「エウゲニ・オネーギン」舞台稽古レポート

三澤洋史 

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今月の「音楽と祈り」講座
 9月からまた真生会館での「音楽と祈り」講座が再開する。春の3回の講座をやりながら、僕は音楽家だから、あまり教義的なことを語っても仕方がないな、という印象を持った。それに、自分自身のことを振り返ってみると、求道者でいた時代も、洗礼を受けて信者になってからも、無意識のうちに芸術家的アプローチでキリスト教と向かい合っていたことに気が付いた。
 夏の間に、自作ミサ曲の初演があり、愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」演奏会があり、モーツァルト200合唱団でベートーヴェンのハ長調ミサ曲を指揮したりした。そこで、沢山インスピレーションを受け、霊的にもわずかながら成長したのではないかなと思う。夏が終わろうとする頃には、秋からの講座がもう楽しみになっていた。
 
 再開する9月26日木曜日の講座では、まず、自分の体験を元に、芸術家としての信仰のあり方について語ってみようと思った。題して「ある芸術家の信仰生活」。この講座の中で僕は、ひとつの大切なことを語ってみたい。それは、以下のことである。

 世の中には・・・あるいは人生には、至る所に宝物が隠れている。世界は神秘に満ちている。この神秘は、全ての人間の前に開かれていて、それを探求することが人生の本当の目的であり、それを発見した時には、法悦ともいえる大いなる喜びが与えられる。ちなみに法悦という言葉は、仏教用語で、「法のもたらす悦楽」のことである。

 実は、神様は自分の姿を現したくて仕方がない。でも、この世には法則がある。それは、受け手の方のSympathy(共感)を通してしか、神の顕現は成し得ないということである。「神がいるというなら、俺の前に出してみろ」
と高飛車な態度で言っている人の前には、残念ながら神は絶対に姿を現さない。
 でもSympathyを持っている人には、神は様々な方法を通してその姿を現してくる。それを発見し、喜びを持ってSympathyを深めていけばいくほど、ますます人は神に近づき、神に愛されているという実感を手にし、信仰心もごく自然に深まっていくのだ。

 それは一般的には“奇蹟”と呼ばれる。しかし、世の常識はそれを否定している。この世は、SympathyよりもAntipathy(反感)に支配されていて、奇蹟は隠されてしまっているからだ。
 だから一般の人にとって、世界は単なる偶然の集合体であり、人生も、無秩序で突発的であり、先の見えないものと認識されている。自分がこの現代の日本に生まれ落ちたのも、たまたまならば、自分の人生に降りかかってくる様々な出来事も、行き当たりばったりの偶然と思っている人のなんと多いことか。
 不思議なことに、教会に足しげく通っている信者でさえ、この常識に染まっている人が少なくない。その人にとっては、奇蹟は聖書の中だけの出来事であり、神は沈黙していて何もしない。自分の祈りも、聞いてくれるんだかくれないんだか分からない。信者の神への想いは一方通行であり、神からの愛を感じることはない。
 この片思いは悲しすぎる。それでも神を信じ続けていくのが信仰生活だと思っているとしたら、もっと気の毒である。
「だって、奇蹟なんて、そんな簡単に起きるわけないじゃない」
と、思っているあなた!それでは本当の信仰生活を送っているとはいえないのだ。
 奇蹟はね、あなたが思っているよりもずっと簡単に起きるし、実際起きている。でも、あなたが気が付いていないだけ。あるいは、それを目にしても、そんなはずはないと思い込んで否定しているだけだ。
 それに、死人が生き返ったり、海が割れたり、聖母マリアが現れたりするだけが奇蹟ではない。もっともっと小さいもので充分。大事なことはそれを信じること。それを神からのサインだと感じ、人生の宝物だと認識し、自分が神から見捨てられたちっぽけな存在だという気持ちを捨てて、意味のある・・・価値のある・・・生きるに値する人生だという悟りに至ることだ。

 それではどうやってそれを見出すことが出来るのか?という方法を今回は教えるので、知りたい人はどうぞ講座に来てください。とっても詳しく話してあげます。
でも、ちょっとネタバレをしよう。誰にも簡単に奇蹟を感じる3つのキーワードは以下の言葉である。

共時性syncronicity
インスピレーションinspiration
出遭いの神秘encounter
 この3つの言葉の中で、一般の人には、ユングの説くところの「共時性」が、奇蹟を認識する最も近道ではないかと思われる。この共時性については、特に時間を割いて詳しく話すつもりである。
 音楽家の僕にとっては、むしろインスピレーションを受けることによって至高なるものの存在を身近に感じることが多い。プロの音楽家は(アスリートもそうだと思うが)、毎日ある種の行(ぎょう)というか精進の生活をしていて、自分に何かを課したり、時には自分の限界に挑戦するような毎日を送っている。
 それだけに、自分の弱さにもしばしば赤裸々に向かい合わざるを得ない。しかしながら、まさにそんな時ほど、自分を包んでいる存在を感じることが少なくない。そもそも、「何かに無心になって没頭している時」というのは、すでに祈りと同じ精神状態にいるのである。
 最近ではよく「神(かみ)ってる」という言葉を耳にする。これなんか、まさにその人を通して、天上からの働きかけが表れている証拠なのだ。

まあ、こんなことをいろいろ話します。

 そして今回から、講座の後半で、実際の楽曲を取り上げて、それを霊的観点から解説するコーナーを設ける。その第1回を何にしようかなと考えていた。やっぱりバッハかな?僕が、「自分が死んだらこの曲を演奏してね」と周囲の人達に言っているカンタータ106番にしようかな?とか、ロ短調ミサ曲にしようかな?とか、ブラームス作曲の「ドイツ・レクィエム」にしようかな?とか、本当にいろいろ迷っていたが、熟考に熟考を重ねた末、これしかないでしょうという曲があった!
 ジャジャーン!発表します。それは、マーラー作曲交響曲第3番です。なに?あまり馴染みがないって?それでは、なおのこと講座にいらしてください。僕が懇切丁寧に解説し、実際の音楽に触れれば、絶対に好きになります。この曲こそ、世の中に隠れている神秘をひとりひとりに発見させる格好の題材であり、最も音楽家らしい悟りの境地がそこに見られるのだ。
 今の自分が最もやりたい曲のベスト1なんだ・・・と、思っていたら、なんとこの曲を僕は実際に来年の5月5日に名古屋で演奏する!その話が、向こうから「カモがネギをしょって」飛び込んできたのだ。そのいきさつを語るだけでも、共時性の良い例となる。

ということで、またまた内容の濃い講座になります。皆さん楽しみにしていてください!
 

「エウゲニ・オネーギン」舞台稽古レポート
 「エウゲニ・オネーギン」がリハーサル室での立ち稽古を通って舞台稽古に入っている。ドミトリー・ベルトマンの演出が素晴らしいことはすでに書いたが、劇場で見るとますますそれが際立って感じられる。

 第二幕、ロシアの田舎での、タティアナの「命名の日」を祝う下品で喧騒に満ちたパーティーの描写も素晴らしいが、それとは対照的な、第三幕サンクト・ペテルスブルクでの大舞踏会では、洗練された人々の不気味なほどの無表情さが、オネーギンの「アウトサイダー的孤独感」をいっそう強調する。
 演出家によれば、これらの人々は、なにか亡霊のような非現実的な存在に感じられる方がいいそうだ。合唱団はエコセーズの激しい踊りの真っただ中で突然ストップモーションとなり、その後スローモーションでうごめく怪しい存在となる。その異空間の中で、オネーギンは輝くような貴婦人となったタティアナと再会する。

 このオペラの唯一の欠点は、ストーリー展開にある。簡単に言うと、まだ若いタティアナがオネーギンに一方的に惚れ、ラブレターを書くが、田舎のいもねえちゃんだと思って見向きもしないオネーギンにあっさりフラれる。
 その後、グレーミン公爵に嫁いでサンクト・ペテルスブルクに住むタティアナに再会したオネーギンは、美しく成熟したタティアナにあらためて心を奪われ、今度は彼の方からラブレターを書きタティアナに迫る。タティアナの心は揺れ動くが、結局オネーギンはフラれて幕となる。
「ざまあ見ろ!」
と胸がスーッとする、という意見もあろうが、見終わって、なんだかなあ・・・という気持ちになってしまうこの結末。
 しかしながら、ベルトマンの演出で見ると、随所に「人生の機微」のようなものが感じられて、物語がそんなに安っぽいものには感じられないのだ。

 タティアナの夫となっているグレーミン公爵の静かなアリア。舞台いっぱいに広がった群衆合唱が、顔を見せないように後ろ向きでストップモーションとなっている。グレーミンは歌いながらタティアナを抱いてゆっくりとしたチーク・ダンスをする。オネーギンは、止まっている群衆の間を、二人を見つめながらゆっくりと歩いてゆく。ここは夢を見ているような雰囲気。やがて人々は前を向き、シャンパン・グラスを合わせて、このカップルを祝福する。
 グレーミン公爵を演じるバス歌手のアレクセイ・ティホミーロフの低音と、彼がアリアで醸し出す、「老いた人生をもう一度タティアナへの愛に賭けてみよう」という静かな決意の表現が素晴らしい。この景全体が、ひとつの言い難い世界を作っていて、観ている者の胸を深く打つだろう。
 合唱団員からベルトマンに個人的に選ばれたアルトの四家緑さんは、ひとりテーブルに座って、ゆっくりと長いキセルを吸い続けている。ベルトマンから、
「煙をいつも出していてください」
という注文が来る。
「あの人、一体だれ?」
と思わせるような不思議な存在。
 特に意味はないが、ハイソサエティな世界のゆがみのようなものをそこはかとなく表現している。通常オペラの演出って、いつもあざといでしょう。誰が見ても分かるものしか表現しない演出家がほとんど。その中で、こういうよく分からない、どうとでも取れる人物には、かえって想像力を掻き立てられるなあ。

 有名なポロネーズでの、エドワルド・スミルノフさんの振付けは結構激しく、新国立劇場合唱団のメンバーはハアハア言っているが、みんなよく頑張っている。無理難題を投げつけられれれば投げつけられるほど、それに立ち向かっていく姿には感動を覚える。
 さらに、その最中にも、悲壮にならずに自虐的な冗談を飛び交わしながら、エンジョイできるものはエンジョイしちゃえという貪欲な彼らを見ていると、泣きたくなるほどだ。本当に良く動ける合唱団。自画自賛だが、今や世界一のオペラ合唱団に進化している。

 第二幕。痛ましいのは、田舎の舞踏会に呼ばれたオネーギンが、閉鎖的民衆の中で孤立し、むしゃくしゃして、自分を呼んだ親友のレンスキーに軽い気持ちで仕返ししようと、彼の恋人のオリガとわざとダンスをして彼を挑発し、ついに決闘にまで至ってしまうシーン。
 さらに、決闘に敗れて死んでしまったのは、むしろ挑発されたレンスキーの方であった。つまらないことで親友を殺してしまったオネーギンは、失意の内に外国への長い旅に出る。

 いろいろ調べてみたら、この原作を書いたプーシキンは、自身が決闘で敗れたことが原因で、わずか27年の生涯を閉じている。逸話によると、プーシキンは生涯の内に何度も決闘をし、常に自分は撃たずして相手に撃たせ、その強運を自慢していたそうである。このレンスキーのシーンは、自らの死を予感させるような内容だ。
 それより、当時のロシアでは、そんなに頻繁に決闘って行われていたんだね。決闘での殺人は、少なくとも大きな殺人罪としては扱われていなかったのだろう。

「エウゲニ・オネーギン」は、10月1日初日。12日までの間に5回公演。観るに値する舞台です。



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