Robyに勇気づけられた僕が起こしたアクション

三澤洋史 

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Robyに勇気づけられた僕のアクション
 先週述べた、シンガーソングライターのロビー・ファッキネッティRoby Facchinetti作曲Rinascerò, rinascerai「僕はよみがえる、君もよみがえる」を聴いて、いても立ってもいられなくなった僕は、この曲のYoutubeから直接歌詞を写し、それから採譜をして、まず原調でピアノ伴奏付きのソロ曲の編曲をした。
 それから、混声合唱とピアノのアレンジをし、最後に、教会で聖歌隊や一般信徒が歌えるようにとハ長調に移調して、原語と日本語訳の両方を載せ、オルガン伴奏による簡単な合唱譜を作成した。

 それらを、できたらいろんなところで演奏したいなあと思ったわけであるが、本人の許可なく勝手にやったらまずいだろうなあと思った。いろいろ探している内に、ファッキネッティ氏のホームページにたどり着いたので、直談判は乱暴かなとは思ったが、ダメ元で、そこにあったメールフォームから手紙を書いてみた。
 すると、あろうことか、作曲家本人から、その日のうちに返事が来た。しかも、とっても心のこもった表現であった。以下に記してみる。

Buongiorno direttore,
 こんにちは、指揮者様
ho letto il suo messaggio e mi ha veramente commosso,
 あなたのメールを読んで、ほんとうに心を動かされました。
mi fa estremamente piacere che anche lei ascoltando il mio brano "Rinascerò, rinascerai",
 ことのほか僕を喜ばせたのは、あなたが僕の曲を聴いて、
ha sentito la mia stessa emozione,
 僕と同じエモーションを感じてくれたこと。
l'emozione con il quale l'ho scritto.
 そのエモーションは、まさに僕がこの曲を作ったときに感じていたものだったのです。
Sono lieto di concederle la possibilità di utilizzare la versione che ha arrangiato e anche la versione tradotta in giapponese che ha scritto,
 僕は喜んであなたの編曲と日本語訳の歌詞を、あなたが使用することを了承しますよ。
mi piacerebbe molto sentirla.
 できれば、それをとっても聴いてみたい。
Può pubblicare anche i filmati su YouTube,
 それを撮影してYoutubeに発表してもいいけど、
le chiedo di tenermi aggiornato e quando tutto sarà online,
 この曲に関するオンライン上のことに関しては、逐一知らせて欲しいと思います。
le chiedo di inserire i link al brano originale e i vari riferimenti per le donazioni.
 それと、もうひとつお願いしたいのは、この曲のオリジナル映像にリンクを貼って、それを(クリックすることで本来の)寄付に結びつけるようにして欲しいということです。
Grazie ancora per tutto quello che potrà fare per il brano "Rinascerò, rinascerai" e per il nostro ospedale Giovanni XXIII° di Bergamo.
 この曲と教皇ヨハネ23世病院のために行ってくれるすべてのことに、僕からありがとうと言いたい。
Grazie da me e da tutta la popolazione Bergamasca.
 それと、全ベルガモ市民を代表して感謝します。
Resto in attesa di un suo gentile riscontro.
 お返事待ってます。

Roby Facchinetti
 ロビー・ファッキネッティ
 なんという率直で誠意のあるお返事だっただろう!こういう場合、こうした慈善行為そのものが単なるスタンドプレーに過ぎない人間も世の中にはいるだろうが、彼は違う。それはもちろん、音楽を聴けばすぐ分かるのだが、そのレスポンスの早さや文面からひしひしと真実が伝わってきたからだ。

 最後の文面からも感じられる通り、彼はベルガモ出身であり、本当にベルガモ市を愛している。ベルガモ市では、感染者も死者も多く、家族みんなが死んでしまって、たったひとりだけ家に取り残される人がいたり、沢山の悲劇的事実をロビー自身も見せられたと、イタリアの新聞に書いてあった。
 僕がとても共感するのは、彼が、そんな中にあっても、新型コロナ・ウイルスを恐れて感染しないよう身を潜めているだけの生き方に決して満足せず、魂を司る芸術家として、なんとかしてみんなの精神的な領域に届くメッセージを発信できたらと願っていたこと。その願いが、こうした形で最も効果的に世界に向けて発信することができたこと。僕は、彼に対して最大限のリスペクトを捧げる。

 新型コロナ・ウイルスの蔓延は、通常の災害後に見られるところの、人々の絆の確認とか、つながりを求めるとかいう行為を拒否させてしまう。だから、つながることによってその存在の必要性を感じている音楽家や宗教者に、いいようのない無力感を与えてしまうのだ。
 通常だったら、“こんな時の音楽”だったり、“こんな時の宗教”だったりするわけでしょう。でも人々が集まることがむしろ害悪のような状態では、アクションを起こせば起こすほど、疎まれたり嫌われたりしてしまう。だから手も足も出ない。
 そんな閉塞感に捕らわれていた時、ロビーは僕に、芸術行為や宗教的行為を発信する安全な方法として、インターネットの可能性に気付かせてくれた。電波にはウイルスは乗らない。それでいて、沢山の人たちに配信することが可能だ。だから僕は先週からちょっとしたアクションを起こしている。

 真生会館は、4月になってから「音楽と祈り」講座のやり方を模索していた。会場をより広いところに移して、聴講者の互いの距離を取ると、あまり人を呼ぶことが出来なくなると言っていたので、
「いっそのこと、僕が無観客で講座を行いますから、それをYoutubeなどネット配信したらいかがですか?」
とメールを送ったら、
「それは、とても良いと思います。早速、館として検討してみます!」
という返事が返ってきたが、それもつかの間、緊急事態宣言を受けて真生会館そのものが閉鎖となってしまった。
 でも、そんなことでめげる僕ではない。だったらむしろ自分から配信すればいいと思った僕は、動画を作り編集して、講座そのものを自宅からYoutubeにアップしようと考えている。そのことを真生会館の担当者に知らせたら、とても喜んでくれた。
 残念ながら講演料は出せないと言ってきて初めて気が付いたのだが、僕自身はもとよりそんなものは全く期待していないのだ。むしろ、今は、自分自身の信仰心にとって、この講座そのものと、それを準備する過程が、どれだけの拠り所になっているのか、ということなのだ。
 講座そのものの内容は、これから一週間かけてゆっくり考える。通常の講座のように、音楽を聴かせながらとか、会場の皆さんと一緒に聖歌を歌ったり、質疑応答などのインターラクティブなやり取りは当然出来ないので、同じようにはならないだろうし、短くもなると思うが、この方法でやれば、僕が元気な限りはいくらでも出来る。

 すでにYoutubeのチャンネルを取得して、お試し画像をアップしては消去を繰り返し、視聴に制限をかけたりかけなかったりしているが、講座ビデオに関しては、いろいろ編集が必要だ。やり始めると、きっと欲が出て、タイトルを入れたり音楽を挟み込んだりしたくなるだろうが、そんなことをやっていると時間がかかって仕方がないし、きっともっと優秀な編集ソフトが欲しくなるだろうから、まずは、シンプルなところから始めたい。

 本来だったら、講座のある週の初めの「今日この頃」で、講座内容のネタバレを発表してしまうのが慣習となっていたが、本来4月23日木曜日だった講座日に合わせて、4月20日の夜までに更新完了の「今日この頃」でアドレスを発表します。「限られた受講者からお金を徴収して」というものではないので、オープン配信にするから、誰でも観られますが、いちおう「真生会館の講座」という位置づけになります。
どうか楽しみにしていてください!

ポスト・コロナの合い言葉は「愛と平和」
 人と人とのつながりを拒否させて、芸術家達の生活を脅かしている新型コロナ・ウイルスであるが、皮肉なことに別の観点から見ると、ウイルスはその感染力をもって、
「世界中の人間がみんなつながっている」
ことを我々に見せてくれているのだ。

 中国の片隅で始まった感染が、どうしてこんにも早く世界中に広がってしまったのか、みんな不思議がっている。でもそれは、それだけ現代では国を越え民族を越え、おびただしい人が世界を股にかけて行き来し、経済的にも文化的にも、我々の予想をはるかに越えてみんながつながり合っているということの証明である。国境を封鎖しようがロックダウンしようが、それをあざ笑うかのように、感染はボーダーレスに拡大していく。
 これだけ全世界規模でまんべんなく広がってしまうと、今さら、お前の国が悪いと責め合ったり、自分たちの国だけを守ろうとすること自体が愚かなことであって、国境を越え、グローバルな規模で知恵を出し合い力を出し合っていかないと、何も解決出来ないことに人々は気付かざるを得ない。

 たとえば米国は、このウイルスのことをチャイナ・ウイルスと侮蔑的に呼び、中国は、自国から感染を拡大させておきながらアメリカの水際対応を甘いと責めているが、僕たちは、両者を冷静に眺めて、そんなことを言い合っている場合か、と笑ってしまうでしょう。それだけ馬鹿馬鹿しいことなんですよ。
 身近なことを言うと、トイレットペーパーがスーパーから消えた、などということで、我々の小さなエゴが、大きな社会的なパニックを引き起こす、などということを見せられて、いかにそれが無意味な行動なのか思い知らされている。それでもまだ続けている人がいるのは悲しいことだね。

 その反対に、たとえばもし、どこかの国の研究者がこのウイルスに対する特効薬を開発したとして、それをただ自国の国民のためにのみ使い、他の国民にはその作り方すら教えないで独り占めするなど、あり得ないと思うでしょう。
「こうした財産は人類全体の財産であるべし」
という共通認識が今や出来ているのではないかな。

 要するに、我々は、それぞれのことを見たり聞いたりさせられながら、これまで無意識の内に是とされてきた価値観を、もう一度ふるいにかけられ、嫌が応なく学習させられているのだと見ることはできないだろうか。あるいは、試されていると言うことも出来よう。
 すでに、インターネットの世界では、おびただしい情報が世界中を飛び回っていて、我々は、地球の裏側のことを瞬時に知ることが出来る。つまりその意味では、グローバルな世界観をすでに全人類は持っていると言えるが、それにしては、精神的領域に於ける認識が幼稚だということだ。グローバル意識をきちんとスピリチュアルな意識として、各自の心にインストールする必要があるのだ。

 今まさに、人類は分岐点に立っているのだと思う。どういう分岐点かというと、物理的価値観とスピリチュアルな価値観との分岐点である。テレビをつけると、マスコミは恐怖感ばかりを煽っているように見える。ある夕刊紙は、まだ北海道でクラスターが出たくらいの頃に、遠くからでも目に入るくらいの巨大見出しで「感染列島」という文字を掲げた。
 この人たちは、どういうつもりでこの新聞を売っているのだろう?そして、みんなどういうつもりで、これらの記事をわざわざ買って読むのだろう。売っている側は、恐らく人々の恐怖感を煽って、売れればそれでいいのだ。そしてみんなも、まんまと煽られて恐怖に恐怖を重ねて雪だるまのように膨らんでいくのだ。

 いやいや、別に僕は、だからといって、不用心に3密、すなわち密閉空間、密集場所、密接場面の中にどんどん行きなさいと言っているわけではない。みすみす自ら感染する愚を犯せというつもりもない。それに自分でも、外から帰ってきた時には、必ず丁寧に手洗いうがいをしている。気をつけるべきことは、気をつけるべしだと思っている。

 しかし・・・霊的法則としては、恐怖をイメージし続ける人には、その恐怖が具現化し現実化すると言われている。それが集団を成した時、社会全体もそうなっていく。まあ、霊的と言わなくとも、たとえば経済として読み解くことだってできる。どんな時に株価が大きく変動するのか?人々の心が動いた時だろう。
 だから、この分岐点の時に、我々はネガティブではなくポジティブなイメージを自らの中に膨らませ持ち続けなければならない。恐怖ではなく、愛と平和をイメージすること。難しいだろうけれど、それでもね、今案外そういう風に思い始めている人は、世の中に増えているんだよ。

 たとえば、我が家がそう。普段はみんなバラバラでそれぞれのことをやっているが、こんなに一緒にいることはない。すでにこの状態になって随分経つが、今は家族がたがいの絆を確認し合う素晴らしい恵みの時だと思う。
 家では、指揮者の僕を筆頭に、ピアニストの志保も、メイクアップ・アーチストの杏奈もみんな完全失業中で、ずっと家に居る。もともと主婦である妻は、いつもと変わらず黙々とキャンドルを作っているし、孫娘の杏樹は賢治シュタイナー学校の授業が先に伸びて、やっぱりずっと家に居る。

 我が家の朝は散歩で始まる。今は僕と妻、それに杏奈の3人で6時に起きて出掛けるが、杏奈がiPhoneの万歩計で計っていて、毎回9000歩を少し下回るくらいで家に着く。朝食、昼食、夕食と三食とも家族全員で食卓を囲む。食事は妻、志保、杏奈が交代で、あるいは一緒に仲良く手分けして作っている。
 午前中は僕がいろいろ仕事をしているので、杏奈が杏樹と、縄跳びをしたりお絵かきをしたりして遊んでいて、午後は僕が杏樹と遊ぶ。自転車やキックボードのツーリングをして、谷保村のいろんな所をあてどなく走り回っている。だから、晩は疲れてとても早く寝る。
 志保は、基本的にピアノを一日中弾いていて、先の仕事の曲をいろいろさらっているし、歌詞の和訳をボーカル譜に書き込んだりしている。でも、寝る時は、杏樹が必ずママを求める。

 仕事が次々になくなって、僕は家長として最初はかなりあせった。老後の蓄えとして貯めていた貯金を崩すと思うと、僕と妻の老後が心配となったし、青色申告をして請求されるべき消費税の額を知った時は青くなったし、後に請求される都市民税のことを考えたら、うわあ、お手上げだと思ったけれど、税金の支払いを1年の延ばされると聞いて、またいろいろが始まったら一生懸命稼げばいいや、と、なんだか開き直ってきた。ま、なんとかなるさ・・・と。

 家族がこんな風に仲良く平和で暮らせていることに感謝したい気持ちが、毎日大きくなってきている。このかけがえのない日々を大切にしたい。そして、先ほどの話に戻るが、巷に不安と恐怖の波動がまだまだ満ちている中で、この愛と平和波動を出していること自体が、地上の浄化に寄与していると信じている。だから、みなさん、人と仲良くすることは、ただあなただけの問題ではないのですよ。
 また、そのポジティブな波動を出しながら生きることは、本人の免疫力をも高める。これは、ある程度科学的及び医学的にも証明されている。だって、ストレスからくる病気って、具体的にいろいろあるじゃないですか。だったら、その反対に、ポジティブ波動を出すだけで、体に与える影響だって当然あるはずだからね。

 昨日は復活祭だった。いつもは仕事が忙しくて聖週間なのにこの晩は行けるとか行けないとかいう悩みが尽きなかったのに、今年は仕事がなんにもないので、聖木曜日も聖金曜日も聖土曜日も全部空いているのに、肝心のミサがないのだ。
 妻は自分の部屋に閉じこもって、ネットで配信されている東京カテドラルで行われるミサにあずかっているが、僕はどうもそれでは集中出来ないので、自分で祈った方がいい。
 でも、4月12日日曜日の午後、立川教会に車で行って、ひんやりした聖堂の中、5人でロザリオの祈りをして帰ってきた。そうしたら僕の胸に、2011年、東日本大震災直後に文化庁在外研修員としてミラノに渡り、ひとりで近くの教会で復活祭のミサにあずかった時の記憶がよみがえってきた。同じような空気が流れていたからだ。
 当時、震災の爪痕は僕の心にも重く深く刻まれていたが、同時に、まだひんやりとした春の空気の中、生命が萌え出す息吹を感じながら、未来に希望を託していたあの気持ちが、立川教会の聖堂の中で時を超えて広がった。

 僕の心はすでに、ポスト・コロナの時代を見つめている。新型コロナ・ウイルスの感染が蔓延するより、我々の愛と平和の波動が蔓延するスピードが速くなれば、世界は浄化される。そして、宇宙全体がリセットして新しい時代が始まる。

これをあなたは信じますか?



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