「ノア」~「ジークフリート」~飯守芸術監督の送別会

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「ノア」~「ジークフリート」~飯守芸術監督の送別会
 新国立劇場「トスカ」本公演が7月15日日曜日に終わると、16日、17日、18日は、「トスカ」関係としてはオフ日であった。19日木曜日から、「トスカ」びわ湖ホール公演のために東京を出て新幹線で大津に向かう。

 16日月曜日海の日。僕は日帰りで群馬の 新町歌劇団の「ノアの方舟」の集中稽古に行く。次の週末はびわ湖ホールに行って練習が出来ないため、これが本番前の最後の集中稽古。今日一日でなんとか仕上げなければならないと思うと必死であった。10時から開始して、午前中、止めながら立ち稽古をし、午後に無理矢理通し稽古をした。それからどうしても直したいところを直していたら、もう6時近くになってしまった。
 それだけでも大変だったのに、その日には舞台スタッフが、練習見学及び打ち合わせに来るし、衣装デザイナーの内田恵子さんが仮縫いの衣装を持って来るし、上毛新聞と雑誌タカタイの記者がインタビューに来るしで、休憩時間は僕の争奪戦になり、僕は10時の練習開始から終了まで、休憩はおろか息つく暇もないほどだった。
 でも、お陰で「ノアの方舟」公演の全貌が、僕だけでなく、メイン・キャストの大森いちえいさんや前川依子さん達、それに新町歌劇団全員につかめてきて、モチベーションが一気にあがってきた。

 みなさん!「ノアの方舟」は、今の時代にふさわしい内容をたたえて、みなさんの心に迫ります。旧約聖書の「ノアの方舟」の物語をベースにしていますが、ストーリーはもっと凝っていて、エコロジーをはじめとして様々な問題に触れています。前回を観た方も、かなり変えてバージョン・アップしているので、ああ知ってる、といわずにまた観てね。
 芸術は、コンテンポラリーなものでないといけないと思います。現代を生きている我々に直接問題を投げかける要素を持たないと、存在意義がありません。もちろん、バッハやワーグナーを演奏しても、そうでないと博物館になってしまいます。
 あなたは、この「ノアの方舟」を観たあと、何を考えるでしょうか?何を胸に刻みながら新町文化ホールを出ることでしょうか?
どうか、楽しみに!
この文章を読んで興味が湧いた人も、今からでも決心をして、どうか足を運んで下さいね。

 17日火曜日は、国立のスタジオで、愛知祝祭管弦楽団「ジークフリート」のために、ミーメ役の升島唯博さんとアルベリヒ役の大森いちえいさんのコレペティ稽古。僕がピアノを弾いて、第2幕第3場のミーメとアルベリヒの指環争奪戦の二重唱を、ゆっくりから始めて、一体何回繰り返しただろうか。
 恐らく、楽劇「ニーベルングの指環」中で最も難しい曲だと思う。調性はあるのだけれど、ほとんど無調ではないかと思われるほど音が取りづらく、しかもオーケストラのアンサンブルもとても合いにくい。
 実際に、歌手達はただの叫び合いのようになってしまい、オケはグチャグチャで、
「こんな演奏では、曲として成立していないじゃないか!」
と思われる演奏も、世の中少なくないのだ。でも、こういうところほど、きめ細かく練習して、きちんとやりたいよね。
 良い板前は、材料の吟味から始まり、様々に工夫を凝らし、隠し味を忍ばせて料理するが、それは、お客の「うまい」のひとことのためである。こうした職人気質が僕は大好きだ。

 びわ湖ホールに出向く前日である18日水曜日の晩には、特別な集まりがあった。新国立劇場の音楽スタッフ達が、劇場とは別にプライベートでアレンジした、飯守泰次郎氏の4年間に渡る芸術監督の送別会であった。


飯守さんの送別会1

 渋谷の道玄坂を上がりきったところに、渋谷の街全体及び都心を一望に見下ろせるE・スペースタワーというビルがあり、15Fにレストラン・レガートがある。
ここからのパノラマは圧巻である。そこに飯守夫妻を招待した。
 飯守監督時代に関わった副指揮者、ピアニスト達を中心に広く呼びかけたが、かなりの人数が集まった。これも飯守氏の人望の厚さを物語っている。このパーティーの中で、我々は、飯守氏の生まれた1940年に作られたワインをプレゼントした。ということは、飯守氏は今年で78歳ということになる。いやあ、お元気だ。
 飯守夫妻を囲んでの語らいは、決して堅苦しくならず、実に和やかで、いつまでも続くと思われたが、しかしながら夜はまたたくまに更けていった。

まだまだ、精力的に活躍されていくであろうマエストロ。
いつまでもお元気で!

 

びわ湖ホールでの日々
 7月19日木曜日午後。「トスカ」のびわ湖ホール公演のために、僕は大津に向かっていた。京都への新幹線の旅はいつになく快適であった。それは、i-Podで聴いているリチャード・ボーナRichard Bonaという稀有なる歌手&ベーシストの演奏するアフロ・キューバン音楽のお陰である。



 完璧なリズム感とドライブ感。その一方で、バラードでは心に染み入る歌唱が胸を打つ。それを支える、コンガを中心とするホットなラテンリズム群。ゴキゲンな気持ちのまま、あっという間に京都に着いちゃった。もしかしたら一緒に体を動かしていたかも知れない。ところが、ドアが開いて京都駅のホームに降り立った瞬間、突然、暴力的な熱風が僕を襲った。

 いや、正確にいうと襲ったわけではなかった。それに熱風が吹き荒れたわけでもない。ただ著しく温度が上がったまま、どんよりと停滞していた空気の中に、こっちが勝手に入り込んで行っただけだ。しかし僕にとってみると、熱いお湯に突然放り込まれた金魚の気持ちだ。息しても息しても酸素が体内に入ってこない。く、苦しい。命の危険を感じる。
 這々の体で大津方面の電車が出るホームに辿り着いたら、頭上から構内放送が降り注いできた。
「本日、レールの温度上昇のため、新快速は運休となり、琵琶湖線は各駅停車のみの運転となっております」
 脳みそが蒸し焼きにされて思考が正常でなくなっている。放送を聞きながら僕の頭は勝手に妄想を膨らませている。眼前には、くにゃあっと飴のようにひん曲がってDNAのように絡まったレールの上を、やっぱりねじりドーナツのようにひん曲がった新快速が蛇のようにのたうち回りながら走っている・・・・あはははは、ぬあんじゃ、これは・・・・こんなところを走り回ったら、きっと気持ち悪くなって、ホテルのある草津駅に着くまでに僕は吐くな。新快速はどうかごめんこうむりたい。
 だから各駅停車が来た時は安心した。ゆっくり走ってね。おおお!冷房がギンギンに効いている。やっと息が出来るようになった。ホッとしたのでこの状況を東京にいる妻にLINEをした。するとすぐ返事が返って来た。
「さっきニュースでやっていました。京都は38度とか39度とか言ってます」
 ゲッ、マジかよ。やっぱり体温より高いんだ。39度といえば、風邪なんかで自分の体温がそんなに上がったら、もうフウフウいって頭の中には妄想ばかり広がって、うわ言を繰り返すだろうな。そうか、妄想は当然だ。
 
 そこから3泊4日の滞在の間、気温は下がることはなかった。今回のびわ湖ホールの「トスカ」公演では、僕たちの宿泊は、大津から東海道線を東京方面にいくつか戻った草津駅に隣接したボストンプラザ・ホテルであった。草津というと、僕なんかは大好きな群馬の温泉地を思い浮かべるが、ここは東海道と中山道が交わるので有名な宿場町だという。

 おお、中山道!中山道といえば、僕の生まれ育った群馬県の新町を通っている街道だ。
「おにころ」の歌詞に、
昼なお暗い碓氷峠をやっとこさっとこ越えゆきて
ようやく辿り着いた横川で
峠の釜飯たらふく食って
妙義の山を右に見て
安中杉並木のその下を
はるばる越えてやって来た
今夜のお宿はここにしよう
ここは中山道の宿場町
というのがあるけれど、新町はこの草津と同じにかつては中山道の宿場町だったのである。なんという親近感!
 「おにころ」冒頭に出てくるカップルの旅人は、中山道を長野方面から辿って新町まで辿り着いたものであるが、中山道はなんと京都まで続いている。その詳しいルートは・・・きっと小学校とかで習ったに違いないんだが、忘れちゃった。テヘペロ・・・・それで、ネットで調べてみた。すると・・・。
中山道は、東海道と同じように日本橋を出発する。しかし、東海道を尻目に、まず北上して埼玉県から群馬県に入って行くのだ。そして新町宿や高崎宿を通って、あの厳しい碓氷峠を越えて軽井沢に出る。
 その後は佐久のあたりから、鉄道も通らない美ヶ原と霧ヶ峰の間の山道を抜けて、諏訪湖の北側に出る。それから、塩尻から木曽路に入る。今も昔の街並みの残る妻籠(つまご)や馬籠(まごめ)を抜けて中津川に辿り着く。
 ところが、そのままワイドビューしなの号のルートに従って、名古屋に行くと思いきや、行かないんだなこれが。名古屋の北側、すなわち岐阜や大垣の近くを冷やかしながら、関ヶ原を通って、やっとこの草津で東海道と合流するのだ。
 感動的だなあ。すごいぞ中山道!東海道のようにただ馬鹿正直に京都だけを目指すんじゃないぞ!こんなに寄り道をするんだ。しかも東海道では箱根峠がきついというが、碓氷峠をはじめとして、峠や山道の険しさもハンパじゃないぞ。ざまあみろ、東海道!

 さて、草津の話だ。かつての草津宿の本陣の大福帳を紐解いてみると、吉良上野介や浅野内匠頭とか、あの篤姫や、シーボルト、新撰組の土方歳三が泊まったりと、実に由緒ある宿であるという。


草津本陣

 考えてみると、京都まで後一歩の距離。恐らく江戸から東海道を渡ってきた者はここを最後の宿にしただろうし、京都から出発した者は逆に初めての宿になったのではないだろうか。
僕は、金土日と朝のお散歩をしたけれど、草津は街中にどことなく由緒正しい雰囲気が漂っている。こんなこともなければ、自分からわざわざ来たりしないから、貴重な体験であった。

 僕はかつてびわ湖ホール専任指揮者として、びわ湖ホール開場前から、声楽アンサンブルのオーディションによるメンバー選定やレパートリー作りなどに深く関わっていた。開場してからは、芸術監督であった若杉弘さんの下で、プロデュース・オペラにおける、東京オペラシンガーズと声楽アンサンブルの合同の合唱指揮者や、副指揮者のチーフとして働いた。だから、この劇場のことはとてもよく知っている。
 でも、今回初めて、声楽アンサンブルと、新国立劇場合唱団とがコラボする。それにはとても感慨深いものがある。何故なら僕は、新国立劇場合唱団の指揮者のポストを得たがために、びわ湖ホール専属指揮者を辞さなければならなくなり、後ろ髪を引かれる想いでこのホールを後にしたからである。

 専任指揮者の時代に、好んで訪れたレストランがある。それはプリンスホテルから近江大橋に向かってちょっと行ったところにある ビュルツブルクというドイツ・レストランだ。ここは、数ある日本のドイツ・レストランの中でも、最も本場ドイツに近い味とメニューを揃えている。


Wurzburg1


 今回、木金土の内、金曜日はプロデューサーのTさんと食事に行ったが、あとの木曜日と土曜日は、二晩ともここで夕食を食べた。僕は、みんなと食事に行くのは嫌いではないけれど、ビュルツブルクではひとりで過ごしたかった。特に土曜日の「トスカ」初日のはけた後は、戸外の席を選び、びわ湖畔の風景を眺めながら、のんびりと過ぎゆく時を味わいつつ、ビールのジョッキーを傾けていた。
 ビュルツブルクという街には一度だけ行ったことがある。フランクフルトから電車で行ってニュルンベルクの手前にあるこじんまりした街。丘があって登ってみるとパノラマが広がって気持ちが良かった。


Wurzburg2

 ここはフランケン・ワインの中心地。そのビュルツブルクを店の名前にしているだけあって、メニューも味もフランケンっぽいのが嬉しい。ちなみに、フランケン地方は、バイエルン地方に属しているが北側の一帯で、ニュルンベルクやバイロイトもフランケンなのだ。
 特に嬉しいのは、僕がバイロイトにいた時に必ず飲んでいたマイゼルス・ヴァイセというバイロイト産の小麦のビールが置いてあること。これがうまいんだ!それから、二日ともニュルンベルク・ソーセージを食べた。指くらいの大きさのソーセージで6本ひと組と決まっている。これもかなり本場風。


Wurzburg3

 木曜日の晩は、食事の後、近江大橋を徒歩で渡って、瀬田の駅に出た。近江大橋は、歩けど歩けど向こう岸に着かなかった。でも、500mlのマイゼルス・ヴァイセと、やはり500mlの黒ビールを飲んだ後だから、このくらい歩かなくっちゃ。

 滞在中、二度ほど大津京の向こうにある皇子が丘公園の50メートルプールに行った。照りつける陽ざしが強いので、行く毎に日焼けして、新国立劇場の合唱団員に笑われた。
「昨日よりまた一段と黒いじゃないですか」
いや、あまりに暑くて、それ以外に行きたいところがなかったんだよね。本当は、坂本から比叡山に行こうとも思っていたけれど、とてもとてもそんな気になれない。って、ゆーか、暑くて熱中症になって仕事どころではなくなってしまう。

本当に、今年は暑い夏ですなあ。


飯守さんの送別会3




Cafe MDR HOME

© HIROFUMI MISAWA