「音楽と祈り」演題は「調性について」

三澤洋史 

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「音楽と祈り」演題は「調性について」
 今年の1月から3月まで、真生会館「音楽と祈り」講座はお休みにしていた。仕事そのものが忙しかったし、スキーのキャンプをしたり、びわ湖ホールの「神々の黄昏」公演のために東京を離れたりしていた。
 それで、いよいよ4月からの再開を楽しみにしていた矢先、新型コロナ・ウイルス禍に巻き込まれて真生会館自体が閉鎖に追い込まれ、講座も全て中止になってしまった。それがあまりに残念だったので、僕は、自宅で講座を撮影してYoutubeで配信した。そしたら、4月だけでなく5月になっても緊急事態宣言が解除にならなくて、5月分も映像を皆さんにお届けしたことは、ご存じの通りである。
 ということで、リアルな講座がおあずけになっていたが、6月の講座は、久し振りに真生会館内で行えるようになった。そこで演題を何にしようかなと考え始めたが、面白いことに気が付いた。新型コロナ・ウイルスに関連した内容に、僕は全く興味がなくなっていたのである。

 思い返してみると、ネット配信した4月講座も5月講座もコロナ関連である。5月講座は、コロナ禍の中でどのような信仰生活を送るか?ということなので直接コロナではないかも知れないが、コロナを前提にして語っていることには変わりない。
 その際、音楽と信仰とのどちらに傾いていたかというと、間違いなく信仰の方に軸足を置いていた。しかし、今の僕は音楽について語りたくて仕方がない。きっと自粛期間の僕は、音楽への情熱を自ら封印するしかなかったので、その分、自分の内面が宗教性に向かっていたのだと思う。

 それは当然なのだ。コロナがなかったら、その期間、マーラー交響曲第3番や「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に関わっていただろうし、今頃は「おにころ」や、愛知祝祭管弦楽団の「リング・ハイライト」や、自作ミサ曲混声合唱フル・オーケストラ・バージョンなどで、エンジンをターボ全開状態にしていただろうに、みんな中止になってしまったのだもの。同じモードでいられるわけないだろう。それらは全て、今の自分が一番やりたい、かけがえのない演目ばかりだったのだ!
 だから僕は、静かに静かにパワー・ダウンして過ごしていた。勿論、そうした内省的な日々によって、僕が何かを失ったわけではない。むしろそれは僕にとってかけがえのない日々であった。僕の内面が、そのことを通してどれだけ研ぎ澄まされてきたことだろう。

 しかしながら、「すべてのことには時がある」(コヘレトの言葉第3章)。昨日、すなわち6月21日日曜日、僕の中で何かがパチンとはじけるように、突然、
「あ、自分にとってコロナが終わった」
と思った。とっても不思議だ。もしかしたら、夏至と日食が重なった宇宙のエネルギーが僕に降り注いだのか、急にコロナに捕らわれていた自分が消えたのである。
 同時に、僕の心は、今や音楽への想いについての封印を解く時なのだとも感じた。今の心境を言うと、語りたいことは、音楽、音楽、音楽、信仰、音楽、音楽、音楽、信仰という割合なので、今回の講座では、思いっ切り音楽について語ろうと思い立った。その原因の一端には、6月1日に出版した「ちょっと お話ししてもいいですか?」(ドン・ボスコ社)で、信仰に関する事柄を充分に語り尽くしているという安心感もあっただろうし、4月5月のネット配信講座でも、信仰的な話を集中して語ったという想いもある。

 「音楽と祈り」6月講座の演題はズバリ「調性について」。副題として「モーツァルト、ベートーヴェン、巨匠の作品から読み解く、様々な調性の表情」。
「あれ?随分感じが違うな。では信仰については語らないのかい?」
と言われそうだが、勿論、信仰の要素を抜くわけではない。
 ただ、今回は別の角度から、音楽というものが具体的に何を媒体として我々の内面に訴えかけてくるのか?技巧とか現実的な作曲技術というものが、表現や感動などと結びつくためには、現世的な領域と霊的領域との狭間にある「きわどい」いくつかの媒体が必要だが、それが一体何なのか?という、とても高度な要素について語りたいのだ。
 そうした要素はいくつかあるが、そのひとつとして、“調性”というものがあり、調性が作り出す調性感というものがあるのだ。

 たとえば、ある音が鳴り(たとえばド)、次に完全5度上の音(ソ)が鳴ると、人はそこに緊張感を感じるといわれる。逆に完全5度下の音(ファ)が鳴ると、人は安堵感を持つといわれる。これを基本に和声学の基本を成すドミナントと呼ばれる概念が生まれた。それ自体不思議なことだと思わないかい?

 指揮者のエルネスト・アンセルメは、
「全ての音楽は、ドミナントに向かう弾道である」
という名言を残した。
 だから、音楽は基本的に5度上の調性(ハ長調ならト長調)の和音から主調の主和音に解決して終わることによって、その安堵の効果で終止感を高めているのである。反対に言うと、その効果を高めるために、曲の冒頭では、わざと五度上の調性に上げて緊張感を高めるという方法も取られている。
 たとえばフーガという楽式では、主題の後ただちに応答と呼ばれる主題の模倣が答えるが、応答は主題の5度上の調性で奏でられなければならない。ソナタ形式の第2主題も、5度上である。そして両方とも、いろいろ展開された末に後半で再現部として戻ってきた時には、もう5度上には上がらずに主調のままである。

 この5度の概念を発展させると、5度上の調性になる毎にシャープがひとつずつ増え、5度下になる毎にフラットが増えて、調号のついていないハ長調の対極にあるF#(シャープ6つ)あるいはGb(フラット6つ)でシャープとフラットを共有し、それからシャープとフラットは反転するのである。これは五度圏と呼ばれる。そして結果的に12(短調も合わせると24)の調性が生まれた。しかも、それぞれの調性には、独特の調性感と呼ばれるキャラクターがあるのだ。

図表 調性の五度圏
五度圏


 大作曲家達が、このキャラクターに無関心であるはずがない。特に、普通の人には聞こえないものを聴いている真の巨匠であるモーツァルトやベートーヴェン達は、それぞれの楽曲において、この調性感を最大限に活用し、個々の楽曲の表現の根本に据えて創作活動を行ったわけである。

今回、僕が語ろうとする内容は、ざっくり言って以下の通り。

モーツァルトと宿命の調性
イ長調A-Durと性衝動
例:
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527より、
ドン・ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑する二重唱
歌劇「フィガロの結婚」K.492より、
スザンナが伯爵をからかい、伯爵が有頂天になる二重唱
歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588より、
フィオルディリージが陥落する二重唱

変ホ長調Es-Durと高貴さ
例:
「魔笛」K.620の世界
交響曲第39番K.543

ト短調g-mollと憂愁(メランコリー)
例:
交響曲第40番K.550
「魔笛」K.620より、パミーナのアリア

ハ長調C-Durと非官能性
例:
交響曲第41番「ジュピター」K.551

ニ短調d-mollと死の予感
例:
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527(地獄堕ち)
「レクィエム」K.626
ピアノ協奏曲第20番K.466

ベートーヴェンの交響曲それぞれの曲調と調性との関係
第1番 Op.21 ハ長調 明快さ ハ長調というものに対する挑戦
第2番 Op.36 ニ長調 明るさ 第2楽章イ長調:春の陽ざしの暖かさ
第3番 Op.55 変ホ長調 高貴さ 崇高さ
第4番 Op.60 変ロ長調 神秘さ ロマンチシズム
第5番 Op.67 ハ短調~ハ長調 葛藤と強い意志 終楽章ハ長調:勝利と到達感
第6番 Op.68 ヘ長調 牧歌的 くつろぎと感謝
第7番 Op.92 イ長調 熱狂性 エネルギッシュ 輪舞
第8番 Op.93 ヘ長調 諧謔 ユーモア くつろいでいる中での愉悦感
第9番 Op.125 ニ短調~ニ長調 自分の運命との葛藤 第3楽章変ロ長調:至福感
第4楽章ニ長調:民衆の歌 利己から利他へ

ベートーヴェンにとっての宿命の調性
ハ短調c-moll
例:
ピアノ・ソナタ「悲愴」Op.13
ピアノ協奏曲第3番Op.37
交響曲第3番Op.55 第2楽章葬送行進曲
交響曲第5番Op.67「運命」

 本当のことを言うと、これだけの内容を、わずか1時間半の講座で語り尽くせるはずがないように思う。本当は、交響曲一曲だけでも、聴きどころや作曲家の想いを説明し、楽章毎のアナリーゼなどをしていたら、ゆうに1時間半はかかってしまう。なので、今回は、調性との関係だけに絞って語っていくつもりだ。

緊急報告
 真生会館から連絡が入りました。会館では、ソーシャル・ディスタンスを考慮して、今回の講座の定員を20名程度に絞ろうと考えていたところ、現在のところすでに21名の希望者が出ているところでストップしているという。なので、出来たらこの「今日この頃」でも、すでに締め切っている旨を伝えてください、とのことである。
 それを聞いて考えた。講座そのものとは異なって限定した内容になるだろうが、皆さんにも知ってもらいたいので、6月講座ダイジェスト版を後日自宅で録画してYoutubeにアップする予定にしました。

歩き出そうよ
 緊急事態宣言は解除され、街は活気を取り戻しつつある一方で、我々音楽業界は、相変わらず苦しい状態を強いられている。特に合唱は、集団で飛沫を飛ばすことから、最も迷惑な存在のように思われているので、どこの練習会場でも喜んで貸してはくれない。
 とはいえ、都内では、ソーシャル・ディスタンスを考慮に入れつつ、練習場のスペースから収容人数を割り出して定員を決め、たとえば30分毎の休憩とかドアを開けての換気とかの指示を与えながら貸し出し始めていることは、ありがたい限りである。

 その意味では、むしろ地方の方が問題だったりする。僕が関係しているある地方都市では、すでにその県内での新規感染者は長いこと1名も出ていないにもかかわらず、都内の施設よりもずっと厳しく、というか、現在のところ合唱には貸さないという方針なのである。その県では、39県が一斉に緊急事態宣言解除する前に、知事が西村経済再生担当大臣に、当県は解除候補から外して欲しいと直訴したというから、トップからして特に消極的なのである。

 そのホールの館長が僕と個人的に話をしたいというので、電話でいろいろ話をした。館長自身は、とても聡明かつ物わかりの良い方で、実は貸したがっているのだが、上がうんと言わないそうなのだ。僕はこう言った。
「もうしばらく新規感染者が出ていないんでしょう。もしかしたら、日本全国でゼロになっても貸さないというのですか?それなら、一体どのようになったら、どのような条件で再び貸してくれるというガイドラインを、そちらの方から出してください。そうしないと、みんな納得しませんよ。この先永遠に合唱団には貸さないのかという不信感がたまってきてしまいます」

 それで僕は、都内の練習場での合唱団に対する状況を述べると共に、マスクして歌うことの効能について述べた。鼻まで覆うと苦しくなるけれど、鼻を出してさえいれば、歌うことはさほど苦痛ではないし、飛沫は主として口から飛ぶので、かなり防げることを言った。
 また、新国立劇場芸術監督である大野和士さんが、東京都交響楽団を使って様々な実験をしていることや、新国立劇場でもそのような準備が進んでいること、いずれ実験結果が公に出てくることなども述べた。
 そことは関係ないが、歌手を使ったある実験では、日本語はあまり飛沫が飛ばないそうだがドイツ語が一番飛ぶという結果が出たという。要するに飛沫を飛ばすのは子音なのだ。また、別の実験によると、オーケストラでは、管楽器は思ったほど飛ばないという。基本的に吹き込むのは管の中だから、下に唾がダラダラと流れても、空気中には予想したほど舞っていないということである。ただし唯一フルートは、発音の構造上、吹き込む時に半分は空中に舞ってしまうので数値が高いそうである。
 基本、ソーシャル・ディスタンスは、前後の方向を気をつけるべきで、横はそれほど影響は出ないそうである。勿論、狭い空間でみんながしっかり歌ったような場合、いわゆる3密の度合いが上がるにつれて、空気中全体に舞う密度は高くなるので、横も気をつけるべきなのは言うまでもない。常識的には、前後2メートルと言われているのは妥当と思われるが、いずれマスクを使って歌う実験も行われると聞いた。

 さらに僕は言った。
「それよりも、ソーシャル・ディスタンスそのものが、中に感染者がいることを前提とした考え方ですよね。無感染者と無感染者の間ではナンセンスですよね。
だったら、入ってくる時のチェックを厳しくして、体温測定をそこで必ず行うとかして、中に居る人たちの安心感を高める努力をしたらどうですか?あるいは入り口で、本当に体調に問題はないですか?といちいち聞くとか。こうしたことは、今や失礼ではないと思います。
それプラス、ソーシャル・ディスタンスを守ればベターではないですか。本当は、コロナでなくても何らかの感染症にかかっている人をすぐにチェック出来るような器械でもあればいいんですけどね。
無条件で貸すか、無条件で貸さないかというのは乱暴で無責任ですよ。借りる団体の意識の高さの問題もあるので、チェックと細かい対応は必要です」
 館長は、僕の言うことを全面的に理解してくれたが、後日連絡が入って、やはり5月中は合唱には貸せないと一方的に言われた。あんなに広い練習場なのに・・・・。6月に入ったら大丈夫でしょうということだが、何故5月がダメで6月がいいかの根拠も知らされていない。

 実は、我々は常に細菌やウイルスにさらされている。みなさんだって、新型コロナ・ウイルスがこの世に生まれてから今日までの間に、1匹たりともみなさんの喉や鼻から入っていないと断言できますか?で、たまたま入っていた時に、PCR検査をすると、陽性と出ることもかなりの確率で起こるといわれる。
 一般的には、体に入っていても発症していない内は、ウイルスの数はそんなに増殖していないし、増殖してくるにつれて体調が悪く感じたり、熱が出てくるので、練習場に入ってくる団員の体調をチェックすることは、本来何にも増して必要なことだ。でも、そのチェックはとても甘いと思う。それなのに、ソーシャル・ディスタンスのみを重要視するのもバランス感覚を欠いている。
 勿論、以前書いたように、コロナの感染力はかなり強いのは事実で、自分が発症していないのに人に移す可能性もないわけではない。でも、初期の頃に言われていたように、無自覚の若者が、自分は発症しないのに老人に移し、老人が発症して亡くなるんだ、という話のかなりのケースはデマだったという報告もある。

 いずれにしても、コロナだというと何でも必要以上に大事(おおごと)になってしまうのは問題だ。
「この館からコロナ感染者を出した!」
と言われる不安から否定的になるし、新規感染者ゼロの県であっても1になるのを恐れている。インフルエンザの場合は、誰もそんなこと言わないのに・・・。
 しかしながら、そんな責任逃れの雰囲気でいたら、実際ゼロが1になった場合、その感染者はどんなバッシングを受けないとも限らない。バッシングに耐えられなくて自殺した人もいると聞く。
 前にも書いたけれど、基本的にコロナをこの世から絶滅させることは無理なんだから、もうこのあたりでみんなコロナ恐怖症から脱却して、コロナとの共存の道に意識を切り替えようよ。コロナの感染者が出たら人生おしまい、という考えは、だんだんやめていこうよ。

 これは今日の朝日新聞に載った昨日(6月21日)のデータだけど、東京都の新規感染者は35人と依然多い。でも横ばい状態であって感染拡大しているわけではない。その内20代が20人、30代が11人と若者達の感染が多い。接待を伴う飲食店の従業員ら「夜の街」関連は35人のうち18人で、すべて新宿エリアだという。
 感染拡大の懸念があった福岡は2日続きでゼロ。埼玉県が7人と多いが、千葉、神奈川はゼロ。あとは北海道が2人、大阪、兵庫がそれぞれ2人ずつで、それ以外の全ての県はゼロである。そのかなりの県でもう長いことゼロが続いている。岩手県は今日に至るまで累計感染者ゼロ。昨日の死者は1人。
 海外での状況はひとまず置いておいて、これらの状況を見る限り、我が国では、首都圏を除いたら、基本的にひとまず収束していると見ていいのではないかと個人的には思っている。第二波の話はまた別にして、「ちょっと歩き出しませんか?」



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