続・コロナを正しく恐れよう

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

娘に囲まれて
 もう先週の事になるが、6月21日日曜日は父の日であった。僕自身はそんなこと気にも留めていなかったけれど、長女志保と次女杏奈のふたりから、思いがけなくプレゼントをもらった。その事自体も嬉しかったが、その品物そのものが素晴らしく、毎日眺めては癒やされ、励まされている。

 これは、Susan Lordi(スーザン・ローディ)という女性がデザインしたウィローツリー彫像と呼ばれるインテリア置物で、木彫りのように見えるが、レジン(樹脂)で作られているコピーである。スーザン・ローディは、一作ずつ、実際のモデルを使って制作するという。形ではなく、動きや感情の流れを感じながら、それを一瞬のポーズに閉じ込めている。
 僕がプレゼントされたのは、「My Girls娘に囲まれて」(成長の驚き、喜び、そして強さ)という彫像。
あえて顔の表情を書かないのは、そこに観る人の想像力が働く余地を残しているから。このへんは、シュタイナー教育で使うシュタイナー人形との共通性が見られるが、ウィローツリーはシュタイナー教育とは直接関係はないようだ。


父の日のプレゼント

 このプレゼントを見立てたのは妻で、一緒に出資もしたという。僕に仕事がなくなって張り合いもないだろうな、とみんな気遣ってくれている。逆にその事自体がさみしい気もするが、それでも、この像を見ていると、この二人の娘達が、子供時代の志保と杏奈にしか見えなくなってきて、そうだなあ、こんな愛情に溢れた家族に囲まれながら、僕はこれまでの人生を送ってきたのだなあ、とあらためて思い、感謝が胸に溢れてくる。その傍らに、常に、僕たち三人を静かに見守っている妻がいたことは言うまでもない。

 コロナ禍で、本番がどんどんなくなって、収入もなくなってくると、一家を支えている家長としてのプライドや生き甲斐も萎えてくる。緊急事態宣言の最中の4月のある日、家族で話し合っていて、僕はこう言った。
「パパはねえ、この家族を食わせなければいけないと思って、夢中でここまで来たけれど、そこに生活の張りというものがあったんだねえ。こうして毎日がボーンと暇になってしまってお金が入ってくるあてもなくなると、なんかみんなにも申し訳ない感じになってくるよ」
すると、ふたりの内のどちらだったか、こう言う。
「パパはさあ、あたしたちふたりをパリに留学させてくれたし、家族のためにもう充分一生懸命働いたんだよ。それは本当に感謝してる。これからはさあ、もうあんまり頑張らないで、肩の力を抜いていいんじゃない」
 おほほほ、偉そうなこと言うじゃないよ、と思ったけどさ、初めてそんなこと言われて、たとえ勢いで言ったとしても、体のあちこちがこそばゆくて身の置き所がないくらい、実は嬉しかった。

 そして、この彫像でしょう。先週の更新原稿に書くにはもう遅かったので、そのままになってしまうかなあ、と思っていたが、この一週間(その理由はあとで書くけど)、緊急事態宣言下よりも、もっと気が滅入っていて、その度にこの像を見ては心が癒やされていたので、やっぱりどうしても書いておこうと思ったのだ。

 今、現実問題、ふたりの娘達の方が僕よりも稼いでいるのではないかな。志保も、オペラの伴奏ピアニストの仕事はキャンセルになったが、定期的な国立音楽大学の仕事の他に別のアルバイトもしているし、杏奈は、緊急事態宣言が解除されてからは、それなりにメイクアップ・アーティストとして仕事をこなしている。
 僕も音楽以外のアルバイトしたいんだけど、今さらねえ・・・・。音楽の領域だったら、ポピュラー音楽のピアノ弾きとか、クラシックに限らず何でも出来るんだけど、そもそも音楽そのものの演奏が難しんだから、仕方ないね。

 ということで、午前中は編曲をしたり、いろいろ細かい仕事をし、午後は学校から帰ってきた杏樹と遊ぶことが多い。その間に志保はピアノを練習しているから、志保の邪魔にならないように、晴れた日には杏樹を外に連れ出す。杏樹を見ていると、なんでも遊びの対象になってしまうのに目を見張る。本当に可愛くて、時々目の中に入れてみるけど、ちっとも痛くない!
 きしゃぽっぽ公園に本を持って行って、杏樹が遊んでいる間に、のんびり本を読んでいる。杏樹は、知らない子供にもかまわず声を掛けていって、誰とでもすぐに仲良くなる。その話を志保にしたら、
「パパ、志保が小さい時も、そうやってベンチに座って本を読んでいたね。時々いるかなあ?と思って見ると、ずっといる。それが安心感になっていた」
となつかしそうに言った。

 僕は、しあわせな人生を生きてきたし、これからも、何があっても、しあわせな人生を生きていく。それは、しあわせな人生というものが、いつも、誰にとっても、すぐ手の届くところにあることを、僕がみんなに示すため。
 また、しあわせに生きることは、神から与えられた人生の究極的な使命なのだ。しあわせに生きている人は、他人をもしあわせにする。そうして、しあわせの連鎖を作り出すことで、しあわせな世界に一歩でも近づいていく。
神が望むことはただひとつ。全人類がしあわせであること。
 

続・コロナを正しく恐れよう
 という話を書いた後、正反対ではないけれど、別のことを書く。先週はいくつか立て続けにガッカリすることに遭遇したので、さすがの楽観的な僕でも、こんな風に気が滅入ることがあるのだな、と思うほど意気消沈していた。
 東京都でないところで、いくつか残念なことが立て続けに起きたのだ。そのひとつの話をしよう。7月5日日曜日に、久し振りに浜松バッハ研究会の練習に出掛けるはずだったが、団長のKさんからメールが入った。

静岡県には「静岡県新型コロナウイルス警戒レベル」というのが
あって、現状は「警戒レベル3」(北海道と首都圏との交流を制限)
のまま緩和されていません。
先週、先々週の三澤先生の「今日この頃」のコロナ関連の部分を
メンバー内で共有し、「正しく恐れ、正しく前進しよう」という意識の
醸成にも努めてまいりました。
しかし昨今の感染者漸増という状況を見て
メンバーの気持ちも大いに揺らいでいます。
特に職場からの行動制限勧告や、年配者の場合、家族からの懸念の声などに
影響を受けています。
 ということで、浜松バッハ研究会の練習が、あっけなく延期になってしまい、次の練習の予定も立てられない。いや、僕がガッカリしているのは、練習がなくなったからではないし、練習延期の判断はやむを得ないと思っている。
 そうではなくて、これらの県の決定や、みんなの気持ちの拠り所となっている情報、すなわち我が国の報道のあり方について、大いに疑問を感じるからである。

 確かにここ連日の東京都の感染者は多い。この原稿を書いている6月29日月曜日の朝日新聞朝刊によると、昨日(6月28日)の東京都における新規感染者は60人だ。
しかし、僕が気になっているのは、以前には決して見られなかった注意書きだ。20代が33人と最多で、30代が12人、40代が7人だという。これだけで52人だというのを強調している。さらに、接待を伴う飲食店員ら「夜の街」関連は31人含まれていると書いてある。
 ここには二つの意味での情報操作というか読者の注意を惹く手法がとられている。それは、若い人たちが多いことと、「夜の街」関連という言葉による、年齢や地域及びシチュエーションを限定しての報道のあり方である。

次のような文章もある。
北海道では新たに17人の感染を確認。うち14人は小樽市の判明分で、いずれも日中にカラオケが楽しめるスナックなど「昼カラオケ」の利用客や、その濃厚接触者という。
さいたま市では、同市大宮区のキャバクラ店で新たに従業員3人の感染が判明した。
いずれも症状は軽いという。
同店の感染者は計8人となった。
栃木県では宇都宮のキャバクラ店で、新たに5人の従業員の感染が確認され、同店の感染者は計8人になった。
 ここでは、北海道の「昼カラオケ」と、大宮及び宇都宮のキャバクラが強調されている。こうしたことについて、以前にも僕が引用した武田邦彦氏は、次のような動画をYoutubeで配信している。



これは、もうちょっと前になるが、小池知事がホストクラブをターゲットにして、自主的なPCR検査を行ったことに対する武田氏の見解である。

 武田邦彦氏のYoutubeを最近僕が良く観ているのは事実だけれど、言っておくが、彼の結論をいつも信じているわけではない。たとえば、最近彼が出した映像の中には、
「私は結論づけた。神というものはいない。神とは、人間が自分たちに都合の良いように作り出した嘘だ」
などというものもあるし、結構、結論が一方的で極端だったりする。
 ただ、彼の良いところは、科学者なだけに、曖昧な憶測や気分だけではものを言わずに、かなりデータに頼っているので、少なくともホストクラブの件では、明らかにホストクラブのみを狙って、自主的とはいいながら実際は強制的にPCR検査を行わせた結果、感染者が多く出たのは事実であろう。
 だとすると、今回、大宮と宇都宮というとても離れたところで、いきなりキャバクラ従業員のみの感染がこれだけ出たという発表に、意図的なものを感じるのは僕だけであろうか。ホストクラブにある程度打撃を与えたので、今度はキャバクラに乗り換えただけではないだろうか。しかも、あえてキャバクラという言葉を発表するのだから、報道効果を狙っているのは明白ではないか?

 そもそも、何故これまでPCR検査を行うことに対して、我が国では消極的であったか分かりますか?それは、先週も言ったけれど、PCR検査は正確ではないからだ。少なくとも、新型コロナ・ウイルスに完全に限定して陽性と出るか疑問で、他のウイルスや感染症に対して陽性と出る可能性もあるし、またコロナだとしても、発病はおろか、喉や鼻の中にいるだけでも陽性と出てしまうのだ。だから国会答弁で安倍首相が野党に追及されても、
「医師が必要だと判断した場合には、すみやかに行います」
としか言えなかったのである。
 ということで、一般の人は、コロナに感染したかな?と思ってもすぐにはPCR検査を行ってもらうことは出来ない仕組みになっているのだが、その反対に、ホストクラブやキャバクラで無差別に検査を行わせた場合、今度は、感染という単語に相応しい状況に至っていない場合でも陽性と出てしまうので、数日前の新聞には、「擬陽性では?」という専門家の意見も出ていた。

さて、本当の問題はそこではないのだ。

 そうではなくて、そんな意図的な検査であっても、陽性と出てしまったら発表しないではいられないし、武田氏が主張するように、みんなの注意を促してコロナを早く収束させるように、あえて発表している可能性もある。武田氏は、それに対して怒っていたが、まあ、それで一定の効果があるならば、それもアリかも知れないと僕は思っていた。

 ところが、である。地方の公的機関では、その数だけが独り歩きして、先ほどの浜松のように、「警戒レベル3」(北海道と首都圏との交流を制限)のまま留まっているという自体を引き起こしているのだ。これって、正しい判断でしょうか?
 地方の公的機関の人たちって、僕はもっと賢い人かと思っていたのだが、こうした報道姿勢の中にある“含み”というのを読み取る知性というものは持っていないのかねえ。まさか、すでに第二次感染拡大の兆候か?って本気で思ってなんていないよね。

 要するにね、僕が浜松とかに行くとするでしょう。そうすると、
「あ、東京から来た!」
とみんなが思って、
「三澤さんはキャバクラに行かないとも限らない。だからコロナにかかっているかも知れない」
と思うとか、そういう話ですかあ?
北海道から誰か来たとしたら、みんな昼カラオケに行っていることを疑うんですか?
 まあこれは冗談ですが、要するに、そんなに東京や北海道から来た人を恐れる必要はないのではないかと言いたいわけ。

 ちなみに、当の東京都はどうかというと、僕は先週の火曜日と水曜日、2日続けて立川柴崎体育館のプールに泳ぎに行ってきた。
 ここのプールは、今、完全入れ替え制になっていて、たとえば9:00-10:30で一度全員出されて、30分間徹底して消毒などをする。そして次の11:00-12:30の人たちを向かい入れるという方法を取っている。体育館の入り口では、名前と連絡先をいちいち書き、検温をひとりひとり行って、初めて入館を許される。定員以上は入れない。
 6月27日土曜日は東京バロック・スコラーズの練習。その練習場である幡ヶ谷のアスピアでも、検温はやっていないが(やってもいいと僕は思う)、定員があり、互いにソーシャル・ディスタンスを取り、指揮をしている僕の前には透明な仕切りがあり、30分に一度、換気のための休憩をして、窓を開ける。ここまできめ細かい指示とチェックはするが、基本的にオープンしているのである。そもそも無条件で貸さないとかいう乱暴なことはしていない。
 公共機関は、人が借りなくとも誰も損をしないからね。貸さないにこしたことはない、そうすれば少なくとも自分たちが責められる可能性はない、という考え方なんだ。

 あーあ、こんなことしていたら、どんなに感染者が少なくなっても、あるいはゼロになったとしても、ちっとも先に進まないじゃないか。合唱団体が伸び伸びと演奏活動をする可能性は、半年後とか1年後とかではなく、もう永遠にないのではないかと絶望的になってしまう。
 その状態を導き出しているのは、もはやコロナではない。人の心の中に住み着いてしまった“恐れの心”以外のなにものでもないのだ。

 別の話なんだけど、とっても不思議なのは、新規感染者にはあれほどみんな恐れるくせに、死者が極端に減っていることにみなさんは気付いているかな?ブラジルや米国では今でもどんどん出ているけれど、日本は昨日もゼロでした。ということは、重症化している人も減っているということである。
 そこで僕は気になって調べてみた。日本全国で死者ってどのくらい出ているんだろう?ネットで調べて驚いた。2018年の統計では次のような結果だという。

 まず死亡原因第1位のガンで、年間37万3547人が死んだそうである。あまり多いので桁が違うのではと思った。
ということは、一日に平均すると・・・・1027人だそうである。これまでの新型コロナ・ウイルスによる死者の累計985人に対して、それを上回る数のがん患者が1日で死んでいるのだ。

第1位 ガン 37万3547人 1日当たり1027人   
第2位 心疾患 20万8210人 1日当たり570人 
第3位 老衰 10万9606 1日当たり300人 
第4位 脳血管疾患 10万8165人 1日当たり296人 
第5位 肺炎 9万4654人 1日当たり259人

病気ではないが、交通事故死は年間4596人
転倒、転落など不慮の死は年間9645人
インフルエンザをこじらせて亡くなる人は、年間約1万人

 ええと・・・ですから・・・みなさん、コロナで死ぬことを心配するよりも、交通事故に遭わないように心配するとか、階段を踏み外さないように心配した方がいいかも知れません。



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