七夕、ジークフリートな夏のはじまり

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

七夕、ジークフリートな夏のはじまり
 7月7日土曜日。愛知祝祭管弦楽団の練習場に行くと、いつもとなんとなく雰囲気が違う。よく見ると、何人かの女性団員が浴衣を着ているではないか。今晩花火大会でもあるのかなと思ったが、聞いてみるとそうではないという。
 実は、これは僕へのサプライズであった。今日は七夕(たなばた)。祝祭女子達は、みんなで示し合わせて、浴衣を着て練習をしようということになったという。そうか、七夕か。しかしながら、外はあいにくのお天気。西日本では大雨で大変なことになっているが、名古屋はかろうじて雨は降っていない。彦星と織り姫は、愛知県のお空ではなんとか逢えるのかな、という感じ


七夕女子集合

「ええと・・・七夕おめでとう!とか、メリー七夕!とかいう挨拶ってないよね!」
と練習の初めに言ったら、みんなが爆笑した。今日は、歌手を呼ばないでオケだけの練習。次はもう8月に入って主要キャスト達がどんどん入ってくるから、細かい練習の最後のチャンス。
だから、速いパッセージのテンポを倍以上に遅くして、ひとつひとつの音程を直したり揃えさせたり、あるいはホルン・セクションのアンサンブルのバランス調整したりと、初歩的ともいえる練習に終始した。午後には管楽器を帰して、弦楽器だけの分奏。やればやるほど難しい箇所が無数に出てくる。


七夕ヴァイオリン


七夕ヴィオラ

「ジークフリート」は本当に難しい。プロでも難曲中の難曲なのに、アマチュアでよくやるわ。でも、偉いなと思うのは、管楽器などに、しばらく休んだ後の「出オチ」というものがほとんどなくなってきたこと。まあ、出オチした時の僕の怒り方がハンパじゃない、というのもある。
「数え間違いを怒っているんじゃない。曲を知らないのが我慢できないのだ!」
「休みの小節を数えるな!CDを何度でも聴いて曲を覚えろ!そして、その音楽の中にスーッと自分が入ってこれるようになるまで音楽に精通しなさい」
と、僕が口を酸っぱくして言っていることをみんなが守ってきたのだ。
 木管楽器奏者などは、せっかくのソロで臨時記号を間違えでもしたら、僕に何を言われるか分かったものではない。
「はあ?こんなおいしいメロディーが吹けるというのに、読み間違い?嘘でしょう!メロディーを知らないってことだよね」


七夕木管

 ただね、こんな風に罵倒していながら、僕はどうしても怒りっぱなしというのは出来ないんだな。その直後に、必ずジョークを飛ばしてみんなを笑わせてしまう。どうも、僕にとっては、練習そのものがショーをやっているみたいな意識なんだ。怒る瞬間も含めて、自分がエンジョイしていないと嫌なんだ。だから自分も楽しいし、みんなもきっと楽しんでいると思うよ。

 コンサート・マスターのピロシこと高橋広君は、実にイジメ甲斐があってことのほか楽しい。ピロシは、興奮してくるとすぐ腰を浮かすし、自分だけ気分に乗ってちょっとだけ走るし、他のセクションと合わないし、時々彼だけ倍テンポで弾いちゃうし、そんなに大きい音出さなくてもいいっちゅうにゴリゴリとヴァイオリンが壊れそうなほどに弾くのだ。
「おい、コラ!うるせんだよ!」
とか怒鳴られても「てへペロ」なんだよね。
 しかしながら真面目な話、世界に2人といない稀有なるコンサート・マスターです。この愛知祝祭管弦楽団のサウンドが、他では決して聴けないほどエネルギッシュなのはピロシの功績だ。ま、練習中はかなりウザいんだけどね(笑)。
 そのピロシが、最近よく、デイリーヤマザキで売っているホイップクリーム入りアンパンを練習場に持ってきて僕にくれる。練習会場のある大府市のアンパンには「大府」と焼き印が押してある。これがうまい。今日も休み時間中パンを持ってきた。
「三澤先生!あのう、お願いがあります」
「なんだ?」
「あのう・・・ボ、ボクと腕を回してこのパンを食べていただけないでしょうか?」
「はあ?」
 正直キモいなとは思ったんだが、あまりに説得の勢いがもの凄いので根負けしてしまい、気が付いたらこんな写真が出来上がってしまった。この眼力(めぢから)を見てよ!


ふたりのアンパンマン

 という雰囲気で、愛知祝祭管弦楽団は、女子は明るく情熱的で、男子はややムサいが一生懸命で、とにかく僕の「ジークフリート」の夏は、いよいよ佳境に入ってきた。

Zildjianのプライド
 「ノアの方舟」公演ではコンガを叩く。前回の公演では打楽器奏者を雇っていたのだが、大規模な「おにころ」公演が続き、その合間の公演では、資金的にも赤字を出せる余裕がないということもあって、切り詰めるところは切り詰めるのだ・・・とは表向き。またもや、コンガ奏者として出演出来ちゃうんだな、これが。作曲家の特権!
 ところが、過去のスコアを見てみると、シンセ・ドラムで演奏していて、ドラムスの音色をはじめとして、様々な打楽器の音色を使っているんだよね。それに比べて今回はコンガだけ。音色の変化が少ないので、カホンも曲によって使おうかなとも思って練習を始めたのだけれど、やっている内に、やっぱりコンガだけにした。何故なら、その方がトロピカルなテイストで統一出来るからだ。
 しかしながら、先日日本丸の男声合唱団の定期演奏会のために購入したウィンド・チャイムは勿論のこと、あと少なくともシンバルくらいはないと格好が付かないと思った。そこでコンガを叩きながらそのまま手で演奏できるような小ぶりなシンバルをスタンド付きで買った。
 最初はね、ポンポンポン・パシーン!と悦に入って練習していたのだが、やっている内に、どうも音色が気に入らなくなってきた。シンバルの音がチャチいのだ。指揮者というのはややこしい職業でね。いつもオーケストラの練習や本番で何気なく耳に入ってくる音を覚えているので、耳だけは肥えているのだ。そこでネットでいろいろ調べてみた。
 Zildjianジルジャンというトルコのシンバル・メーカーがある。この文字は練習場などで何気なく見ていた。どうもここのシンバルは特別らしい。それにZildjianだけかなり値が張っている。それを見ていたら、なんかムラムラとどうしても欲しくなってきた。早速Amazonのお世話になる。
 家に届いて、すぐさま梱包を解き、スタンドに乗せて最初に叩いた時の感動を何にたとえよう。うわあ、シンバルひとつでこんなに違うんだ!最初に買ったあのペラい響きとは打って変わって、深みがあり複雑な倍音をあたりに響かせる。まるで極上のワインのアロマのようだよ。


Zildjian

 僕が最近、コンガとかにハマっている原因もそうだけれど、譜面に書けない部分に興味があるのだ。つまりは音色。クラシック音楽って、どの楽器もそうだけれど、その他のジャンルの音楽に比べて、使う音色がとても限られている。つまり、その楽器の一番良く響く上澄みの音色しか使わないのだ。
 たとえば、クラシック的にいうと、コンガだったらオープンといわれるポンという音しか使わないだろう。その音が一番響くから。でも、コンガは、むしろ響かない方の音色が多彩で重要なのだ。
 皮の上に置いた手を離さないで鈍い音をさせるクローズ。中指、薬指、小指で弾くように叩くスラップ。掌の付け根と指の先とを交互に響かせるヒール&トゥなどなど・・・。そしてそれらをオープンとのコントラストとして際立たせるのだ。
 クラシック音楽の作曲家は、一般的にこうしたことにあまり関心がないが、ここにひとつの文化があり、名人といわれる人がいて、それぞれ深く追求しているのに興味が湧いているのである。シンバルもそうで、その音色の追求に命を賭けている人がいるのだと、Zildjianを鳴らしてみるとしみじみ思う。それが感動につながるのだ。

 「ノアの方舟」公演では、新町文化ホールにトロピカルなコンガと、Zildjianのシンバルが響き渡りますよ。

ありがとう!サムライ・ジャパン!
 7月2日月曜日午前中に、先週の「今日この頃」原稿を仕上げてコンシェルジュに送った。その原稿には、サムライ・ジャパンのポーランド戦についての批判的な記事を載せていた。ところが、よく考えてみたら、「今日この頃」読者の大半がそれを読むのは、それから一夜明けた3日の午前中以降。ということは・・・つまりその頃には決勝トーナメントの第1戦であるベルギー戦がすでに終わっているのだ!

 おお!ヤバい!もしベルギー戦が日本の圧勝とかに終わった場合、僕は読者に何を言われるか分かったもんじゃないな。彼らは試合後に僕のポーランド戦の記事を読むんだからね。
「は?何を言ってる。パス回しでもなんでもして、決勝トーナメントに出られたからこそ、こうやってベスト8に進めたんじゃねえかよ」
となるのは必至だ。なんか居心地悪いなあ・・・。

 しかしながら、こうも思った。
「それはそれ、これはこれ。自分はスポーツの原則論を述べたのである。その後の試合がどう転ぼうとも、ひとりのサッカーを愛する者として、いつも真っ正面から正々堂々と戦って欲しいという想いを述べたのだから、自分の主張は間違ってはいない」

 こんな風に自問自答をし、「自分で自分の気持ちにブレてどうする?」と思いながら観たベルギー戦であった。その結果、「圧勝して僕自身が非難される」というケースにも陥らなかったけれど、負けたのは素直に悔しいと思った。
 同時に、僕は嬉しかったぜ!今回、日本代表は、自分たちの全てを賭けて素晴らしい戦いぶりを見せてくれた。その一挙一動に僕たちはこんなに感動したではないか!こうでなくっちゃ。日本サッカー!

 ひとつ腑に落ちないことがある。それは、海外の監督やプレスから、本田圭佑選手に対する非難が出ていることだ。つまりこういうこと。アディショナルタイムの間に、本田選手はペナルティ・キックを打ったが、ゴールキーパーのクルトワ選手に取られた。さらに彼はコーナー・キックを打ったが、これもクルトワ選手が見事ゲット。それどころか、それが即ベルギーのカウンター・アタックを誘発し、試合終了ギリギリの失点に直接つながったと責められているのだ。特にイタリアのカペッロ氏などは、
「私だったら、本田選手の首根っこを掴んで怒鳴ってる」
と言い、こんな時ほど、先日のポーランド戦の時のような“時間稼ぎのパス”をするべきだったと主張している。

 馬鹿め!もう、時間稼ぎのパスの話は、僕の前ではするな!どこまでも真正直に点を取るためにトライした本田選手こそ称えられるべきである。だって、そのコーナー・キックの球を、他の日本選手がうまく捉えてシュートに成功していたなら、日本が勝って試合終了だったわけじゃないの。全て結果論だ。
 また、仮に時間稼ぎのパスをして延長戦に持ち込んだとしても、その延長戦で負けたら、また、
「本田はあの時勝負をしないで逃げていた」
と言われるに決まっている。少なくとも僕は言うだろうな。どっちにしても非難されるならば、堂々と勝負を賭けて非難される方がいいに決まっている。

 それよりも僕は思うんだ。後半戦36分の本田選手の投入って遅くなかったか?決勝トーナメントでチーム・メイトが戦っている姿をベンチで見ながら、本田選手は何を感じていただろう。そして残りわずか9分で初めてフィールドに立った時、一体何を思っただろう?
 もう一発で決めるしかない状態に追い込まれていたのではないか。
「ここでオレがやらなければ・・・」
という焦りがあっても不思議ではなかった。そこへPKという唯一のチャンスがやって来た。ここでパスを渡すことなく直接のシュートに出たのも、コーナー・キックで大きく打って出たのも、「自分の足での」直接の加点を狙ったもの。
 本田選手への非難に根拠があったとしたら、それは彼の焦り故かも知れない。もっと早く投入されていたら、そんなに焦らなくても自然に試合の流れが変わり、彼自身もっと落ち着いてプレイが出来たかも知れない。まあ。これも全て憶測の世界でしかないけどね。
 いやいや、見方を変えよう。本田Vsクルトワという視点から見たら、「クルトワの勝ち」。それだけのことかも知れない。本田選手の力量がクルトワ選手のそれに勝っていたら、そもそもPKが入っていただろう。作戦ばかりが勝敗を決めるものではない。戦っているのはひとりひとりの選手。

 さて、試合そのものは、どこに出しても恥ずかしくないものだったと信じている。後半戦が始まってすぐの原口元気選手のシュートも素晴らしかったけれど、なんといっても乾貴士選手のミドル・シュートは圧巻であった。思わず、
「ワオーッ!」
と飛び上がって、明け方の谷保村に響き渡る声を出してしまった。
 いやあ、胸がスカッとしましたなあ。こういうシュートをする人が今まで日本にいなかったのは、誰かが抜け駆けをすることをヨシとしない村社会ニッポンの弊害だと思っていただけに、僕には新時代の幕開けのように感じられて嬉しかったのだ。
 まあ、あのままではいかないと思っていた。それにしても、あれだけの巨体が揃っていれば、ヘッディングをしても日本選手の頭が届くわけはないし、フィジカルの差はいかんともし難い。長友佑都選手のように、体が小さいながらもテクニックで補ってあまりある選手もいるが、こうした世界トップ・レベルの舞台に立つと、肉体的マテリアルの差が随所に影響してくる。そういうことを全て総合して「実力の差」というのだ。世の中厳しいのである。

 ともあれ、やっぱり僕は自説を曲げない。普通の人に出来ない抜きんでた者同士が本気出して戦う姿は美しい。いろいろな災害や危機が訪れる毎に、
「スポーツなんぞやってる場合か」
とか、僕たちの立場で言うと、
「芸術なんぞ呑気にやってる場合か」
とかいう意見が必ずどこかから出てくるけれど、その存在価値を決めるのは、関わっている者達の純粋度だ。
 観ている人達が、そこから純粋な感動や勇気をもらうとしたなら、どんな環境の中にあっても、それらは存在することを許される。

純粋でまっすぐであることが一番人生で大切なんだよ。



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA