「神々の黄昏」が成功しないわけがあろうか?

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

真生会館6月講座のネタバレ
 真生会館における「音楽と祈り」の6月の講座が迫っている。講座を依頼された当初、とりあえず5月6月7月の3回を頼まれたので、僕は3回を1セットにして、「霊的な観点からの音楽の本質」を語ってみようと思った。
5月は「音楽と聖霊」、6月は「音楽と祈り」、そして7月は「ミサと音楽」である。

 まず初回の5月講座では、音楽が、あらゆる芸術の中でも最も霊的であると位置づけた。音楽には楽譜というものがあるが、楽譜は音楽ではない。一種の設計図である楽譜を音楽たらしめるためには、演奏という再現行為が必要である。しかしながら、音楽は再現行為の刹那しか現れず、次の瞬間にはうたかたのごとく消え失せていく。
 そんなとらえどころのない音楽であるが、時に人の心に生涯忘れ得ぬほどの感動を刻印するのは何故なのか?僕は、演奏の最中における「聖霊」とも「インスピレーション」とも言われる霊的息吹の関わりを語った。

 6月の「音楽と祈り」では、後で詳しく書くが、祈りの本質と、祈りと音楽との関わりに迫ってみる。そして7月の「ミサと音楽」では、カトリック教会における礼拝の最高形式である「ミサ」への基本的理解と、ミサの参加時にどのように音楽と関わっていくべきなのか、などを説くつもりである。歌ミサのあり方についても触れてみたい。

 さて、もう講座をする前から、ネタバレをしてしまうのだが、6月27日木曜日10時半から12時まで真生会館で行われる講座のおおまかな内容は以下の通り。

まずは、祈りについて考察をする

祈りとひとことで言うが、宗教、宗派によって様々な形がある。
仏教、神道、他の宗教の祈り。キリスト教の中でも、カトリックの祈りとプロテスタントの祈りには違いがある。
定められた言葉の祈り(主の祈り、アベ・マリアなど)、自分の言葉での自由な祈り、黙想、瞑想など。 
イエスが教えてくれた祈り「主の祈り」の簡単なアナリーゼ。 
次に、祈りと音楽との関係について語る
音楽の精神に与える効果 
世俗音楽のある種の音楽は(あるいはリズムは)、トランス(没我)状態を導く。
一方、崇高な音楽を聴いている時の精神状態は、瞑想状態に近い。
では、良い音楽、悪い音楽はあるのか?
マルティン・ルターの思想:コラールを歌うという行為を通して、信仰の表明。
祈りに音楽は本当に必要か?みんな聖歌を歌っていたら自然に祈れていると勘違いしてはいないか?
聖堂内の会衆による祈りに、音楽は具体的にどのように作用するか?
また、どのような気持ちで、音楽を持って礼拝に参加していくべきなのか?
と、こんな内容である。後半の「祈りと音楽との関係」で、参加者には、これまで聞いたことのない、音楽と祈りとの驚くべき関係が明かされる・・・なんて思わせぶりなことを言っちゃいますが、それを聞きたければ今からでも講座に参加してくださいね。
最後に、宗教音楽を二曲ほど聴かせ、その価値と魅力について語るつもりだ。
途中で、ピアノによる即興演奏を披露するかも知れない。
まあ、とにかく一番楽しみにしているのは、他ならぬ僕自身である。
 

「神々の黄昏」が成功しないわけがあろうか?
 先週は、夜だけの「トゥーランドット」の立ち稽古の合間を縫って、わざわざ名古屋から上京して来て1泊したブリュンヒルデ役の基村昌代さんのコレペティ稽古を、19日水曜日と20日木曜日の二日間に分けて行った。
 19日は午後だけであったが、20日は、午前中に基村さんの稽古を行ってから、午後には成田眞さんが来て、ハーゲンのコレペティ稽古をたっぷり行ったため、朝から何時間もピアノの前に座っていた。そのまま夜の「トゥーランドット」の立ち稽古に突入したが、困ったのは、「トゥーランドット」の時に「神々の黄昏」の音楽が頭に鳴り響いていて離れなかったこと。

練習は嘘つかない
 しかし、「練習は嘘つかない」というのは本当だ。6月22日土曜日と23日日曜日の愛知祝祭管弦楽団の練習に参加した基村さんと成田さんが、目の覚めるような歌唱を繰り広げたので、オーケストラのメンバーのテンションが上がりっぱなし。
 あらかじめ稽古をつけていたジークフリート役の大久保亮さん、グンター役の初鹿野剛さん、グートルーネの大須賀園枝さん、ヴァルトラウテの三輪陽子さんと共に、とっても充実した二日間のオケ合わせであった。

アマチュアはプロを超えるか~稀有なる合唱団
 23日午後には、合唱団が参加して、第2幕の息詰まるシーンを練習した。ハーゲンの陰謀がひとつひとつ遂行されていく。合唱団を操り、「戦いだ!」と呼び寄せておいて、やがてグンターとブリュンヒルデ、グートルーネとジークフリートという二組の結婚式が行われると告げる。すっかり乗せられた合唱団は乱痴気騒ぎとなるが、連れてこられたグンターの花嫁ブリュンヒルデの様子が、なんだかおかしい。
 ブリュンヒルデは、グートルーネの隣に寄り添うジークフリートの信じ難い裏切りに茫然自失となる。やがて彼の手に指環を発見して、意味の分からないまま激しい怒りに変わっていく。咆哮するブリュンヒルデ。うろたえるグンター。有頂天なハーゲン。この高揚感を合唱団がしっかりと支えている。

 この合唱団の熱気たるやハンパではない。特に男声合唱団には、ワグネリアンが多く、しかも遠方からの参加者も多い。ワーグナーに賭ける情熱というか愛に溢れていて、新国立劇場合唱指揮者の僕が、こんなこと言ってしまって良いのかどうか分からないけれど、「神々の黄昏」を上演することに限って言えば、今日本で最高の合唱団と断言してもいい。
 これで僕がアマチュアしかやらない指揮者だったら、
「ほら、プロよ、ざまあみろ!」
と言い切っちゃうところなのだが、僕は、プロの世界にもドップリ浸かって、プロフェッショナリズムも追求している音楽家だから、同時に複雑な気持ちにもなっているなあ。来年の3月には、びわ湖ホールの「神々の黄昏」で合唱指揮者もするからね。

 勿論、新国立劇場合唱団がやる時には、ピアノの箇所はもっと弱く歌っても聞こえてくるだろうし、フォルテは楽々とオケを飛び越えていく。そういう風に訓練してあるし、プロ合唱団を率いているというプライドもある。
 しかしながら、アマチュアがプロを越える瞬間をも、僕はこれまで何度となく見てきた。そのひとつの結集が愛知祝祭管弦楽団という“現象”であるならば、それと同じ熱を放っている即席寄せ集め合唱団の“存在感”に稀有なるものを感じるのも自然なことである。少なくとも、“感動”ということに限って言えば、パフォーマンスにアマチュアもプロもないのである。

熟成期間
 この先、「トゥーランドット」プロジェクトのため、7月の全ての週末がふさがるため、僕が次に愛知祝祭管弦楽団の練習に行けるのは8月となる。だから、まだ公演まで2ヶ月近くあるこの時期に、こうしたほぼ全キャスト大集合のオケ合わせをやっているわけだし、それに焦点を合わせて、歌手達のコレペティ稽古も早めに行われていたのである。でも、それが今回はとってもプラスに働いていると思うし、またプラスに生かしてもらいたい。

 オーケストラは、僕の不在の間に、分奏などで弾けていない箇所の稽古をたっぷり行うことになっている。すでにこれから出来上がるであろう全体像が見えているので、あとは、ゴールに辿り着くまでの間に、どんな景色を眺め、それを愛でることが出来るか、ということに集中して欲しい。
 つまりは、弾けないところをクリアするだけではなく、それぞれが音楽の“旨味(うまみ)”の部分を発見し、それを自分の中で育んでいくべきなのである。

 歌手達は、歌えるようになってすぐに本番が来るのではなく、オケ合わせで自分を包み込んだワーグナーの色彩的な大管弦楽を、それぞれの心にしっかり取り込んで、これから長い咀嚼の時期に入るのだ。
 基村さんは、もう全箇所しっかり表情がついて歌えているけれど、また東京にコレペティ稽古に来ると言うし、成田さんの稽古も引き続き何度も行われる。成田さんは「トゥーランドット」でMandarino(伝令)もやっているので、スケジュールが一緒だから捕まえやすい。ハーゲンのキャラクターを深く掘り下げていくのは、むしろこれから。アルベリヒ役の大森いちえいさんとの二重唱の稽古も何度もやる予定。

 そういうことを、オケ合わせをやった後に、たっぷり時間かけて熟成させることが出来るって恵まれている。その意味では、今回の「神々の黄昏」こそ、愛知祝祭管弦楽団の「リング」の精神を最も忠実に体現しているとも言える。
 こうやって積み上げてきて、公演が成功しないわけがあろうか?逆に言うと、ここまでやらずして、どうやってこんな巨大な作品で、歌手も奏者も全員が作品を深く理解し、腑に落ちた状態で、公演を迎えることが出来ようか?

僕が指揮しても疲れない理由
 6月22日土曜日は、10時から19時まで。23日日曜日は、10時から16時過ぎまで。ずっと立って指揮しっぱなしだった。しかも、ワーグナーの音響の洪水を操り、オケと歌手とのバランスを聞き、細かいテンポの整合性をはかっていたので、帰りの新幹線の中でも、頭の中でワーグナーの音楽が鳴りっぱなしであった。

 しかしながら、長時間立って指揮していても膝や腰は平気だし、次の朝になっても、さして腕も痛くないのは、明らかに水泳とスキー及びお散歩のお陰だ。いや、それよりも、そうした運動で人からレッスンを受けたりしている内に、自分の指揮のフォームを見直し、良い体幹で、最も能率の良いフォームに辿り着いたお陰、と言った方が近い。

 たとえばクロールで、水を掻いているときには上腕二頭筋、上腕三頭筋あるいは大胸筋などの筋肉を使っているけれど、その後、腕を水から上げてリカバリーするために後ろから前に送る時には、それらの筋肉はむしろ休めて、肩甲骨を意識して広背筋など背中の筋肉を使う。
 これを僕は指揮の運動にも取り入れている。レガートの時に肩甲骨主体で腕を動かす時、少なくともアレグロで使う肘関節を動かすための筋肉は休ませることが出来る。曲想に応じて筋肉を使い分けるため、使っていない筋肉を休ませながら長時間の運動に耐えることが出来るのである。
 また、僕の指揮の運動を見ていると分かるだろうが、ディミヌエンドのところやテンポが緩むところで、腕全体の力をフッと抜く瞬間を意図的に作っている。この弛緩の瞬間に僕の全身の筋肉はリセットする。驚くことにその瞬間、オーケストラはとても反応し、楽員全体が良い意味での弛緩をするので、とても音楽的なディミヌエンドやリタルダンドが出来るのである。

 指揮者の仲間達と話をすると、みんな肩凝りや筋肉痛に悩まされ、時には指揮した次の朝に腕が水平より上がらないなどの問題が起こり、マーサージや整体への通院がはずせないという。
 実は、僕は生まれてから一度もそのことで悩んだことがない。マッサージにも整体にも一度も行ったことがない。もともと僕は、桐朋系の斎藤秀雄メソードで学んだ人達のようには、真面目に打点を叩いてないということもある。僕の手本はカラヤンだから、昔から音楽をラインで捉え、体幹を意識して指揮していた。
 それに加え、最近は運動力学的な研究をしているので、この先、どんどん年をとっていっても、腕が上がらなくなるようなことは恐らく起きないのではないかと思う。少なくとも、僕がこうした指揮運動をしている限り、構造的にそうしたことは起きないことになっている。

 もうひとつ重要なことがある。それは姿勢である。言ってみれば、とっても簡単なこと。骨盤を立てるということだ。理想はやはりカラヤンで、彼の場合、前傾姿勢にはなるが背中が曲がっているのを見たことがない。
 その一方で、斎藤メソード系の指揮者の場合、その教則本には何も書いていないので、メソード上の問題ではないと思われるが、背中を丸めてまるでカマキリが獲物を狙っているような姿勢をしながら、やたら先入といわれる振り方をしている人をよく見る。その時、どう見ても骨盤は寝ている。というかむしろ下部が前に回り込んでいる。
 これは、全ての分野の運動力学において、あってはならない姿勢である。そして、この姿勢で指揮を続けていると、断言するが、必ず腰を痛めることになる。

 若き指揮者達よ、どんなにカッコ良く見えようとも、これだけは絶対に真似をしてはならない。たとえば、この姿勢でスキーをすると、必ず板に置いて行かれて暴走し、転倒します。

 立っていることが職業である指揮者にとって、腰を守ることが第一である。そのために、一番良いことは・・・スキーをしなさい!そしてパラレルにまで早く辿り着いて、理想的な体幹を体験しなさい。

言っておきますが、指揮者の理想的な姿勢は、上級スキーヤーの姿勢そのものです!



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA