台風に思う

三澤洋史 

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台風に思う
 台風19号は、12日土曜日の新国立劇場の「エウゲニ・オネーギン」千穐楽を公演中止にさせ、翌13日日曜日の愛知祝祭管弦楽団の練習も中止にさせて、伊豆半島に上陸し、関東を縦断していった。9月の台風15号の時に、真夜中の強風が恐かったので、今回事前の予報で風速60メートルとか言っていたので、結構マジで怯えていた。
 しかしながら、予想に反して、風の方の被害は前回ほどではなかった。その代わり、大雨による被害がとてもひどかった。12日は、朝からすでにバケツの水をぶちまけたような土砂降りだったので、僕は、これに風が加わってくる前に、庭先の何台もの自転車をすでに倒して、紐で結んでおこうと、水泳パンツ一丁の格好になってシャワーを浴びながら作業した。長女の志保がそれを見ながら笑いこけていた。誰にも見られない内に、早く片付けようとしていたら、隣の奥さんに見られてしまった。

 晩になると、家にいる家族全員の携帯に、「多摩川決壊の可能性あり」の緊急警報がマナーモードなどお構いなしに大音量で入ってきて焦った。翌13日は、朝から抜けるような青空が広がった快晴であったが、それに不釣り合いなように、刻一刻と入ってくる河川の氾濫の報道に目を疑い、心を痛めた。

 僕は、本当は13日の愛知祝祭管弦楽団の練習には行きたかったので、事前にいろいろ考えていた。台風は12日の夕方から夜にかけてピークになるだろうから、14時から始まって17時過ぎに終わる「オネーギン」の公演終了後、名古屋に向かうことは、どう考えても不可能だ。
 13日の朝、日帰りで行くのは、通常ならば可能だが、9月の15号の際の翌日の都内の交通マヒの状況を思い出すと、新幹線の発着する駅に辿り着くまでにお昼くらいになってしまうだろうから、現実的ではない。

でも、ひとつだけ方法があることに気が付いた。それは、ちょっとウルトラCの方法だ。

「まてよ・・・もし12日午後からの『オネーギン』が公演中止になったとしたら・・・」
と僕は考えた。
「もし『オネーギン』が中止になったとしたら、僕は朝から名古屋に行くことができる。その日、名古屋に居ることが出来さえすれば、13日になったら、台風は東京よりも早く過ぎ去ってしまうだろうから、祝祭管弦楽団の練習をすることは出来る!」
 勿論、慣れないロシア語から始まって、みんなでここまで努力した「オネーギン」は、なんとか千穐楽まで成就させてあげたい。中止になるのはしのびない。でも、2日間みすみす自宅待機で過ごすよりは、どちらか1日だけでも活用出来ればなあ、と思った。なにより、8月の「神々の黄昏」公演以来、初めての「リング・ハイライト」の練習だ。みんなの顔も見たい!

 ところが11日、皮肉なことに、新国立劇場から「オネーギン」公演中止の第一報が入ってきたのとJRの計画運休の報告とは、ほぼ一緒の時刻だった。
「12日、新幹線は始発から全面運休」
この知らせを聞いた時、僕は名古屋行きを断念せざるを得なかった。

 計画運休ってどうなんでしょうね。朝日新聞13日の朝刊の「天声人語」に次のような文章が載っていた。
「初めての計画運休は5年前の秋、JR西日本が試みた。実際には台風の被害は限られ、計画運休の『空振り』と呼ばれた。だが翌年の夏、計画運休を見送ると、列車が立ち往生し、乗客が救急搬送される自体に。今度は『見送り』による三振と批判された」
 いずれにしてもクレームの対象となる計画運休。空振りと見送りによる三振では、どちらがマシかという議論になってしまうというのか?

 僕は、なにも名古屋にどうしても行きたかったがために、この事にこだわっているのではない。そうではないのだが、それを話す前に、もっと不思議な例を挙げてみたい。

 今回の台風に関する様々な情報は、事前からかなり正確に報道されていたと思う。すなわち19号台風が9月の15号と違うのは、まず衛星画像で見ても雨雲の大きさが巨大であることだ。そのため、通過するのにとても時間がかかるということである。
 それ故、風もさることながら、確実に言えることは、長い時間に渡るトータルの雨量が異常に多くなり、河川の氾濫を各地でもたらすであろうことが、ある程度予想されていたのではないか。
 だから気象庁はじめ、報道も、
「命を守るための最善の方法を取って下さい!」
という異例の言い方をしたのだと思う。実際に今回の19号は、過ぎ去ってみたら、21河川の24カ所で氾濫という前代未聞の河川災害を引き起こしたのである。

 それなのに、何故、いくつかのダムの緊急放流が、前もってではなく、すでに下流の河川が充分増水して一番危ないタイミングで成されたのか?不思議に思う人いませんでしたか?どうして、降り始めの時、あるいは途中でも、まだ余裕のある時に、
「前もって放流しておきますので、河川の近くの人は気をつけてください」
という風に放流しなかったのだろうか?
 このタイミングで放流するということは、オーバーに言えば、下流の人たちが死んでも構わないという事を意味するのではないか?勿論、ダム自体の決壊がもし起きたら、それどころではないだろう。でも、どうしてこの事態になるまで手をこまねいていたのか?この決断は一体誰の方を向いてなされたものなのだろうか?

 僕はどうも疑ってしまうんだ。始発からの新幹線の運休といい、ダムの放流といい、どうも我々のことを考えているというよりも、もしかしたら、「クレームを恐れている」、ないしは「ハズれてしまった時の言い訳を考えて行動している」のではないか?と。
それって考え過ぎでしょうか?

 ダムの放流の件は、もし言われているほど大雨が降らなかった場合、前もって放流してしまったがためにダムの水位が下がったとしたら、別の方からクレームがくるのかも知れない。では、様子を見ながら随時、チビリチビリ放流すればよさそうなものを、その際に、誰が随時判断し、その判断に誰が責任を取るのか?という指揮系統の責任問題があり、話が面倒くさくなるので、ギリギリまで放っておいたのだろう。

 計画運休は、確かに駅などでの混乱を避けることが出来る、乗客に、
「もしかしたら、まだここまでは行けるのでは?」
という淡い期待を抱かせないので、みんな諦めるから、各駅も乗客が押し寄せることがなく、静かで楽だ。
 しかしながら、人を輸送させるという使命を怠っているような気もする。鉄道というものは、“聖職”とまでは言えないかも知れないが、ある意味、病院や教員などのような公共性を持ち、オーバーに言えば人の人生をも左右する影響力を持っているものである。
 中には、何があってもどうしてもあそこまで行きたい、という人もいたであろう。もしかしたら、親の死に目に会えなかった人もいたかも知れない。輸送することで、それらののっぴきならない人達の思いを叶えてあげる使命を帯びている、という自覚は持って欲しい。
 先ほどのダムの件と一緒で、様子を見ながら随時判断して・・・という風になると、やはり指揮系統の責任問題が絡んでくる。あまりギリギリまで動かしていると、たとえば名古屋まで行こうと思っていたのに、掛川とかで、
「もうこれ以上先に行けません」
と停車してしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまうというマイナスの事態も起こり得るであろう。
 でも、だからといって、台風は晩に上陸するというのに、新幹線が始発から全て運休というのは、いくらなんでも無責任ではないですか?その意味では都内のJRは、まだ現実的であった。午後までの間に順次間引き運転をして、運休に持っていたのだから。

 早い話、
「よっしゃ、クレームが来ようが、批判されようが、ワシが責任もったる!」
という人がいないんだ。「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーや、杉原千畝のような、使命に燃えてあえてリスクをも背負って、という人間が、社会からどんどん消えていくことを意味するのだ。ひとりひとりは決して悪人ではないだろう。でも、社会全体が、みんなで守り合って可もなし不可もなしという無責任集団になっている。

 我が国の気象庁の発表する、台風の進路範囲についても、米軍の発表の方がより狭く、しかも正確であると言われている。いや、実は気象庁も同じ認識をしているのだが、やはり外れたときのクレームを恐れて、わざと進路範囲を広めているという噂がある。15号の時にそれが明らかになったので、みんな米軍のサイトを見るようになったとも言われる。
 そんなことを疑わなくとも、見れば分かるのは、現実に予想進路のほぼ真ん中の線の上を今回も通っていったこと。
 あの、日本列島に近づいたところでクイッと右折することも含めて、今の科学技術というのは本当に進んでいて、本当はいろんなことが我々に知らされている以上に、分かっているのだと思う。問題は、一番大事なことが我々に知らされるかどうかなのだ。

 僕が、それを疑いだしたのは、3.11直後のこと。我が国では、地震から一年後まで、原発がメルトダウンしていることすら知らされなかったが、3月の終わりにミラノ短期留学に行ってみたら、イタリア人達はみんな当然のごとく知っていて、テレビでアニメーションで何度も何度も、福島第一原発の内部で、どのようにメルトダウンが進行したかを事細かに放映していた。
 その頃、菅直人総理大臣が、
「福島の人達は、この先何年も戻れない可能性がある」
と言ったことが大失言として大々的に報道されていた。
「福島の住民の気持ちを逆なでするのか?」
という論調であり、マスコミもその批判のお先棒を担いで煽っていた。
 普通、放射能が漏れれば、半減期というものがあることを、みんな学校で習ったでしょう。僕も僕なりに菅元総理の発言を批判したいが、その理由は全く逆で、
「何年では済まないでしょう」
というものだ。何故、我が国の住人は「悪いものをきちんと見ようとしない」のだろう?

 とにかくこの国では、一番知らなければならない大事なことは、知らされないのだ。
震災から一年以上経って、
「実は、あの時、メルトダウンしていました」
と国が白状した時、マスコミはその遅さを批判しなかった。当然だ。みんな知っていて、あえて隠していたのだから。
 報道は、取り上げるという影響力もあるけれど、もっと強力なパワーは、「あえて取り上げない」あるいは「無視する」ところにあると思う。

 おっと、台風から、どんどん離れてしまったようだ。最後にちょっとだけ戻ろう。ひとつだけ言いたいのは、なるべく大変そうな所へ特派員を送って、なるべくショッキングな映像を撮ろうとやっきになっている報道姿勢も、そろそろ考える時期にきていないか?
 それはね、茶の間で煎餅をかじりながらテレビを見て、
「なんだ、たいしたことねえな」
と言っている我々にも責任があるんだと思う。

滝沢さんのこと
 典礼聖歌集の中には組み込まれていないが、カトリック典礼聖歌集313番「静かに流れる水のように」という曲が好きだ。特にこの歌詞には以前から惹かれていた。

カトリック典礼聖歌集313番 静かに流れる水のように
作詞 滝沢ともえ 作曲 新垣壬敏

静かに流れる水のように
全てをあなたにゆだねます
祈りの内に今日の日も
全てをあなたにゆだねます

野に咲く小さな花のように
全てをあなたにゆだねます
よろこびの内に今日の日も
全てをあなたにゆだねます

み空に飛び交う鳥のように
全てをあなたにゆだねます
感謝の内に今日の日も
全てをあなたにゆだねます
アーメン
 僕が東京カテドラル関口教会に通い出してすぐに、この作詞をした滝沢ともえさんという方が聖歌隊にいると聞いて、早速会ってお話しした。それなりのお歳の女性。すると、滝沢さんはなんと携帯電話の待ち受け画面に、僕の孫娘の杏樹の写真を使っていた。2歳の誕生日の時の写真。
「三澤先生のお孫さんのことを書いたホームページの記事を読んで、お孫さんを可愛がる先生が大好きになりました。それでホームページからお写真を頂戴して、待ち受け画面にして、お守りのように持っています」
とおっしゃった。

 あれ?この方には以前から何度かお会いしたことがある・・・僕は記憶を辿った。そうだ、ミサの前に聖歌隊の練習に行くために、護国寺から関口教会に向かう坂道を急いで登っている時、いつも追い越す方だ。
 次に滝沢さんに坂で会った時、僕は、彼女と一緒にゆっくりゆっくりと歩きながらいろいろお話しした。とっても時間がかかったけれど、練習にはギリギリ間に合った。僕はその時に彼女に言った。
「『静かに流れる水のように』の詩は大好きです。とってもシンプルで飾り気がないけれど、本人が本当にそう信じていないと絶対に書けない詩です」
と言ったら、
「ホントにそう思ってくれます?うれしい!」
と少女のように素直に喜んでくれた。その時の屈託のない笑顔が忘れられなかった。

 それからすぐに、教会に滝沢さんの姿が見えなくなった。入院したという。僕は、彼女の知り合いの人に教わって、彼女の病院にお見舞いに行った。彼女はとてもインテリな女性で病理学を勉強していたが、根を詰めすぎて学生時代に肝硬変になってしまって以来、まるで病気のデパートのように、様々な病気を経ているという。

 その後、さらに容態が悪くなって別の病院に移ったと聞き、さらにその直後に僕は関口教会を辞めるようになり、いろいろ手を尽くしたのだけれど、滝沢さんの居場所は分からなくなってしまった。

 それが、ある人のつてで、ごく最近、彼女の居場所が分かった!僕は、何はさておいても彼女のところに飛んでいった。

 そこは病院ではなく、ちょっと僕の母親の介護付き施設のような所であった。僕がお部屋に入った時、滝沢さんは、お腹のあたりで合わさっていた両手に、ロザリオを握りしめていた。滝沢さんの顔は、以前お見舞いに行った時よりも、逆に顔色が良く、なにより驚いたのは、とってもとっても満ち足りた穏やかな顔をしていたことだ。
 僕は、会うなり、彼女の両手を握り、眼を見つめながらお話しした。彼女はもう1年半以上ベッドから一度も起きたことがないと言う。お腹には腹水がたまってふくれている。
「でも、これを無理矢理取ることはできないんだそうです。ほら、妊婦さんみたいでしょう」
と、僕の手を取ってお腹に持っていった。

 彼女の頭の後ろには、点滴や器具があり、それが彼女の腕や体内に入っている。
「心臓の手術をした時、私は一度心臓が止まりました。その時、私の意識は『主よみもとに近づかん』の大合唱が響くところにいて、そのまま天に引き上げられていったのです。そこは素晴らしく光り輝く場所で、今まさに入ろうとする時、いきなり呼び戻されて真っ逆さまに落ちて・・・お医者さんの話によると、心臓が止まった時、私はとってもしあわせそうな顔をしていたのが、先生が手でマッサージをして蘇生して心臓が動き出した瞬間には、とてもゆがんだ嫌そうな顔をしたそうです」
うわあ、臨死体験をしたんだ!

 私は言った。
「滝沢さんは、自分の人生が終わった時に、間違いなくそこに行くのですよ。そのヴィジョンを見せてもらったのです」
「あんな素晴らしい所に本当に行けるのかしら?」
「そうじゃなかったら、見ることはそもそも許されないでしょう」
「だったら、どうして私はまた生き返ったのかしら?」
「うーん・・・」
私はちょっと考えてから言った。
「きっと使命があるんですよ。ほら、現に、ここにこうして僕が、この滝沢さんの言葉を聞いているじゃありませんか」

 ふと見たら、ベッドの手前側の小さい机に、可愛いワンちゃんの写真が、額に入って立てかけてある。どことなく我が家の愛犬タンタンに似ている。
「飼っていたワンちゃんですか?」
「そうです。でも死んでしまったのです」
そうかあ、死んでしまったのか。分かるなあ。なかなか忘れられないよね。僕も未だにタンタンのこと毎日思い出している。
 しかし、次の滝沢さんの言葉には、心底驚いた。
「私が入院する日の朝、この子は寝ているあたしの胸にしがみついて、どうやっても離れなかったのです。すぐ帰ってくるからね、と言い聞かせても、とにかく梃子でも動かないという感じで、そして、そのまま私の胸の上で・・・息絶えたのです」
「えっ?」
「分かってたんでしょうね」
「え?そのまま死んでしまったのですか?」
「そうです。あれから、私は結局二度と家に帰れなかったわけですけど、あの子は、それを知っていたのです。動物って、分かるのですね」

 これら一連のことを、僕はこの「今日この頃」で書くべきか書くべきでないか実はちょっと悩んだのだが、書き始めたら、むしろ、このことを書いてみなさんに知ってもらうことも、滝沢さんが生きている理由のひとつであり、彼女の使命なのかも知れないと思い始めた。

 だから僕は、またちょくちょくお見舞いに行って、それをみなさんに報告しよう。まだまだ滝沢さんには、信仰の証人(あかしびと)として生きていて欲しいから。

「アラジン」実写版
 白状すると、僕は、新国立劇場の「子どもオペラ」である「ジークフリートの冒険」、「スペース・トゥーランドット」「パルジファルと不思議な聖杯」の3つの作品を創るに当たって、ディズニーの手法を勉強し、模倣した。その前に、ミュージカル「おにころ」や、「愛」はてしなく」、「ナディーヌ」という作品にも、ディズニーの影響があることを隠しはしない。

 エンターテイメントという言葉には、いつも軽薄なイメージが付きまとうけれど、ディズニーの作品には、娯楽が娯楽でいながら、究極的な高みに登り詰めた高貴な精神があると思う。また、作品に常に流れているのが、人間にとって一体何が大切か?という真実。これを安易な解決と言うなかれ。オーバーに言えば、人類にディズニーがあるということは、かけがえのない財産だと僕は思う。

 それをあらためて感じさせてくれたのが、「アラジン」実写版であった。台風19号で「エウゲニ・オネーギン」が公演中止になるかも知れない心配のある10日木曜日の晩、「アラジン」のブルーレイ&DVDのセットが我が家に届いた。
 それを12日。外に嵐が吹き荒れる中、我が家で観た。杏樹は11日にすでに2回も観たという。残念なのは、杏樹が横にいるため、日本語吹き替え版だったけれど、最初の場面から、音楽とアクションとの関係や、物語の進め方、特にシリアスな内容とコミックな要素とを交差させながら、観る者を決して飽きさせることなく物語に引きずり込んでゆく手法に、舌を巻いた。

 これは、もの凄い才能と、そして「良いものを創る」という、もの凄い執念の結晶だ。この実写版「アラジン」は、これまでのあらゆるディズニー映画の中でも頂点に立つものではないか。

今度一人の時に、じっくり英語字幕版を鑑賞しようっと!
まだまだ、勉強するべきものが、この歳になっても沢山あるなあ。



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