Aキャンプ無事終了
「マエストロ、私をスキーに連れてって2020」キャンプがいよいよ幕を開けた。平日なので、Bキャンプに比べると、人数こそ少なめだったが、その分アットホームな雰囲気に満ち、レッスンもひとりひとりに対してきめ細かい対応が可能。その甲斐あって、2日の間に参加者それぞれの進歩が際立って見えた。
キャンプ開始の意気込み
シーハイル
講演会音楽とスキー
ビデオを観ながら反省会
ティータイム
小川榮太郎「フルトヴェングラーとカラヤン」
小川榮太郎著「フルトヴェングラーとカラヤン-クラシック音楽に未来はあるのか」(啓文社書房)をアマゾンで取り寄せて読んでみた。角皆君がこの本を読んで「悔しさ」を覚えたというので、興味深かったからだ。
といっても、まだ全部読み切っていない。スキー・キャンプまでにある程度読んで、角皆君と感想を語り合いたかったので、とりあえずメインの章である「フルトヴェングラーとカラヤン」を読み、トスカニーニとチェリビダッケに関する記事は飛ばして、「カラヤンのレコード」や、最後の「『クラシック音楽』の成立と『演奏』の天才」を読んだ。それから、「バレンボイム&ベルリン国立歌劇場の来日」と「クリスティアン・ティーレマン」を飛ばし読みした。
読み易い本ではない。「小林秀雄の後の二十一章」と違って、今回は旧漢字は使ってないので、違和感を覚えるのは、旧仮名遣いのみだが、それでもスラスラというわけにはいかない。文章そのものも、村上春樹の小説のようにはスラスラと読めはしない。
しかしながら悪文という意味ではない。ひとつの文章の中にいろんなものがつまっているので、考えながら読まないといけないだけだ。むしろ、素晴らしい文章だと言い切ってもいい。
ただね、この文章力を使えば、同じ内容で半分の長さにできるのではと思うのは僕だけであろうか。この長さが果たして必要なのか、と思ってしまう。勿論、論理的に読者を説得させるためには、ある程度の長さは必要だ。様々な疑問や反論の可能性をひとつひとつ丁寧につぶしていき、なるほど、こうしかないな、と相手に思わせるためには、いくつもの例を挙げなければならないし、自分でも反論の可能性をあらかじめ提示しながら、柔らかく否定することも戦略の内である。通常の論文ならば・・・。
だがこれは音楽批評の本である。そもそも音楽批評というものは、論理の積み重ねだけでは為し得ない。自分の耳と感性とで聴き込み、出てきた感想も感性によるもの。それを文章で表現するためには、本来、論理的証明が不要である場合が少なくないのだ。
実際、小川氏が演奏をきちんと聴き込んだ上で語っている個所は、僕を唸らせるものがある。いや、本当によく聴いている。オペラまで・・・というとちょっと奇妙な表現かも知れないけれど、普通みんなシンフォニーを中心にフルトヴェングラーとかカラヤンって語るじゃないですか。
でも、例えば、「カラヤンのレコード」という章で、「オテロ」や「アイーダ」などのイタリア・オペラで、フルトヴェングラーやトスカニーニと比べるが、いろいろ興味深いことは語っていながらも、そこから出てきた結論は、結局、カラヤンは音響からしかオペラに取り組んでいないというステレオタイプの意見であることが、僕には残念である。
「トスカ」の冒頭では、
「カラヤンの出だしは『音』であり過ぎ、『音』として壮大であり過ぎ、プッチーニの世界を壊している」
と言い切っている。
また、決定版と言われる、ヴィクトル・デ・サバータ指揮マリア・カラス主演の録音と比べ、
「カラヤンが砂糖漬けと威圧的な音響の間で不器用に分裂させている楽想を、サバータは一貫した破局へのシンフォニーに纏め上げてゐる」
と厳しい。
しかし僕の経験から言わせてもらえば、実際指揮者が「トスカ」の冒頭のオケ練習をする時、そんなに返して何度もバランスを直したり、ましてやみんなにこの冒頭の意味を説明したりはしない。
逆にカラヤンだけは、それを行っていたかも知れない。みんながよく知っているYoutubeでのシューマン作曲第4交響曲冒頭で、カラヤンはあれほどまでに執拗に自分の音をオケに求めている。「突かないで、重厚に!」と。何度も何度もやらせている。彼の“おと”が彼の命だから。
それなのに、その冒頭を「プッチーニの世界を壊している」と一刀両断するのは僕には納得がいかない。それを言うなら、むしろ、カラヤンだけが意図的に音響をコントロールしていることに対して、他の指揮者の冒頭のサウンドは「たまたま」の可能性が強い。トスカニーニが、この冒頭にもの凄くこだわっていたとは僕には思えない。
このように小川氏は、他の個所ではとても論理的な切り口で文章を進めていながら、肝心なところでは、良く言って「本人の感性に頼って」、悪く言えば「思い込みで」独善的に語っている。しかも、そういう個所に限って、論理的な反証はできない。ただ、「僕はそうは思わない」ということしかできない。小川氏は僕を説得できないし、僕も小川氏を論破できない。ここに「音楽批評」という行為の限界がある。
僕にとって良かったことは、この本を読んで、「そもそも批評というものは一体何だろう?」とか、「音楽批評を小川氏のように論理的な武装をして語るということはどういうことなのか」について考えられたことだ。
そもそも僕はカラヤンと同業者だから、聴き方が通常の音楽愛好者とは全く違う。僕はカラヤンを好んで聴く人間であるが、それはカラヤンがどうしてあの音を作れるのかという秘密を、指揮者目線から知りたいからであって、カラヤンの作り出す音楽全体に傾倒しているわけではない。ましてや他の演奏家と比べて、「カラヤンの勝ち」とか「カラヤンの負け」と位置づけるつもりもない。
どうして、カラヤンとフルトヴェングラーとを争わせなければならないのだろう。カラヤンのある曲を聴いて、ここはいいなと思い、トスカニーニを聴いて、ここがいいなと思うのではどうしていけないのだろうか?
と、悪口を書いてしまったが、次の二つの論点は、見事を言うしかないなと思った。ひとつは、カラヤンが、あの“おと”を持って、レコード音楽という時代を切り開いた、という見解。もうひとつは、カラヤンにとって、レコードでひとつの模範を作るという態度だ。
あの誰も手にすることのできない極上の音をイメージすることができ、さらにそれをあの稀有なる身体意識によって現実化する才能を持ったカラヤンなら、それを録音によって残したいと思うのは当然ではないか。
フルトヴェングラーの録音を聴く時、僕たちは、そこで「何をやったか」を聴く。僕は、今では、第7交響曲のどこで彼がアッチェレランドをかけているかつぶさに知っている。一回こっきりのライブであれば素晴らしいが、それを時として“ウザい”と感じる僕は、そう何度もフルトヴェングラーのベト七を聴きたいとは思わない。
それに対して、カラヤンのベト七では、スコアが見える。その点ではトスカニーニと一緒だ。ただひとつ全然違っていることは、その音の豊穣さなのである。このふたつを並べて論じ、優劣をつけることには意味はない。まあ、著者もそういう結論なのだろう。向かうべき世界観が違う。
僕は、オペラを自分で演奏する時に、いろいろな演奏を聴くが、カラヤン以外の人はみんな、とても良い部分があると同時に、自分は絶対にこんな解釈はしないな、という自分にとって負の部分がある。それが個性というのなら、カラヤンにはそれがないので、安心して勉強できるし、そこを出発して、自分のイメージやインスピレーションを膨らませることができるのだ。しかもオペラで特有の「トラディション」という、楽譜にないリタルダンドやフェルマータなどを、カラヤンくらい“中庸に”行ってくれる人はいないから、まさに模範なのだ。
カラヤン自身が、自分で新しい曲を勉強する時、いわゆるレコ勉をしていたことを白状している。ベームはここをこうしたとか、細々と人に言うことを恥じている様子もない。カラヤン・アカデミーで勉強していた高関健ちゃんも、カラヤンから、これを聴いて勉強しろと言われて驚いたと言っていたからね。
だからカラヤンは、自分が録音する時には、自分のレコードで人が勉強し易いように、意図的に演奏していたに違いない。しかも極上の音で!
最終章で、小川氏は、オリジナル楽器のことについて語っている。小川氏の考えることはもっともで、それがそのまま、僕がバッハを演奏する時、あえてモダン楽器で演奏する理由になっているが、かつてホグウッドのアシスタントを務めていろいろ彼から教わった経験のある僕は、オリジナル楽器に関わる人たちの奏法研究には、少なからぬリスペクトを置いているし、ガーディナーやトン・コープマンやクイケンなどの演奏を好んで聴く。
小川氏の本は、僕に、無意識のままでいた様々なことを意識化させてくれて、とても知的な刺激を与えてくれた。それだけでも感謝したい。また時間を見て、続きを読んでみます。