緊急・「ヨハネ受難曲」演奏会チケットの僕からの返金
「ヨハネ受難曲」演奏会が1年先に伸びてしまったが、寄りによって今回は僕の手持ちのチケットが昨年末に良く売れた。というのは、真生会館の「音楽と祈り」講座の受講者の方達が買ってくれたのだ。
「音楽と祈り」講座は、僕が多忙のため冬の間はお休みで、4月23日木曜日から再開する。それなので、12月の講座の時までに、皆さん買ってくださったのである。ところが、もともと友達とか知り合いというのではないから、返金する手立てがない。もしかしたら、演奏会が延期になったのも知らないで、3月21日に北とぴあに来てしまう方もいらっしゃるかも知れない。
当日、ホールには東京バロック・スコラーズのメンバーに混じって、妻もそういう方のためにホール前に行っているという。そこにいらした方にはその場で返金するし、4月の講座にいらしてくださる方には、その時にお返しします。
そのどちらでもない方は、済みませんがCafeMDRのメールアドレスに連絡していただけますか?
cafe.mdr.office@gmail.com
あるいは、東京バロック・スコラーズのホームページから、払い戻し手続きをしてください。
また、この「今日この頃」をたまたまご覧になった方は、チケットを買ったお友達に是非お知らせください。
12月にモツレクをウィーンで歌おう!
新型コロナ・ウィルスで、日本列島全体が閉塞感に沈んでいる現在、逆にちょっと将来に希望をつなぐ話をしましょう。今年2020年12月に行うコンサート・ツアーの話が進んでいる。
モーツァルトの命日は12月5日から6日にかかる深夜といわれている。その晩の深夜0時から、ウィーンのシュテファン大聖堂でモーツァルト作曲レクィエムを演奏するという企画が僕のところに舞い込んで来た。
ただいまパンフレットなど作成中であるが、恐らく、現地で12月4日に合同練習及びオケ合わせ。5日にゲネプロで、深夜に本番というスケジュールとなる。オーケストラは大聖堂専属のオーケストラ、ソリストはウィーン国立歌劇場の専属歌手達、指揮はもちろん僕が行う。
時間のない方は、そのコンサートが終わったら帰国していいのであるが、そのツアーには、もうひとつのコンサートがある。12月8日の無原罪の聖マリア祝日の午前中に、ザルツブルグ大聖堂で戴冠ミサ曲を歌うという企画だ。ただし、ここで指揮するのは僕ではなくて、ザルツブルグ大聖堂のカントール。僕は合唱指揮者として参加する。
ザルツブルグ参加組の方達のスケジュールはこうだ。レクィエムの演奏会は5日深夜といっても、すでに6日になっているので、演奏会終了後すぐにホテルに戻って就寝。6日は、ゆっくり起きてウィーン市内観光などをし、6日夕方にウィーン市内のホイリゲ(ワイン酒場)で打ち上げ(僕ももちろん参加する)、翌日7日にザルツブルグに向けて出発するそうだ。僕は、早朝に出発し、ザルツブルグ郊外のスキー場でアルペン・スキーをする予定。そして、まだはっきりしないが、7日夜には、戴冠ミサの合同練習かも知れない。
このツアーに参加する方達を全国から公募する。実は、この企画は昨年も行われていたという。連休明けくらいから東京、名古屋、大阪で練習を開始し、現地(ウィーン)で初めて合同ということになる。これは特別編成の合唱団なので、練習スケジュールは、メンバーがそれぞれ自分の合唱団に入っていることを考慮して、曜日などを決めないでイレギュラーに練習日を決めるという。
昨年の指揮者は西本智美さん。現地に行くまでのそれぞれの地域練習は、地元の指導者に任せていたというが、僕はそれでは嫌だと主催者に言った。自分の普段の仕事の半分以上は合唱指揮者としてだから、僕は自分でそれぞれの合唱団の人たちと向かい合って、きめ細かく音楽を作りたいのだ。
すると、主催者はむしろ喜んで受け容れてくれたので、出来るだけそれぞれの地域に顔を出して稽古をつける。また、今年からは、僕が新町歌劇団や「おにころ合唱団」をやっている高崎でも練習をすることになった。
ひとつだけ主催者に我が儘なお願いをした。ジュスマイヤー版ではなくバイヤー版を使いたいということ。確かに、モーツァルトの弟子で作曲家の死後この曲を完成させたジュスマイヤーは、唯一、生前の作曲家と接触があった人物だという意味で貴重な存在であるが、彼のオーケストレーションは劣悪で、ところどころ明らかな過ちがあり、センスも悪い。分かり易く言えば、このオーケストレーションを東京藝術大学の入試として提出したなら、決して受からないレベルである。モーツァルトは一体何を彼に教えていたんだ!
それを補正してくれたのがフランツ・バイヤーである。その後、改訂がブームになり、モンダー版、レヴィン版などいろいろ出てきたが、僕は調べて、一番まともなのがバイヤー版だという認識に至った。
そのバイヤー版のヴォーカル譜にも新旧ある。現在はペータース社からUrtextと名乗った新版が出ていて、旧版は回収されてもはや市場には出回っていない。旧版と新版には少し違いがあるが、書き入れる程度で使用は出来る。
もし何も持っていないとすれば、主催者が用意してくれる可能性があるので、そこから購入出来るかも知れない。「戴冠ミサ曲」KV317はベーレンライター版で簡単に購入出来る。
これは第一報。今、各練習地域で指導者やピアノ伴奏者、練習日や練習場を決めたり、という準備が水面下で進められているが、間もなくパンフレットが出来て、公募することとなるので、心の準備と、貯金を始めたりし始めてください。分かり次第、発表するからね。僕と一緒に、みんな、本場のウィーンとザルツブルクでモーツァルトの音楽に浸ろうよ!スキーが趣味な人は、僕と一緒に12月7日にスキーに一緒に行こうよ!
先週の一週間
新型コロナ・ウィルスの蔓延が、アジアだけに留まらず全世界に拡大し、世界保健機構WHOのテドロス事務局長は、これをパンデミック(世界的流行)と名付けた。最近までアジアで起こっていたことを、対岸の火事と思って、嘲り、時には非難していたアメリカでは、ヨーロッパからの渡航を禁止して万全の備えに入った。
そこで終わっておけばいいのに、トランプ大統領ったら、
「東京オリンピックを1年遅らせたら?無観客でやるよりマシだろう」
などと言い出した。大きなお世話だ。だいたいアメリカの都合で、猛暑の夏に開催されることになったオリンピックだ。もし遅らせるとしたら、アメリカは放っておいて、秋に開催するっていうのはどうよ?
これまでの大統領には、偽善者的な面はあっても、一応人間としての品位は保っていた。しかしながら、こうもエゴイスティックな面を恥じらいもなく見せつけられると、あきれて怒る気にもならない。でも、こんなトランプ氏に同調する人たちが彼を大統領に押し上げたわけだから、衆愚政治の見本のようなもので、これがアメリカの本音なのだ。
イタリアでは、凄いことになっている。感染者は、この原稿を書いている時点(3月15日)で17.000人を超え、死者も1.200人を超えた。薬局と食料品店をのぞく全ての店舗は閉まり、交通も規制され、旅行者も足止めを食っている。
しかし、そんな外に出ることすら制限されている悲惨な状況の中でも、イタリア人は凄いんだ。歌ったり音楽を奏でることをやめない。
杏樹とじーじ
日本博オープニング
東京オリンピックを睨みつつ、日本の文化を世界に発信しようと、日本博というものが日本全国で開かれることになり、そのオープニング・セレモニーに新国立劇場合唱団も参加した。新国立劇場は、ワーグナー作曲楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」公演で、日本博に参加するからだ。今、上野駅に行ってみると、発着する電車のチャイムが「マイスタージンガー」のテーマになっているのは、上野駅の公園口にある東京文化会館で初日を迎えるから。
大津から帰ってきてから今日まで、その仕事だけはあったので、一週間完全失業という状態だけはなんとか免れたので有り難かった。9日月曜日の合唱練習と、11日水曜日の現地での稽古だった。
当初は、3月14日土曜日の18時から、東京国立博物館前の広場に特設野外ステージを作って行われるはずだったこのセレモニーも、新型コロナ・ウィルスの影響で、博物館内の平成館において無観客で行われることになった。
それをNHKとBS日本テレビとが収録し、最近までBS日テレが生放送すると言っていたが、3日前に生放送もなくなった。コロナ・ウィルスの状況を見計らって、しかるべき時に放映するということに落ち着いたようだ。
このセレモニーでは、アイヌ古式舞踊、笙(しょう)、胡弓、日本舞踊、長唄囃子、声明、尺八、能、文楽、篠笛、琉球古典音楽、歌舞伎に混じって、僕たち混声合唱が演奏されるんだぜ。超場違いでしょう!ただ、2.5次元ミュージカル「刀剣乱舞」という団体だけが、ちょっと僕たちと近かったかも知れない。
演奏したのは、僕が、このセレモニーのために特別に編曲した「越天楽~花」と称するアカペラ合唱曲。雅楽の「越天楽」に祭り太鼓とかの要素も放り込んで、派手に開始する編曲を施して、電子音にして主催者に送ったが、ある時、国立劇場にある事務局に呼び出されて、あっさり却下された。
「この開始は雅楽を知っている者からするとかなり違和感があります。雅楽では、正式な演奏の前に音取(ねとり)と呼ばれる音合わせの時間があり、それから始めるのです。そしてこの音取も、演奏の中に含まれるので、なんとかそれを取り入れてください」
と言うのだ。
音取りってねえ、フニャーって感じでぼんやり始めるので、拍子抜けするのだが仕方がない。そうでなくとも、いろんな要素を混ぜ込んであるので、
「こんなインチキな曲を書いてふざけてもらっては困ります」
くらい言われるかと思って出掛けて行ったから、イントロを交換するくらいで済んでよかった。
越天楽の音楽がひとしきり終わると、中間部が来る。ここの部分は自分なりに幽玄の世界を表現したつもりだ。楽譜にはMisteriosoと書いた。それから雰囲気一変して、滝廉太郎の「花」になる。こんな簡単な曲だけれど、伴奏なしで効果的に演奏するのには工夫が要る。コーダでは「君が代」のメロディーをちらつかせながら、ソプラノとテノールにハイBの音を出させて変ロ長調の主和音でガッツリ終わった。
わずか12人の合唱というよりは小アンサンブルだが、若手を中心に精鋭を選んだ。越天楽では声部が細かく分かれるし、2度音程とかでバシバシぶつかるので、かなりの難曲だと思う。それを2回の練習だけで、よくぞみんなここまで頑張ってくれた。
本番では、なんと新国立劇場合唱団員も僕も和服を着た。僕は羽織袴で、腕にたすきをかけて指揮した。なんか帯で随所をキチッと縛られると、妙に姿勢が良くなって、指揮は案外やりやすかったぜ。今度から演奏会は羽織袴でやろっかな・・・なんちゃって、嘘ですが、他の伝統音楽はみんな“間”とか“気合い”を大事にしているじゃないですか。僕も、その晩は妙に影響されて、凜とした“気”に満ちて演奏できた。こういう要素は洋楽にも必要だな。
日本博オープニング
夢のようなマーラー体験
びわ湖ホールに滞在中は、練習や本番が午後1時や2時からだったので、ほぼ毎日、午前9時から11時まで、Bostonピアノが入っている発声室を予約して、最初の週は「ヨハネ受難曲」の福音史家の個所などを、ピアノを弾いて歌いながら体に入れていた。
でも、「ヨハネ受難曲」の中止を決めてからは、次の演奏会であるマーラー作曲、交響曲第3番の勉強に切り替えた。最初の頃は、急に「ヨハネ受難曲」の勉強から解放されてしまった喪失感から、あまり身が入らなかったが、すぐにマーラーの世界に引き込まれていって、終楽章のスコアを見ながら、ゆっくりとピアノを弾いていく内に、心の中に“愛”の想いが溢れ出てきて、胸に込み上げるものがあった。マーラーのお陰で救われたんだ。ありがとう、マーラー!
第1楽章に関して言うと、最初僕は、表題の「牧神(パン)が目覚める」「夏が行進してくる(バッカスの行進)」に捕らわれすぎていたように思う。しかし、先入観を取り除いて素直に音楽に向かったら、これは牧神でもバッカスでもなくて、要するに音楽だ、という全く当たり前の結論に達した。
ラー・ラララ、ラーというトロンボーンを主体とした葬送行進曲のようなモチーフには、僕には、「この世に不用意に産み落とされた人類の根源的な悲劇」というものを感じるし、それにイレギュラーに絡まってくる上行オクターブのラーララーというモチーフと、トランペットのレファラド#ーーーレーーの負のファンファーレに、全体として深い罪の深淵を連想させる。人が何と言おうと、僕にはそのイメージしか持てない。牧神やバッカスなんて要らないなあ。
曲はベートーヴェンやブラームスのような論理的展開をするわけでもなく、かなり行き当たりばったりな感じで発展していく。同じような楽想が何度も出てくるが、その都度オーケストレーションが違っていて、和声もちょっとだけ違っていて、とっても覚えにくい。
でも、さすが指揮者だなあと思う。オーケストレーションの見事さには両手を挙げて賛辞を送りたい。というか、成立するしないのギリギリを狙っている。凄い勇気だ。ブラームスだったら、こんな時、どれだけ楽器を重ねてしまっていることだろう。
こんな時に、トランペット1本だけにこれをやらせるんですか?という感じ・・・・でもね、この代え難い色彩感は、オケを知り尽くした人でないと出せないですなあ。なんという名人芸!
再現部の直前、スネア・ドラムが、それまでの音楽と無関係なリズムでドラムマーチを叩き、それに乗ってまたホルンのテーマが回帰する。ここは、アッバード+ウィーン・フィルだと自然すぎてつまらないなあ。今のところインバル+フランクフルトの演奏が、一番場違いな感じで好きだ。
こんな風に、いろんな演奏を聴くには聴くが、それに影響されることはない。僕は常にピアノを弾きながら、自分に最もマッチしたテンポやフレージングやバランス感を探し出そうと努めている。だから、どの演奏を聴いても違和感があるのだ。よく、
「三澤先生の演奏会に行くにあたって、何かCDを聴いておきたいのですが、誰の演奏が一番近いですか?」
と訊ねられるが、実はこの質問が一番苦手だ。だって、
「それはね、僕の演奏」
と答えるしかないんだよね。
いや、自分の演奏が世界で一番良いとうぬぼれているわけではない。そうではなくて、自分にとってかけがえのない演奏というのは、自分でないと奏でられないのだ。そういう意味では、多分、これを理解できるのは世界で僕自身しかいないんだ。
逆に言うと、自分にとって「これだ!これしかない!」というものを探し出せるまでは、演奏会に乗せてはいけないんだ。
そんな風にスコアを読みながら、夢心地で曲を味わっていたら、マーラー交響曲第3番演奏会の事務局のSさんからメールが来た。
「このプロジェクトも(コロナ・ウィルスの影響で)悩んでいるのです。三澤先生は(やるかどうか)どうお考えですか?」
ふざけんじゃねえ、と思った。「ヨハネ受難曲」の痛手からマーラーのお陰でやっと立ち直ったと思ったのに・・・・。
「僕自身は感染も恐くなければ、命も惜しくない!マーラーの第3番は、何があってもやるんだ。馬鹿野郎!」
と一度は書いたが、思い返して、それよりかなり柔らかい表現に直して返事を出した。
こんな時こそ必要なのだ。こうした愛に溢れた音楽が。
このままだと、本当に文化は死んでしまうよ!