「ラ・ボエーム」続報

三澤洋史 

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小森輝彦のイエス
 1月17日金曜日。バリトンの小森輝彦さんと、東京バロック・スコラーズの「ヨハネ受難曲」の合わせをした。彼はイエスを歌う。合わせは、まず僕がピアノを弾きながら福音史家やピラトの個所を歌い、それに小森さんが自由に入ってくることから始まった。しばらく合わせてから僕はピアノを弾く手を止めて言った。とってもおこがましいことを・・・・。
「小森君、上手になったね。発声が良くなった」
しかしながら、小森さんは素直に喜んでくれた。
「ありがとうございます。嬉しいです。実は2年くらい前に調子が悪くなって、いろいろ発声を見直したんです」
「いいバリトンだね」
なんと偉そうな言い方だろう。しかしながら正直な感想なんだ。僕は彼にごまをする必要もないし、いたずらに持ち上げる理由もないからね。
「下から上まで響きが均一で、息もきちんと流れているし、艶やかな響きがきれいに乗っている。声帯には必要な分だけ圧がかかっている。理想的な発声だ」

 肝心のイエスの歌唱であるが、僕も自分のイエス像には結構こだわりがあるので、小森さんにあますことなく伝えた。巷で演奏されているのは、あまりにも神格化されて、かえって鈍重さににっちもさっちもいかないイエスで、僕はそれだけはごめんなのだ。この世に肉体を持ち、人間としての感情を持ち、喜び、苦しみ、怒り、微笑む、等身大のイエスを描きたいのだ。
 彼の表現のキャパシティはとても広い。僕がひとこと言うだけで、何を言わんとしているのかを即座に理解してくれる。そして自分のイメージに乗せて歌う。また僕がコメントをする。そのキャッチボールが楽しい。彼は言う。
「いやあ、楽しいですね。こうやっていろいろな表情を言葉から掘り下げていくのって・・・。また自分でもいろいろ考えて試してみます」
そう。とっても有意義なコラボレーション。イエスの個所自体はそんなに多くないので、合わせは1時間ほどで済んだが、なんと濃密な1時間であったろう。

 1月18日土曜日。午前中、東京バロック・スコラーズの練習で、僕は合唱団員に言った。
「昨日、小森さんと合わせをしましたが、素晴らしいイエスです。みんな、小森さんのイエスだけでも今回の演奏会のウリになるから、チケットもそう言って売るんだよ。さらに来週にはいよいよ清水華澄ちゃんとの合わせが始まる。
それに萩原潤や鈴木准、さらに定番の畑儀文に國光ともこ、コンマスの近藤薫と、今回くらいウリの多い演奏会はない。合唱団がなくってもいいくらいだけれど(笑)、なんていっても合唱団の演奏会なんだからね。周りを固めてあげたので、あとは君たちが頑張るしかないのだよ」

 この演奏会に、僕は、これまでのバッハ観と宗教観の全てを賭けて、本当に世界中どこにもない、かけがえのない演奏会にしてみせる!みなさん、その歴史的瞬間を共有しましょう。「バッハの誕生日」である3月21日には、ひとりでも多く北とぴあに足を運んでください。  


「ラ・ボエーム」続報
 いつものように新国立劇場の楽屋口で守衛さんにパスを見せて入り、稽古場に向かって廊下を歩き始めたら、後ろから、
「三澤先生!」
という高い元気な声が聞こえてきた。振り向くとムゼッタの辻井亜希穂さんがいる。
「ありがとうございます!あたしのことをブログに書いていただいて!」
え?あ、そうか。そういえばコンシェルジュが、彼女のTwitterにリンク貼りたいとか言ってたな。コンタクト取ったわけだな。
「もったいないお言葉です!」
「あ、いや・・・本人に読まれるとは・・・恥ずかしいな」
「あの日、実は家に帰って、うまくいかなかったので、ベッドで独りで泣いていたんです。そしたら連絡があって、それで・・・先生の記事を読ませていただきました。嬉しくてまた泣いちゃいました。とても勇気をもらって、また頑張ろうと思いました」
そ・・そんな・・・どう見ても自信満々に演技しているように見えていたのに。
「あたしの師匠は、大下久美子先生(愛知芸大の教授)なんです。先生は毎年、愛知祝祭管弦楽団の演奏会に行って、興奮して、あたしたち弟子に向かって、三澤先生のことを大絶賛しているのです。そんな先生とご一緒しているのにきちんと挨拶しそびれていて・・・それにもかかわらず褒めていただいて・・・」
なんか僕は、面と向かって言われると恥ずかしくて、
「大丈夫・・・自信を持ってやりなさい・・・」
と言うのが精一杯であった。僕って、見かけによらずシャイなのです。

 1月19日日曜日は、衣装付きのピアノ舞台通し稽古だった。合唱以外のシーンの稽古は、あまり見る機会がなかったから、今日は最初からオペラ全体を見た。辻井さんの歌と演技は益々冴えている。賢い女性だ。同時に、ムゼッタという役は、このオペラの中で本当に重要だと思う。
 なんだろうな。人間って、みんなちょっと罪深いじゃない。ムゼッタだって、金は持っているが年齢不相応なエロじじいのアルチンドロを色仕掛けで誘ったりしているだけでなく、あっちこっちで軽い気持ちで火遊びをしているんだろう。だから、あんなに好きなのに、マルチェッロと喧嘩別れしてしまう。けれど、それでもね、だからといって人格を全否定なんてできない。
 第4幕。アパルトマンで、ロドルフォとマルチェッロは、それぞれ恋人を失って意気消沈し、過ぎし日を懐かしんでいるが、他の仲間たちが帰ってくると、子供のようになって馬鹿騒ぎをする。その最中、ムゼッタが飛び込んでくる。瀕死のミミを連れてきたのだ。でも部屋の中には何もないし、相変わらず貧乏な人たちを前にして、ムゼッタは自分のイヤリングをはずし、
「これを売って薬を買ってきて頂戴!」
と言う。哲学者のコッリーネは一張羅の外套をミミのために売ってくるし、みんなみんなとっても優しい。それだけで涙を誘う。とどのつまり、とっても性善説に基づいたオペラ。

 力強く輝かしい声のマッテオ・リッピのロドルフォ、確実な歌唱のマリオ・カッシのマルチェッロなどに混じって、日本人歌手達も全く引けを取ることなく健闘している。松位浩さんのコッリーネは、日本人には珍しいどっしりと響きが乗ったバスで存在感がある。国立市在住の(あんまり関係ないか)森口賢二さんは、どちらかというと軽めの響きだが、それだけに演技も歌も軽妙で音楽的。元来芸達者な晴雅彦さんのアルチンドロは、もうハジケっぱなしで、辻井さんとのコンビネーションが絶妙。

 粟國淳(あぐに じゅん)さんの演出は、奇をてらうことなく、それでいてどのシーンにもきちんと血が通っていて、「ラ・ボエーム」というドラマの本質を余すことなく描き切っている。本当に素晴らしい演出家だと思う。

 水泳が好きで、僕にトータルイマージョンの泳法を教えてくれ、さらに彼が日本にいる時に習っていたインストラクターを僕に紹介してくれた指揮者のパオロ・カリニャーニは健在。ただ、両肩の手術をしたという彼は、今ではプールに通ってはいない。むしろジムに行っている。
 僕が先日スキーに行ったという話をしたら、とっても喜んでくれた。ただ彼はスキーはもう生涯二度としないそうだ。ある時、山のてっぺんからジャンプしたら、そこは高い崖で、墜落して骨折し、約1年間指揮活動を断念したという苦い経験があるという。
 指揮棒一本で全世界の歌劇場を渡り歩いている彼は潔く、僕には眩しい存在。指揮は明快で、これだったらどこに行っても大丈夫だろうな。僕も、今だったらレパートリーもあるし、出来るような気がする。でもね、もうこの歳でそんな風来坊のような生活はいいや。歳取ったって、音楽は決して守りには入らないつもりだが、波瀾万丈な生活よりも、悟りの人生を目指したいのだ。

 新国立劇場「ラ・ボエーム」は、僕がキャンプから帰って来た翌日の1月24日が初日。これはお薦めです。
 

スキーという内面への旅
 1月16日木曜日。秋本健ちゃんと川場スキー・リゾートに行く。異常な雪不足の今シーズンであるが、ここにきて川場はやっと安定した雪が積もり、僕がコブの練習をするのに最適な高手スカイラインがオープンして、全面滑走可となった。だから今日はガッツリ滑って、帰りはヘトヘト。

 先シーズンでいろいろ学習したものの、シーズン始めというのは、ただちにそのレベルからは始められないんだよね。忘れていることがいろいろあって、特にコブに関しては、雪の少ない年末年始では充分なアプローチが出来なかったから、この日でやっと先シーズン最後のレベルに追いついたって感じ。

 今シーズンのキャンプで、自分で「ターンの終了から次のターンの開始まで」というキャッチフレーズを掲げていながら、自分でその点が改善されていなかったことに気が付いた。
 年末の個人レッスンで、角皆優人君に右ターンの外向傾が足りなかったことを指摘されていたが、いろいろ調べてみたら、実は原因はそこにはなかった。むしろ左ターン終了時に、きちんと右足カカトに乗れていなかったせいであったのだ。
 これは昔からの僕の癖である。右足腿の筋肉が弱いせいでもないと思うのだが、何故か左足に比べて、右足のみに乗る負担感の方が大きいように感じられる。だから左ターンの仕上げで乗り切れてなくて、反対側の左足にもわずかに乗っているのだ。
 これって数パーセントのレベルなんだろうが、これがくせ者なのだ。切り替え時のウェイト・シフトの曖昧さを導き出す。すると、新しく重心を乗せた板が思うように回転しないため、体が無意識に上半身の回転を使って補おうとしてしまうのだ。
 そういえば昨年、スキー・エストの廻谷和永(めぐりや かずなが)さんに、ターン開始時にわずかに内傾するというのを指摘されたが、これも右ターンの開始時だった。新しい内足の、小指側のエッジに助けられてターンを始めようとしたわけだ。
 こんな風に、ある現象の本当の原因というのは、その現象が起きた時ではなく、そのひとつ前のアクションである可能性を疑った方がいい。

 この日の僕は、可笑しいくらいに、ハマり易い失敗には全てハマり。それを根気よく丁寧にひとつひとつ直していった。コブ斜面では、コブの頂点を見事に見誤り、スキーヤー目線の頂点、つまりコブの本当の頂点よりちょっと前でストックを突くもんだから、テールが引っ掛かったりしてやりにくい。
 それでジャンプしてコブを越えていたんだけど、ちょっと非能率的だなあと考えたらすぐ分かった。本当のコブはもっと先なのだ。それでストックを突くのを我慢した。そうしたら、コブの頂点では、スキー板の真ん中だけ残してトップとテールは宙に浮くわけさ。だからテールが引っ掛かるわけないし、回転はクルクル好きなだけ出来る。ジャンプなど本来は不要。バッカだなあ。何故そこまで待てなかったのだ?

 またコブを越えるのに無意識に伸身っぽくターンしていたが、これもハッと気が付いて(気が付くの遅すぎ!)体をかがめて屈伸抜重にし、さらにコブの底に向かって足を伸ばしていった。また、それだけではなくて、板を意図的に下に向けて、コブの底の溝にトップを落とし込んだ。
 今シーズンから新しく使っているChargerという板は、板のしなりが良く、安心してトップを下に落とし込める。その時、板のトップをコブの溝にぶつけるくらいの勢いでいいのだが、最初は恐怖感が先に立ってしまうのだ。でもぶつかった瞬間、板がしなってくれてクッションの役割をし、ブレーキを掛けてくれることが分かると、かえって楽しくなる。
 まあ、この点だけ取り上げてみたら、面白いようにビュンビュンしなるモーグル専用の244という板が理想的なのであるが、1台でコブだけでなく高速も新雪もといったら、僕にとっては今のところChargerに勝るものはない。

 そういうことで、いろいろ落ち着いて学習が出来た。そこで試しに、最大斜度34度でモーグルコースが並んでいる「無名峰トライアル」に恐る恐る入っていったら・・・ヤッター!モーグルコースが下の方のなだらかなゲレンデ上に出来ていたこともあって、落ち着いてバンクターンが出来ました。明けましておめでとうございます!

写真 モーグルの無名峰トライアルコース
無名峰トライアル


 みなさんに強く言います。「物理は嘘つかない」。そして「物理的法則に従ったフォームは嘘つかない」です。この「嘘つかないシリーズ」が僕は大好きです。愛知祝祭管弦楽団の「ジークフリート」の時に、嫌というほど練習を重ねたアルベリヒとミーメの二重唱が、致命的ともいえるキュー出しのアクシデントにもめげず、無事に成し遂げたのは練習のたまもの。演奏会終了後、アルベリヒ役の大森いちえいさんが、しみじみと言った。
「マエストロ、『練習嘘つかない』ですね」
 ひとつひとつを丁寧に考えてこなし、正しいフォームやあり方から外れなければ、必ずや結果はついてくるのです。これは人生でも同じです。それぞれの分野で、みなさんも「嘘つかないシリーズ」で生き抜きましょう。これは、スキー・キャンプで角皆優人君が話す「目玉おやじ」の話とも共通する真理です!

 ということで、いよいよ今週は「マエストロ、私をスキーに連れてって2020」キャンプの幕が開きます。僕も気合いを入れて・・・って、ゆーか、たっぷりエンジョイします。僕の悟りはね、人生とは、とどのつまりこういうこと。すなわち、自分自身の五体を使って、でいろんなことを“体験”して、楽しいこともそうじゃないことも含めて、この世でなければ出来ないことを学んで、あの世に帰ること。
 肉体はいずれ滅んでしまうけれど、肉体を超えて精神にまで落とし込んだものは決して滅びない。時間は消え、お金は滅んでしまうけれど、時間や労力やお金を遣って得た“歓び”は滅びない。
 歓びといってもいろいろあるけれど、たとえばある地位を得るとか、人から賞賛を浴びるとかいうのは本当の歓びではない。そうではなくて、自分自身の魂が歓ぶもの。それを探し、それに沿って生きることが人生の本当の目的である。その歓びの頂点にあるものは、なんといっても法悦である。すなわち、法という悦楽。

 ということで話がスキーからだんだん大きくなってしまいましたが、ゲレンデを自由に飛び回る中には、限りなく法悦に近いものがあるのだ!
スキーは、自分自身の内面へと向かう旅。人生もそう!



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