いのちについて

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

お盆
 来週は、お盆に入るため、一週間「今日この頃」をお休みします。次の更新は8月17日以降になります。

 とはいえ、今年のお盆は、とってもさみしい。僕の郷里である高崎市新町では、近所に、他県ナンバーの車を持つ家があるけれど、その人が自分の家に駐車している時に、「他県に働きに行ってます」という紙を貼っているという。
 そういうこともあるし、こういうご時世なので、甥や姪などがみんな集まってということは出来ないねえ、ということになってしまった。
 母親の介護付き老人施設では、7月に一度身内の人たちにオープンになった時期があり、群馬に住む二人の姉が見舞いに行ったのだが、その後の感染者の増加でただちにクローズになってしまった。だから僕が群馬に行っても、母親には会えない。
 でも僕は、三澤家の長男として、8月13日のお盆迎えだけは、なんとしても自分の手で行いたいと思っている。まだ分からないけれど、日帰りで僕だけ電車で行くかも知れない。

 しかしなんだね、日本国民というのは、もっと知性ある賢い国民かと思っていたけれど、ここまで愚かでエゴイスティックなのか。感染者数が独り歩きし、みんながそれに振り回されている。そうさせているのは、政府とマスコミである。
 フジテレビの朝の「プライム」は、その中では良心的かつ前向きな番組なので、僕はほとんど毎週見ている。昨日は、愛知県の大村秀章知事が出ていた。彼は、こんなに愛知県も感染者が出てしまって、どうするのですかという意地悪な質問をされて、思わず、
「でも、感染者の95パーセントが無症状なんですよね」
と返答していた。
「よし、よく言ってくれた!」
と思ったが、そのままスルーされた。

 この「感染者の95パーセントが無症状」という言葉は、どうみても変でしょう。矛盾しているでしょう。
 インフルエンザの例をとるならば、まず、高熱などインフルエンザの症状がある人が、病院に行って、医師の診断を受けて、医師が、
「インフルエンザの疑いがあります」
と判断し、それから検査をして初めて「感染者」あるいは「患者」としてカルテに登録される。それでも年間1千万人もいるのだ。
 冬になれば、インフルエンザ・ウイルスは、そこかしこ何処にでもいて、我々の体を出たり入ったりしている。その中で、発症した人だけがインフルエンザ感染者なのだ。仮にインフルエンザ・ウイルスが体に入っていたとしても、発症しなければ「ただのひと」だ。これ常識でしょう。なのに、どうしてみんな発症もしていないのに、コロナだけ感染者として扱われて、しかもその数字だけが独り歩きして、国民を脅かせているのだ?
 いいかい、もう一度言う。無症状者は感染者ではない。だから、
「PCR検査陽性者の95パーセントが無症状です」
と言わなければ、日本語として間違っている。

 そういえば、「フルトヴェングラーとカラヤン」(啓文社書房)の著者でもある文芸評論家小川榮太郎氏が、奥村康順天堂大学特任教授と上久保靖彦京都大学特定教授を招いて、「第二波は来ない~科学的エビデンスに基づく新型コロナウイルスに対する知見~」という緊急記者会見を開いたが、大手新聞社及びテレビ局などのメディアが軒並み欠席し、スルーされたと怒っていた。


緊急記者会見Pt1

 我が国の死者は昨日もその前もゼロ。4月の死者の合計が370人だったことに対して、7月の死者は31人。重症者もさして増えていない。勿論、死者が出ている限りは、コロナは全く無害で安全と言い切るつもりはないが、ワクチンや特効薬が出来ているわけでもなく医療体制的にほとんど変わらない状況において、この結果を見る限り、少なくともコロナは変異し、やさしいウイルスになったと見るのが妥当であろう。しかも、国民の大半が自然免疫を獲得していると言われているのである。

集団免疫の解説

なのに、このまま国民をいたずらに恐がらせておいていいのか?
このままいろいろをストップさせたままでいるというのか?
いいのか?
本当にこのままで?

コンシェルジュと龍夫妻との遭遇
 僕のホームページであるCafe MDR開設は、なんと2004年までさかのぼる。2005年5月1日に、僕がサントリー・ホールで指揮した、東京交響楽団と東響コーラスによる特別演奏会「三澤洋史のドイツ・レクィエム」を行うにあたって、聴衆確保や、さまざまな情報伝達の手段として、演奏会約1年前に、東響の事務局から現在のコンシェルジュに依頼が行き、オープンすることとなった。
 MDRは、Misawa Deutsches Requiemの略。本来ならば演奏会が終わった時点で、その役目を終えるわけであったが、この一年間の間に、僕が毎週欠かさず書いている「今日この頃」を楽しみにしている人も増えてきたようだし、僕自身としても、自分の日々の想いを書き留めておくのは、有意義なことだと感じていた。
 自分の考えていることを、きちんと相手に伝わるようにするためには、頭の中であらためて思考をまとめ、具体的にどういう表現で文章にすれば効果的なのか考えないといけない。案外、自分で文章にしてみて初めて、ああ、自分はこういうことを考えているのだ、と思考が整理されることが多い。何より、文章を定期的に書くという行為によって、自分の文章力が向上していることを感じていた。
 そこで、演奏会が終わっても、このホームページを継続することとした。Cafe MDRというホームページのタイトルをどうしようかと、コンシェルジュとも相談したが、とりあえずこのままでいいんじゃないの、ということにした。でも、なんかこじつけようか、ということでいろいろ調べたら、ピッタシの表現が見つかった。
 mourir de rire「おかしくて死にそう」というフランス語である。mourirという動詞は「死ぬ」rireは笑う。「笑い死にしそう」とかとも訳される。まあ、「今日この頃」の記事は、毎週そんな死にそうにおかしいわけではないが、少なくともタイトルは僕にぴったりだと思われた。
 ということで、中断することなく続き、今日に至っているというわけだ。このホームページを管理しているコンシェルジュは、なんと完全なボランティアで行ってくれている。しかも、ただ僕の原稿をアップしているだけではない。時々、過激なことを書く僕の原稿をチェックし、
「この表現は、ちょっと直した方がいいですよ」
とか、
「これは該当する団体に確認を取ってみます」
とか、
「これは裏を取ったら正確にはこうでした」
とか、丁寧に様々な確認を行ってくれている。
 そんな風に、きめ細かい対応を長年に渡ってやってくれているので、せめてもと、僕は一年に一度だけ、コンシェルジュ夫婦をお食事にご招待している。

 ところが今年はこのコロナ禍でしょう。外で会食もなあ、というのでグズグズしていたが、やっと8月1日土曜日、今年の「ありがとう会」を行うことができた。場所は我が家。それで出張コックを雇って、中華料理のコースとした。

 その肝心のコックであるが、実は、新国立劇場合唱団団員の龍進一郎さんである。龍さんの奥さんである三佳代さんは、僕の新作Missa pro Paceの作曲に対して、大きな影響を与えた人物である。すなわち彼女は大腸ガンを患い、僕は彼女の治癒を祈りながらミサ曲を完成させたのだ。そして、彼女の治癒への願いは、しだいに僕の魂の中で全人類の“精神の治癒”と“平和への希求”へと広がっていき、その完成と共に、彼女の病気は完全に治癒したのである。
 闘病の最中、僕は彼らの家に行き、共に祈った。その時、進一郎さんが僕を中華料理で振る舞ってくれた。それが全く玄人の技だったので、驚いてたずねると、大分に住んでいる彼の父親は、日本に帰化した中国人で、中華料理屋を営んでいたというのだ。本人も、料理が昔から大好きで、時々友人などから頼まれて出張コックをしているという。

 そこで今回は、龍夫妻とコンシェルジュ夫妻とを会わせたいという意図もあり、進一郎さんにきちんとお金を払って、正式に中華ディナーをお願いしたというわけである。

 我が家では、僕たち夫婦と長女の志保と孫の杏樹、それに、普段中目黒に住んでいる次女の杏奈も便乗したので、大人4人と子供1人、それから二組の夫婦で合計8.5人。どうしても三密は避けがたいため、我が家のメンバーも含めて、参加者全員に体温測定など、体調の確認を行い、ひとりでも不調の人がいたら、延期にしましょうという約束を取り付けて、当日を迎えた。


龍さんが当日にあらかじめ送ってきたメニューは以下の通り。

先付け:
トマト、きゅうり、ウズラ卵黄の紹興酒漬
ハモの湯引き梅肉飴仕立て
本マグロ炙り

フカヒレのスープ

空芯菜の炒め物
アワビ酒蒸し
和牛ロースト
黒酢の酢豚
エビのチリソース炒め
麻婆豆腐

デザート:桃のコンポートゼリーよせ


写真 龍さんの中華料理
           メニュー
 どうです。これを見ただけで、期待に胸が高鳴るでしょう。時が時だけに、いつもより会食時間をずっと早めて、まず龍さん夫婦が下ごしらえのために3時に我が家に到着。コンシェルジュ夫婦は、妻が4時半に車で最寄り駅まで迎えに行き、全体は5時前に始まった。
 豪華な中華に舌鼓を打っている間に、時間は瞬く間に過ぎ、午後8時半という早めの時間にお開きとなった。久し振りに、屈託のない語らいがなんとも楽しく、2日経った今でも、その余韻が消えない。コンシェルジュ、これからもよろしくお願いします。
(この原稿の編集もコンシェルジュがやっています)


全員集合

いのちについて

嘱託殺人は悪いのか?
 7月23日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)当事者の依頼で、薬物を投与して殺害したとして、嘱託殺人容疑で医師二人が逮捕された。実は、この記事は、先週書こうと思っていたのだが、ここのところあまりに新型コロナ・ウイルスの感染者数に世間が振り回されていたため、そちらの記事の方を優先させたのである。

 本当は、こうした事件が平気で起こり得る社会のあり方は、人類の大多数が現代において持っている価値観や、想念のあり方と分かち難く結びついている。新型コロナ・ウイルス感染拡大をめぐる国民の理由なき恐れや、その恐れから来る様々な差別やバッシングなどとも、どこかでつながっている。

つまり、“いのち”の問題である。

何故“いのち”が大切なのか?
 この問題は、そもそもどんなに言葉を費やしても、仮に僕がどんなに見事な文章を書いたとしても、恐らく価値観が違う人を説得することはできない。それどころか、ただ反感を煽るだけで終わってしまうかも知れない。とはいえ、自殺幇助に対する僕なりの見解だけは表明しておきたい。

 何故、いのちが大切なのか?何故、人は人を殺してはいけないのだろうか?何故、自殺は望ましくないのだろうか?

 人が人を殺してはいけない理由として、自分たちも人から殺されたくないから、というのがある。これは結構説得力がある。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
マタイによる福音書第7章12節
 このイエスの言葉を反対から言うと、自分が意地悪されたくないなら人にそれをするな、ということであり、自分が人から、抑圧されたり、暴力をふるわれたり、殺されたりされたくないから、人にもするべきでないということである。だから、そういうことをする人を社会の中に置いたままにするのは危険で良くないから、逮捕して隔離するのである。

 それはよく分かる。では、今回の事件のように、自分が「死にたい」と思っている人を殺してあげるのは何故いけないのであろうか?あるいは自殺したいと思っている人が勝手に死ぬのは何故いけないと思う人がいるのであろうか?「その人の勝手でしょ」ということではないか?

人間には自由意志があるので、神といえどもそれを止める権利はない。ということは、人を殺すことも、自分自身を殺すことも人には許されているのだ。逆に、これって恐ろしいことだと思わないかい?

残念という感情
 ただ僕は思う。宗教的な、あるいはスピリチュアルな真実を知ってしまったならば、それは出来るのだけれど、とっても残念なことなのである。みなさんには、身近な人が自死したという経験がありますか?それを知った時、何を感じましたか?その人が、それ以前に死にたいと思っていたことを知っていた場合、
「望みを遂げられて、ああ、よかったね」
と素直に喜べますか?むしろ、その反対ではないですか?
 みなさんが人の自死を知って率直に抱くであろう感情は、たとえば、羽生結弦君が転倒して優勝を逃してしまった時に抱く感情とか、サッカーのワールド・カップで、日本チームが惜しくも敗れた時に抱く感情に近い。自分自身のことではないのだけれど、何らかの感情移入を人は他人にするのだ。
 それは、人間に根本的に備わっている自然感情で、これを軽く見てはいけない。同様に、死にたいと思っている人の死を幇助したと聞いた時の、なんともいえないモヤモヤした感情も、あなたの中で打ち消してはいけない。
 芸術家だったらみんな知っていることなのだが、一番大事なことは、思考することで見えなくなることが多い。大切なのは、あなたの違和感であり、それを正しい認識に導いてくれるものはFeelingである。

人生の意味~宗教的あるいはスピリチュアルな観点から
 さて、ここからは反対意見を持つ人が少なくないのを覚悟して語ります。僕たちは、野球でもサッカーでもゲームというものが好きでしょう。何故?それはね、人生というものがまさにゲームだからなのだ。ゲームってね、もちろん自分の贔屓(ひいき)のチームが圧倒的勝利をするのも嬉しいけれど、ゲームとして盛り上がるのは、相手に点数を奪われて、絶対的ピンチに陥ったけれど、それでもめげずに必死で立ち向かっていって逆転したとか、ドラマチックな展開をした時じゃないですか。

 いのちも同じなのだ。僕たちは人生というゲームをしている。各自、環境も違えば、能力も才能も全然違うけれど、その中からそれぞれのキャラクターや興味や資質を生かして人生を歩んでいる。
 クラスでトップの人もいれば、一番最後からついてくる人もいる。でも、一番頭の良い人が必ずしあわせになれるわけでもないし、ビリの人が必ず不幸な人生を歩むわけでもない。ビューンと自分の才能を伸ばせたと思う人がガツンを落ち込んだりする一方で、目立たずコツコツとやっている人が、ある日突然認められたりもする。
 みなさん、こういう思いをすることないですか?とっても尊敬していた先輩の嫌な面を見てしまった時に、ガッカリすることとか、逆にちょっと苦手だった先生のとても優しい面を、ある時かいま見て、なんとなく嬉しくなるとか。それは、一緒にゲームしている人たち同士だからこそ抱く自然感情なのだ。
 その自然感情の内、最も残念なのが、こんなケースではないですか?一緒に戦っている同志が、ピンチになった時に、やけっぱちになってしまったり、あきらめてしまったりして、試合を放棄してしまったとしたら、みなさんはどう思うのだろう?がっかりしませんか?仮に、もう負けるのが分かっていたとしても、最後まで正々堂々と戦って欲しいと思いませんか?
 つまりこれが自死した人に対して我々が抱く感情であって、善悪の問題ではないのだ。宗教的に見た時に、自殺は試合放棄であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。そして、それを幇助した人は、
「あ、試合放棄したいの?では僕たちが助けてあげる」
と言って、何らかの方法で試合が継続できないようにするとか、試合そのものを妨害した人たちなのだ。場合によっては、試合放棄した本人よりももっと悪質である。

 僕は、こう語っている自分自身を無責任だと思うよ。筋萎縮性側索硬化症(ALS)というのがどんな辛いものなのか、自分で体験してなくて偉そうなことを言っているから。ただ、これは宗教的見地から見た一般論であって、僕ひとりの考えではない。
 宗教の世界では、生まれてくることには意味がある。どんな才能や資質を持っているか、あるいは持っていないかということにも意味がある。人生で起こる全ての事に意味がある。病気も事故も、試験に合格することにも、落ちることにも意味がある。

 この世の中は、物理的法則が支配し、分け与える物には限界があり、誰かが試験で受かればその分誰かが落ちる。だから、人は限りのあるものを巡って奪い合おうとし、
「あいつに受からせてなるものか」
と、時にはライバルを邪魔したりもする。
 だが、我々のゲームの真意はそこにはないのだ。この物理的法則に支配された世界で、そうでない法則に従って生きる者に点数は加算される。すなわち、あの世の法則では、愛は無限であり、むしろ与えれば与えるほどますます豊かになる。愛とは人から奪うものだと思っている人は、そもそもそのゲームのスタート台にすら立っていない。
 だが、宗教者あるいはスピリチュアルなものに目覚めている者は、“利他”という観点に立ってゲームをしているのである。反省するならば、
「ああ、この点に関しては、エゴイスティックに生きてしまった」
とか、チェックするならば、
「自分は、このことを相手にしてあげたけれど、恩着せがましくなかっただろうか?自己満足の中にいなかっただろうか?」
など思っている。
 別に得点ばかり考えているわけではないが、そのゴールとは、他ならぬ自分の死だ。だから僕は、むしろ自分の死は恐くない。もちろん、明日死ぬと言われたらちょっとあわてるだろうが、走り抜いた末の死であれば、喜んで受け容れよう。

 僕が神様を信じていると言うと、こう聞かれることがある。
「もし死んだ時、神様が実はいないと分かったとしたら、どうしますか?」
 これって、一番馬鹿な質問だよね。だって、我々の意識が単に大脳皮質の仕業だった場合、死んでから自分の生き方が合ってたか間違ってたかって、どうやって分かる?意識が消滅してしまうんだから、どっちみち一緒じゃないか。
 だったら、死後の世界があると思って、たとえば肉体が衰えようが、不治の病にかかろうが、希望を捨てないでしあわせに生きられるならば、僕にそれ以外の人生の選択肢はないわけよ。むしろ、神なんかいないと思って生きていて、死んでから実は死後の命というものがあった時の方が、よっぽど慌てるのではないかな?

無神論者の生き方
 この世の中に、もし人智を越える存在というものがなかったとしたら、全ては偶然で、価値観も善悪も、全て相対的なものとなり、我々の意識が大脳皮質の働きに過ぎなければ、その人の死によって、すべての人格は崩壊し、その人の人生における精神的営みは無に帰す。要するに、死ねば全て終わり、というわけである。そうでなければ、無神論者とは言えないですよね。
 とすれば、人生の価値観とは、生きている内にどれだけ楽しみ、良い思いをするかということのみになるわけだ。人のことはどうでもよくなって、自分さえ良ければいいのだ。バレなければ盗みをしたっていいし、自分の出世のために人を蹴落としてもいいのだ。不当に搾取して富を築き、この地上にパラダイスを築いた者が人生の勝者だ。
 ただね、そうやって生を楽しむことができる者はいい。その反対に、たとえば不治の病にかかって、もう楽しむことはおろか死を迎えるしかない人には、絶望しかない。いや、そこまでいかなくとも、人生の半ばを過ぎて、もう先が見えた人というのは、全員、自分を誤魔化しているだけで、すでに精神は緩慢な死の途上にあるのではないか?そしてその先には無という滝が待っているだけである。
 お金にしがみつく人。名声や社会的ポジションにしがみつく人。快楽にしがみつく人。みんな刹那的快の中に身を置いているが、本当は虚無の絶望と共にいる。それらの人から見て、その刹那的快も求められない人というのは、すでに生きる価値も持たない人なのだろう。むしろ、その人が自らの命を絶とうと欲した場合、これを助けるのは義務とさえ思う人がいてもおかしくない。ましてや、それを幇助してあげることで、お金ももらえるとあっては、やらない手はない。
「いのちは大切だ」
と、みんな普通に言っているけれど、ただの甘いロマンチシズムに過ぎない。その意味では、むしろ二人の医師の方がホンネで生きているのかも知れない。

 これが無神論的生き方ではないですか?だいたいの人はそんな極端な考えは持っていない、と反論する人は多いでしょう。でも、突き詰めてみると、とどのつまりはそこに行き着くのだ。だから僕は、思春期まっ盛りの時代に、ここまで考えて、そして信仰の道に入ったのだ。

いのちの神髄
 至高なる存在があると信じて生きる人生は、本当に素晴らしい。人生は“利他”というものに従って生きる度に得点が加算されるゲーム。加算される瞬間には、ピンポーンと合図がある。その合図とは、精神の深いところでの歓びである。
 この歓びを知らない人が多いのは残念だ。喜びといったら、
「しめしめ」
というものだと思っているとしたら気の毒だ。人を利用したり、人から搾取して生きている人の喜びは必ずここに留まっている。
「まんまと仕留めたぜ」
という感じだが、この時、もうその人の魂は崖っぷちに立っている。次いつ自分が追い越されて「しめしめ」と相手に思われる状態になるか分からないからだ。それに、人とそういう関係しか築けないことが、そもそも不幸なのだ。

 本当の歓びは、全身を包むなんとも暖かいホワーッという気持ちであって、それだけで完結していて、何ものも失わない。人のしあわせを考え、人に喜ばれることを生き甲斐にする毎に、その行為は周囲に愛のスパイラルを起こし、巡り巡って自分に返ってきて、またまた本人はホワーッいうしあわせを得ることとなる。
 いや、得なくともいい。それは、聖書で言われる「天に宝を積む」ということとなり、自分の魂の貯金となる。むしろ報われない愛をいっぱい持っている人ほど、その人の周りには慈愛のオーラが広がり、人格のもたらすゆとりのようなものがその人を支配する。

 いのちは何故大事なのか?という真実を本当に理解する唯一の方法。それは、そうした生き方を自ら生きてみることである。
これだけ理屈を述べてから言うのもなんだけど、理屈ではない。

D'ont think! Feel!
考えるな!感じるのだ!



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