「エウゲニ・オネーギン」いよいよ明日初日

 

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「なつぞら」感動をありがとう!
 十勝平野に嵐が来て停電になった。朝になっても電気は来ない。柴田家では、電動の搾乳機が役に立たず、手をこまねいている長男照男に、おじいちゃんの泰樹(草刈正雄)の渇(カツ)が入る。
「牛を守れ!」
それで一家総出で手を使って搾乳する。なつも手伝う。
 90歳を過ぎ、悠々自適といえば聞こえが良いが、すっかり覇気がなくなって丸くなり、まわりから大丈夫かな?と思われていた泰樹が、最後の最後でカッコ良かった!
「一番大事なことは、働くことでもなく、商売することでもなく、牛と共に生きることだ!」

 NHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」が終わった。この番組には、沢山のことを教えてもらった。アニメ「大草原の少女ソラ」の創作中では、目玉焼きの描写が楽しかった。卵をフライパンに落とす。黄身の近くの盛り上がった白身の部分から、だんだん白く変わっていき、フチが茶色に焦げていく有様。見ているソラ達がその匂いに、思わず目をつむり息を吸う描写。視聴者はみんな、それを見ながら卵の焼けるかぐわしい匂いを思い出し、目玉焼きを食べてみようかなと思ったことだろう。
社長のマコさんが、
「そんなことやってる時間ないでしょう」
と言うが、卵の焼ける様子を調べるために、何個も何個も卵を焼く作画スタッフ達。その過程があったからこそ、「おいしそうな卵の匂いを嗅ぐ」描写の発想も生まれたわけだ。

 また、成長した男の子のレイが、獣医になるために草原を出て行く決心をし、それをお父さんに告げるシーンは、なつのひらめきによって夜明けに設定された。満点の星空の中、レイは自分の胸の内を父親に告げる。それを受け止め、行って来いと送り出す父。しだいに夜が明け、やがて朝日が森一帯に差し込む。
 このシーンを遠く十勝で見ていた泰樹は、昔この地に来てなかなか開墾がうまくいかず、いっそのこと、ここを見棄てて別の土地に移ろうかと悩んでいた時、朝日に励まされてそれを思いとどまったことを思い出す。泰樹は、それを雪月のとよ(高畑淳子)に告げる。 ふたりは、昔を思い出しながら、
「何度も朝日に慰められたねえ」
と語り合う。この昔話のシーンは圧巻。ふたりの瞳には涙がにじんでいる。これは、番組を撮っている時に期せずしてふたりともジーンときてしまったと、草刈正雄さん自身が語っていた。

 こうした数々の名シーンを「なつぞら」は残してくれた。考えてみると、朝ドラを数多く見ていて、それぞれの物語を楽しんでいるけれど、こんな風に、心にいつまでも残る名シーンが沢山あるドラマって、少なくないですか?
 それだけ、この「なつぞら」は突出している。また、それぞれの俳優たちのキャラクターを、適材適所でとってもうまく使っているのも、素晴らしいのひとことに尽きる!マコさんの貫地谷しほりに始まって、亀山蘭子を演じる鈴木杏樹しかり、亜矢美さんを演じる山口智子しかり。かつて「おしん」の子役で大活躍して、この番組では天陽君のお母さんを演じていた小林綾子しかり!
 この物語を作った大森寿美男という人は知らないけれど、本当に良いものを作ってくれたね。
感動をありがとう!

丁寧に描くことのワクワク感
 僕にしては珍しいことだけれど、「なつぞら」ロスの状態だ。
特に僕は、主人公が他にないものを求めて、こだわってこだわって苦労して何かを作り上げるドラマには、涙腺がゆるみっぱなしなのだ。
 「まんぷく」の時もそうだった。「麺が出来た!」と思っても、まだもっと良いものが作れるかも知れないという可能性を求めて、いろいろ手を尽くす。「これも駄目、これも駄目」というのを繰り返し、やっぱり最初に作ったものに戻ってもいいのだ。むしろ、「これ以外全部駄目」という事実を見極めて、初めて心安らぐのである。

 それを僕も行っている。たとえばミサ曲を作っていた時。
「よし、この楽想でいこう!」
と思っても、
「まてよ、この方法もある」
と思い始めたら、そのやり方で作ることも厭わない。同時進行で進めていると、一方が自然に行き詰まってくる。時間はかかるがその過程は無駄ではない。
 あるいは、「主の祈り」のように、ほとんど出来かかっていたものを、
「これでもいいんだけど、なんか違うな」
と思って、まったく最初から作り直した。その楽想は別の曲に転用できると思うし、そこそこ良い曲だったのだけれど、そういうことではないのだ。この曲全体の中で、まさにここにこの曲が来ないと駄目でしょう、という音楽でないといけないのだ。

 自作でなくても、曲の解釈やテンポやバランスなどを決定するまでには、自分で何度もピアノを弾いたり、頭の中で鳴らしてみて試行錯誤をする。愛知祝祭管弦楽団でも何処でも、突き詰めて突き詰めて、自分だけの感性から生まれた自分だけの音楽を奏でられるまで、その作業は続く。そして、その間はCDなどを聴かない。他人はどうやっているのかな、と気になって仕方がないけれど、自分の感性を信じるのだ。
 レコ勉は否定しないけれど、もし指揮者が、この時点でレコ勉をして、人の解釈の寄せ集めで自分の音楽を構築するとしたら、僕はその指揮者を軽蔑する。少なくとも、その人は芸術家ではない。
 ただね、僕も自分の解釈が固まった後では、他人の演奏を好んで聴く。影響を受けて、マイナー・チェンジをすることにも躊躇はしない。ただし、それには、自分がしっかりあることが大前提。

 そうやって決定した解釈を今度はオーケストラに伝えないといけない。たとえば、先日のモーツァルト200合唱団の演奏会で、ラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第3番を指揮したが、第2楽章が始まってから16小節目。第1ヴァイオリンの奏でるメロディーがディミヌエンドしていくと、逆に第2ヴァイオリン、ビオラ、チェロはクレッシェンドして、第1ヴァイオリンを覆い隠すようにしてメロディーを受け継ぐ。それらがまた消えていくと、先ほどの第1ヴァイオリンのラの音は残っていて、さらにディミヌエンドしながら次の小節に入っていく。
 この個所は夢のように美しい。僕は第1ヴァイオリンに指示を出す。
「ここをスル・タスト(弓を指板の方に近づけて、少し曇った音を出す弾き方)で弾いてください。充分に表情をつけて、それでいてあざとくならないように配慮しながら丁寧に演奏してね」
 それで僕は第3拍目をゆっくり指揮して美しさを強調する。すごくデリケートな箇所なので、練習中はうまくいく時といかない時があった。とってもリスキー。しかも、次の小節に入ると、急激なクレッシェンドをして3拍目にはもう全員でメゾフォルテになるから、ほんの一瞬のことなのだ。聴き逃してしまう聴衆もいるだろうし、第一、そんな微妙なことを、気にもとめないでスルーしてしまう指揮者も少なくない。
 しかしながら、こういうことが本当は音楽の醍醐味なんだよな。これを聴き取ってくれた人が、聴衆の中に一人でも二人でもいてくれたらいい。さらに、
「くーーー、いい!」
なんて思ってくれたらもう天にも昇る気持ちだ。いや、ホントのことを言ったら、誰も気が付かなくても別にいいんだ。

 プロの世界では、あまりあっちこっちを止めて細かく練習をすると嫌われる、なんていう常識がある。さーっと通して、問題がなければそれでおしまい、という指揮者の方が、オケマンに好かれてそこそこ出世したりするのも見てきた。ただ、そういう人は超一流には決してならないけどね。
 ま、そんなことはどうでもいいんだ。オケマンに好かれるために音楽をやっていたら、本末転倒で、何のために音楽家になったのか分からないじゃないか。大事なことはね。自分の「ワクワク」感のため。こういうと、ちょっと利己的に聞こえるかも知れない。でも、本当はその反対。ワクワク感は、無欲で無心にならないと湧いてこない。
 そしてそれは、同じワクワク感を知っている人の心を揺すぶる。その時、僕の魂の奥にある何かが、共鳴してくれる人の魂の奥の何かと通じ合い、一体感を持つことができる。でも、一体感といったって、僕とその人とはお互い会うこともないんだよね。

 不思議だよね。そもそもそういうところで、僕とラフマニノフや、僕とベートーヴェンとだって、つながっているんだよね。親しいどころか、会ったこともない人の音楽が、自分の心を動かすなんて、とってもロマンチック!
 どんなに世界が忙しくなろうとも、どんなに経済最優先の社会が幅を利かせても、芸術が廃れないで人々に夢を与え続けるためには、こうした小さなワクワクを大切にして、いろいろなものを“丁寧に”描くこと・・・これに尽きる。そのための労力を惜しんではならない。むしろそれを積み重ねること・・・。

 お彼岸を過ぎて、秋の夜長が始まってきたことを実感させられる9月の終わり。歳を取ってくるほど、この季節が好きになる。
「今年は曼殊沙華の開花が遅いなあ」
と、家族が寝静まった夜の静寂(しじま)の中でぼんやり思う。
 僕の前には、買ったばかりのノート・パソコンがあり、その左横には、お気に入りのウィスキー・グラスがある。バランタン12年のソーダ割り。これでもう瓶が空になるので、底に残っているものをみんな注いでしまった。だからお店で飲むダブルよりもはるかに濃い・・・て、ゆーか、むしろロックにちょっとソーダを足した感じ。その隣にはスイスのラクレット・チーズがある。本当は溶かして食べたほうがおいしいんだけど、面倒くさいからそのままかじっておつまみ。

 そんな感じで酔っぱらいながら、新しいノート・パソコンにいくつかのソフトをインストールしていた。ちょうど一太郎をインストールしたところなので、作業はもうやめて、入れたばかりの一太郎で更新原稿を書き始めたら、こんな原稿になってしまった。
 これって、明日の朝になって読み直したら、恥ずかしくてまた破棄するんじゃないか?今までにも、こういう例が何度もあったんだ。
夜中の酔っぱらった原稿は信じちゃいけません!
自分一人だけで盛り上がってしまうからね。

翌朝。
 まあ、この原稿は残してもいいか。もっとエキセントリックに書いていたので、いくつかの表現は直さざるを得なかったけれどね。
それにしても、Windows 10は、一太郎や花子、三四郎、Shurikenはインストールできても、古いバージョンのAtokを認めないんだ。ファイルとしてはインストールされているのに、IMEのみが作動している。Atokを使い慣れた者にとっては、漢字変換などでイライラする。これって、どうみてもJustsystemに対するイジメ。ひどくない?
仕方ないからAtokだけ買いなおすことにした。

樋口隆一さんとの勉強会
 東京バロック・スコラーズでは、来年3月の「ヨハネ受難曲」演奏会に向けて練習を積んでいるが、同時に団内勉強会も行おうということで、9月28日土曜日にはバッハ研究家として著名な樋口隆一氏を招いての勉強会(講演会)を行った。
 樋口氏の講演はとても楽しい。思考があっちこっちに飛び火するため、話がとっ散らかっているように見えるんだけど、最後にきちんと戻ってくるのが常人とは違う。講演は、「ヨハネ受難曲」の4つの異なった版についての記述が主で、現行版では聴かれない超絶技巧のアリアなどを聴くのが楽しかった。
 彼は、ベーレンライターの新バッハ全集の制作に携わって、いくつかのカンタータの校訂を実際に行っている。講演の最後に僕が、
「半世紀以上もかかって最近ひとまず終了したこの大事業の後、現在のバッハ研究の状況はどうですか?たとえば、真作が偽作か?などという疑問は、永久に解決を見ることはないのでしょう?」
と尋ねたら、話がどんどん発展して終わりそうもなくてあせった。そのくらい、彼の業績も素晴らしければ、バッハにかける彼の情熱も素晴らしい。

写真 樋口隆一氏と三澤洋史、受講者との集合写真
樋口隆一氏の勉強会


 さて、次の土曜日の10月5日には、宗教学者の佐藤研(みがく)氏を招いて、むしろ受難曲のテキストである「ヨハネによる福音書」についての勉強会を行う予定である。最近の聖書学の分野では、研究に目覚ましい発展があり、その最先端にいる佐藤氏が、きっと有意義で楽しいお話しを聞かせてくれることだろう。とっても楽しみ!  


「エウゲニ・オネーギン」いよいよ明日初日
 ゲネプロに僕のイタリア語の先生を招待したが、その後メールが来た。

Un'opera bellissima! 最も素晴らしいオペラ!
Mi e piaciuta moltissimo. とってもとっても気に入りました。 
Grazie mille per avermi invitato !!! 招待してくれて本当にありがとう!!! 

 最後の3つのエクスクラメイション・マークが、彼女がどれだけ喜んでくれるかを物語っているが、それを読みながらハッと思ったことがある。
「このオペラって、もしかして女性の方が感銘が深いのかも知れない」
ということだ。

 先日も書いたが、この物語の原作を書いたプーシキンは、決闘で亡くなったくらいだから、結構マッチョな感性を持っていると思う。それに対して、チャイコフスキーはどんな人間だったかというと、ホモ・セクシュアルで、意中の人に失恋したことが原因で人生に絶望し、文学カフェでわざと生水を飲んでコレラにかかって死んだという説が一般的だ。ある意味、緩慢な自殺と言っても見当外れではないだろう。その前にも、彼は一度自殺未遂を起こしている。

 それで僕が音楽を聴きながらちょっとひらめいたのは、オネーギンに一方的に惚れて失恋したタチアナも、時を経てサンクト・ペテルスブルグという大都会でオネーギンに再会し、今度は彼からのラブレターを手にしたタチアナも、ラストシーンで、オネーギンに、
「愛しているわ。でも人妻のあたしは、もう二度とあなたに逢いません」
と逃げ去るタチアナも、女性の感性から見ると、とっても共感できるヒロインなのかも知れない、ということだ。

 男は、どうしてもオネーギンに共感しようとする。でもオネーギンは、タチアナをフッておきながら、後で優雅な貴婦人になった彼女に惚れ直すなんて、嫌な奴だなと思ってしまうし、友人のレンスキーを追い込んで決闘で殺してしまうなど、どうしてもシンパシーを持つことが出来ない。だから、男にとって「エウゲニ・オネーギン」は、あまり魅力的な物語ではない、という図式が出来上がってしまうのだ。

 ところが視点を変えてみると、ホモ・セクシュアルなチャイコフスキーが、女性的な視点からこのプーシキンのドラマを読み、彼なりの感性を持って表現したと仮定すると、全てが違って見える。ああ、そうか、と思った。このオペラの主人公はタチアナなんだ。
 タチアナの方から、最後の最後に愛の告白をし、そして二度と逢わないことを告げてオネーギンの元を去るエンディングは、ある意味、タチアナの究極的な愛の勝利なんだ。だから、エンディングでは、オネーギンの絶望にではなく、タチアナの内面に意識を集中するのが、このオペラの正しい鑑賞の仕方なのかもしれない。そう考えると、曲もそういう風に出来ているわ。

 さて、明日10月1日から、いよいよ「エウゲニ・オネーギン」をもって2019-20年のシーズン開幕だ。ドミトリー・ベルトマンの演出が素晴らしいから、とっても生き生きとしたドラマを、劇場に訪れた人は観ることができるよ。なんといってもチャイコフスキーの音楽が、切なくも美しい!



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA