コロナと差別意識

三澤洋史 

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Zoomレッスン間もなく開校
 Zoomレッスンの申込者が徐々に集まりつつある。アメリカから受講する実業家もいる。僕は、平日の朝受講できないサラリーマンのために、夜9時からという時間帯も作ってみたが、アメリカ(ニューヨーク郊外)では朝の8時だという。これから冬時間になると7時となるそうだが、頑張って起きますと言っている。
 なるほど、海外からの受講もこうして可能なのがZoomレッスンの良いところだね。みなさん、そういうわけで世界中どこからでもレッスン受けられますよ!僕も、新しい試みのために、かなりウキウキ。

 受講可能日時は毎週更新するので、ご覧になってから希望日時を記入の上、申し込んで下さい。

夏の終わり
 8月も、もう終わる。秋が近づいている。早朝のお散歩をしてみると分かるが、お盆の頃とはあきらかに自分を包む大気の匂いが違う。ふいに蝉が、散歩中の僕の胴体に体当たりしながら墜落し、腹を上にして地面にころがりながら羽根をバタバタ動かす。蝉たちの死期が近い。これから、道ばたにころがる沢山の蝉の死骸が、僕に夏の終わりを告げるだろう。散歩を日課にしている僕の毎年の風景。

 3月の終わりに「ホフマン物語」の音楽稽古が中断され、間もなく緊急事態宣言が発令されて、仕事という仕事が途絶えてから、4月5月6月7月8月と、なんと5ヶ月も新型コロナ・ウイルスによる失業状態が続いている。まだ山には雪が残っていた季節から、桜が咲き、梅雨の季節が過ぎ、遅い夏が来て、猛暑と熱中症のお盆の時期が過ぎ、そして、あと半月もすると、彼岸花が咲き始めるだろう。

 ウィーク・デイの午後は、毎日といってもいいほど柴崎体育館のプールに行っている。これだけ通うと、自分で言うのもなんだけど少しはうまくなるな。仕事をしている時は、仕事に差し支えあるからというので1300メートルまでと決めていたけれど、なんだかんだで1500メートル以上が普通。
 といっても、ゆるゆるだよ。ビート板を持ってキックの練習や、プルを足に挟んでのストロークの練習の他に、クロールと平泳ぎを混ぜた1000メートルの1セットは必ずメニューに入っている。
 休みながら約30分かけて泳ぐ。500メートル15分かけてクロール。速く泳いだりゆったり泳いだり。キックも2ビートだったり、6ビートだったり。それから平泳ぎをほぼノンストップで300メートル。それからまたクロールに戻って200メートル。ま、大会に出るとかじゃないので、そんなペースだ。泳ぎ終わって飲む水がうまいんだ!
 お盆近辺の2週間の夏休みには、杏樹も連れていった。柴崎体育館と、杏樹が通っている東京賢治シュタイナー学校はすぐ近く。杏樹と一緒だと、自分はあまり泳げないので欲求不満になるが、だいぶキックが進むようになった。

 ひとりでプールに行った後は、すぐ近くのカトリック立川教会の聖堂に(お祈りではなく)瞑想に行くのが日課だ。結跏趺坐で両膝の上に手を置き、親指と人差し指で作った丸を上にして、無念無想の状態でいる。
 キリスト教の聖堂の中というと変な感じもするが、自分の感覚では禅寺よりもむしろ違和感がない。禅宗では、自分の存在すら無にしなさいと教えられているようだが、僕はむしろ、自分自身が、大きなものに守られている感じがして、瞑想後は、とても満ち足りた気持ちになるのだ。
 自己というものは、瞑想の最中でも、無にしなくていいものだと思う。ある臨死体験をした人がこう言っていた。
「魂が体から抜け出た瞬間、痛みや苦痛がスーッと消えたんですが、不思議と感情もなくなりました」
僕が思うに、その場合、感情がなくなったのではなくて、それは、肉体にくっついていた低次の感情や情緒であり、臨死体験によって、魂が肉体と共にそれらの感情からも離れたことを意味する。
 僕も瞑想中には、その感情が自分から剥がれていくという認識がある。その時、自分から離れていった肉体意識とそれに付随した様々な低次の感情が、時間の制約の中にあったことに気づく。その反対に、自分の高次の意識が、その時間の制約から離れた純粋なエッセンスとしての自己であることにも気づかされる。
 その高次の自己から見ると、時間というものは、過去から未来に向かって流れているのではなく、未来からこちらに向かって流れ、そして過去に流れ去っていくものであることに気づく。
 これに気づくためには、自己を完全に無にしては駄目なので、僕の瞑想は恐らく禅宗から見ると邪道かも知れない。でも自分では、この瞑想は間違っていないと思う。だからこそ教会の聖堂に合っているのだとも感じる。何故なら、この“時間から離れた高次の自己の世界”に、父なる神も、キリストも仏陀もいるのだから。

 この瞑想の後にね、よくチョコモナカ・ジャンボをコンビニで買って、ゆっくり自転車に乗って食べながら家に向かう。プールの後としても瞑想の後としても、あんまし良くないんじゃない?とも思うが、ある意味、寝る前のバーボンのハイボールと並んで、一日の内の最も至福の時かも知れない。

コロナと差別意識  コロナは絆を確認するために出現した
 ようやく僕にはっきりと見えてきたものがある。この世は、バーチャル・リアリティという考え方からすると、ひとつは、新型コロナ・ウィルスというものは、本当は存在していなくて、単なる幻想であるということ。もうひとつは、コロナを通して、今この世界が突きつけられている問題こそ、我々の紛れもない現実であり、これを本気で解決しないことには、人類はこの先進めないということだ。

 僕は、雑誌カトリック生活6月号の「合い言葉は、どんな時にも勝利」というエッセイで、次のような文章を書いた。

感染への恐れから、人と人との絆をいとも簡単に断ち切っている新型コロナウイルスであるが、感染が全世界にくまなく行き渡る事態になって初めて、一つの“存在意義”をもつことに私は気がついた。
それはとても皮肉なことだ。
このウイルスはなんと、その感染力をもって「人類がみなつながっている」ことを我々に見せてくれているのである。
 その後僕が主張したのは、グローバリゼーションの時代である現代において、おびただしい人たちが国境を越えて世界中を駆け巡っているのに、魂の面においては少しもグローバル意識は育っていないこと。このパンデミックの中でも、人類はあまりにも狭いローカル意識にとらわれ過ぎているということだ。
 人類は、人種を越えて、国境を越えて、宗教や信条を越えてつながるべきだ・・・とあえて主張する必要もない。すでにつながっているということをコロナが証明しているのだ.
さらに、コロナは、その平等性でもって、不平等なもの、人と人とを分断するもの、人が人を抑圧したりコントロールしたりするものを炙り出している。

 たとえば、現在、米国と中国との関係は最悪となっている。下手すれば全面戦争も辞さない勢いだ。これひとつとっても、このままではいかないでしょう。大統領選をひかえていることもあって、トランプ大統領は、
「アメリカは、とってもうまくいっていたのに、チャイナ・ウイルスのせいでひどいことになってしまった」
と言って、全てを中国のせいにする一方で、中国という国のあり方も大問題だ。
香港特別行政区国家安全維持法の制定によって一国二制度を事実上崩壊させようとしていることや、米国に対する脅威として、先日も中距離弾道ミサイルを東シナ海に4発も発射した。こういうことをするのは北朝鮮だけかと思っていただけに、中国のこうした態度は見過ごすわけにはいかない。こうしたことが、このコロナ禍で起こっていることは決して偶然ではないのだ。

 その中で、今回は特に人種差別に触れてみたい。たとえば、ブラック・ライヴズ・マター運動も、コロナと無関係ではない。アメリカにおける白人と黒人の間の人種差別には長い歴史があり、今に始まったことではないが、何故あらためてこのタイミングで、これほど大きなうねりとなっているのであろうか?

Black Lives Matterの意味するもの
 5月25日、ジョージ・フロイド氏は、ミネソタ州ミネアポリスで、武器を持たず後ろ手で手錠をかけられた状態で地面にうつぶせにされ、白人警官に膝で首を9分近く押さえつけられて死亡した。
 その情報はまたたくまに全米に拡散され、大規模な抗議運動となって発展した。それに対して、トランプ大統領は、
「Law and Order(法と秩序)を重視する」
と何度も強調しながら、
「(1807年に制定された)反乱法を発動し、連邦軍の投入を含めたあらゆる手段で暴動を鎮圧する」
と語った。

 このトランプ氏の言葉だけ見ると、特別なことはないように思える。ところが、ここには裏があるのだ。このメッセージは、同じように黒人を見下していながら、同時に黒人達に不気味さと恐怖を感じている白人至上主義者たちに向けられているのだ。
 トランプ大統領は、そうした白人の同意と支持を得ようとし、また事実、得ているのだと思う。だから、このメッセージにその臭いを嗅ぎ取っている抗議運動家たちにとっては、許しがたい国家元首の対応と映っているのである。

 そうした最中、さらに8月23日には、家庭内トラブルの通報を受けて現場で対応にあたっていた白人警官が、黒人男性ジェイコブ・ブレーク氏を銃で撃つ事件が起きた。その映像はインターネット上に投稿されているので明らかであるが、銃で撃つ必要性は全くないのに、車に乗り込もうとしたところを背後から7発も撃ったという。
正気の沙汰ではない。

 そうした一連の出来事に対する反応は、思わぬ所にまで広がっている。8月26日、テニスの大坂なおみ選手が、準決勝まで勝ち進んでいたウエスタン・アンド・サザン・オープンの棄権を表明した。8月23日の事件に抗議の意志を示すためであった。
 こうした大坂選手に大会がただちに反応し動いた。大坂選手が棄権を表明した26日の深夜に、ツアーを管轄する男子のプロテニス協会(ATP)、女子テニス協会(WTA)、主催の米国テニス協会(USTA)が、翌日27日の全試合中止を決めたのだ。
 さらにこの3団体は共同で声明を出す。
「テニス界は一致団結して人種差別に抗議する」
その行動に、大坂選手は大きく心を動かされたという。
「大会は、すべての試合を一時休止することを決断してくれました。それが、この抗議に多くの注目を集めることになります。WTAと大会のサポートに感謝します」。
そして、彼女は棄権を撤回し、準決勝に出場した。
 Black Lives Matterと書かれたTシャツを着てコートに入った彼女は、試合だけではない、さまざまな重圧と戦っていただろう。しかし彼女は戦いに勝利した。残念ながら、その時の左太ももの負傷で、決勝に出ることは出来なかったが、彼女の行為に沢山の賛同の声があがった。


BLMのTシャツを着て会場に入る大坂なおみ 出典 毎日新聞

日本人の無意識の差別
 美しい話だ。僕は、こういうことを聞くだけで、もう感動して涙してしまう。逆に、我が国ではこうした美談がなさ過ぎる。忖度の国だから、プロテストの声を上げる人はいるが、結局は「長いものには巻かれろ」とか「寄らば大樹の陰」となってしまう。
 それどころか、こうした行為を、パフォーマンスだと批判する人も少なくない。現に、
「大坂なおみの棄権は是か非か」
といった議論が我が国では起こりかけていたが、第一報に続いて「大会主催者が日程を1日延期し、人種差別に対する抗議の声明を出した」とのニュースが伝えられると、これは、彼女の単なる自分勝手な行為にとどまらず、むしろ“米国で今起こっている社会の大きなうねりの一環”であることを認めざるを得ず、批判の声はただちに消えていったという。
情けない話だ。自分は決して傷つかない安全圏にいて、批判だけしようとする日本特有の現象である。

 大坂選手の偉いところは、きちんと自分で考え、しっかり意思を表明できること。僕は、男女を問わず、こういう人が大好きだ。
「アスリートは政治的発言をするな」
と批判する声もあったというが、彼女はきっぱりと、
「これは人権問題です」
とはねつけている。
彼女は言う。
「自分が勇敢だとは思わない。ただ、やらないといけないと感じたことはできた」
霊的な観点から言うならば、このコロナ禍に、こうした生き方を提示した彼女の行動は、明らかに「世界に足跡を残した」ことになる。

 さて僕は、ちょっと意地悪かも知れないのを承知で、あえて、あることについて日本人に問いたい。
その大坂選手の発した、
「私はアスリートである前にひとりの黒人女性である」
という言葉の中に、もしかしたら違和感を感じる人はいないだろうか?もし、いたとしたら、それが我々にも突きつけられている“分断の一面”である。

 僕は常日頃から、日本人が持っている無意識の差別を感じている。大坂選手だけでなく、たとえばベナン人を父親に持つ身長203センチのバスケットボールの八村塁選手に対してもそうだけど、彼らに対して、
「純粋の日本人だったらいいのにね」
という言葉を何度も耳にしている。
 日本語よりも英語の方が自然で、自分のアイデンティティーを黒人に置いている大坂選手に違和感を感じる感覚って何なんだろう?それは、彼女を「日本人として」認め、受け入れたいのだけれど、彼女の肌の色や、言語や、何よりもアイデンティティーに、日本人的でないものを感じ、抵抗感があるということなのだろう。

 僕には分からない。何で、そんなものにこだわるのだろう。大坂なおみをひとりの人間として、そのまま受け入れればいいじゃないか。大坂なおみの大切にしているものをそのまま理解してあげればいいじゃないか。
 こういうところに日本人の意識の狭さがあるのだ。オリンピックだってね、日本人が金をいくつ取った、なんてことにばっかりこだわっている人がいる。テレビや新聞もそれを煽っている。日本人が2位になったとしたら、
「ああ、残念!」
で終わってしまって、1位の外国人選手が、どの点で2位の日本人選手に比べて優れていたか、ということに関心がいかない。
 “優れた者を称賛する”という美意識は人間にとって必要なもの。日本人にもそれはある。しかし、そこに「優れた日本人のみを称賛する」というくくりが特に強いのが日本人。人間を人種という枠でくくってしまう、ということであり、それは悪ではないのだけれど、すでに差別の温床なのだ。

世界市民という意識へ
 ちなみに、多くの外国人と対等に付き合っている僕には、それが全くない。僕は日本をとっても愛しているけれど、意識は世界市民である。だからよく、
「日本のオーケストラは、世界の水準から見て、どのくらいのレベルなんですか?」
と聞かれるのだけれど、この質問がそもそもナンセンスだと思っている。その時には、こんな風に答える。
「今、世界中どこのオケに行っても、日本人をはじめとして外国人の奏者が沢山いるでしょう。もっと日本のオケにもどんどん外国人を入れて、開かれた感性にならないと、日本のオケの殻は破れないです。日本人だけ集めて、大和魂で外国に勝てるか?なんて思っていること自体が、もう負けてるんです」
 本当は新国立劇場合唱団にも、もっと外国人を沢山入れたいと思っている。ソプラノやテノールのレベルだけ見ると、たとえばバイロイト祝祭合唱団と比べても何ら遜色ない。でも、低音系は駄目なんだ。といっても歌唱レベルが低いのではない。楽器の問題だ。日本人だけ集めると、本当のバス歌手というのがいないから、コントラバスがいないでチェロだけ沢山いるオケのよう。うまい下手の議論以前に楽器が揃っていない。

 今、新国立劇場合唱団にいる唯一コントラバスに相当するバス歌手は中国人。唯一の外国人だ。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の合唱団員だったので英語はペラペラ。彼を入れる時は大変だった。でも僕が押し切った。
「日本語が充分でないから無理だ」
と言われたので、
「僕もドイツ語が充分でないけれど、バイロイトで働いています」
と反論した。
 結局、1年間は様子を見るということで、エキストラ・メンバーで登録し、次の年から正規メンバーである「契約メンバー」となった。本当は即座に契約メンバーとして採用したかったのに・・・・。こんなことばかりだ。アルトもそう。技術はとても高いが、それ以前にフィジカルな問題がある。そして、もしかしたら感性の問題も・・・・。
 つまり、日本人だけで作ると、予定調和で、こういうものが自然に出来てしまうのは分かっているけれど、もしかしたら異分子を入れてみることで、思わぬ可能性が開けるかも知れないのだ。勿論僕は、与えられた素材で最善を尽くしているが、そもそも僕には、日本人ファースト意識というものは全くないわけ。日本人と外国人の区別もない。自分の前には人間しかいないのだ。

 だからね、世界中から、素晴らしい人材を集めれば、世界最高の合唱団を作ってみせる自信がある。今からでもやりたい。

 大坂選手はこう言っている。
「『人種差別主義者』でないことだけでは十分ではないのです。『反人種差別主義者』であることが必要であり、重要なことなのです」
この強さと潔さが、本当は人間である限り誰にでも必要なのだ。その強さがないと、どういうことが起きるかというと、たとえば、話は狭いが、岩手県で、東京から来た人に「帰れ!」という手紙を書く人とかが出てくるんだ。
 これは「東京の人=ウイルスを持っている人」という偏見であり、人間を東京の人と岩手の人とで分けている差別なのだ。
 また、感染してしまった人やグループに対する不当なバッシングもそうだ。天理大ラグビー部からコロナのクラスターが出たということで、その学校からの教育実習生を受け入れないとか、アルバイト先から出勤を拒否されたりすることが起きている。天理大生に対するいわれなき差別である。
人間として恥ずべき行為である。

 新型コロナ・ウイルスは、かつてのペストのように猛毒で、ただちに死屍累々という惨状を招くようなものではないが、むしろその中途半端な弱毒性を通して、非常に陰湿な方法で、こうした我々の弱点を突いているのだ。
 もしこのウイルスが、我々の意識を真実に向かわせ、全ての分断から絆への認識に導くために、あえて神から遣わされたものだとしたら(まあ、そうとも思ってはいないが、メタファーとしてそう考えることは有益だ)、このコロナ禍を単なる(わざわい)だけで終わらせてはならない。

我々は、どんな時でも、人をまっすぐに見なければならない。

Black lives matterの本当の意味
 最後におせっかいな話をします。Black lives matter.という英語の本当の意味、みんな分かっているかな?

 まずlivesを、「生きる」という動詞liveリヴの三人称単数形だと思ってはいけませんよ。これはlifeライフの複数だからね。つまり「生命」あるいは「命」という意味です。wifeの複数がwivesで、leaf の複数がleavesと同じ。
 それからmatterは、名詞もあるけれど、ここでは動詞で、「重要である」という意味。でもBlack livesの後にただmatterと並んでいると、日本人的にはなんか居心地が悪いよね。たとえばBlack lives are very important.とかすると、日本人的にはいいんだけれど、それでは堅くなってしまう。

 matterは否定形で使われることが多く、よく使われるのは、It doesn't matter.という言い方。「別にどうでもいい」ということ。
I don't think I really matter to you.というと、「私のことなんか、あなたにはどうでもいいんでしょう」となる。I matterというのを「私は重要」と訳しずらいのは、日本語のシステムとずれているせいなのかな?
 だからBlack lives matterは「黒人の命が大事」という意味で、この抗議運動の脈絡の中では、「黒人の命だって(白人と同じように)重要なんだ」となるわけです。

ひとつ勉強になったねえ。



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