「平和のためのミサ曲」初演間近

三澤洋史 

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「平和のためのミサ曲」初演間近
 「ノアの方舟」新町公演が終わってホッとする間もなく、8月2日木曜日は自作のミサ曲Missa pro Pace(平和のためのミサ)の初回のアンサンブル合わせがあった。8月11日土曜日、東京六大学OB合唱連盟演奏会において、東京大学音楽部OB合唱団アカデミカコールが、約1時間ほどのミサ曲から、Kyrie、Gloria、Agnus Deiの3曲の約20分ほどだけ演奏する。指揮は作曲者である僕。部分演奏といえど、これが僕のミサ曲の初演となる。場所は池袋の東京芸術劇場大ホール。13時30分開演。


Missa pro Pace の初演


音源ファイル
 実は、それに先駆けて、譜面作成ソフトであるFinaleから作ったMidiをもとに、シーケンサーで音源ファイルを作り、CDに焼いて練習前に奏者達に送ろうと思っていた。ところが作り進む内に、だんだん面倒くさくなって、とうとう断念してしまった。昔はあんなに情熱を傾けてやっていたのに、随分変わったんだなあと自分で驚いている。
 一番大きな理由は、自分でも驚いているのだけれど、再びアナログ人間に戻ったこと。それにはスキーや水泳などのスポーツが大きく関係している。つまり、スポーツを通して自分の肉体に向かいあうことで、僕の中に眠っていた「職人気質」が目覚めたのだ。

 酒造り職人は、ちょっとの加減でお酒の味が微妙に変わるのを知っている。料理人は、ちょっとの塩加減や、調味料の加減で、料理が一流になったり二流になったりするのを知っている。同じように、水泳選手は、リカバリーをし入水した腕を伸ばすだけで、抵抗をなくし体が前に進むのを知っている。スキーヤーは、ちょっと上体をひねるだけで、上下動の激しいコブを安定して滑ることを知っている。
 こういう世界の楽しみを知ってしまうと、パソコンが作り出した、限りなくインテンポで平面的な音楽がうすっぺらく価値のないものに感じられてしまうのだ。勿論、自分の書いたオーケストレーションが、一体どんな感じの音を出すのか、シーケンサーで確かめることは無益ではない。でも、それを他人に音資料として渡すとなると、そのまんまというわけにはいかないじゃないですか。
 
 これがふたつめの理由になるのだけれど、他人に渡すと思って僕はMidiに手を加え始めたのだが、昔に比べて自分がとっても完璧主義者になっているのを感じた。第1ヴァイオリンが一番左側、ピアノはだいたい真ん中で、という具合に定位Panを決め、楽器毎にMidiからオーディオ・ファイルに録音し、楽器間のバランスをはかってマスタリング・ファイルを作る。こうしたことは昔からやっていたのだが、それが、中途半端なレベルでは全然物足りなくなってしまったのだ。
 家にはSD-90という音源モジュールの機器がある。これを通すと、同じヴァイオリンの音色でも選択肢がとても豊富になる。これを選ぶのにまず時間がかかる。それに弦楽器はピッツィカートもあるし、やさしくホワッとしたストリングの音色はパソコンでは得意なのだが、弦楽器の表現力は、そんな単純なものではない。エッジの立った切れ込みの激しい表現の直後に夢のような音色が欲しかったり・・・こんなことをパソコンに望んだら無理だ。最初は、小節内で音色を変えたりしていたのだけれど、だんだん果てしない感じがして面倒くさくなってきた。
 人間の意識は「ゆらぎ」を求める。それを直線的なパソコンで表現しようとすると、もの凄い時間と労力がかかる。コンピューター・ミュージックを始めた頃は、いろんな音がそれらしく出るだけで驚いていたし、譜面を書いたらすぐプレイバックで確かめることが出来ることで満足していた。
 でも、今の僕はもっと我が儘になっている。所詮、機械は機械。自分のスコアを表現できるのは生身の人間が弾いた楽器しかない(当たり前なのだけれど)。だって、人間の奏者だったら、フレーズの途中で左手を挙げれば自然にクレッシェンドしてくれるし、タクトを緩めればリタルダンドしてくれる。僕は指揮者なんだから、それを一瞬のうちに行えるんだぜ。なのに何故同じニュアンスを出すのに、1時間も2時間もパソコンの前で格闘しなければならないのだ?ということで馬鹿馬鹿しくなって放り出してしまった。

今回のアンサンブルの奏者達
 奏者達には、パート譜を送った時点で、「後で音源ファイルを作成して送ります」とメールを送っていたので、「ああ申し訳ないなあ」と思っていたが、オケ合わせの日にみんなに会っても、誰もそんなことを気にしているように見えなかった。そうだよね。みんなプロなんだから、そんな音源ファイルなんかなくっても譜面読めるんだからね。

 以前、東京バロック・スコラーズの演奏会でも弾いてくれた芸大出身のヴァイオリニスト吉岡麻貴子さんは、東京都交響楽団のメンバーである。その吉岡さんに、今年の4月、大野和士指揮、都響によるマーラー作曲交響曲第3番の練習場でバッタリ会った。一度彼女は留学するというので東京バロック・スコラーズを離れたのだが、それ以来連絡を取っていなかったのだ。
 僕は、彼女に会った瞬間ピンときた。そこで、ただちに連絡を取って出演依頼をし、弦楽器のメンバーも集めてもらった。その結果、全員都響のメンバーが集まった。これがみんな若くて優秀!
 その5人の弦楽器奏者に、コンガを中心とするパーカッション奏者の大場章裕さんとアルト・サキソフォンの佐藤温(のどか)さん、それにアカデミカ・コール専属ピアニストの三木蓉子さんを加えての8人が、今回のMissa pro Paceのアンサンブル編成。

 8月2日木曜日午後3時。幡ヶ谷のアスピアで練習が始まった。やっぱり自分の書いたスコアが初めて音になる瞬間というのはドキドキするなあ。変な話、こんな時、指揮者であるということのドキドキ感はないんだ。ベートーヴェンをどう解釈する?なんていうのはないし、誰も曲を知らないし、なんてったって作ったのはこの僕なんだからね。

今回の抜粋演奏の曲の概要
 Kyrieは弦楽器のピッツィカートから始まる。男声合唱がつぶやくようにKyrieと答える。それから合唱はメロディーを歌い出し、コンガが入ってくる。中間部になるとアルト・サックスが、まるで乱入してくるという感じで朗々とメロディーを吹き始める。合唱は切れ切れのモチーフでChriste eleisonとパート間で交わし合う。最後はグレゴリア聖歌風。この静かな部分は、ミサ曲全体の終結部と関連している。

 Gloriaの冒頭を聴いたら、たいていの人は笑ってしまうだろう。熱心なカトリック信者だったら怒る人もいるかも知れない。とにかく、こんな風にGloriaを始めた人は世界広しといえども僕くらいなものだろう。Et in terra Paxの部分はゴスペル調。Qui tollis peccata mundiは、ひとことでいると昔のムード歌謡のような感じ。僕は東大アカデミカ・コールの皆さんには、
「東京ロマンチカのように気分を出して歌って下さい」
とお願いしていた。あはははははは!
後半のアルト・サックスのアドリブ風メロディーはカッコいいよ。
Gloriaを締めくくるQuoniam tu solus sanctus前半は、さっきのゴスペル調のメロディーが倍テンポの激しいアフロ・キューバンのリズムに乗って歌われる。そのまま盛り上がってフーガに突入する。ここで僕のラテン音楽趣味とアカデミズムとが融合する。一番最後は、「ノアの方舟」の「ワッハッハ」の最後の部分、
「やってられないよーだ、BaDaBaDaBaDaBaDa DuWa~~~!」
の音楽と一緒。まったく、こんなことしてたらバチが当たるで!

 Agnus Deiでは焦燥感を表現した。これは、終曲のDona nobis Pacemの静けさを浮き立たせるために、どうしてもこうしたかった。メロディーそのものは違うが、雰囲気を「運命の力」序曲からパクった。そこにショパンの革命エチュードも真っ青という感じのピアノの超絶技巧的パッセージをはめこんだ。後半は、挫折と苦悩から諦念を経て解脱、そして平和への希求に至るブリッジ。そして曲はDona nobis Pacemに切れ目なく流れ込んでいく。
 Dona nobis Pacemは、作った自分でさえ憧憬の気持ちなくしては演奏できない曲。これが昨年の今頃、白馬のみそら野の別荘で、夜のしじまの中で生まれ出たことに深い感銘を受ける。僕はこの曲に入れ込みすぎているので客観的な判断が出来ないが、この曲には、この世とあの世とを隔てる壁を薄くし、彼岸の世界に我々の魂を誘うような何かが宿っているように感じられる。
 宗教の向かう真の目的は内なる平和。そして平和を内に持っている人達が作り出すところの世の平和。だから祈りは必然的に平和に向かう。ということで僕は「平和のためのミサ曲」というタイトルにしたけれど、ホントのホントのところ、もっと本質的な深い深い真実に気付いたならば、平和さえ、その真実がもたらすひとつの現象にしかすぎず、究極的な真実とは「いのち」そのものなのではないかと思う。

 その「いのち」というたからものは彼岸にある。いや、うまくいえないな。「いのち」は彼岸と此岸とを貫いている。時間も空間も超越して大宇宙にあまねく存在している。この現世で自我という茨にがんじがらめにされている時には決して感じることは出来ないが、僕はあの夜、たしかに「いのち」に触れた気がした。その時にフッと出てきたメロディー。それが僕のDona nobis Pacem。
 少し後になって気が付いてみたら、このメロディーは、4月にサンタナのライブを聴いた直後に、このミサ曲用にではなく、単独の曲になるのかなと思って作っておいたKyrieの旋律と短調長調の違いはあってもソックリだったのだ。だから、その曲をKyrieに据えて全曲のスケッチを構成し始めた。するとトントンと事が運んで、あれよあれよと思う間に、何年も出来ないでいたミサ曲が出来てしまった。

 作曲家が曲を作るというのは、頭でひねり出すんじゃないんだな。宇宙に音楽の川が流れていて、その川からひとすくいの水を取り出してくるイメージ。だからね、良い曲が出来た時ほど、僕が作ったともいえないような気がするんだ。僕はそれを三次元に降ろしているだけ。
 とはいえ、主題労作のような作業は、あきらかに自分の頭脳も使ってやる。オーケストレーションでは、テクニックと感性と、そして楽器に精通するための経験を使う。それはね、天上からこの世に生まれてきた赤ちゃんが、この世の重力や空間性などの、様々な物理的要素に慣れてくるように、天上の音楽のイデーをこの世にマッチするようにいろいろコーディネートする作業なのだ。
だからこそ、こうした作曲という作業は大切なのだけれど、やっぱり最も大切なのはイデーなのです。

小編成アンサンブル
 僕は、このミサ曲くらいの、弦楽器ひとりずつに何人かの管楽器や打楽器プレイヤーなどが加わる小編成のオーケストレーションに慣れている。1980年代から、僕はオペラと並んでミュージカルの指揮やピアノ演奏などを頻繁に行っていたが、その時にだいたいこのくらいの編成が多かった。経済的だからね。それらは僕の作曲でも編曲でもなかったけれど、僕は、一緒に仕事をしていた作曲家甲斐正人さんのスコアと出てくる音との関係をつぶさに学ばせてもらった。こんな小編成でもティンパニー一台使うだけで、オケのような雰囲気が出るもんだな・・・とか。
 生まれて初めて書いた大作の「おにころ」初演も同じような編成だった。その時にスラスラと書けたのは、その学習のお陰。その後、新国立劇場の「子どもオペラ」のシリーズも似た編成で行った。「ジークフリートの冒険」が、今でもウィーン国立歌劇場でロングラン上演されている背景には、こうした小編成のオーケストレーションながら、ワーグナーの大管弦楽の味わいを損なわない、という隠れた技があると思う。

 ということで、何を言いたいかというと、待ちに待った練習の中で鳴り響いた音は、僕がオーケストレーションをしていた時に頭の中で鳴っていた音とほぼ変わらなかったのだ。昔は、
「あれえ、こんなはずじゃなかった・・・」
という瞬間もあったのだけれどね。
 それはプレーヤー達が優秀というのもあるなあ。たとえば、愛知祝祭管弦楽団の新しい演目の初めての練習なんか、こんなんではワーグナーが悲しんで、「これはオレの曲じゃねえぞ」と言うほど、目の前で鳴り響いている音とスコアとのギャップが激しいが(ま、最近は、「ジークフリート」もかなりスコアに近くなってきて、ワーグナーももう怒ってはいないと思う)、吉岡さんはじめとする人達は、事前にきちんと譜面を読んできてくれている。それに、音型を見ただけで、今自分はメロディーなのか伴奏なのか分かって、ダイナミックスを調整してくれる。オケマンとしての習性がそうさせるのかも分からないけれど、やっぱりそういう思いやりの出来る人間って最高!

サックス&コンガ
 佐藤さんの吹くアルト・サックスのソロのニュアンスなんて、どう考えてもパソコンでは無理だよな。CDを事前に下手に送って「はいこの通り吹いて下さい」みたいに誤解させてしまったら、あの独特のジャジーな雰囲気は出ないもの。一方で、メロウな音色を持つ佐藤さんのサックスは弦楽器ともとても溶け込んでいて、クラシック奏者としての長所もあるから、今回のような曲にはぴったり。

 僕がひとりでラテン音楽に夢中になって今回の曲を書いたけれど、肝心のコンガが浮いてしまい、
「コンガさえなければ良い曲なんだけどなあ」
なんて言われたらどうしようと、それだけはちょっと心配だった。でも、この点も、コンガ奏者の大場さんが周到なバランス感覚で浮きもせず潜りもせずの絶妙なアプローチを見せてくれる。
 彼は、実は昨年の「おにころ」公演に群馬交響楽団のエキストラで乗ってくれていたのだ。そこで、
「おにころ、ころがし、追い出せや~」
という曲のコンガを叩いていて、僕の曲想には馴染みがあるのだ。
 練習前に、コンガ独特の「ヒール、トゥ」とか「スラップ」などの叩き方や、僕の記譜の意味と、奏法のニュアンスを伝えるために、
「ほら、こんな具合です」
と叩かせてもらったら、同じLPコンガなのに、僕の楽器よりずっと良い音がする。
「これ高かったでしょう」
というと、
「ちょうどセールをやっていて半額だったので買っちゃいました。だから思ったよりも安かったんですよ」
だって。
「ちょっと貸してね」
と作曲家であることを忘れて叩いている内に、この楽器が気に入って僕も欲しくなっちゃった。やっぱり同じコンガでも随分違うもんだなあ。
 ううう・・・欲しい・・・でもなあ、そんなこととても妻には言い出せない。だって最近、毎年、新しいスキー板やらスキー・ウエアーやら趣味のための出費がハンパじゃないからな。
「いや、趣味じゃないぞう。オレはれっきとしたコンガ奏者だ!」
と威張ってもいいんだけど、あまり説得力がない。「ノアの方舟」が終わっちゃったからしばらく本番もないしね。ま、今の楽器でしばらく修行に励むか。
 ということで、コンガも弦楽器などにしっかり馴染んで、全体のサウンドは、恐れていたほど陳腐でもなく奇抜でもなく、案外シビアなカトリック信者も受け容れてくれるんじゃないだろうか、という希望が湧いてきたぞ。

男声合唱と共に
 夜になって東大アカデミカ・コールのメンバーが加わってオケ合わせ。またまた当たり前のことであるが、パソコンのワウワウといった中途半端なヴォイス音とは比べものにならないほど、男声合唱の響きはアンサンブルに溶け込み、しかも言葉もクリアー。

 そういえば変な話、音源ファイルを作っている最中、合唱パートに言葉がないのが気にくわなくて、「初音ミク」のようなテキストをしゃべるヴォイス音のソフトを買おうと思ったことが思い出された。そんなんでまた何時間も使ったりしたら、本当にアホや。こんな言語表現は何百年経ってもコンピューターには無理なんだよ。

 たとえばpeccataに「罪」という気持ちを込めるとするだろう。するとね、ひとりひとりの団員は、自分のかつて犯した罪の数々を思い出し、
「誰も知らないはずの、あんな罪もこんな罪も神様は知っていて、そして許してくれるんだ」
と思いながらpeccataという単語を発するのだ。だから合唱団員の発するpeccataという単語には、何十人もの人生が詰まっているわけよ。それと初音ミクが一緒にされてたまりますか。
 でもねえ、Quoniamの中の複雑なフーガで、アカデミカ・コールのおじさんたちのリズムが伴奏している弦楽器とバラバラだった時だけは、ひそかに、
「ここだけは初音ミクのが正確でいいかも・・・・」
と思った。
 その一方で、アカデミカ・コールは、僕のDona nobis Pacemを、とっても心を込めて歌ってくれている。僕は練習中に白馬での夜のしじまの話をしたし、この曲に込めた想いも話した。それらを彼らは真摯に受け止めてくれ、そして音楽で答えてくれる。僕は、この合唱団が大好きだ。言葉で言うと当たり前になってしまうんだけど、やはり大切なのは心と心のふれあいだ。人を感動させるのも技術ではない。

かけがえのない63歳の暑い夏
 8月9日木曜日に、二度目のアンサンブル合わせがあり、いよいよ11日に、池袋芸術劇場で、部分的ではあるが、僕のMissa pro Paceは初めて世界に向けて発信される。もう今から楽しみで仕方ない。

 夏は新国立劇場での練習や本番がないので、みんな劇場の外へ出て様々な活動をしているのだけれど、「ノアの方舟」、Missa pro Pace、「ジークフリート」など、僕もこの間に自分でないと決して出来ないような活動をしている。だから夏は大好き!これこそ望んでいた人生。かけがえのない63歳の夏を生きている・・・でもさあ・・・ちょっと暑すぎるんだけどね・・・・愛知祝祭管弦楽団「ジークフリート」の練習のために名古屋入りした日は、名古屋は史上初の40度越えだったというし・・・・どうなっちゃうんだろう、この地球。

 すみません。来週の月曜日は8月13日。お盆のため群馬に帰省しているので、「今日この頃」は一週間お休みします。その次の週の20日月曜日は、安曇野にある絵本美術館・森のおうちから原稿を送る予定。安曇野に3泊します。

 そのいきさつやらは、その時に書きますが、今、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「よだかの星」などを読んでいて、同時に絵本画家のいせひでこさんの絵にとても惹かれています。「カザルスへの旅」という本を読んで、その研ぎ澄まされた感性にも感銘を受けています。

ということで、みなさん、暑い夏ですが、頑張って過ごしましょう。



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