クリーヴランド管弦楽団名演の謎

三澤洋史 

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松本の朝
 今、松本にいる。朝ホテルから小学校に向かうバスの中から見える景色に感動した。まだ7時過ぎ。山並みに雲がかかっている。雲は低いところに筋のようになっていて、妙に白い。その筋の間からのぞく濃紺の山肌とのコントラストが絶妙。まさに「絵になる風景」というのはこういうことを言うのだと思った。

 その時、僕は山下康一君のことを思い出した。高崎高校の後輩で、松本市在住の画家だ。山に魅せられ、ずっと松本に住んでいながら、その近辺や白馬の山々などを書いている。水彩画も美しいが、特に墨絵の厳しさをたたえた独特の美は忘れがたい。
 僕は山々を見ながら、自分にもし絵の才能があったら、この景色を墨絵で書いてみたいと思った。輝く雲を白い絵の具で描くのではなく、逆に、雲のところを塗らないで残す。山を濃く塗ることによって、あの輝くような雲の白さを浮きだたせる。
 それと、こうも思った。音楽でも同じだ。なんでもかんでも音で描くという驕り高ぶりを捨てたら、かえって描く物が明確になるのではないかと・・・。かえって薄いところを作ることによって、コントラストが際立つのではないかと。
 さらに、こうも思った。僕たちの生き方も同じだ、と。ちょっかい出すだけが愛ではない。あえてそっとしておくことも愛。それでいて、相手が必要だと思った時に、そっと手を差し出す・・・あえて塗らないでおく墨絵の手法は、いろんなことに応用出来る。
 こんな風に、山を見ているだけで、人生をも教えてくれるよ。なんて素晴らしい!松本の朝の風景!

クリーヴランド管弦楽団名演の謎
 話はずっとさかのぼる。6月7日木曜日サントリーホール。フランツ・ヴェルザー=メスト氏率いるクリーヴランド管弦楽団の第九は、信じられないほどの名演となった。このツアーでヴェルザー=メスト氏は、日本人聴衆の株をかなり上げたのではないかな。
 また、生意気と言われるのを百も承知で、僕はまたまた手前味噌の意見を言う。この第九の圧倒的名演に、我が新国立劇場合唱団も少なからず貢献していたのではないだろうか?

 多くの日本人クラシック・ファンの、これまでのヴェルザー=メスト氏への評価は、きちんと音楽を作るけれど、何かが足りない、というものではなかったか。それが一変して、あれほどの熱を持つことによって、全ての彼の美徳が最大限に生かされたのである。まるでオセロ・ゲームの黒が一変して全て白に反転し、瞬時にして勝利したように・・・。すなわち、冷徹ともいえる美しいアンサンブルを完全に保ち、緻密さを失わないで、同時に熱狂性に溢れた演奏というものを可能にしたのである。
 批判を受けることを承知であえて言おう。第3楽章までの演奏は、考えられないほどのハイレベルでありながら、ある意味、一種の「予定調和」であった。いや、これはこれで充分成立しているものであり、このままで全てを終了しても、何者からのそしりも受ける種類の演奏ではなかった。
 しかしながら、第4楽章の途中でソリストが入り合唱が答えたあたりから、マエストロの動きがはっきり変わった。まずテンポ感が変わった。彼は、通常は、今流れている演奏よりも少し前に指揮をすることで、奏者からフレージングを導き出そうとしている。だから奏者達も、そして僕たち合唱団も、それを見越していて、決して指揮のままにはついていかないのだ。これはプロだけが分かる指揮の読み方の極意である。僕は何年もかけて、このタイミングを合唱団に教え込んでいた。
 ところが、先ほど言った瞬間から、マエストロはそのスタイルを捨てたのだ。そして、その通りについていかないとズレてしまうほどの強引な指揮に変貌したのである。合唱団のみんなも驚いたが、その前にクリーヴランド管弦楽団の奏者達が驚いていたのを僕は見逃さなかった。そして祈った。
「合唱団よ、ついていけ!マエストロに!少なくともオーケストラについていけ!」
いまや彼は、いつものダンディーさをかなぐり捨てて、なりふり構わない状態になっている。僕は正直言って、マエストロ合唱稽古で初めて彼と会った時から、この人は絶対にこうなる人ではないと思っていた。それが、なったのだ!世の中、こういうことってあるんだ、と思った。

 それから先は、もうベートーヴェンの熱狂が彼に憑依したのではないかと思うようなすさまじさで曲が進んでいった。通常のオケならとっくに崩壊しているだろう。ところが天下のクリーヴランド管弦楽団は凄いねえ!
 よく最近のCG映像であるような、谷や洞窟などを超高速で突っ走るジェット機のように、ギリギリ激突や墜落の淵を辿りながら、まんまと最後まで乗り切ったぜ!我らの新国立劇場合唱団も、「おっとっとっと!」といいながら必死で食らいついていった。後奏のプレスティッシモなんて、他のオケでは絶対に弾けないテンポ。でもこんな時にもクリーヴランド管弦楽団ったら、きちんと弾いている。うっそ!信じられない!あり得ない!

 一般に、世の中にはふた通りの指揮者がいると言われる。安易に熱狂的に振る指揮者は緻密さに欠ける。逆に、緻密に音楽を構築する指揮者は熱狂性に欠ける。しかし、緻密に音楽を構成する指揮者が熱狂的になれたら、本当に凄いものが出来るんだね。
 で、僕は密かに思っているのだ。ヴェルザー=メスト氏に熱狂性を与えたのは、もしかしたら新国立劇場合唱団ではなかったかと・・・・だって、合唱団めちゃめちゃ頑張っていたのだから。これまでの全ての第九演奏の中で間違いなく最高のレベルで歌い始めたのだから・・・・。
 ま、違うと思う方は反論してもらって結構。あるいは、ひとりの合唱指揮者のたわごとと思って聞き流してください。親の欲目かも知れないからね。

 もうひとつ、聴きながら僕は全然違うことを思っていた。それはこういうこと。もしヴェルザー=メスト氏がアスリートだったら、そしてこれがたとえばスラロームのような大会であったとしたら、彼は間違いなくバランスを崩してコースアウトしたか転倒したであろう。つまり、彼はその熱狂性にかられることによって、いつもの彼のスタイルから逸脱した。それは、音楽家としては許されることだけれど、アスリートとしては許されないのだ。
 アスリートは、どんな小さな大会でも全力を尽くし、自己ベストをめざす。そのために、いつも自分の体力ギリギリのところでレースに臨んでいる。ところが音楽家は、自分の体力ギリギリではない。極端な話。ピアニストが「エリーゼのために」を弾く時、弾き終わってヘトヘトになったりしない。しかし、ピアニストはそれでも自分の「ピアニズム」を守る。そこに演奏家としてのクォリティの差が生まれる。
 僕が彼から反面教師として学んだことはこうだ。
「あのように熱狂にかられたとしても、僕は自分の指揮イズムを守り切れるだろうか?」
ということである。つまり、それを想定して自分の指揮の技法を見つめ直さなければ、と思ったのだ。
 いやいや、ヴェルザー=メストを責めているのではない。彼自身はあれでよかったし、そのスタイルからの逸脱があの稀有な名演を生んだといえよう。でも、演奏者や合唱団は本当に彼の指揮が分からなくなってあわてたのだ。分かっているのは、彼が尋常でなかったこと。だから必死でついていったのだが、彼自身は、この名演が彼の日常となるまでには自分の体幹に落とし込んでいないのだ。僕の言いたいことって、理解してもらえるかなあ?
 たとえば、アスリートの世界ではどうだろう?かつてのインゲマル・ステンマルクや最近のマルセル・ヒルシャーなどの世界のトップ・アスリートは、その極限のクィリティを日常にまでフィジカルに落とし込んでいる。つまりステンマルクやヒルシャーが、なにか突然興奮して我を忘れ、フォームを崩したら、その途端に転倒してしまうのは必至だ。それだけアスリートは厳しい中にいるので、少しの曖昧さも許されないのである。
 その厳しさから見ると、あの瞬間のヴェルザー=メストは、明らかに指揮の運動としては「いきあたりばったり」の状態に陥った。それでも崩壊しなかったどころか名演になった。音楽家ってまだ甘いなとも思えてしまう一方で、だからこそ、それが音楽の面白さなのか?音楽の不可思議なところなのか?その謎を僕は解き明かしてみたいと思っている今日この頃なのだ。

志木第九の会演奏会無事終了
 6月10日日曜日は、志木市民会館パルシティで定期演奏会。プログラムは、高田三郎作曲、混声合唱組曲「水のいのち」、モーツァルト作曲「リタニア」変ホ長調KV243、それから「フィガロの結婚」ハイライトであった。
 この全く楽器編成もキャラクターも全く違う三曲でプログラムを構成したのには大きなわけがある。それは、プログラムにも書いたし、本番30分前のプレトークでも語った通り、「人間存在」というキーワードに基づいている。

 「水のいのち」では、徹底的に人間の弱さや罪深さを見つめ、その中から高みを焦がれることに自己の存在意義を見つけようとする精神を描こうとした。「リタニア」では、「祈る」ことに焦点をあてた。「祈る」ような人間は弱い人間と思う人がいるかも知れない。でも、人はどうにもならない時、あるいは人事を尽くしきった時、祈ることしかできない自分を知る。逆に言えば、「祈ること」が出来るのは人間だけ。あるいは「祈ること」こそ、人間の特権だとはいえないだろうか?
 最後の「フィガロの結婚」では、登場人物はみんな変な人なのだ。落語の登場人物と同じで、みんな一種の業を背負って生きている。思春期に入って色恋に狂っているケルビーノや、年甲斐もなくフィガロと結婚しようと頑張っているおばさんのマルチェリーナ。あるいは、問題大好き人間、噂大好き人間のドン・バジリオ。そして浮気三昧の伯爵。でも、ここでモーツアルトによって彩られている人間達の、なんと生き生きとした生命力か!

 このオペラの最後には、伯爵が伯爵夫人に謝り、夫人がそれを「許す」。しかしながら、伯爵はまた明日にでも浮気の病を再発させるだろうし、それぞれの人物は、相変わらずそれぞれの業を背負って生きていくのだろう。人間。この「ろくでもない」生き物よ。でも、それでも、我々の人生とは「生きるに値する」ものではないだろうか?

 この「フィガロの結婚」の後、僕の意識は再び「水のいのち」に戻り、

降りしきれ雨よ
すべて 許し合う ものの上に
また 許し合えぬ ものの上に
と思い、それからまた「祈り」に思いが至り、それからまた「人間の業」と、永久にメビウスの輪を辿り続ける。
それでも、僕は信じる。
人生は、生きるに値するもの!

 志木第九の会の演奏会に関わってくれた全ての人達は、僕のこの想いを理解してくれたと信じている。東京ニューシティ管弦楽団も、いつも通り真摯に音楽に向かい合ってくれた。特に今回は、客員コンサート・マスターに平澤仁さんを迎え、オペラ慣れしている彼と共に最高のコラボを成し遂げることが出来た。平澤さん、本当にありがとう!
 ソプラノの岩本麻里さん、アルトの松浦麗さん、テノールの寺田宗永さん、そして大森いちえいさん達は、「リタニア」では、全員新国立劇場合唱団のメンバーらしく、水ももらさない四重唱を聴かせてくれた。また、岩本さんのコロラトゥーラの技法は完璧!
 一方「フィガロの結婚」では、それぞれのキャラクターを色濃く出してくれてありがとう!松浦麗さんは、ケルビーノの役を得意としていて、年増のマルチェリーナに対しては、最初苦手意識を持っていたが、どうしてどうして、こんな音程も良く、しっかりキャラクターを出せるマルチェリーナは珍しいのだよ。老け役も演技力の内。これからは稀有なマルチェリーナをめざして是非全曲に取り組んで欲しい。
 大森さんには、フィガロと伯爵の両方を演じてもらって申し訳なかったが、これも見事に演じ分けてくれた。寺田さんのドン・バジリオも秀逸。

 最後になってしまったが、志木第九の会のメンバーはよく頑張ってくれた。特に「水のいのち」では、僕自身が入り込んでしまったがために、練習中はなんども怒って、相当厳しい練習になってしまったが、本番での集中した感動的演奏には、最大限の感謝とリスペクトを捧げる。やはり高田三郎は偉大な作曲家だと思う。
「リタニア」は、練習を積んだだけあって、とっても落ち着いて出来ました。そして「フィガロの結婚」では、ゲネプロまでちょっと堅かったけれど、本番はみんな吹っ切れて、結構自由な民衆の演技が出来たじゃないの!

 演奏後、松本に来なければならないので、打ち上げにきちんと参加出来なかったのが悔やまれるが、お陰様で1本早いあずさ号に乗れたので、10時前に松本に着いて、翌日11日の7時10分の集合に間に合って、今日3校のスクール・コンサートをこなしてきて、今ホテルの一室でこの原稿を書いています。

 スクール・コンサートのことは来週の原稿に回しますが、松本の小学生達のキラキラした瞳を見たら、前の日の演奏会の疲れなど吹っ飛んでしまって、今僕はとっても元気です!



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© HIROFUMI MISAWA