本当の上達をめざすならば

三澤洋史 

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済みません!
 またまた、スキーの話題のみです。スキーに興味のない方、申し訳ない!でもね、他の処全部飛ばしてもらっていいから、一番最後の「僕がスキーをする本当の理由」だけは読んで下さいね。

充実した週末
 2月9日土曜日。ガーラ湯沢は快晴。というと、素晴らしいには違いないんだけれど、日中になったらどんどん気温が上がってきて、滑っていると真夏のような気持ちで汗びっしょりになった。お昼に下山コースを滑ってセンターのカワバンガに行って着替え、午後滑り終わったらまた着替えた。今、こんな気候だったら、この先雪がどんどん溶けて、スキー場はどこもかしこもたちまちクローズしてしまうで。ああ、心配!

 今日は、次女の杏奈と一緒。まあ、パパと行けばみんなパパが払ってくれるから付いて来るんだろうけど、それでもね、若い娘が、こんな64歳のじいさんと2人でスキーに行ってくれるだけでもありがたいねえ。
 杏奈とは、二度ほど中央エリアで一緒にウォーミングアップした後、北エリアに行って、時間を決めて別れた。僕はスーパー・スワンでひたすらコブの練習。不思議だねえ。斜度が低いと、落ち着いて上体がフォールラインを向いて滑れるんだけれど、斜度があると恐怖心が生まれるんだね。気が付いてみると体が山側に傾いている。それを何度も何度も同じ処を滑りながら小さい成功体験を重ね、しだいに恐怖心を取り除いていく。
 この恐怖心との戦いと、その克服というのは、自分の人生の中で、スキーをやる前には、あまり体験したことなかったので、このワクワク感は貴重だ。どんなことでも、自分が進歩するってことは、魂が喜ぶことなのだ。
 上体を谷に向けて、さらにもうひとひねりすると、スキーのテールがもっと使えるようになって、スピードコントロールが容易になるんだ。恐怖心には、きちんと向かい合えば合うほど、より安全になるように出来ている。うーん・・・深いな。

 お昼になった。僕は軽いものを食べようと思ったけれど、杏奈はブルーシールというアイスクリームの店でハンバーガーが食べたいという。連れられて行って、全部乗せの巨大なブルーシール・ハンバーガーを食べてしまった。それからまたガシガシと滑って、3時前には上がり、ガーラの湯にゆっくり入って足を揉み、IRORIラウンジという休憩所でゴロンと横になって一寝入り。これが出来るのでガーラ湯沢はいい。
 杏奈とは高崎駅で別れて、彼女は国立の家に行って杏樹と遊ぶし、僕はこれから新町歌劇団の練習だ。練習所に行くと、先日キャンプに来てくれたYさんが、やや心が折れていたので慰めた。合唱の練習は楽しかった。というか、スキーをした後というのは、自分の体が軽くなっていて、半分飛び跳ねるようになっている。みんな笑っていた。

 次の朝、僕はお袋のいる介護付き施設に行った。実は冬の間に一度訪問しようとしたら、「今は、インフルエンザが館内で大流行していていて、お母様もかかっています。なので、緊急の用事以外では、来館するのをひかえてもらっています」
と言われて、やむなくそのまま東京に帰った。なので、久し振りの訪問であった。
 いつものように認知症でボケボケだけれど、言うことが変だなと思っても、
「そうだね」
と相づちを打っていると、機嫌が良い。お袋が機嫌が良いと僕も嬉しい。

 その後、八高線に乗ってのどかな農村風景をぼんやり眺めながら一度国立駅まで辿り着いて、志保、杏奈及び杏樹と駅前のおいしいパスタ屋さんでお昼。妻は立川教会に行きっぱなしで、いろんな用事で捕まっているので、いつも“日曜日は行方不明”ということになっている(笑)。
 それから自宅に帰って、ちょっと用事を済ませて新国立劇場に向かう。その日は18時から読売日本交響楽団シェーンベルク作曲「グレの歌」のシルヴァン・カンブルラン氏のマエストロ稽古。もっとこのことを詳しく書きたかったけれど、残念ながら時間がない。カンブルラン氏の指揮の運動は理にかなっていて、良い指揮者だ。演奏会もとても楽しみ、とだけ言っておこう。

こんな風に充実した週末であった。
 

つながる気付き
 先日のBキャンプの上級クラスでは、廻谷和永(めぐりや かずなが)さんが僕たちにいろいろ教えてくれたが、その中で、自分にとって画期的なことがひとつだけあった。それはスキー板の前後差について強調していたこと。角皆君もその点は言わないでもなかったけれど、廻谷さんほど強調していない。
 面白いもんだね。目的地は一緒でも、人によってこだわるところが違うと、教わっている側からすると、あるものにヒットしてあるものはスルーするから、情報の出所は多い方が良いともいえる。つまり僕は廻谷さんの前後差にヒットしたわけだ。

 斜滑降している時、重心が乗っかっている谷側の板は、山側の板より少し後ろに下がっている。それは、上体が谷側を向いた外向傾の体勢にあるので、谷側の腰が引けているのとも関係している。
 それが、切り替えを行って、新しい軸足に重心が乗ると、その瞬間に両スキーの前後差が逆転して、新しい軸足(外足)は(まだ山側にありながら)後ろに下がる。スキーヤーは重心をクロスオーバーしてその軸足にしっかり乗り込み、すねで靴のベロを押しながら板の真上に乗る。ここに安定感が生まれる。
 板の真上に乗ったなら、ブーツで思い通りに板を回し込める。この回旋動作がターン弧の大きさを決める。安定した斜面でスピードが欲しければ、縦長のS字ターンをし、斜面が荒れていれば、早めに回し込んでスピードコントロールをする。
 乗り込んだ時のつま先加重がカカト加重になるまでの間でターンの大きさが決まる。ロングターンからショートターンまで思いのまま。特にショートターンでは、ひとつのターンの中での動きが速いため認識されづらいが、角皆君が「無限大∞の動き」と言ったように、つま先加重からカカト加重までの絶え間ない運動がある。

 角皆君がショートターンを教えていた時、
「上体をクロスオーバーするという意識の代わりに、足を引くという意識を持って、まるで下向きのハートを描くように、切り替えの時に足を引きながらターンをしてみよう。上体はずっとフォールラインを見て、肩のラインも水平を保って」
と言っていたが、これも、「新しい外足を後ろに引く」という廻谷さんのコメントと僕の中ではつながった。なるほど・・・異なるアプローチでも、ある時、なあんだ、こういうこと言っていたのか、とつながるのだ!

本当の上達をめざすならば・・・
「やっぱりそうだ」
3月9日土曜日。ガーラ湯沢中央エリアの中級斜面ジジで、最初のターンをした時に、僕は確信した。

「切り替えした直後に、ちょっとだけ内傾します」
という廻谷(めぐりや)和永インストラクターの言葉が頭の中で響いたが、K2の244というモーグル用の板では、その心配はないのが分かった。
 何故なら、ほとんどカーヴィングがないと言ってもいい244(といっても半径20mのゆるいカーヴィングはついている)で、内傾して外足の内エッジでターンを始めても、なんにも良いことが起こらないからだ。
 ということはね、板がカーヴィングしていなければ、Fスタイルやスキー・エストで求めている昔ながらの外向傾の滑りは、とてもやりやすくなるということなのだ。そして、もし、そのメソードがスキーの王道だとしたら、「Rの短いカーヴィングスキーというものは、スキーの上達にとって妨げ以外のなにものでもない」ってことになる。

 僕はVelocityという板を愛した。僕が一番上達した時に何年か使っていた板だ。Velocityはまるで小悪魔のようで、ターンの始動の時に、
「ほらほら、内足のエッジを切り替えて、内傾から始めるとステキだわよ!」
と僕を誘うんだ。R 12mくらいのとっても良くしなる板。でも、彼女は僕を本当の幸せには導いてくれなかった。
 先日のキャンプで使ったSpeed Chargerは、もっとRの大きいレーシング用の板。だが、やはりカーヴィングは良くする。なので、僕の体の中にはなんとなくカーヴィングから始める傾向が生まれてしまっていた。

 「マエストロ、私をスキーに連れてって2019」キャンプの中で、先週も話題が出たキャンプの言い出しっぺであるIさんや、指導員の資格を持っているSさんなどは、2本の板をきちんと揃えて、きれいな外向傾のシルエットを映し出しながらターンをする。彼らは、カーヴィングスキーが出現する前に、徹底的にスキーを学んだ人達だ。当然、その頃の板は細くて長くてサイドカーブはほとんど入っておらずまっすぐであったろう。
 ところが現在、どうも彼ら昔の上級者を取り巻く環境は居心地が良くない。
「まだ、そんな滑りをしているの?遅れてる!」
「外向傾が強すぎるのは良くない」
などという論調が、スキー雑誌などでも目立つ。

 僕が思うには、一番メジャーなスキー・ジャーナルという雑誌が廃刊に追い込まれたのは、そんなことばっかり言っているから、昔ながらのガチな上級スキーヤー達が離れていったせいではないかと思う。
 現在残っている唯一の月刊誌スキー・グラフィックで、グラビアを飾っていたり、付録のDVDで観られる映像は、みんな、ワイドスタンスで、外足を突っ張って内足を小さくたたみ込んでいるスタイル。
 上級者であれば、すぐ真似することは出来るだろうが、あらかじめ決められたレールの上をただなぞっているだけのスタイルは、「自分の思いのままに滑る」というよりも「ただ板に滑らされているだけ」というものだ。それに、ゲレンデが少しでも荒れると、もう使い物にならない。つまり、全てのコンディションをボーダーレスに滑ろうとする上級者達にとって、実は全く興味を引かないものであるのだ(まあ、レーシングとなると、またちょっと話は違うのだけれど・・・)。

 おまけに、そのカーヴィング・スタイルを初心者から取り入れて構築された基礎スキーの指導体系に疑問を持った上級者は、その中枢に入って技術選手権などに出場しようという意欲もなくなってしまうだろう。
 ましてや彼らは、デモ選手達の、
「オレに付いて来い!」
と得意になってカーヴィングでロングターンをする映像などを観て、
「あいつ、本気でそう思っていないだろう。SAJに迎合して魂を売っているんじゃないか?」
と思って、ますますヒイてしまうのではないか。

 そもそも基礎スキーって何なんだ?他の国にはそんなものないだろう。たとえば水泳ならば、オリンピックなどの競泳の世界でタイムを打ち出せる選手のスタイルが、そのまま下まで降りてきて、初心者まで通用するだろう。
 たとえば、平泳ぎなどは昔から少しフォームが変わったけれど、それは、研究の結果、最も能率的でムダがない方法に辿り着いたためだ。従って初心者にとっても結果的には楽に泳げるフォームなので、初心者と上級者との間にギャップはない。
 基礎スキーもね、そういう風に上から下まですっきりつながっていればいいんだよね。ところが、日本の基礎スキーの世界では、そのままでは絶対に荒雪やコブや新雪にはいけないメソードを初心者に叩き込んで、長い目で見た場合、一体どこに彼らを向かわせようというのか分からないんだよ。
 技術選手権の上位入賞者は、本当に我が国で最もスキーの上手な人なのか?もしかしたら、技術選そのものが、「スキー連盟がその時その時に望む滑り方に最も良く従った者のみが上位になれる」という、真の技術を競う世界から遊離した、いわゆる「コップの中の嵐」なのではないか?その権威にどれだけの意味があるのか?世界に通用するものなのか?と僕は問いたいのだ。

 さて、僕の疑問の一番深いところと、その解決方法を言ってみよう。これは、スキーにプロとして携わっている人には絶対に言えないことだろうが、僕は、ただのスキー好きのアマチュアに過ぎないから、遠慮なく言いたいことを言うよ。

 まず、スキー板のサイドカットのR(弧の半径)の小さいカーヴィングスキーというものが出現した時から、日本のスキー界を取り巻く経済界がこれに目を付けたのだと思う。それで、すでに板を持っている人達にその新しいカーヴィングスキーを購入させ、それによって低迷したスキー業界に新風を吹き込もうと思ったのだろう。そのこと自体は別に悪いことだとは思わない。
 けれど、
「これからのカーヴィングスキーでは、まるで自転車のように、右にカーブする時には体を右に傾けるのです。ほら、簡単でしょう」
とか、
「内足主導でカーブを始めるのです」
と、まるで詐欺師みたいに初心者に勧めたところから罪は始まっている。
 そして「悪夢の10年」と言われる2003年から2013年あたりまでの、全日本スキー連盟SAJの迷走が始まった。すなわち、ズラしによるスピードコントロールを禁止し、内傾して内足と外足に均等に乗って、カーヴィングのラインをブレーキなしで滑走する「二軸」とか「ハイブリッド・スキーイング」とかいう世界に類を見ない独創的?スタイルで、検定の2級まで取れてしまうというメソードを打ち立てたのだ。
 さすがに、それによってゲレンデで衝突などによる怪我人が続出したため、SAJとしても、にっちもさっちもいかなくなって、メソードは再びあらためられ、横滑りやシュテム・ターンなどの導入が行われたのは、イタリア語でmeno male(ああよかった)と言おう。

 しかし、相変わらず日本スキー教程の整地でのターン指導はカーヴィングが主体だ。ここには相変わらずメーカーからのカーヴィングスキー「売れ売れ!」圧力が幅をきかせているのだろう。
「今年の新商品は画期的です!だから3年前のはもう古い。新しく買い直してバッジ・テストに備えよう!」
なんてね。かつてのパソコンや、今のスマホと一緒。市場主義まっただ中。

僕の考え
 それでは、僕の考えを言おう。もし僕が全日本スキー連盟の頂点にいて、なんでも決定できる立場にいたら、僕はどんな反対があってもこれを押し切るつもりだ。

まず検定の1級までは徹底的に従来の外向傾のメソードのみを教える。
カーヴィングは意図的に教程に盛り込まない。
プルーク・スタンスでもパラレル・スタンスでも、意のままにスピードコントロールが出来て、どんなゲレンデでも安定して乗るテクニックを習得させる。
板は、なるべくRの大きい板を奨励する。

同時に、技術選手権の中に、外向傾の理想的な滑り方を取り入れ、雑誌の付録のDVDの映像でもこれを紹介し、初心者は必ずこれを目指すべきと促す。

カーヴィング技術を教程に盛り込むのは、外向傾が体に染みついた後のテクニカルくらいからで充分。その時に、レーシングのためのカーヴィング・テクニックを習得させる。
 こうやったら、昔の上級者達が喜んで戻ってくるに違いない。彼等は、再び自分たちの居場所をゲレンデに見出し、初心者達も迷いなく確実に上達する。そうすると雑誌のファンも戻ってくる。理想的な外向傾のスタイルを映像で何度でも観られるならば、僕だって毎月スキー雑誌を買うよ。

 それにしても短絡な経済効果優先のこの社会、なんとかならないかな。新しいものが何でも良いわけではないことを、僕は音楽の世界で嫌というほど知っているからね。どんなに音楽のテクニックが発展したって、未だにベートーヴェンの独創性を凌駕する人はいない。同時に、ジャン=リュック・ブラッサールのあの力に頼らぬしなやかな滑りを凌駕する人もいない。インゲマール・ステンマルクのScheren-umsteig(ハサミ切り替え)は不滅で、マルセル・ヒルシャーに引けを取らない。タイムでもないし得点でもない。みんな一代限りの素晴らしい覇者。

 大事なことは、全ての無駄をそぎ落として、最大の効率を生み出す体幹のあり方こそが王道なのだ。
それは必然的に美に向かう。
それを人は“機能美”と呼ぶ。


僕がスキーをする本当の理由
 僕がスキーをしているのは、楽しいからというばかりではない。キャンプのビデオで自分の姿を見ると、よくガッカリする。自分ではやってるつもりなんだけどな・・・とよく思う。でもね、人間ってそんなもんなんだ。自分で自分が見えていないんだ。
 指揮者の中には、歳を取って自分が巨匠に一歩近づいて良くなったと思い込んでいる人が多くいる。でも、そういう人に限って退化している。この人、昔はもっと良かったのに・・・って思っているオケマンや合唱団員は少なくない。

 実は、自分もそうだった。歳を取ってくれば自然に巨匠になってくると勘違いしていた。
それをスキーは気付かせてくれた。レッスンを受けている内に、ある時思ったのだ。
「まてよ・・・こうして出来ていると思っているのに、直される・・・ということは、自分の指揮の運動にも当てはまるのではないか?」
 そこで、出来るだけ客観的に自分の指揮法を見つめ直してみると・・・やっぱり退化している自分がそこにいたのだ。しかも、自分をこのようにシビアに客観的に見るということ自体を、自分は随分昔から放棄していて、ただ根拠のないウヌボレの中に甘んじていたのではないか、と気が付いたのだ。

 先日、昨年のモーツァルト200合唱団の演奏会のビデオを観た。そして自分の指揮をする姿を観ながら思った。今自分は、演奏会で感じていた通りの動きをこのビデオで観ることが出来る。自分の長所も、そして短所も、すでに自分が本番で感じていた通りに把握することが出来る。決して楽観的でもなければ、悲観的でもない。ありのままの自分を見つめられる。
これこそ、スキーをやっていたお陰だ。

 恐らく僕は、スキーをやっている限り、自分自身の欠点を嫌というほど見せられ、もっともっとうまくなりたいと思うだろう。同じように、自分の指揮の技法も、音楽へのアプローチそのものも、シビアに見つめ続け、進化したいと思い続けるであろう。

だから僕はスキーをするのだ。自分が裸の王様になってしまわないように。



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