小川榮太郎「フルトヴェングラーとカラヤン」

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

Aキャンプ無事終了
 「マエストロ、私をスキーに連れてって2020」キャンプがいよいよ幕を開けた。平日なので、Bキャンプに比べると、人数こそ少なめだったが、その分アットホームな雰囲気に満ち、レッスンもひとりひとりに対してきめ細かい対応が可能。その甲斐あって、2日の間に参加者それぞれの進歩が際立って見えた。

写真 スキーキャンプ開始時の全員集合
キャンプ開始の意気込み


 最後のレッスンの終了間際、全員でトレイン(みんなで列をなして滑ること)をやろうと、メインコーチの角皆優人(つのかい まさひと)君が提案した時、「初級班まで交えてやるのは可哀想なのでは?」と、中級班の誰しもが思ったと思う。初級班のコーチである角皆夫人の美穂さん自身でさえ、「大丈夫かな?」という顔をしていたのを僕たちは見逃さなかった。

写真 スキーキャンプ参加者全員でシーハイル
シーハイル

 でも、こんな時は冒険も大事なんだね。さすが角皆君。確実さと冒険のタイミングを心得ている。予想に反して、初級班の皆さんの進歩が著しく、落ち着いてきれいにトレインができた。勿論、中級班よりはちょっと遅れ気味ではあったけど・・・・バリトン歌手の小林宏樹君が、後ろを気にしてわざと中級班のみんなから離れて付き添ってくれた。
 小林君は、「前の人から3メートル以上離れてはいけない」というトレインの原則を守らなかったことで、終了後、角皆君に軽く注意されていたが、それが小林君の優しさだということは、みんな気づいていたし、角皆君もそれは分かっていたね。

 ソプラノ歌手の飯田みち代さんをはじめとする初級班は、飯田さんの他に、つくば大学教授で物理学者のNさん、それに僕の妻の3人。中級班は、キャンプの常連で東京バロック・スコラーズのメンバーでもあるTさんと小林君、次女の杏奈、僕、それに香港から参加した英語しかしゃべらない投資家のミッキーさんという国際色豊かな構成である。レッスン中でも講演会及び懇親会中でも、まわりがミッキーさんに英語で対応していたのは、キャンプの構成員の知性の豊かさを証明していた。
 初級班の担当は角皆君の奥さんの美穂さん。中級班は角皆君。そして、我が家が誇るお転婆娘の杏樹ちゃんは、特別班としてタカコさんというインストラクターに個人レッスンをお願いした。

 杏樹は、昨年末白馬に来ていながらインフルエンザB型に感染し、とてもスキーどころではなかったが、今回は新しい100センチの板デビューを飾った。この板は、昨年までの80センチの板よりずっと安定性があるので、初日のレッスン後、とおみゲレンデのクワッド・リフトであるスカイフォーが4時50分に終了するまで一緒に滑ったら、なんと僕が本気出した時のスピードに迫るほど、めっちゃ速く滑る。杏奈の倍のスピードは出ている。
「危ないから、もっとゆっくり滑りなさいよ!」
と何回言っても無視。かえって、
「じーじ、競争しよう!いくよ。ヨーイ、ドン!」
と言って、勝手にフルスピードで走り出す。
「危ないってば!」

 でも感心したのは、タカコさんに教わった左右の重心移動のドリルを滑りながらやっていること。上半身を左右に振って、それぞれの谷足にしっかり乗ってターンをしていると、自然に山足から重心が抜けている。ということは、このままいくとパラレルまでそう遠くない・・・いやいやいや・・・アイツがもしパラレルになったら・・・ああ、恐ろしい!僕が杏樹に追い越されるまで3年もつかな?
 ヴォータンは、自分の槍をノートゥングで砕いたジークフリートに対して、満足な気持ちを抱き、喜んで彼を岩山に送り出したが、同時にそれは「自分の時代は終わった」という諦念と、神々の黄昏をむしろ待ち望む「滅亡への憧憬」の始まりであった。
 うんにゃ!僕の引退はまだまだだぜ。アイツに追い越されないことを、これからのモットーにしながら生きよう。

 しかし、子供の適応力というのは本当に凄いなあ。2日目の朝、妻も杏奈も「腿筋が痛い」と言いながら起きてきたが、僕が杏樹に、
「ねえねえ、キミは足とか痛くないの?」
と訊いたら、意味が分からなくてキョトンとしている。どうも“筋肉痛”という言葉は、杏樹の辞書には載ってないようだ。

 今年のキャンプのテーマは「ターンの終わりから次のターンの開始まで」で、同時に「音楽におけるフレーズの終了と次のフレーズ開始の意識」と連動していて、講演会でもその内容を語った。

写真 リラックスした音楽とスキーの講演会風景
講演会音楽とスキー

 ある人の奏でる音楽が、プロっぽいかそうでないかの見分け方に、「フレージングの感覚があるか否か」というのがある。我々が何かを語る時、単語を並べて一つのまとまった文章を作るが、次の文章がそれを受けて発展していくのか、あるいはトーンを変えて別の内容に入っていくのか、いろいろなヴァリエーションがあるだろう。
 音楽でも、ひとつのフレーズを完成させることばかり考えていると、次のフレーズとの関連性が薄れてしまう。フレーズは次のフレーズとの関係によってダイナミズムが生まれ、発展していく。フレーズを正しく終了できて初めて、次のフレーズをどう始めようか心の余裕が生まれるので、まず終了に意識を持っていくのである。
 このことをまずスキーで意識化し、音楽にまで持って行きたいのである。スキーでも、ターンを安定して終了して初めて、次のターンの始まりが落ち着いてイメージできる。そして、いくつもの意味を持ってつながったターンが、ゲレンデにおいて、ひとつのまとまったパフォーマンスを成すのである。

写真 角皆コーチによるビデオによる反省会
ビデオを観ながら反省会

 角皆君のフリースタイル・アカデミーでは、特に外向傾を重視する。最近のカーヴィング・スキーでは、これを軽視する傾向があるが、完全に圧雪され整備されたゲレンデだったらともかく、少しでも荒れた雪面や不整地では、外向傾以外にターンを無事終了する手立てはない。ましてやコブともなると、外向傾ショートターン以外では手も足も出ないであろう。
 つまり、ターンの終了を見つめるためには、まずなんと言っても外向傾をきちんと習得するべし。それ故に、今回の中級班は、レッスン全体に渡って特に外向傾にこだわった。ターン終了時には、遠心力と重力とが両方谷側にに働くため、とても足が重い感じになるが、それでもほとんど外足のみに乗ってそれを耐える。しんどいので中途半端に内足にも乗ったり、あるいは気が早く、新しい外足(つまりこれまでの内足)に乗ろうとすると、不安定になり、切り替えがスムースに行えない。すると、新しいターンを、はっきりとしたコンセプトを持って始めることができない。切り替え前に、必ず瞬間ではあるが、
「あ、今きちんと外足に乗った!」
と確認することが不可欠なのである。

 このコンセプトは、Aキャンプにおいて、とても有用であった。特に中級班のみんなは、それぞれ大切なものを持ち帰ってくれたのではないかと信じている。

写真 スキーキャンプメンバーのティータイム
ティータイム

 キャンプを終えてから、角皆君のところに、飯田みち代さんから素晴らしいメッセージが届いた。読んで、僕もとってもハッピーな気持ちになった。以下に引用したい。

2年ぶり2回目のスキーキャンプが終わった。1日目はとても良いお天気で、今日は朝から空から氷が降って視界も悪く、残念だった。

日本一のコーチと何人もから聞く角皆先生とその奥様の美穂さんが指導をしてくれる。美しいものと美しい人が大好きなわたしは、美穂さんが目の前で逆さに滑っていく姿に見惚れているうちにいつのまにか滑っていく。三澤先生に誘われて、恐る恐るの参加だったのだけれど、美穂さんが目の前で滑るのをみてるのが楽しかったのかもしれない。

天気の良い初日は、何故かテノールのアリアばかりが頭の中に流れていたのだけれど、天気が悪いとラフマニノフになる。それでも山肌を煙って上がっていく雲の様子や、その上に顔を出す山の様子は、オーストリアを思い出して、妙に懐かしい。

スキーには恐ろしい思い出がある。初めて両親に連れて行ってもらってスキーの履き方を習っている最中に、妹が転び、その顔の上をスキーヤーが滑って行ったので、顔が切れたのだ。その恐ろしい経験から、スキーはわたしにとって、ナイフを振りかざして襲ってくる恐ろしいスポーツという認識だった。自分もナイフを履いて接触してら殺しかねないと。でも、少しずつ、滑るということが自分のコントロール下になってくる気がする。少しずつトラウマも消えるのだろうか?
それにしても、やり方が悪いのか、この2日は運動不足、帰ったらジムに行かなきゃと思ったのに、今日はジムが休み。ガッカリ!


さて、美穂さんについて。
美しいとかいた美穂さんがどんなふうに美しいのかを書こうと思う。
美穂さんはスラリとモデルのような体型をしている。はしばみ色がかった目は真っ直ぐに透明で、声も澄んで鈴を鳴らすようだ。逆ハの字にスキー板を開いて、斜面にほとんど体を触れるくらいに倒しながら逆さに滑り降りていく様は、まるでバレリーナの優雅な踊りを見ているようだった。全く邪気のない笑顔で、大丈夫ですよ、と言われると、魔法にかかったようにそちらへと吸い寄せられる。不思議なほど柔軟な体の、その動きを見ていると、まるでそのように自分の体も動けるような気がしてくる。はしばみ色のその目のどこにも、拒絶や警戒と言った何かが存在しないので、まるでわたしは美穂さんと一つになったかのように感じる。不思議な魅力である。

そして、旦那様の優人さん。この人が滑っている時は、人には見えない。芸術そのものが滑っているような気がしてくる。繊細で、優雅で研ぎ澄まされた動き。奥様と同じ透明感が常に漂っている。彼のスキーにスキーの音はしない。音楽そのものだと思ってしまう。もちろん容姿端麗なのだけれど、そんなことも分からなくなるほど、芸術だと思う。マヤプリセツカヤのバレエや、リカルド・コッキのルンバを見たときのように、息をするのを忘れてしまう。

なんでも、習う時はトップの先生に初めから習う、というのがわたしの主義だから、先生方には甚だ迷惑だろうけれど、目の前で美しいものをたくさん見て、わたしの方は幸せであった。


小川榮太郎「フルトヴェングラーとカラヤン」
 小川榮太郎著「フルトヴェングラーとカラヤン-クラシック音楽に未来はあるのか」(啓文社書房)をアマゾンで取り寄せて読んでみた。角皆君がこの本を読んで「悔しさ」を覚えたというので、興味深かったからだ。
 といっても、まだ全部読み切っていない。スキー・キャンプまでにある程度読んで、角皆君と感想を語り合いたかったので、とりあえずメインの章である「フルトヴェングラーとカラヤン」を読み、トスカニーニとチェリビダッケに関する記事は飛ばして、「カラヤンのレコード」や、最後の「『クラシック音楽』の成立と『演奏』の天才」を読んだ。それから、「バレンボイム&ベルリン国立歌劇場の来日」と「クリスティアン・ティーレマン」を飛ばし読みした。

 読み易い本ではない。「小林秀雄の後の二十一章」と違って、今回は旧漢字は使ってないので、違和感を覚えるのは、旧仮名遣いのみだが、それでもスラスラというわけにはいかない。文章そのものも、村上春樹の小説のようにはスラスラと読めはしない。
 しかしながら悪文という意味ではない。ひとつの文章の中にいろんなものがつまっているので、考えながら読まないといけないだけだ。むしろ、素晴らしい文章だと言い切ってもいい。

 ただね、この文章力を使えば、同じ内容で半分の長さにできるのではと思うのは僕だけであろうか。この長さが果たして必要なのか、と思ってしまう。勿論、論理的に読者を説得させるためには、ある程度の長さは必要だ。様々な疑問や反論の可能性をひとつひとつ丁寧につぶしていき、なるほど、こうしかないな、と相手に思わせるためには、いくつもの例を挙げなければならないし、自分でも反論の可能性をあらかじめ提示しながら、柔らかく否定することも戦略の内である。通常の論文ならば・・・。

 だがこれは音楽批評の本である。そもそも音楽批評というものは、論理の積み重ねだけでは為し得ない。自分の耳と感性とで聴き込み、出てきた感想も感性によるもの。それを文章で表現するためには、本来、論理的証明が不要である場合が少なくないのだ。
 実際、小川氏が演奏をきちんと聴き込んだ上で語っている個所は、僕を唸らせるものがある。いや、本当によく聴いている。オペラまで・・・というとちょっと奇妙な表現かも知れないけれど、普通みんなシンフォニーを中心にフルトヴェングラーとかカラヤンって語るじゃないですか。

 でも、例えば、「カラヤンのレコード」という章で、「オテロ」や「アイーダ」などのイタリア・オペラで、フルトヴェングラーやトスカニーニと比べるが、いろいろ興味深いことは語っていながらも、そこから出てきた結論は、結局、カラヤンは音響からしかオペラに取り組んでいないというステレオタイプの意見であることが、僕には残念である。
 「トスカ」の冒頭では、
「カラヤンの出だしは『音』であり過ぎ、『音』として壮大であり過ぎ、プッチーニの世界を壊している」
と言い切っている。
 また、決定版と言われる、ヴィクトル・デ・サバータ指揮マリア・カラス主演の録音と比べ、
「カラヤンが砂糖漬けと威圧的な音響の間で不器用に分裂させている楽想を、サバータは一貫した破局へのシンフォニーに纏め上げてゐる」
と厳しい。
 しかし僕の経験から言わせてもらえば、実際指揮者が「トスカ」の冒頭のオケ練習をする時、そんなに返して何度もバランスを直したり、ましてやみんなにこの冒頭の意味を説明したりはしない。
 逆にカラヤンだけは、それを行っていたかも知れない。みんながよく知っているYoutubeでのシューマン作曲第4交響曲冒頭で、カラヤンはあれほどまでに執拗に自分の音をオケに求めている。「突かないで、重厚に!」と。何度も何度もやらせている。彼の“おと”が彼の命だから。
 それなのに、その冒頭を「プッチーニの世界を壊している」と一刀両断するのは僕には納得がいかない。それを言うなら、むしろ、カラヤンだけが意図的に音響をコントロールしていることに対して、他の指揮者の冒頭のサウンドは「たまたま」の可能性が強い。トスカニーニが、この冒頭にもの凄くこだわっていたとは僕には思えない。

 このように小川氏は、他の個所ではとても論理的な切り口で文章を進めていながら、肝心なところでは、良く言って「本人の感性に頼って」、悪く言えば「思い込みで」独善的に語っている。しかも、そういう個所に限って、論理的な反証はできない。ただ、「僕はそうは思わない」ということしかできない。小川氏は僕を説得できないし、僕も小川氏を論破できない。ここに「音楽批評」という行為の限界がある。

 僕にとって良かったことは、この本を読んで、「そもそも批評というものは一体何だろう?」とか、「音楽批評を小川氏のように論理的な武装をして語るということはどういうことなのか」について考えられたことだ。
 そもそも僕はカラヤンと同業者だから、聴き方が通常の音楽愛好者とは全く違う。僕はカラヤンを好んで聴く人間であるが、それはカラヤンがどうしてあの音を作れるのかという秘密を、指揮者目線から知りたいからであって、カラヤンの作り出す音楽全体に傾倒しているわけではない。ましてや他の演奏家と比べて、「カラヤンの勝ち」とか「カラヤンの負け」と位置づけるつもりもない。
 どうして、カラヤンとフルトヴェングラーとを争わせなければならないのだろう。カラヤンのある曲を聴いて、ここはいいなと思い、トスカニーニを聴いて、ここがいいなと思うのではどうしていけないのだろうか?

 と、悪口を書いてしまったが、次の二つの論点は、見事を言うしかないなと思った。ひとつは、カラヤンが、あの“おと”を持って、レコード音楽という時代を切り開いた、という見解。もうひとつは、カラヤンにとって、レコードでひとつの模範を作るという態度だ。

 あの誰も手にすることのできない極上の音をイメージすることができ、さらにそれをあの稀有なる身体意識によって現実化する才能を持ったカラヤンなら、それを録音によって残したいと思うのは当然ではないか。
 フルトヴェングラーの録音を聴く時、僕たちは、そこで「何をやったか」を聴く。僕は、今では、第7交響曲のどこで彼がアッチェレランドをかけているかつぶさに知っている。一回こっきりのライブであれば素晴らしいが、それを時として“ウザい”と感じる僕は、そう何度もフルトヴェングラーのベト七を聴きたいとは思わない。
 それに対して、カラヤンのベト七では、スコアが見える。その点ではトスカニーニと一緒だ。ただひとつ全然違っていることは、その音の豊穣さなのである。このふたつを並べて論じ、優劣をつけることには意味はない。まあ、著者もそういう結論なのだろう。向かうべき世界観が違う。

 僕は、オペラを自分で演奏する時に、いろいろな演奏を聴くが、カラヤン以外の人はみんな、とても良い部分があると同時に、自分は絶対にこんな解釈はしないな、という自分にとって負の部分がある。それが個性というのなら、カラヤンにはそれがないので、安心して勉強できるし、そこを出発して、自分のイメージやインスピレーションを膨らませることができるのだ。しかもオペラで特有の「トラディション」という、楽譜にないリタルダンドやフェルマータなどを、カラヤンくらい“中庸に”行ってくれる人はいないから、まさに模範なのだ。
 カラヤン自身が、自分で新しい曲を勉強する時、いわゆるレコ勉をしていたことを白状している。ベームはここをこうしたとか、細々と人に言うことを恥じている様子もない。カラヤン・アカデミーで勉強していた高関健ちゃんも、カラヤンから、これを聴いて勉強しろと言われて驚いたと言っていたからね。
 だからカラヤンは、自分が録音する時には、自分のレコードで人が勉強し易いように、意図的に演奏していたに違いない。しかも極上の音で!

 最終章で、小川氏は、オリジナル楽器のことについて語っている。小川氏の考えることはもっともで、それがそのまま、僕がバッハを演奏する時、あえてモダン楽器で演奏する理由になっているが、かつてホグウッドのアシスタントを務めていろいろ彼から教わった経験のある僕は、オリジナル楽器に関わる人たちの奏法研究には、少なからぬリスペクトを置いているし、ガーディナーやトン・コープマンやクイケンなどの演奏を好んで聴く。

 小川氏の本は、僕に、無意識のままでいた様々なことを意識化させてくれて、とても知的な刺激を与えてくれた。それだけでも感謝したい。また時間を見て、続きを読んでみます。



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