砂川涼子さんの清楚なミカエラ

三澤洋史 

写真 三澤洋史のポートレート

砂川涼子さんの清楚なミカエラ
 「カルメン」の舞台稽古が進んでいる。先週書いたカルメン役のジンジャー・コスタ=ジャクソンは、相変わらず素晴らしいが、砂川涼子さんのミカエラがなんとも可愛らしい。以前から可愛らしい人ではあるが、どちらかというと、まんまという感じで、舞台よりもむしろそばで見た方が良かった。それが今では、舞台上の彼女が清楚なオーラを強烈に放っているのだ。その意味では、年齢を重ねて老けるどころか、ますます若々しく感じられる。
 また歌唱も、もともとの美声に加えて、ビブラートが過度でなくきちんとコントロールされているので、フレーズがスーッと伸びていって、音楽的な構築感があり、ドラマ性に優れている。このように総合的な点で、ますます磨きがかかってきて、我が国のオペラ界での地位を不動のものとしている。

 あまり良かったので、本人に言ったら、子どものように素直に喜んでくれたよ。日本人の歌手で、こんな風に僕が手放しで褒めることなんて、ほとんどないんだよ。
みなさん、カルメン役と砂川涼子さんのミカエラを観に、ぜひ新国立劇場においで!

「カルメン」は、11月23日金曜日祝日から12月4日火曜日まで6回公演。

 

「神々の黄昏」初練習~蓄積の強み
 11月18日日曜日。「ジークフリート」公演以来、初めて愛知祝祭管弦楽団の練習に行った。2016年の「ラインの黄金」から始まった楽劇「ニーベルングの指環」4部作も、来年2019年8月18日には、いよいよ最終章。「神々の黄昏」の上演となる。実に感慨深いものがある。
 先日、初練習に備えて、i-Podを聴きながら「神々の黄昏」のスコアを見て勉強していた。ショルティ指揮ウィーン・フィルの演奏。終幕の「愛の救済のテーマ」が鳴り始める箇所を聴いていたら、なにか胸に込み上げるものがあり、
「来年、本番でこの箇所を指揮していたら、絶対に泣いちゃうな!」
と思った。

 そんな自己陶酔に冷水を浴びせるように、愛知祝祭管弦楽団の初練習は、いつも下手くそでガッカリする。うわあ、こんなサウンドではワーグナーに申し訳ない!1年かけて仕上げていくとはいえ、これはないだろう。
 でも、ひとつ変化があった。それは、下手は下手なりに、衝撃的に下手ではなく、案外「割と下手」という域に留まっていたことだ(笑)。
というのは、「ラインの黄金」から「ワルキューレ」を通り、「ジークフリート」まで経験したことによって、ライトモチーフに対する理解が深まっていて、それぞれのパターンに柔軟に対応することが出来るようになっているのだ。
 勿論、個々の音は弾けてない。でも、弾けてないなりに、あとはこれを練習で弾けるようにすればいいのだ、ということが分かっていて、イメージだけはつかめているのだ。これはとても大切なことだ。
「時間は最高の調味料」
と、先日テレビ番組を見ていたら、茄子の塩漬けの作り方を説明していた人が言っていた。名言だ。このスピード時代に、時間をかけることの大切さを教えてくれる。
とにかく、ここ数年の間に、愛知祝祭管弦楽団には蓄積の強みが感じられるようになってきた。

 後で書いているが、今僕はNHKのFM「バイロイト音楽祭2018」の解説のために毎日バイロイト音楽祭の録音を聴いていて、バイロイト祝祭管弦楽団のうまさにあらためて惚れ込んでいる。カラヤン=ベルリン・フィルやショルティ=ウィーン・フィルがうまいと言っても、そういう次元ではなくて、バイロイト祝祭管弦楽団は別格だ。
 それぞれのライトモチーフのキャラクターが際立っていて、重層的に重なり合っている。情景にぴったりと寄り添った音色や色彩感や雰囲気が、オケから自発的に香り立っている。こんなオケは、世界中どこを探してもない。バカンスのためだけに生きているのでは?と思うほどバカンス好きなヨーロッパ人の中で、夏休みを返上してもいいというお人好しなマニアで構成されているオケなんだもの、無理もないが、この稀有な演奏を可能にしているのは、ひとえにワーグナーへの愛だ。

 しかしながら、手前味噌でゴーマンかましているのを承知で言うが、うまい下手は別として、バイロイト祝祭管弦楽団がやっているような、それぞれのライトモチーフのキャラクターを色濃く出しながら、ワーグナーの楽劇のあるべき姿を表現しているオケということに限定するなら、我が国では、間違いなく、愛知祝祭管弦楽団以外にはない。

 国内のプロ・オーケストラは、新国立劇場に入っている東京フィルハーモニー交響楽団や東京交響楽団を別にして、そもそもオペラ全曲を演奏する機会が決して多くない。その中でも、ワーグナーの楽劇全曲をやる機会なんて滅多にない。
 仮にその機会があったとしても、多くても数日の練習で本番に臨むとなれば、もう正確に弾いて合わせるのが精一杯で、とてもライトモチーフのキャラを重層的に・・・という余裕はない。
 勿論、ドイツの劇場オケでも、リハーサルに関しては同じような条件かも知れないが、ドイツでは、劇場がレパートリー・システムで、毎日なんらかのオペラが上演されているし、同じ演目が定期的に回ってくるから、なんといっても本番の数が違う。それにドイツ人だったら、今自分があるモチーフを弾きながら、自然に耳に入ってくるドイツ語の歌詞を聞けば、ライトモチーフを体で覚えることが出来るのだ。

 日本のプロ・オケで同じレベルまで到達しようとしたら、こうしなければならないと思う。まず練習とは別にライトモチーフの講演会を行って、ライトモチーフの意味を頭に叩き込む。楽員も対訳をよく読んでストーリーを理解する。
 それから練習は、「弾けて合わせられる」というレベルをむしろ出発点として、今歌われている歌詞の意味とライトモチーフとの関わりを具体的に指揮者に説明してもらいながらたっぷりと時間をかけ、音楽とドラマの融合性をめざす。
 何のことはない、今僕が愛知祝祭管弦楽団でやっていることをやればいいのだ。そこまでやれば、日本のプロ・オケの水準だったら、愛知祝祭管弦楽団なんか足下にも及ばない素晴らしい演奏が可能だ。でもさあ、この経済最優先の資本主義の国で、どこのプロがそんな非経済的なことをやるだろうか。

 「ラインの黄金」の準備をしている時には、果てしなく感じられた愛知祝祭管弦楽団の「リング・プロジェクト」も来年の8月18日で完結する。早いものだ。しかし、その翌年の2020年9月には、2日間かけて「リング総集編」の演奏会をやる予定。各楽劇に1時間半、すなわち、それぞれ正味3時間の演奏会を土曜日と日曜日に行う。
 これで愛知の「リング」は本当におしまい。でもね、その翌年2021年には「ローエングリン」をやる予定。まだまだワーグナー漬けの日々は続く。嬉しいな。

「バイロイト音楽祭2018」の解説の準備
 NHK-FMの「バイロイト音楽祭2018」の「ワルキューレ」の解説原稿が苦戦していた。いろいろ言葉を選んで文章を書いているのだが、どうも歯切れが悪く冴えないので、何度も書き直しした。その理由はプラーシド・ドミンゴの指揮にある。

 楽劇「ニーベルングの指環」四部作から「ワルキューレ」だけ切り離されて上演されることは、世の中ではよくあることだが、バイロイト音楽祭では異例のことだ。何故そうしたかというと、かつてこの音楽祭で「ワルキューレ」のジークムントを歌っていたドミンゴが、バイロイト音楽祭に指揮者デビューするというので、それならば、一番身近な「ワルキューレ」ということになったのだろう。
 しかしながら、それが逆効果になって、終演後、ドミンゴにはおびただしい「ブー!」の嵐が飛び交い、僕が参考にといくつか見たドイツの各紙の批評は全て酷評。
「『リングは常に一セットで上演』というバイロイトの伝統ある風習を変えてまでも、ドミンゴに振らせたいがためにやった結果がこれでは、短絡的なウケねらいと言われても仕方なく、質の維持及び向上をモットーとしてきたバイロイト祝祭劇場運営の姿勢が問われる」
という論調が目立つ。

 問題は、それを解説する僕が、わざわざ悪口を言うつもりもないけれど、言い方次第では、ワグネリアン達から馬鹿にされて、
「三澤は何も分かっていない」
と言われるか、あるいは反対に、
「三澤はNHKにゴマをすって嘘ついている」
と言われるかどっちかじゃないか。
かといって、ドミンゴが指揮していることに何も触れないでスルーするっていうのもなあ・・・。

 その一方で、歌手達は素晴らしい。新国立劇場でもジークムントを歌っていたステファン・グールドの安定した歌唱や、アニア・カンペのジークリンデの中音域の豊かさは特筆に値するが、それだけにかえって残念の気持ちが湧き起こってしまう。
 いかんせん、ドミンゴの指揮は彼らの作り出すドラマのレベルについていけていない。禁断の愛にのめり込んでいく兄妹のふたりがテンポをたたみかけようとしても、レシタティーヴォ的な部分のオケの合いの手の伴奏は、間が抜けたように遅い。
 Opern&Konzertkritik Berlinの批評では、
「かつてキリル・ペトレンコが同じプロダクションで指揮していた時の、あのクリアーにコントロールされたオケのサウンドや、一体感や、極度の緊張感に満ちたドラマ性が忘れられない」
と書いているが、不思議だ!
 かつて僕がバイロイトで働いていた時、ユルゲン・フリム演出の「ミレニアム・リング」で歌っていたジークムント役のドミンゴの歌は、むしろドラマチック性に優れ、知性を感じさせる揺るぎない表現力を持っていた。
 ドミンゴは、パバロッティのように声だけで勝負する人ではなく、総合的な音楽性が武器だった人のはずだ。それでいて、音色に関して言っても本当に惚れ惚れするような美声。その意味ではグールドよりレベルは上。
 だから少なくともジークムントの箇所では、立場が反対になっただけで、うまくサポート出来るはずだろうと思っていた。それがそうでもないんだ。まあ、指揮者なんて、見ていると誰でも出来そうなので、みんな安易に手を出すけれど、そう簡単ではないってことだね。僕なんか、長年指揮者をやっているけれど、やっと最近だものね。
「ああ、指揮をするって、こういうことなのか」
と思えるようになったの。

 ただね、先ほども書いたけれど、バイロイト祝祭管弦楽団のクォリティの高さには舌を巻く。指揮者が音楽を構築してくれない場合、なんにもない演奏になってしまわないためには、オケのひとりひとりの奏者が内に持っている美意識を発揮しなければならない。その点、バイロイト祝祭管弦楽団の個々のプレイヤーの、技術的レベルもさることながら、なんといっても音楽的イメージが確立していて、しかもみんなそれを共有しているのだ。逆に言うと、これを聴くのも、別の意味で興味深いかも知れない。
 本当は、解説でも、こうしたオケのうまさについて語りたい。でもなあ、それを言うためには、ドミンゴの指揮に触れないといけない。ああ、どうしよう。みなさんは、どう思いますか?

 その一方で、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の演奏は素晴らしいの一言に尽きる。フィリップ・ジョーダンの指揮が輝いている。あのバッハ風の対位法に満ちた音の綾が、なんと透明感をもって響いてくるのだろう。
 クラウス=フローリアン・フォークトをはじめとする歌手陣もみんな粒が揃っていて、みんなドイツ語の表現が素晴らしい。これは稀有の出来だ!だから僕の解説原稿も進んでいる。正直な感想を述べればいいんだからね。

 聴きながら僕は2000年のクリスティアン・ティーレマンの演奏を思い出していた。あの年、ティーレマンは初めてバイロイトに登場した。彼は生意気で、オーケストラの練習にも横柄な態度で臨むため、楽員達の半分は反感を持っていた。でも、初日の幕が開く頃には、ほとんどの楽員は彼を支持し始めたのだ。
「ああ、ヨーロッパは凄いな!」
と感動した。態度ひとつで潰されてしまう日本社会では、絶対に出てこれないタイプなのだ。僕は、
「この人は将来のバイロイト音楽祭を背負って立つ人材なのではないか」
と思っていたけれど、当時は「ニーベルングの指環」を指揮していたジュゼッペ・シノポリが期待の星だったんだ。でも、そのシノポリは次の年急死してしまって、それからティーレマンの評価がうなぎ登りとなり、僕の思った通り現在の彼のバイロイトでの地位に至っているのだ。
 そのティーレマンの「マイスタージンガー」の演奏も、同じような透明感を持っていた。ただジョーダンの作る音楽は、ティーレマンのように低音を強調した重厚なサウンドではなく、もっと速めのテンポでキビキビと音楽を進めて行く。このすっきり感を、ドイツ的ではないとマイナスに評価する人もいるだろうな。

 もうひとつの「さまよえるオランダ人」は、まだ聴いていない。またこの「今日この頃」で中間報告をするかも知れないが、事前にあまり正直な事ばかり書いたら、NHKから怒られるかもな。

  

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