「エウゲニ・オネーギン」立ち稽古レポート

三澤洋史

写真 三澤洋史のプロフィール写真

モーツアルト200合唱団演奏会無事終了
 演奏会をやるといつもそうだが、メインの曲の最後が近づいてくると、
「ああ、もう終わってしまう・・・」
と、惜しむ気持ちで一杯になる。でも今日は、いつになくその気持ちが強く、胸の中を甘酸っぱい気持ちが支配していた。

 ベートーヴェンのミサ曲ハ長調では、終曲のAgnus Deiの展開がドラマチックである。明るいDona nobis Pacemの途中、にわかに危急を告げるハ短調の部分が訪れ、不安におののき喘ぐようにmiserere nobisが歌われ、その中からDona nobis Pacemを希求する。やがて、ホルンを中心にした啓示的なファンファーレが鳴り響き、冒頭のKyrieの安らぎに満ちた音楽が帰って来て終わる。
 僕が、いつにも増して演奏会の終わりを惜しむ気持ちになったのも、この内面の平安の成就ともいえる終結部のせいかも知れない。ハ長調ミサ曲の中に人生を見たのかも知れない。人生とは波乱に満ち、いろんなことが次から次へと起きてくる。その中で人は祈り、至高なる存在に身を委ねる。そして啓示が与えられ、安らかな終わりがやってくる。僕は、この曲のように生きたいと思っているのだ。
 だから、Kyrieの音楽への回帰の部分が、あまりに美しく感じられ、この瞬間が永遠に終わらないで欲しいと強く願ったのだろう。

 7月の終わりに、安曇野のコテージ「森のおうち」に泊まった際、松本の山下康一君の家を訪ね、山下君の奥さんの紅美さんとスピリチュアルなセッションをした話は以前書いた。それ以来、僕は、自分の音楽家としての使命をはっきりと悟り、その使命に従って音楽活動をしている。すると、どんな時でも、胸の中に「ワクワク感」があるのだ。
 その使命はどういうことかというと、
「音楽を通して、人々の中にハーモニーを創り出すこと」
なのだ。言葉で言ってしまうと、なんだか当たり前のことを言っているように見えるが、これは、プロの世界に生きていると、逆になかなか難しいことなのである。

ピアノ協奏曲本番までの軌跡
 大竹かな子さんとの、ラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第3番で、僕が彼女と接触を持った軌跡を辿ってみよう。

 僕が大竹さんと最初に愛知県立芸術大学で合わせをしたのが7月23日火曜日。その時点で、テクニック的には彼女はもう完成の域にあったので、僕がアドバイスする点はなにもなかったが、音楽的なサジェスチョンをいくつか与えた。
 次は、名古屋ムジークフェライン管弦楽団との合わせ。8月31日土曜日の午後に、たっぷり3時間とって細部まで掘り下げてオケとピアノを合わせた。詳しく言うと、このオケ合わせで僕は、ソリストの彼女がどうやりたいのか、それとオケとの整合性をどう取るのが理想か、という点を掘り下げた。僕は、彼女がオケに遠慮して、じぶんのやりたいことが伸び伸びと出来なくなり、変にインテンポになったりすることだけは避けようと思っていたのだ。
 ムジークフェラインは、アマチュア・オケだから、こうした事に喜んで付き合ってくれる。これがプロだったら、いわゆる「合わせる」ということ以外にあまり時間を割くと嫌がられるのだ。
 それに、通常だったら、1回合わせをしたら、もうゲネプロ&本番というのが常識だから、ピアニストはむしろ、オケや指揮者のことなどお構いなしに、自分勝手にどんどん弾くのが普通だ。本当は、ピアノ協奏曲のソリストだって、アンサンブルをしなければならないのに・・・。
 その日、僕はオケ合わせ後、彼女ひとりを残して、さらに1時間以上レッスンをした。音楽的ニュアンスを出そうとして、テンポを揺らしたりするのはいいが、まだ経験が浅い彼女の中に、多分に独りよがりで、他人に伝わりにくい個所があるのを丁寧に直す。
 たとえば、リタルダンドの最後の瞬間にテンポを速く戻してしまうと、オケは必ず置いて行かれる、とか、ある音をちょっと強調するかどうかで、彼女が表現したいニュアンスが、オケに伝わったり伝わらなかったりする、とか、全てがほんちょっとのことなのであるが、オケとアンサンブルするためには、とても重要なことなのである。
 そのまま次の日、すなわち9月1日日曜日も、午前中2時間協奏曲のオケ合わせで、午後はベートーヴェンのオケ合わせであった。一度通し稽古をやって、その後直したが、この時、彼女とオケとの関係が劇的に変わった。

 それから、次の週、すなわち台風でやっと東京に帰って来れた8日日曜日のオケ合わせでは、一度完全に通した後、またまた丁寧にニュアンス合わせをやり、オケだけの練習も行った。
 帰りが心配だったので、練習を終わって急いで帰り支度をしていたら、向こうの方から、第2楽章の30番近辺のピアノと弦楽器が一体となってクライマックスを作りだしていく音楽が響いてきた。コンサート・ミストレスの飯田さんが、大竹さんに頼んで、一緒に弾いてもらって、ピアノのニュアンスに寄り添おうと弦分奏をしていたのだ。練習が早く終わって会場は開いているからね。ああ、こういうのがアマチュアの素晴らしいところなんだな、と胸が熱くなった。
 そして本番の前日の14日は、最初に止めながら練習し、休憩して最初から通した。通すときには、必ずピアノだけのカデンツァの部分も全部演奏した。ということは、ゲネプロも含めると、少なくともノンストップで4回は通していることになる。

 これだけやるとね、ソリストがどんなに勝手に弾いたとしても、「勝手の振れ幅」って同じ人間でそんなに変わるものではないから、指揮者もオケも聞きながら対応できるようになるのだ。また、ソリストの方にも、ミスタッチや音のもぐりなども含めて、どう転んでも、最低でもここまでは確実に出来るんだという自信が生まれてくる。
 それにしても大竹さんって、テンポの揺れは、その時の気分によって変わるが、4回の通しでのテクニック的なブレは最小限で、ミスタッチも驚くほど少ないのは、どう考えてもタダモノではない。

 それで迎えた演奏会だが、自分から語るより、本番後のアンケートで多数書かれていたのは、
「こんなにピアノ独奏とオケが一体となったこの協奏曲は聴いたことがない」
という意見であった。そして、ピアニストが良かった、というだけではなくて、この曲を味わった、という意見が少なくなかったのが嬉しかった。勿論大竹かな子さんが素晴らしかった、という意見は全ての人が書いていた。

 僕はね。演奏会当日、名古屋駅から中村公園の大鳥居までお散歩をしながら、
「大竹さんが、自分の持っているものを充分に発揮して、伸び伸びと弾けますように。そのためのお手伝いを自分が出来ますように!」
とお祈りをしていた。そして、祈りながら、自分の胸に確信が生まれたんだ。
「この祈りは必ず叶う!」
と。
 皆さん、僕は声を大にして言います。自分を無にして、他人のことだけを本当に想って行う祈りは、必ず叶います!

写真 ブルーの衣装で花束をもつピアニストの大竹かな子さんと三澤洋史
大竹かな子さんと


目的は調和
 ベートーヴェンのミサ曲ハ長調も、ソプラノの飯田みち代さん、アルトの三輪陽子さん、テノールの大久保亮さん、バスの鈴木健司さんというソリスト達が、それぞれの味わいを出しながら、モーツァルト200の合唱団とも溶け合って、ひとつのユニットとなってくれた。ここでも調和が実現したといえる。
 特にBenedictusのアカペラの四重唱は、「私が、私が」というソリストが集まった日には目も当てられない状態になるものであるが、むしろ水も漏らさない美しいハーモニーが見られてとても嬉しかった。

 モーツァルト200合唱団は大健闘!本番では見違えるように声が飛び、しかも力みすぎず、しなやかな音楽を奏でてくれた。暗譜で指揮している僕がアインザッツを全てあげるので、団員の中には、途中まで譜面を見ていたが、やがて僕だけをガン見する人がどんどん増えてきた。それに伴って、音楽が進むにつれて、集中力がますます高まってきた。

写真 コンサート終演後、ソリストのみなさんと三澤洋史
ピアニストの大竹かな子さん、ソプラノの飯田みち代さん、アルトの三輪陽子さん、テノールの大久保亮さん、ベースの鈴木健司さんと


 この合唱団を根気よく指導してくれた山本高栄君、ありがとう!
団長の鬼頭茂成さんは、
「またまた三澤マジックが起きました!」
と打ち上げで言ったが、マジックを起こしているのは僕ではなくみんなの方。日頃の地道な練習が、本番で華開いたということである。
(事務局注 2021リニューアル時に追加)
 山本君は、打ち上げ会場まで僕を送っていく車の中で、
「先生、僕の目標は先生のようになることです。みんな、心から先生を尊敬しているでしょう。僕もそんな人になりたい。どうしたら、そのようになれるのでしょうか?」
と言ってくれたので、とっても嬉しかったが、
「目の前に与えられたことを地道にやることだよ。シスター渡辺和子さんが言っている。置かれたところで咲きなさい、とね」
と答えておいた。あとは年月が必要。それとブレないこと。

写真 楽屋にて合唱指揮者の山本高栄さんと三澤洋史
山本高栄君と


 さあ、自分の指揮する本番は、この後しばらくおあずけで、僕は新国立劇場シーズンの真っ只中に入り、サラリーマンのように劇場に通う日々となる。

「エウゲニ・オネーギン」立ち稽古レポート
 「エウゲニ・オネーギン」の立ち稽古の練習場に行って驚いた。ドミトリー・ベルトマンのつける演出が素晴らしいのである。こんな時の合唱団員は現金で、たちどころにベルトマンの能力を見抜いて、喜んで彼に従って何でもやろうとする。ベルトマンの方も、そんな合唱団から、どんどん能力を引き出していくが、もっと出来るなと思うと、さらにハードルを上げていく。
 こうして初日から、もの凄いハイレベルな立ち稽古が進行していった。ベルトマンは、合唱団をマスで動かすだけでなく、団員ひとりひとりの演技的能力を瞬時に見分ける特別な才能があり、たとえば、合唱団が急いで退場していく場面で、ソプラノの黒澤明子さんをつかまえてこういう指示を出した。
「あなたは、みんなと一緒に出て行こうとするんだけど、一瞬立ち止まって、何か忘れ物をしたように見せかけてテーブルに戻り、あたりの食べ物を急いで物色したあげく、銀のスプーンを発見して、胸元にこっそり入れて戻って行ってくださいね。ロシアの田舎では、こんな風に、お大尽の家に招待された時に、気に入ったものをくすねる、なんてことは日常茶飯事なのです」
 また彼は、第3幕で集まっている合唱団のメンバーを見つめていたが、アルトの四家緑さんに視線が止まると、彼女からずっと目をそらさず、アルファベットの名札を読み、
「Shika・・・・シカ・・・・Nice to meet you!」
と言うもんだから、一同大爆笑。ああ、彼女に目を付けたなと誰しもが思った。
「あなたには、特別なことをやってもらう」
と言って、長いキセルを持たせ、外国から帰ったオネーギンをじっと怪しい視線で見つめる謎の女性を演じさせる。その雰囲気は四家さんにピッタリだ。

 パーティーにお呼ばれしたシャンソン歌手トリケ役の升島唯博さんも、ベルトマンにその演技力を買われて、尊大な雇われ歌手を演じ、歌いながらウォッカをぐい飲みし過ぎて泥酔してしまう演出を言い渡された。さらに、オネーギンとレンスキーの決闘のシーンに、やはり酔っ払って介添人として現れるなど、ト書きに全く書いていない役どころが与えられている。
 まあ、本来シリアスなこのオペラにギャグのような要素が持ち込まれ過ぎかな、というきらいもあるが、この作品は、イタリアオペラと違って、チャイコフスキーの音楽は美しいものの、やや冗長と感じられる部分もあるので、それらの個所に飽きないための配慮が周到に加えられているのは、とてもいいと思う。

 また、指揮者のアンドリー・ユルケヴィチも、音楽的で分かり易くとても良い。キャスト達もそれぞれ秀逸。タチアナ役のエフゲニア・ムラーヴェアが、あまりに美人なので、毎回彼女に釘付け。
 今週から舞台稽古が始まるが、とっても楽しみ。また報告します。

「なつぞら」もうすぐ最終回
 天陽君が逝ってしまって、結構天陽ロスになっている。なつと、互いの天職である絵でつながっていながら、恋人とか夫婦になるのではなく、それでいて深いところで誰よりも分かり合えているという、ひとつのソウルメイトのあり方を示していて、僕にはとっても共感が持てた。
 徹夜で馬の絵を完成させ、自分の畑で大地のふところに包まれて亡くなる、というシーンも感動を呼んだ。芸術家は、やらなければならないことは、命を賭けてもやる。命がなんだ!やり切った者をやさしくハグするのは大自然の慈愛。
 天陽君の透明感とやさしさを出すのには、吉沢亮の美形が不可欠だ。ただのイケメンではない。映像に「人格としての美しさ」を漂わせるのは至難の業だ。それを、さらりとやってのけた。

 草刈正雄のじいちゃんは、最近は、画面に登場するだけでウルウルくる。本当の優しさとは、厳しさの中にあることを教えてくれた。同じジージでも、僕の場合は杏樹にメロメロで猫かわいがりし過ぎて、すっかりナメられているからなあ。泰樹さんのように育てたら、孫からは畏敬を伴った愛情を得ることができるのは分かっている。でも、もう手遅れだなあ・・・。

 この物語からは、“描くことの素晴らしさ”を教えてもらっている。たとえば、牛が向かってくる動画について、なつが、
「子どもの目から見ると、牛ってとっても大きいの。その大きさを表現したらどうかしら」
というコメントをカミッチに出す。
こうしたひとつひとつのシーンを丁寧に表現するって、とっても勇気をもらう。だって、世の中、
「そんなことしたって誰も気付かない。労力のムダ」
なんていう意見がはびこっているじゃないか。でもね、その一見ムダに思える事の中にこそ、ワクワクがあるんだよね。
 以前なっちゃんが、急な坂を降りる馬を描いた時だって、前足を4本描いた。
「あはははは!」
と思うじゃない。そういうことを発見した時の、ときめきに似た感情。これこそ、何かを創り出す者の原点なんだよ。
そんな沢山のことを、連続テレビ小説「なつぞら」は僕に教えてくれる。

まだ半月あるけど、僕にはもう「なつぞら」ロスが始まっている。

  


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© HIROFUMI MISAWA