作のMissa pro Pace(平和のためのミサ曲)。いよいよ自分の書いた曲を、生の男声合唱で聴くことが出来ると思って胸が高鳴った。一方、合唱団員たちは逆に恐縮している。
「いやいや、そんな期待されると・・・まだ下手ですよ・・・もうしわけない」
と早くも謝っているよ。

 練習に入った。大体予想した通りの音がしている。手前味噌で言うと、最近は作曲中にイメージしたサウンドと実際の音との間の差がほとんどなくなった。現在、仕事の合間を縫ってオーケストレーションをしているが、こちらの方も恐らくほとんどギャップがないであろう。
 とすると、結構良いミサ曲に仕上がる予感がする。今週中にもう一回練習がある。そこでまた団員達にイメージを伝えて、ディテールを決めていったら、もう夏の演奏会はバッチリだねえ。もう8月が来るのが楽しみで仕方なくなってきた。勿論、いろいろ越えなければいけないハードルはあるんだけどね。

 Gloriaの冒頭では、
「この曲は、立教大学第2応援歌のSt. Paul's will shine tonightのような音楽をイメージして作りました」
と言ったら、みんな即座に食いついてきて、イメージ通りになってきた。
 途中のQui tollis peccata mundi(世の罪を除きたもう主よ)のところでは、
「この曲は、昔の東京ロマンチカの雰囲気でやってください。つまりラテンのリズムに彩られたムード歌謡です」
と言うと、団員達はゲラゲラ笑った。
 Agnus Deiでは、僕がイメージしていたよりもずっと遅く練習していたので、
「これね、高橋真梨子の『桃色吐息』という感じだからね」
と言ったら、すぐに理解して路線変更して付いてきた。いいねえ、みなさん僕と同じかそれ以上の世代だから、めちゃめちゃ話が通じるんだ。

 まあ、ラテン音楽的なミサ曲だから、真面目なカトリック信者の中には本気で怒る人もいるかも知れないけれど、僕は別にふざけて作ったわけではないからね。終わってから、久し振りに反省会と称する飲み会に参加した。いつもの中華料理屋。
みんな、
「いやあ、難しいけど楽しい曲ですね」
と言ってくれる。

生ビールの後、紹興酒がいつになくおいしかった。

ドイツ人父と息子の2人旅
 ベルリン国立歌劇場合唱団には、愛知県立芸術大学のかつての教え子が夫婦で在籍している。木下基樹君と美穂さんだ。もうドイツに何十年も住んでいる。その木下君がある時ベルリンから電話をかけてきた。
「知り合いのドイツ人が今度日本に旅行に行くのですが、新国立劇場を見たいと言っているんですよ。案内していただけませんか?」
「いいよ」
ということで、僕の直接の知り合いでもないのに二つ返事で引き受けた。そこでメールによるやり取りが始まった。

 木下君の知り合いの名はクリストフ・ルートヴィヒ。めちゃめちゃドイツっぽい名前でしょう。ベルリンに住んでいるのかと思ったら、ドレスデンに住んでいてジーメンス社の下請け会社でエンジニアをやっているという。
 彼には息子がいて、こちらもセバスチャンという典型的ドイツらしい名前。現在ワイマールの音楽大学でコレペティトールの勉強をしており、来年からドレスデンの劇場に戻ってきて働き始めるという。コレペティトールとは、要するにオペラの稽古ピアニストであるが、劇場にコレペティトールとして入るのは、ドイツの場合指揮者となるための最も堅実な道なのだ。かつてはカラヤンもそうだった。
 セバスチャンは、昨年から始まったバイロイト音楽祭の指揮者養成講習会に参加し、クリスチャン・ティーレマンに師事して、その様子がデモ・ビデオとなって出回っている。


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 よくよく話を聞いてみると、クリストフは、この日本旅行の間に、息子のセバスチャンになんとか新国立劇場を見せてあげたいというので、木下君に頼み込んで僕を紹介してもらったという。事前にメールで、
「初めての息子との2人旅。とっても緊張しています」
という、なんとも愛情溢れる父親の心情を告げてきた。

 その2人が、今日すなわち4月16日月曜日に新国立劇場にやって来た。僕が妻や志保とその話をしていたら、そばで聞いていた杏樹がとても反応した。
「え?クリストフが来るの?え?セバスチャンを連れて?」
僕には何のことかさっぱり分からなかったが、志保が大ウケしていた。
 杏樹は今ディズニーのプリンセスに入れ込んでいて、いろんなDVDを観ている。その中で、クリストフというのは「アナと雪の女王」に出てくる主人公のひとり。そしてセバスチャンとは「リトル・マーメイド」でアリエルのお目付役のカニの名前である。
 つまりクリストフがセバスチャンを連れて日本に来るというのは、杏樹の内面では、あり得ないほどの大センセーショナルな事件となっていたのだ。
「あのね、杏樹、クリストフもセバスチャンもドイツ人の普通の人だからね」
「なあんだ!」

 さて、この2人のドイツ人親子だが、僕と12時に新国立劇場正面玄関で待ち合わせした後、まず何をしたと思う?それはね、劇場の楽屋食堂でお昼を食べたいと言い出したのだ。いやいや、せっかくだからもっと良いところに招待するよ、と言っても、どうせだから日本の劇場の食堂Mensaを経験してみたい、ということで、食後の珈琲もついて500円のランチを食べさせた。何故か、とっても満足してくれた。
 それから「フィデリオ」の合唱音楽稽古に案内して、練習を見学させたら、日本人の合唱団がこれほど完璧なドイツ語歌唱が出来るのかと心底驚いていた。僕が、
「何か気になるところがあったら言ってくれ」
と言ったら、
「いや、ドイツの劇場の合唱団よりも明らかに発音が明瞭だ。ドイツ人だってこんなクォリティでは決して仕上がらない。ここのレベルは凄いね」
と親子揃って言っていた。

 彼らは5月1日までの間に、金沢から京都を回り、高野山に行ったりしながら、なんと鹿児島まで足を伸ばすと言っている。
「セバスチャンは、生まれてからまだ火山というものを見ていないのだ。出来れば、鹿児島滞在中に、大規模な爆発が起こってくれないかな」
と父親。
「おいおい、何を言ってるんだ」
と僕。
 セバスチャンはとっても素直な若者。父親の愛情に囲まれてまっすぐ育ったのだろうねえ。いいねえ。こういうの。日本ではとっても珍しいだろうね。

 どうか神様、彼らの日本旅行の道中、ずっと見守って下さい。
そして2人にとってかけがえのない体験となりますように。

クリストフ、セバスチャン!心からお祈りしているよ!



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