愛知祝祭管弦楽団という現象の意味

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

山下君の絵
 山下康一君から、我が家に二枚目の絵が届いた。嬉しいというより、とっても恐縮してしまう。僕としては、彼の絵のファンなので、もらうより買ってあげたいし、むしろ買ってあげなければいけないのに・・・・。愛知祝祭管弦楽団の「ジークフリート」に招待してくれた御礼です、というのだが、僕は別になんにもしていないのだ。

 絵は、昨年の夏、白馬に行った時に僕たち家族も訪れた、「大出の吊り橋」の風景。吊り橋と八方尾根のコンビネーションが絶景。近くに「かっぱ亭」というレストランがあり、そこに角皆君達とお昼を食べに行った。山下君は、ここの桜が咲く風景を描いた。

 それで、以前いただいたドイツの街の絵を一度はずして、そこに架けてみたりいろいろしたのだが、最終的に、居間に架けてみた。そうしたら、もう最初からそこをめざして絵が僕の家にやってきたのでは、と思うほどにピッタリとマッチした。
妻は、
「ここでこの絵を見ると、とっても癒やされるわ」
と喜んでいる。

山下君の水彩画というのは、本当に癒やしの力がある。


山下君の絵

モーツァルト200演奏会間近
 9月9日日曜日。またまた新幹線で名古屋に向かう。愛知祝祭管弦楽団の演奏会が終わったと思ったら、来週の9月16日日曜日は、刈谷市総合文化センター大ホールで15時から、モーツァルト200合唱団の演奏会
「名古屋にアパート借りたら」
と、みんなに言われる。

 今日はセントラル愛知交響楽団とのオケ合わせ。刈谷市国際音楽コンクールと提携している演奏会だから、いつもより一回オケ練習が多く取れていて、お陰で丁寧に曲を仕上げることが出来るのがいい。
 特に、牧野葵(あおい)ちゃんとのブラームスのヴァイオリン協奏曲は、通常のプロ・オケの定期演奏会なんかだったら、オケ合わせで指揮者と「初めまして!」という感じで、一回合わせたら次はゲネプロだったりする。
 その意味では、僕とは、まず2度ほどピアノで合わせを行い、それから8月31日の初回オケ練習への参加、今日の2度目のオケ合わせ、そして演奏会前日の9月15日土曜日と3回合わせた末に、当日のゲネプロに臨むことが出来る。この環境が、どれだけ恵まれているか分かるだろう。

 しかしながら、本当はこのくらいやらないと、指揮者とソリストとの音楽的な摺り合わせは出来ないし、ソリストの細かいニュアンスを生かしながらオケと合わせることなど出来るはずがない。
 今日は葵ちゃんに、
「オケとズレてもいいから、自分の弾きたいように弾いてごらん。もう僕の音楽もある程度分かっているだろうからね」
と言っておいて、練習に入った。すると案の定随所で少しズレる。仮に僕が分かっていても、指揮に合わせるオケマン達にはワンクッションあるから。それを後から丁寧に整合性をつけていく。こういう作業が楽しいんだね。練習の醍醐味!
 通常は、そんな時間ないから、ソリストの方でニュアンスを殺してインテンポでいくか、さもなければ、合わなくても気にしないでいくかどっちかだ。まあ実際、世の中そんな演奏ばかりだからね。「そういうことが器用に出来るのがプロだ」なんて勘違いしている人がいかに多いことか。困った世の中だ。何のために音楽家になったのか?

 僕は、それが嫌で、むしろたっぷり稽古をとってしっかり取り組むことの出来るオペラや合唱の世界に入った。合唱団からの演奏会の指揮の依頼も、
「合唱団との合わせ一回で、それからオケ合わせ、ゲネプロ本番でお願いします」
という仕事は、どんな優秀な合唱団でも、どんな魅力的なプログラムでも、必ず断っていた。
 だから、これまで、自分できっちり面倒を見て本番まで持っていく合唱団や団体しか指導していないわけだ。その意味では、愛知祝祭管弦楽団のような、たっぷり時間をかけ、手塩にかけて育てている団体などは、最も僕らしい活動だといえる。新町歌劇団、東京バロック・スコラーズ、浜松バッハ研究会、志木第九の会などもそう。勿論、モーツァルト200も僕の大事な大事な合唱団。

 さて、本番を一週間前に控えて、モーツァルトのミサ曲もヴァイオリン協奏曲もだんだん煮詰まってきましたよ。僕のブラームスもなかなか聴けませんからね。今からでも、演奏会にいらっしゃい!

杏樹のいない朝
 セントラル愛知交響楽団との合わせを終わって新幹線に乗り、ホッとして我が家のLINEを見たら、なんと今晩は杏樹がお友達の家に泊まるという。今日は、4歳の杏樹が通っている保育園の年中クラスの親たちが集まって、子どもたちと一緒にバーベキュー・パーティをやる、という話は聞いていた。
 母親の志保は、午前中杏樹を連れていって準備は手伝ったけれど、午後から夜にかけて仕事だった。それで、パーティーの間は、お友達の親に杏樹をお願いした。しかし夕方になって、妻が引き取りに行ったら、杏樹は友達同士で盛り上がっていて帰ろうともしない。そのうち、仲の良い女の子のおかあさんが、
「うちに泊まっていいわよ」
と快く引き受けてくれたので、その子の家に泊まらせてもらうことになったという。
「ええ?マジか!」
と、仕事中の志保も、新幹線内の僕も驚いてコメントを書き込む。

 いつも晩になって家に帰ると、杏樹が「遊んで、遊んで」とまとわりついてくるし、早く寝かせなければと思って一緒にお布団に入っても、「絵本、もう一冊読んで!」となかなか寝ない。

 しかし、杏樹がいない大人だけの家は、妙にガランとしている。
「なんか・・・いなければいないで・・・静かだね」

 つい最近まで、
「保育園に行きたくない!ママがいい!」
と言っていた杏樹。お盆で帰郷していた時、仕事で一足先に国立の家に帰っていた志保に会いたくて泣きじゃくり、Face Time(テレビ電話)の中の志保をうっとりと見つめて、
「この中に入ってそっちに行きたい」
と言いながら寝入っていた杏樹。
 その時には困っていた志保も、同時に、ある意味母親冥利に尽きる想いを味わっていたに違いない。

しかし、子離れはある日前触れもなく突然やって来る。

 そういえば、志保がパリに留学した2000年の9月の、妻の落胆傷心ぶりを思い出した。それで、その心の穴を埋めるべく、我が家に愛犬タンタンが来たのだ。そしてタンタンは死に、その心の傷がなかなか癒えない我が家に、今度は杏樹(ange~天使)が天から舞い降りてきたというわけだ。

「夜中に起きて、ママがいい!と泣き出したらどうしよう」
「○○ちゃんのおかあさん、そうしたら真夜中でも連れてきてくれるって言ってた」
しかし、そんなこともなく、朝保育園バッグを持って行った志保は、元気な杏樹と無事再会。
 こうして、親の心配をよそに、子どもは淡々と、しかも確実に大人になっていくのである。

世の中とは、そんなものである。
 

愛知祝祭管弦楽団という現象の意味
 先週は、一番疲れが出る火曜日に原稿を書いたのが良くなかった。何故なら、翌水曜日は、新国立劇場の「魔笛」の合唱音楽稽古の後に、久し振りに幡ヶ谷の渋谷区スポーツ・センターに行って、1400メートルくらい泳いだら、心身共にめちゃめちゃリフレッシュして、昨日の落ち込みはなに?っていう感じになり、再び究極のオプティミストになったのである。なんて単純な僕!

 思い出してみると、子どもたちの鳥ちゃんが、カラフルの衣装メイクも手伝って可愛かったね。あの鳥と蛇の発案は僕。そもそも僕が団長の佐藤悦雄君に、
「あのさあ、御園座でやるからには、すこし演出的な工夫も必要だよね。子どもを使うっていうのはどうかな?」
と持ちかけたのが始まり。
 佐藤君は、実は、僕が演出した新町歌劇団の「魔笛」の公演を見に来ていて、
「それなら、『魔笛』のように大蛇をやらせたりするのはどうですかね。森の小鳥も演じてもらって・・・いいですね、早速(演出家の)佐藤美晴さんに相談してみます」
ということでトントン拍子に決まったのだ。
 当初、僕の頭の中には、子どもたちに赤い布を持たせて、「ジークフリートの炎くぐり」を花道あたりで布さばきをしながら踊り回る、などとも考えていたが、それは美晴ちゃんによって、例の素晴らしい花吹雪として実現した。
 ジークフリートの葦笛に顔をしかめ身をよじる小鳥たちの仕草は、最初大蛇ののたくる舞台後方でやる予定になっていたが、僕が美晴ちゃんに、
「もったいないから前でやろうよ」
と助言した。実はその時、自分もそこに芝居でからむつもりでいた。ケケケ!
 とにかく、大蛇や小鳥、花吹雪など、一見チープなマニュアル的舞台処理は、歌舞伎座である御園座におおいにマッチして大成功したと思う。


小鳥たちの仕草


 本番では、どうしても完璧主義になってしまう。実は、僕はおおらかに見えても結構気にし屋さんで、本番中の奏者の弾き間違いなども全部覚えている。だから、ジークフリート役の歌手の不調は、本当に本当に残念で仕方なかった。でも、今は、これも運命と受け容れている。
 それより、後から冷静に考えてみたら、今回ほどオーケストラの団員が、ライトモチーフをきちんと理解して、それぞれのキャラクターを描き分け、ワーグナーの意図したMusik Dramaをきちんと表現し尽くしたことはないと思う。それは、「ラインの黄金」の稽古始めから過去3年に渡る練習の道程において、ライトモチーフに向かい合い続け、嫌でも学習させられた蓄積のたまものであろう。

 僕は、多少のうぬぼれもあるが、こう断言する。これほど、各場面を音楽で描き切ったオーケストラというものは、世界広しといえども決して多くはない・・・と。そのためには、仮にプロのオケといえども、本番を重ねるよりも、練習においてしっかり積み重ねることが不可欠なのだ。その時間をたっぷり取ることの出来る愛知祝祭管弦楽団のような団体のみが、それを成し得るのだ。
 その意味で、我が国では間違いなく、唯一の、そして真にワーグナーの楽劇に賭けた想いを体現できる団体だ。

 団員のみんな。君たちは、とんでもない偉業を成し遂げつつある。そして、僕にとっても、人生における今の時期においてこの団体を任されていることは、この道をどこまでも追求するべしという命令を神から与えられていると解釈していいのだ。
 それだけに、いよいよ大詰めの「神々の黄昏」では、さらに気を引き締めてかからないければいけない。でも、一番大事なことは、それを、「僕が」ではなく、「みんなで」成し遂げること。

そこに、愛知祝祭管弦楽団という現象の意味がある。

山田かまちと青春

ためらうこと?
ない。
おびえること?
ない。
ただ、  書けばいい。
山田かまち(1976年1月)
 愛知祝祭管弦楽団「ジークフリート」公演で、指揮棒を持って舞台に駆け足で飛び出して行く直前。僕の頭の中にこの言葉が響いた。僕は「ただ、書けばいい」を「ただ、 描けばいい」に換えていた。そして、自分の前に広がる白いキャンバスに、指揮棒で大胆に描き始めた。ワーグナーが表現したかったであろう英雄のドラマを・・・。

 「ジークフリート」公演の一週間前である8月26日日曜日の講演会に、ある人が出席した。Nさんは、今年の2月に僕が親友の角皆優人君と共にプロデュースした「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプに、わざわざ関西から参加してくれた女性だ。スキーは結構うまい。
 その日、彼女は、なんと群馬県高崎市まで往復してから、帰り道に名古屋に途中下車して、知立(ちりゅう)市にまで辿り着き、講演会に顔を出してくれた。何故高崎まで行ったかというと、県立高崎高校のすぐ横にある山田かまち美術館を訪ね、それから、高崎線で高崎駅から上野方面にひとつだけ戻った倉賀野駅近くにある山田かまちのお墓参りに行ってきたという。彼女は、山田かまちの大ファンであった。

 山田かまちのことは多少知ってはいた。彼は1960年生まれだというから、僕より5つ下だ。僕や角皆君と同じ母校の高崎高校(タカタカ)に、彼は一浪して入ったが、その一年生の夏休み、エレキギターの練習中に感電死した。17歳の誕生日を迎えたばかりだったという。
 彼は、子どもの頃から絵画に異常な才能を発揮し、同時に、おびただしい数の詩を書いていたが、彼の死後、それが発表されたら、たちまち若者達の心を捉え、当時一大ブームを巻き起こしていた。そのブームが起こった頃、僕は、もちろん高崎高校は卒業していたが、不思議とあまり関心が湧かなかった。
 その頃の自分は、詩といったら、ヘルマン・ヘッセとかハイネとかリルケとかの方が身近であった。僕はアカデミックな完成品にあこがれていたし、それらのものから何かを学びたいという気持ちが強かったから。タカタカの後輩の詩なんか、という気持ちもあったのかなあ・・・。

 Nさんは語る。
「山田かまち美術館で、ひとつひとつの絵や詩を見ている内に、かまちに一番惹かれたあの頃、自分がどんな悩みをかかえ、かまちの絵や詩にどんなことを感じ、どんな想いでいたか、などが、ひとつひとつ蘇ってきて、とても感慨深いものがありました」
 そうか、そうやって、若者達は自分の青春の苦悩や迷いの日々の中で、山田かまちの詩に自らの想いを同化していったわけか。
 その彼女の言葉に興味を持った僕は、講演会と演奏会の間に、山田かまちの本を4冊ほどAmazonで取り寄せてみた。もうみんな絶版になっているから、50円とか安い。1円というのもあった。

そして・・・山田かまちは、僕の中でちょっとしたマイ・ブームとなった。


山田かまち

 彼の詩の中には、詩としての体裁を整えているものもあれるけれど、ただの殴り書きとしか思えないものや、スケッチの域を出ないものの方が多い。しかし、63歳のこんなおじいちゃんが、彼の詩の中にある赤裸々な青春の叫びに心打たれた。多感なティーンエイジャーの内面でうごめく「俺はここで生きてるんだぞう!」という怒濤のような叫びに胸を掴まれた。ともすれば大人社会によって、いとも簡単に否定され、押しつぶされてしまう脅威からの全身を賭けた反抗。それは、若者だけの特権。そのいちずな瞳がまぶしい。
畜生フェーマススクールめ
あいつのおかげでまったく絵の楽しみが減っちまったじゃないか!
俺はゴッホなどにも並ぶほどの天才画家であったはずなんだ。それなのに
まったくなんていうことだ。
ぼくが
「このままスウーっとのびていけばプロになれる。」だって?
鉛筆のタッチがたったひとつだって?なにが構成だ!
あんな規則が絵にあるものか!
(中略)
おれはやってやる。やつらに見せつけてやる!
俺のすごさを!この天才の迫力を!
 あははは、思わず笑ってしまう。しかし、意地悪にいうとこうも考えられる。もし、彼がもっと長く生きていたらどうだっただろうか?もっと詩作が上手になって、絵画も上手になって、美大あるいはどこかの大学の文学部にでも入って、自分の若い時代の習作を、「こんな拙いもの!」と破棄し、プロの画家や詩人として作品に磨きをかけて成功していたとしたら、これほどまでに若者の心を捉える山田かまちは生まれなかったかも知れない。
 とすれば、皮肉なことだけれど、彼のあまりにも早過ぎる不慮の死と、その未完成の荒削りな作品だったからこそ・・・その危ういバランスのタイミングで、山田かまちが世に出たからこそ、彼のワールドが炸裂したのではなかったのか?

 僕が若かった頃、山田かまちが自分を通り過ぎた理由にも合点がいった。あまりに等身大ゆえに興味が湧かなかったに違いない。自分も、同じ戦いを戦っていたから、彼の嘆きの歌には耳を貸したくなかったのだ。音楽を始めるのが致命的に遅かった僕には、とても自分の才能を信じるほどの余裕が残されていなかった。僕は、より高いものにあこがれ、それに一歩でも近づこうと努力することしか出来なかった。
 それに、高崎高校という進学校にいるとね、「良い大学に入って良い会社に入って」というエリート・コースを歩んでいくのが“勝ち組”で、それ以外は“負け組”という、絶対的ともいえる価値観にがんじがらめにされるのだ。僕は、それが嫌で音楽の道をめざしたけれど、その僕にさえ四六時中、
「お前は、その戦いから逃げたのだ。もし、そうでないというのなら、お前の道で独自の“勝ち組”に入るしかないのだ」
という強迫観念に苛まされる。
 彼がロックにハマっていったのもよく分かる。そういえば、同じように反抗的だった角皆君もよくロックを聴いていたなあ。僕にとって、それはジャズだったのかも知れない。クラシック音楽をめざしていた自分でも、クラシックはクラシックで権威主義だろう。だから、それからハズれるものをひとつ持っていたかったのだ。こういうのも今から考えてみると、反抗精神の表れだなあ。若いなあ。でも、若いって素晴らしい!
体でロックを体験しろ
演奏してつかめ!
全部奪ってやるんだ!
魂でやれ
やれやれ 最高にのってやれ

感動しろ 感動しろ!
感動しろ 感動しろ!



Cafe MDR HOME

© HIROFUMI MISAWA