合唱指揮者の出す注意~読響の第九

 

三澤洋史 

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合唱指揮者の出す注意~読響第九
 今日は、この原稿を書いた後、浜松に行く。浜松アクト・シティ大ホールで、読売日本交響楽団の第九に新国立劇場の合唱指揮者としてついて行くためだ。

 今年の読響第九の指揮者はアイヴァー・ボルトン氏。イギリス人だが、オックスフォード・スコラ・カントルムの指揮者としてデビューしたという古楽畑の人だ。
第1楽章が始まってヴァイオリンが閃光のようなモチーフを奏でる途端、恐らくほとんどの聴衆は、
「あれっ?」
と思うだろう。
 ノン・ビブラートなのだ。すなわち古楽的アプローチなのである。全てがノン・ビブラートというわけではないが、一番驚くのは、第4楽章のチェロとコントラバスによるレチタティーヴォがノン・ビブラートなこと。
 とはいえ、読響は読響だから、こじんまりまとまっているなどという感じでは全然ない。それよりも特筆すべきは木管楽器。フルート、オーボエなどが和声を形成する時には、いつもよりずっとビブラート少なめなので、元来ノン・ビブラートのクラリネットと溶け合って、とても美しく清楚なハーモニーを作り出している。
 このまま読響も、ウィーン・フィルのように、ソロはビブラートをかけて、和声になったらノン・ビブラートで演奏したらいいのに、と思った。ま、これは好みの問題。

 ボルトン氏がそういうテイストなので、ともすると新国立劇場合唱団も直線的な演奏になりがち。だから、いつもは言わないようなサジェスチョンが僕から飛ぶ。
「ブレスする時、毎回このへんかなと思うタイミングより、少しだけ前から息を深く吸ってください。それから少し息を止めて体幹を確認してから歌い出すこと。響きが薄っぺらくならないよう最大限の注意を払うこと。入った次の瞬間がフォルテでも、決してそのまま押したりしないこと。むしろ90パーセントくらいでコントロールしながら周到にフレーズを発展させること。響きがツンツンしたら新国立劇場合唱団の音色ではない」
 新国立劇場合唱団の音色に関する全責任は僕が負っている。どんな時でも、行き当たりばったりで声を出し、僕が築き上げてきた新国立劇場合唱団の“おと”が損なわれることは許されないのだ。
 スウェーデン放送合唱団のようなコンサート合唱団ならば、もっと発声そのものを古楽寄りにしてもいいのだが、新国立劇場合唱団の持つ音色が、古楽的アプローチによって損なわれるのは避けたいのだ。
 とはいえ、この合唱団の発声は、元来、バロック音楽も射程には入れている。それ故、たまにイタリア系指揮者からは、
「もっとビブラートを強く、濃厚に歌ってくれ!」
と言われることもある。
「清楚すぎるんだ」
と言われることもある。それも承知の上。だってね、ヴェルディの音楽には、修道女の女声合唱とか清楚さも要求されているのだ。ヨーロッパの劇場も含めて、巷の演奏がそれに対応していないだけなのだ。

 ボルトン氏は、音楽のビジョンが明確で、とても良い指揮者だと思うが、彼の指揮にそのまま従ってしまうと、たとえばガーディナーの指揮するモンテヴェルディ合唱団のような直線的な演奏になってしまう傾向がある。バロックテイストはいいが、古楽発声をするわけにはいかない。この辺のさじ加減は、むしろ東京バロック・スコラーズなどでバロックの演奏様式を研究している僕には専門領域だ。

「語尾のタイミングを揃えて。ただタイミングとして揃えるだけではなくて、その時の息の使い方もみんなで揃え合って!」
それから思わずスキーの話になってしまった。
「スキーでも、ターンの最後を仕上げることをおろそかにして、外足にしっかり乗り切るということを怠ったまま、中途半端に切り替えを始めると、重心移動がうまくいかず、レースでは転倒にもつながる。
フレーズの終わりを揃えることと、次のフレーズをどう始めるかという意識は連動している・・・というか連動させなければならないのだ。
みんなの歌は、中途半端にフレーズを終えているし、次のフレーズをどんな息の使い方で、どんな音色で開始するのか、確固たるイメージを持たないで始めちゃっているだろう。それじゃ駄目なんだ。
ある場所の過ちの根はその前から始まっている。まずはフレーズ終わりをしっかり仕上げるところから意識化しよう」

 どんな素晴らしいマエストロでもクセがある。そして、合唱団は、そのクセに多かれ少なかれ翻弄される。良き合唱指揮者とは、そのマエストロの特性から最大限の美点を導き出し、逆にその負の部分から受けそうなダメージを最小限にするだけでなく、それを美点に変える錬金術者でないといけない。そのためには、まず冷徹な分析力が求められる。

 ボルトン氏は、日々良くなっていく合唱に素直に驚き、喜んでくれて、
「この合唱団は奇蹟だ!あのさあ、この合唱団と是非ともやりたい曲があるんだ。君は知らないかもしれないが、エドワルド・エルガーに『ジェロンティアスの夢』という曲があるんだけど、この合唱団でやりたいなあ」
「『ジェロンティアスの夢』なら良く知っているよ。素晴らしい曲だ」
さすがイギリス人だなあ。次にやりたい曲がエルガーか。「ジェロンティアス」はどことなく「パルジファル」に似ているから好きなんだ。そしたら、ボルトン氏は読響のマネージャーの所に行って、
「エルガーの『ジェロンティアスの夢』をこの合唱団とやりたいから、また呼んでくれ。さもなければメンデルスゾーンの『エリア』でもいい」
みたいなことを言っている。おっとと、売り込みも兼ねているのか。

 2日目、すなわち12月18日のサントリーホールでの公演では、第2楽章でいきなり大きな爆発音とともにティンパニーの皮が破れたり、昨日の22日の公演では、アルトの池田香織さんの誕生日だったので、終わってからフルオケと80人のプロ合唱団による盛大な「ハッピバースデイ」の演奏が行われたり、いろいろがあって楽しい毎日だ。
 今日の浜松公演が終わると、一同は明日大阪に行って、大阪公演をする。しかし、僕は残念ながら大阪公演には参加しない。何故なら12月24日は、宗教上の理由で仕事はしないのだ。これまで、休日がかかった14時からの公演にはしぶしぶ参加していたが、大阪で晩の公演となると、どう考えても無理だ。
 だいたい日本は、クリスマス・イヴに何の配慮もなくこうしたコンサートをやる。前に来日したソプラノのアガ・ミコライなんか、熱心なカトリック信者なので呆れていたよ。
「生まれて初めてのワーキング・クリスマスなの」
と言いながら、みなとみらいでの昼公演の後、東京カテドラル関口教会のミサに出席してくれていた。まだクリスマス・オラトリオとか、メサイアだったらいいのだけどね。第九って、クリスマスには微妙だよね。

 ということで、今晩の浜松が今年の仕事納めになります。明日はクリスマス・イヴ。カトリック立川教会の聖堂がリニューアルして、明日のミサから新聖堂に入る。白馬には26日から行く。6歳になった杏樹は、身長が108センチになったので、これまでの80センチの板に替わって、今年から1メートルの板で滑る。

ということで、来週は年末年始のため「今日この頃」はお休みします。みなさん、良いお年を!

スキー・キャンプ早割最終案内
 「マエストロ、私をスキーに連れてって2020」キャンプの案内です。キャンプの申し込み自体は、年が明けてもまだまだ続いていくので、慌てる必要はないし、どうせもう一杯になったのだろうと思って諦める必要は全くないからね。定員は無限で、レベルも、生まれて初めてスキー板というものを履く人から、超上級者まで、全レベルOK。

 ただし、¥30.000の参加費が¥27.000と「一割引」になる早割は年内に終わります。勘違いしないでいただきたいのは、参加費を年末までに払えという意味ではないこと。初年度はそうしたのだけれど、それも可哀想だというので、2年目からやめたのだ。だから、参加費はキャンプ当日のカウンターで現金で支払ってもいいのだ。
「参加します」というメールを、ただ12月31日の真夜中までに送ってくれれば早割になります。

1月22日水曜日及び23日木曜日のAキャンプには、面白そうな人たちが集まりつつあります。
2月22日土曜日及び23日日曜日のBキャンプは、
「あと3部屋!」
と書いたことに逆に恐れをなして、あれから1人しか追加参加者が出なかったため、現在の時点で、ペンション・カーサビアンカは、まだ2部屋空いています。早い者勝ちです。

 先ほどの読響第九の記事で、フレーズの仕上げのことを書いたろう。今年の「音楽的スキー」のテーマのひとつとしても、「ターンの仕上げと正しい切り替え」を音楽につなげていこうと思っている。
 すごくテクニックもあるし上手なのだけど、いまひとつ音楽的な説得力に欠けるという音楽家は、僕の周りにも結構いる。いや、日本人にはとても多い。その人には、一体何が足りないんだろう、と思った時、案外原因は、前のフレーズの閉め方にあるのではないかと気が付いた。
 何故なら、そのサジェスチョンをした直後の演奏で、新国立劇場合唱団の演奏全体がガラリと音楽的になったのだ。だとすると、それを、むしろスキーの方から意識化することで、音楽に生かせていけないだろうか?と考えている。
 こんな風に、僕は音楽の面から、角皆君はスキーの面からの様々なアプローチを模索している。キャンプ当日の朝は結構綿密な打ち合わせをやるんだよ。だから、レッスンはレッスンで講演は講演という風に分離しているわけではなく、やっぱり「音楽的スキー・キャンプ」なのだ。
 先日も角皆君から、
「レッスンしていてある気づきがありました」
というメールが入ってきていたしね。

ということで、早割申し込みはお早めに!

今年の1年を振り返って~もうブレてはならない
 今年の1年を振り返って、画期的なことがひとつだけある。それは、カトリック教会の施設である真生会館での講座「音楽と祈り」が始まったことだ。これは、「音楽家としての三澤洋史」だけに興味ある方にとっては、どうでもいいことであろうが、自分にとっては一大事件なのである。何故なら、この講座の開始こそ、僕の人生における「本来の仕事」の本当の始まりを告げているのだから。

 僕の指導している合唱団やオーケストラに集まってくる人たち。あるいは、僕の作り出す音楽に賛同してくれる人たちは、すでに気付いているであろう。僕が、音楽だけをやろうとしているのではないことに。
 そもそも僕は、小さい頃から音楽的環境が与えられていたわけでもなく、親が音楽家になることを勧めたわけでもなければ、音楽を目指す僕を特に喜んだわけでもなかった。僕は思春期になった時に「自分の意思で」音楽家を志した。何故か?
 その答えを言う前に、ひとつだけ言っておかなければならないことがある。同じ時期に自分の内面から求め始めたものがあったのだ。それは宗教だ。思春期真っ只中。僕は自分の内面に沢山の醜い部分があることに気付く。そして、それに反比例するように、美しく汚れなく崇高で輝かしい世界を求めた。いや、求めたなんてもんじゃなかった。僕はその世界に飢え、かつ、むさぼるように焦がれたと言っていい。そして僕は、音楽と宗教とに向かったのだ。
 それ故に、僕が音楽の中に求めていたものは「宗教的法悦」であった。モーツァルトを聴いたら、まず「ジュピター交響曲」の崇高美に向かい、ベートーヴェンを聴いたら、「運命交響曲」の自らを超えていこうとする意思に勇気づけられ、「田園交響曲」の溢れる感謝に胸を震わせ、バッハのフーガからは至高なる世界からの波動を受けていたのだ。

 人が宗教に向かう時、通常は何をするのだろう?禅定や瞑想を行う人、深い祈りに浸る人、滝に打たれる人。いずれにしても、いわゆる「宗教的法悦」という境地に至るのは容易ではない。
 しかしながら、音楽の中にはそれがあるのだ。聴くだけで、天上の波動を受け、美に酔い、宗教的な覚醒を手に入れることができるのだ。勿論、聴覚的には同じものを物理的に聴いていても、受け取る人によって様々だ。感動する人、退屈な人・・・だからこそ音楽は“霊的”なのである。
 僕は迷うことなく音楽への道を目指した。それがどんなに厳しい道であっても、音楽に関わった途端にそうした法悦が得られるならば、そのためにどんな努力でも厭わないと決めたのだ。当然のことでしょう。

 そうして長い時が過ぎた。僕は音楽家になり、結婚して家族を養い一生懸命働いていく内に、情けないことに、宗教的には「ボーッと生きてきて」しまった。とはいっても、心の中ではどこかにその情熱があって、折りあらばと狙っていた。
 それが証拠に、僕は宗教曲の練習を付ける時には、話が長いだろう。その辺に、音楽に関わっていても、ただ「音を長く」とか「短く」とか、「高く」とか「低く」だけではないものに触れたい、あるいはみんなを触れさせたいという想いがフツフツと湧き上がっていたのだ。

 そうこうしている間に、神の恩寵は僕自身の「ボーッ」などお構いなしに、僕の上から恵み豊かに降り注いでいた。いろいろな出遭いや共時性が近年の僕を襲った。それらは全て、僕にそれを気付かせるための神の計らいだ。
 東京カテドラル関口教会に呼ばれて聖歌隊指揮者になるまでのいきさつは、今度出版される本に詳しく書いたので、そちらの方を読んでいただきたいが、まさに奇跡の連続だ。そしてカテドラルで指揮していることによって、カトリック系出版社の人たちの目にとまるようになり、月刊誌「福音宣教」や「カトリック生活」などに寄稿したりするようになった。
 そして突然の辞任。その時は失意に陥ったが、それも計画の内に入っていたことに最近になって気が付いた。僕は、関口教会聖歌隊指揮者になることで様々な勉強をさせてもらい、そして生徒として時期が来たのでその“学校”を卒業したのだ。
 僕を関口教会に呼んでくれた山本量太郎神父や、中央協議会に出向していた長崎教区の嘉松宏樹神父や、その他沢山の人たちによって知識を与えられ、信仰の覚悟を試され、喜びを与えられた。その全ての人たちに心から感謝したい。

 そしてついに真生会館から、生まれて初めて宗教的な話題による講座を任されたのである。そして、その講座を聴講したドンボスコ社の編集者から、それを本にしたいという申し出があり、その本の準備は着々と進んでいる。
 ということで、来年早々に本が出る。この本は、それまでの僕の信仰生活のひとつの行き着いた姿であると同時に、また様々な波紋の始まりでもあると思う。ここに表現されていることは、ひとことで言うと、
「カトリック教会的表現で読み解くことが出来る汎宗教的世界観」
である。
 でも、どうなのだろう?反発は来るのかな?何故なら、それを言ったら、フランシスコ教皇だって、僕ととっても似ている。だって、フランシスコ教皇は言うんだぜ。
「カトリックの神などというものはいない」
とね。
 カトリック作家といわれる遠藤周作氏に「沈黙」という小説があるが、「神は沈黙しているのだ。呼びかけても答えてはくれないのだ」という考え方がうらやましいほど、神様は、僕には片時も沈黙していなかった。
 勿論「言葉で」語りかけたり、姿を現したりはしない。しかしながら、神様は僕に、なんとかして自分が「存在して」いて、そして「アクティブに」働きかけているよ、と示したいように感じられてならない。これだけはっきりとした共時性を示されたら、それらを単なる偶然と片付けることは出来ないのである。そして、こうした自分の体験に対して口を封じるのは罪である。

 世の中はどんどん悪くなっている。というか、恐らく神の尺度から見たら、一体どこから手を付けたらいいか分からないほど、何もかも間違っているであろう。現代においては、各国の元首は皆ポピュリズムと経済最優先主義に毒されている。トランプ大統領などは、自分の立場を守るためにどれだけの嘘をついてきたのであろうか?その大統領を選んだのは米国民だ。そして日本はそれに犬のように追従している。
 巷では、幼児虐待やおかしな事件ばかりが起きている。僕がもし神様だったら、もうとっくに「もう我慢が出来ない!」と叫んでこの世に強制終了をかける(おお!Windows98の時代のなつかしい言葉よ)であろう。でも神様は、それでもじっと待っている。人類がいつか本当の平和を手にする日を・・・。

 僕は、祈りの力というものを信じる。観想修道会が籠もって世界の平和のために祈りを捧げている。これが世の役に立たないと思う人は、世界の半分しかものごとを理解していない人だ。
 これからの僕は、祈り、音楽を奏で、音楽や祈りについて語り、文章にし、証し人として生きていくのだ。それを死ぬまで行っていくのだ。この人生、もうブレてはならないのだ。



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