新刊本の購入方法

三澤洋史 

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新刊本の購入方法
 僕の新刊「ちょっと お話ししませんか」(ドン・ボスコ社)を、沢山の人に読んで欲しいのであるが、ドン・ボスコ社というのが、主として宗教書や典礼書籍、あるいはロザリオ、十字架、マリア像といった聖品、聖像などを扱う会社なので、流通経路が限られている。みなさんが書店に行って自分で手に取って、というのが難しいのである。
 だから基本的にはネット販売になります。その場合、定価¥1.000+消費税¥100+送料がかかります。
あるいは、都内に住んでいる方は、四ツ谷駅から徒歩3分でお店に行けば、¥1.100円で買えます。

 僕の手元には、現在著者割引の100冊があるので、僕から直接手渡しの場合は消費税込み¥1.000で売ることは出来るけれど、このコロナ禍のせいで、いろいろな団体がまだ活動を開始していないから、みんなが集まっているところに僕が本を持って行って、ドバッと売るというわけにいかないのがもどかしいところ。
 また、「オペラ座のお仕事」の時には、たとえば初台のくまざわ書店で、新国立劇場にオペラ公演を観に来たお客様に結構買っていただいた。だから、僕が直接本を持って行って交渉したら、置いてくれるのではないかと思われるが、これもコロナ禍でオペラ公演そのものがない。なかなか思うようにいかないのである。
 そこで妻と相談して、このホームページのCaféMDRshopからも買えるようにした。ここでは送料無料と書いてあるのだが、実際には送料込みで¥1.200です。どうぞショップを覗いてみてください。

新刊本と角皆君との密接な関係
「ちょっと お話ししませんか」が届いて真っ先に親友の角皆優人君に届けたら、とても喜んでくれて、彼はすぐに自分のブログにアップしてくれた。

同時に、彼は僕宛のメールで次のように書いてくれた。

『オペラ座のお仕事』も素晴らしかったけれど、個人的にはこちらの方が感動が大きかったです。
率直な感想として、三澤君の親友でいられたことに心から感謝し、有り難く感じています。
ちょっと照れくさいけれど。
 「オペラ座のお仕事」では、角皆君は、自分が音楽の道を志そうか迷っていた時に、僕に感化を与え、僕の背中を押してくれた存在として描かれているが、この本の中では、むしろ近年の僕の霊的成長の過程で起こる様々なことに対して、アスリートという立場から、それらを裏付ける存在として登場している。
 たとえば、第一章の中の「音楽とインスピレーション」で、「音が消える」という体験を僕も彼も経験していたり、時間がゆっくり進むような体験をしていたり、分野は違うけれど、パフォーマンスの最中に起こる共通な要素が沢山ある。時空がゆがむとでもいうのだろうか。要するに、ある種の極限状態においては、我々が絶対的法則と信じていることが、必ずしもそうでないことを裏付けているのだ。そうした体験を共有できる親友って凄くない?

 それとは相反することを言うが、僕は、主としてスキーを通して彼と付き合うようになってから、物理的要素にとても興味が湧くようになり、音楽に関しては、単なる精神論だけでなく、その運動性やテクニックのメカニズムにフィジックな裏付けを求めるようになった。
 テクニックという言葉はとても誤解を受けやすい。ピアニストで言えば、指が早く動くことだけに解釈されやすいが、ある芸術家が何かを表現しようとする場合、わずか1パーセントのイメージを、どう的確に芸術作品としてまとめあげるか、ということに99パーセントが費やされる。それがテクニックである。
 マルタ・アルゲリッチは、こう言っている。
「あたしが師匠のベネデッティ・ミケランジェリから習ったことといえば、曲想に合わせて、指先が鍵盤に触れる角度をどのように変えるかということでした」
だから、普通の人が考えるのとはまるっきり違って、自分のイメージを「どう」具体的な表現に生かせるのか、という部分は徹頭徹尾テクニックを磨くことによってのみ得られるのである。もちろん、わずか1パーセントといえども、イメージがなければ何も始まらないことは言うまでもない。

 ところが巷を見回してみると、特に指揮者の場合、あまりにもニセの精神論のみで音楽を成し得ると思っている人が多い。ひどい人は、
「テクニックなど要らない。音楽さえ自分の中に溢れていれば、自然に伝わる」
と、わざと分からないように指揮して「曰く言い難し」と自分だけ悦に入っているが、オーケストラの楽員達は、ただただ困っている、という人が少なくないんだよね。
 しかし僕は、中途半端なアスリートではなく、まさにトップ・アスリートとしての角皆君との交流を通して、フィジカルな要素を決して軽んじてはいけないことに目覚めたのだ。そしてそれを第三章「私の指揮法」にまとめた。だから、そこに再び角皆君が登場するのは必然的である。
 すなわち、指揮者とは、まず自分の音楽的イメージを曖昧ではなくはっきりと持ち、それから、その目的に向かっての最短距離を歩むべき「物理的方法~すなわちテクニック」に精通することに尽きるのである。
 スタンドプレーは禁物。聴衆を魅了しようとする意図的な派手なアクションはもっての外。オケに音を出してもらうのだから、分かり易いことに徹する。その他の無駄は一切省く。その意味では、自己ベストに向かってまっしぐらに進むアスリートから学ぶことが無限にある。
 要するに、曖昧な精神論と技術論が、僕の中ではっきりと分けられ、精神論は精神論としての方法論を極めるべく努力し、技術論には、中途半端な熱狂性や自己陶酔を持ち込まぬよう、冷徹な対応をして、それを正しく融合させることで、自分の芸術をより高めようと精進しているのだ。

 「ちょっと お話ししませんか」は、「オペラ座のお仕事」とは違って、カトリックの出版社から出ている宗教的色合いの濃い書物というカテゴリーに入るが、出来上がった本をあらためて読んでみると、音楽的には、むしろ「オペラ座のお仕事」よりも神髄に迫ることが書いてある。
 そして、そのかなりの部分を、僕は角皆君との近年の交流を通して学んでいるのである。その意味では、彼こそ、僕が自分の人生において出遭うべくして出遭った無二の親友と言えるであろう。

Rinascerò, rinasceraiに関わるアクション
 Roby Facchinetti作曲のRinascerò, rinasceraiについて、ここのところいくつか動きがあった。まずは、静岡雙葉中学校・高等学校において宗教科/社会科担当の教員をしている方から、ホームページを通して、僕の編曲を是非使いたいというお願いメールをいただいた。
 しかしながら、同時に、これを吹奏楽で伴奏したいと書いてあったので、
「自分は管弦楽は扱っているけれど、吹奏楽に関しては、そんなに明るくはないので、編曲は別の方にお願いしてください」
という文章を添えて、ピアノ伴奏譜付きの混声合唱の譜面をPDF書類で添付して送った。すると、
「吹奏楽を担当している先生が編曲してくれるそうです」
と言ってきたのでホッとした。

 それから、調布の深大寺にある聖ヨセフ修道院サレジアン・シスターズの修道女の方から、やはり譜面の依頼があったので、最初、原調の混声合唱バージョンとオルガン伴奏の教会バージョンを送ったのだが、その後で考えた。
「これを女子修道院で歌うとなると、混声合唱譜を送っても意味ないな。そういえば女声合唱バージョンもあってもいいな」
そこで女声合唱のための譜面を作り始めた。
 サレジアン・シスターズという言葉は、なんだかコーラス・グループのような響きを持っているので、「天使にラブソング」みたいな雰囲気を勝手に想像したが、ドン・ボスコの精神を受け継いだ、れっきとしたサレジオ会の修道会である。音域を訊ねたら、ニ長調が一番合っているようなので、新しくニ長調女声三部合唱バージョンが生まれた。結構きれいに響き渡ると思う。ここまで来ると、Facchinetti氏のオリジナルとは別の世界観が広がっている。

 ある時、しかるべき機関から、この曲の日本語のテキスト及びその逐一のフレーズの意味を知らせてくださいという要請が来た。おっ、早速チェックが入ったなと思い、自分の日本語の歌詞をローマ字にし、さらに再びイタリア語に訳し直すという不思議な作業を行った。
 すると、次の日に早速メールが来て、
「日本語の歌詞とそのイタリア語訳の送付について、ありがとうございました。
そのままお使いいただいて結構です。
何か新しいことがありましたら、またお知らせください」
と書いてあった。
「なんだい偉そうに・・・」
とも思ったけれど、まあこのことによって、ある意味お墨付きをいただいたということか。これを公に使用しても、もうどこからも文句は来ないんだな、と思ったら、かえって安心した。

 ということで、日本語の歌詞も含めて、Rinascerò, rinasceraiの編曲の譜面は、皆様の要請に応じて、誰にでも制約なしにPDFファイルを添付書類として送ります。音符作成ソフトFinaleをお持ちの方は、MUSXないしはMUSファイルで送ることも出来ますので、ご希望の方は、ホームページのアドレスにアクセスしてください。

 ただし、この譜面の具体的な使用については、ひとつだけ条件がある。この曲の由来は、そもそも、作曲家Roby Facchinetti氏が作詞家であるStefano D'orazio氏と共に、自分たちの版権を、新型コロナ・ウイルスで多数の死者を出したベルガモ市の教皇ヨハネ23世病院に譲渡したことに始まる。そしてこの曲のオリジナルYoutube映像をクリックするだけで利益が生まれ、その病院の医療機関に寄付されるという、完全にボランティア精神で作られた作品なのだ。
 この趣旨と、そして何より作品自体に魅せられた僕は、この曲の編曲の権利をFacchinetti氏に直接求め許可を得たが、その際に、この曲に関して一切の利益は得ないことを彼に約束している。
 だから、みなさんも、この曲を決して利益目的では使用しないでください。ただね、もしこの曲をコンサートの一部で使用し、そのコンサートが有料だったなどという時には分かりません。それと、Jasracあたりが、どう絡んでくるのかも分かりません。たぶん絡んでいないとは思うけれど・・・その際には、ケースバイケースで自分で確認してください。
 僕自身は今後、ピアノやオルガンだけでなく、管弦楽とかの編曲も行ってみようかなと考えてはいる。ちなみに要請があったら添付ファイルで送れる編曲は以下の通り。
  1. ピアノ伴奏譜付きソロ楽譜。ト長調 イタリア語
    (オリジナル調、最高音2点A、結構高い)
  2. ピアノ伴奏譜付き混声合唱楽譜 ト長調 イタリア語&日本語
    (最高音2点A、訓練された合唱用)
  3. オルガン伴奏付き混声合唱楽譜 ハ長調 イタリア語&日本語
    (教会バージョン、最高音2点D、一般信徒が歌える高さ、ただしオルガンなの で、伴奏部分はピアノ譜より動きが少ない)
  4. ピアノ伴奏譜付きソロ楽譜 ハ長調
    (最高音2点D、普通の人がピアノ伴奏で歌うにはこれが最適。真生会館「音楽 と祈り」4月講座で三澤家が歌ったスペシャル・バージョン)
  5. ピアノ伴奏譜付き女声三部合唱楽譜 ニ長調
    (最高音2点E、サレジアン・シスターズのために新たに編曲)

イエスのように・・・
 最近よくイエスのことを考える。カトリック教会では、聖堂には十字架だけではなく、必ず十字架に架かったイエスの像がなければいけないというきまりがあるらしいので、僕が今毎日瞑想しに通っているカトリック立川教会のイエスは、十字架上で苦しそうな顔をしている。
 事半ばで十字架上で亡くなったイエスと、彼を見棄てて逃げ去った弟子たち。この二重の悲劇が、初期のキリスト教布教の原動力となったので、キリスト=十字架とか、人類の罪→十字架→贖罪という図式が出来上がっているが、僕は最近、そんなイエス像になにか違和感を覚える。むしろ見つめたいのは、十字架と切り離したイエスの日常の姿なのだ。

 コロナ禍で暇になったので、僕はよくいろんな宗教書を読む。その中の一冊、ゲイリー・R・レナード著「神の使者」(河出書房新社)に、こういうくだりがある。

彼の姿は言葉では語り尽くせない。彼のそばにいるのは比べ物のない、とても不思議な体験であった。
安らかさ、決して揺らがない愛の大きさ。
人によっては耐えられなくなって目をそむけてしまったくらい。
彼はとても穏やかで確信に満ちていたから、どうしたらあんなふうになれるのかと思ったわ。
(中略)
彼に恐れはなかった。
この世の出来事に対する彼の姿勢は、あなたがたが夢を見ているときと同じ。
ただし自分が夢を見ていると完璧に知っていて見ている夢ね。
これは夢だとわかっているから、夢の中の出来事に傷つけられることはいっさいない。
(中略)
彼にはとても優れたユーモアのセンスがあった。
彼ったら、ほんとうにおもしろかったのよ。
笑うのが大好きで、人を楽しませてくれた。
 みなさんは思うだろう。これを書いている人って何者よ?なんで偉そうに、イエスのそばで一緒に過ごしていたようなことを言うのか?ということだけど、僕にはそんなことは大事ではない。スピリチュアルな本で、前世が聖トマスだったという人の言葉ということだが、仮にこの本が嘘で塗り固められている本だったとしても構わない。僕が惹き付けられるのは、イエスの人物像を描写したこれらの文章である。
 というのは、これこそ僕が抱いているイエスのイメージそのものだからである。この著者が書かなかったら僕が書いていたかも知れない、とも思う。特に大切なのは、イエスはこの世に対して、それが夢のようだと認識していたことだ。別の個所でこうも言っている。
彼が夢のなかでふつうより目覚めていた、というんじゃなくて、夢から覚めていたってことなんだ。
これは小さな違いじゃないよ。
多くの人は、夢のなかで比較的目覚めていることが悟りだと思っているが、そうではない。
(中略)
彼は完全に夢の外にいた。
 今日は、あえてこれ以上僕から解説はしない。別のエピソードを書こう。昨晩のこと、夜の散歩をしながら「人生は夢」ということを考えていた。夢と言い切ってしまうには、めちゃめちゃ超現実感のある世の中だけれど、一方で、つぼみが花開いたかと思うとたちまち朽ちていく諸行無常の世界であることは明白。
 そうさ、これが夢でなくて何であろう。別の言葉で言えば、この世はバーチャル・リアリティさ・・・と思っていた瞬間、暗闇から突然、ある家の窓の中の明るい風景が目に飛び込んできた。
机の上に半紙が掛かっていて毛筆で書かれていた。
「夢の目標」
ドキッとし、それから笑いが込み上げてきた。こんなシンクロニシティ(共時性)はよくあるが、あまりにドンピシャリでおかしくなってしまった。同時に、自分がこの夢のことを考えるのはとっても大切なことで、しかもそんな自分を今現在見守っている至高なる存在がある、という確信を持った。

 それから、家に着くまでの間、僕は、
「夢である僕のこれからの人生、自分は何を目標にしたいのだ?」
を考え続けた。
 すると不思議なことに、自分が一番大切にしているはずの音楽の世界で、もっと有名になるとか、もっと大きな地位を得るとかいう欲望を全く持っていない自分に気が付いた。いやいや、もちろん音楽から離れてもいいとかいう意味ではない。むしろ、音楽はやりたい。このコロナ禍で何も出来ない無力感の中、音楽を奏でたくてたまらない。音楽のない生活なんて、今までも考えられなかったし、これからも考えられない。
 でも、この世界で音楽による出世ということに関しては、びっくりするほど何の意味も感じていないのだ。むしろ、それだからこそ、僕は自分のやりたい、あるいはやるべき音楽を奏でたい。それしか望んでいない自分を発見して愕然とした。

 それよりも自分は、宗教的境地を極めたいと強く思った。それはまさに「この夢であるところの世界」の意味を、頭で理解するだけでなく、徹頭徹尾体感し、全ての精神的制約から解放されて、魂の完全なる自由を獲得したい、と思っているのだ。

 最後は、それらを成し遂げるための最低限の経済力を自分から奪わないで欲しいと思った。これは目標というのと違うかも知れないけれど、はっきり言って、今のコロナ禍がこれからどうなるかなんて分からないじゃないですか。僕自身、秋口までの演奏会は全部消えてしまって、財政的には笑っちゃう状態だし、もし第二波が来たりして、その後もないとすると、これまで音楽家しかやってこなかったので、他に何も出来ないんだよね。もう65歳なので、大学のようなところもすでに定年の年齢だ。
 特にね、孫娘の杏樹をとってもとっても愛しているので、何があっても杏樹にはすくすくと育って欲しい。そして、そのためのお手伝いをしたい。また、不思議なことに、このコロナ禍になって静かな生活をするようになってから、贅沢な生活には全く興味がなくなった。家族を愛し、毎日をつつがなく過ごせれば、もうそれで何も要らない。

 ただね、ひとつだけ贅沢かどうか分からないけれど、冬になったらスキーをする財力だけは欲しいな。コロナで本番がどんどんなくなっていき、入ってくることを見込んでいたギャラが次々と泡と化していく毎に、僕が真っ先に思ったのは、次のシーズンはスキーが出来るのだろうか?ということだった。何故か分からないけれど、スキーは僕の魂にとって結構ハズせない要素なのだ。

 家に着くまでの間に、いろいろ考えたり、お祈りをしたりした。それで気が付いたのは、このコロナ禍は、僕から欲望というものをそっくり削ぎ落としたということだ。生活も想いもとってもシンプルになって、自分の本当にやりたいことを見つめさせてくれるようになったのだ。その意味では、コロナ君に感謝だね。その意味だけではね。

 でもね、本当の「夢の目標」は・・・イエスのように生きたい!イエスに少しでも近づきたい・・・・まったく、大それた目標だよ。身の程知れ!という声がいろんなところから聞こえてきそうだ。
ただ、目標は大きく持ったほうがいいから、思うのは自由だろ。



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