角皆君の「スキー・Zoom Zoom」

三澤洋史 

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真生会館「音楽と祈り」9月講座
 真生会館の講座がまた9月から始まる。今月の講座は9月24日木曜日10時半から。演題は、「祈り・瞑想・音楽の深い関係」。

 6月7月の、受講者を置いてけぼりにして先走ってしまった超上級編・音楽理論講義の反省を踏まえて、再び「音楽と祈り」というタイトルの原点に戻って、オーソドックスなおはなしとなります。う~~~ん・・・オーソドックスと言えるのか???

 まずタイトルを教えます。
第1部 自分とは何か?
 (1)心~精神~魂~霊について
 (2)私のdéjà vu体験
 (3)自分とは何か?
 (4)瞑想と真我
第2部 モーツァルトの死の年とAve Verum Corpus

 デジャ・ヴなんという言葉が出てきただけで、すでにカトリック教会の施設で話すのにふさわしいかどうか疑問が生まれるかも知れない。しかし体験は体験だ!カトリックの教義がどうであれ、自分としては紛れもない真実の霊的体験であったら、語るに何の遠慮もいるものか!
 また、最近僕が瞑想の生活を送っている間に体験したことと、それに伴って得た、ある“気づき”について述べたいと思っている。それは、少しネタバレすると、仏教系の、いわゆる“禅”と、僕が目指している瞑想との間に、ある時から差異が生まれ、最近でははっきり「別のもの」という意識になってきたということである。
 それは、ひとことで言うと、「自我の滅却を求める」瞑想ではなく、自我は意識しておきながら「霊的な高みを求める」瞑想ということである。瞑想というより、崇高なる世界に意識を向けて集中した“静的祈り”と言ってもいい。それでこそ、キリスト教的信仰と合体する瞑想になるし、もっと大切なことは、これを深めることによって、より音楽家としてのインスピレーションを受け易くなるような気がする。

 第2部では、モーツァルトの死の年、すなわち1791年はじめからモーツァルトの命日の12月5日に至るまでの、最晩年の傑作群のみが持つ“際だった特徴”について述べながら、その中でもとりわけ「小さな大傑作」と呼ばれているAve Verum Corpus(まことの御体)の特異性について、曲を味わいながら、そのどこがどのように傑作なのか、詳しく説明してみたいと思う。

 この真生会館での講座の内容は、昨年の分はかなり新刊の「ちょっと お話ししませんか」(ドン・ボスコ社)に反映されているけれど、最近のものに関しては、これをためておいて、いつかどこかで整理して、もっと多くの人たちに知らせてあげたいなあ。

角皆君の「スキー・Zoom Zoom」
 親友の角皆優人(つのかい まさひと)君が出した電子書籍(Kindle)「スキー・Zoom Zoom:スキーについて語ってみよう」がすこぶる面白い。何が面白いかというと、この本の共著となっている角皆君、沖浦克治さん、佐藤智子さん、そして遠山知秀さんの4人は、それぞれスキーに関わってはいるけれど、全く違った角度からコメントするので、話の広がり方がハンパじゃないのだ。

 こうした角皆君の本の作り方は、今回が初めてではない。たとえば僕が関わった本だけでも、画家の山下康一君との3人の対談で作った「変わった道を歩みたいあなたに」や、宮澤賢治の研究家であって安曇野の美術館「森のおうち」の館長である酒井倫子さんを中心に、曼荼羅作家の小林史(ふみ)さんとの4人の対談本となった、宮澤賢治をテーマにした「イーハトーブを彷徨して」などがある。

 ホントのことを言ってしまうと、本になってみると、
「あれ?これって、僕が言ったことになっているけど、実は山下君が言ったんだよね」
なんていうことが起こっている。実際の対談というのは、本よりずっと曲がりくねっていて、時には脱線したり、寄り道していたりする。それをまとめる段階で、細かい「改ざん??」が行われている(笑)。
 でもね、その改ざんは実に本質を突いていて、要するに、この意見は流れの中でたまたま僕が言ったのであって、僕でも山下君でも、どちらが言ってもちっともおかしくないものなのだ。つまり二人とも、その点については同じことを考えているのだ。そこを見極める角皆君の眼が凄い。

 僕には角皆君と違って、なかなかこういう対談本を出すようなことは出来ないんだ。きっとまだ「自分が、自分が」という自己顕示欲が強くて悟ってないんだね。角皆君は謙虚だから出来る。彼は、自分はホストだと割り切っていて、ゲストの相手達に尊敬の念を持ちながら、それぞれの参加者から最大限の持ち味を引き出し、実にバラエティーに富んだ内容に仕上げているのだ。
 つまり、これらの対談本はみんな、実はれっきとした角皆君の本なのだけれど、それでいて、角皆君ひとりからは出てこない多角的観点からの意見が聞かれる。こういう芸当は出来そうで出来ない。その点において彼は天才だと思う。

 さて、この対談本は、それぞれ4人が、「スキー技術について」や「マテリアル」についてとか、「スキーの基礎と基本について」などという項目の中で語っていく。

 佐藤智子さんは、SAJ(公益財団法人全日本スキー連盟)認定デモンストレーターとして12年も活躍しながら、SAJの推奨しているカーヴィングスキーの指導方法に疑問を持ち、わざわざSAJの役員を辞退して、モーグル・スキーの中に新たな可能性を見出した。
 この経歴を見るだけでも、スキーというものに、とっても真摯に向かい合っている人であることが分かる。僕は、彼女が以前書いた本を読んでいて、遠くからリスペクトを捧げていた。いつか角皆君の紹介で直接お会いして、この気持ちを述べさせていただきたいと思っている。
 あとの遠山知秀さんにも沖浦克治さんにもお会いしている。遠山さんの先日のZoomレッスンは、こういうと失礼かも知れないが、武術家というものから想像もできないほどの高い知性と分析力を駆使して、曰く言い難しというギリギリのところを、本当に分かり易く教えてくれた。
 遠山さんは、太極拳を中心とした中国の武術を極めていて、武術競技の全日本チャンピオンを育てている他、自らが、高校時代には体操選手であったり、大学時代にはトランポリンのインカレ・チャンピオンになったりと、幅広くスポーツの世界を知っている。現在は、水泳、ボウリング選手をも指導している。

 一方、沖浦さんは、ウエイトリフティング(重量挙げ)に近いパワーリフティングの世界チャンピオンで、世界記録保持者である。スキーはスーパーG(マスターズ)の全国大会優勝者である。
 仕事としてはチームレスキューという会社でスキーのワックスを作っているが、これが実に良く滑る。僕もここのところ毎シーズンお世話になっている。この人は、かつてロックバンドでベースをやっており、この対談の中でも、いきなりこんなことを言っている。

「世界のトップレーサーの動きは滑らかで、柔らかく、あまりキビキビしていないように見えることが多いです。
(中略)
エリック・クラプトンというギターリストはスローハンドと呼ばれています。何を弾いても、どんな速いフレーズを弾いても、手の動きがゆっくりに見えるのです。達人の動きには、そんな共通点があるように思います」

 その意見に角皆君が同調し、こう言っている。
「スキーでもステンマルクがそうでしたね。最盛期の彼は、ほんとうにゆっくりに見えました。滑ってくる姿を見ているとスピード感がなくて、決して優勝者には見えないのです。ところがタイムはぶっちぎりでした」

 ほらね、これを読んだだけでも、めっちゃ楽しいでしょう!その他にも、沖浦さんはこんな意見を述べている。

「多くのスポーツの基礎となるスクワットで言えば、重心を落としながらボトム付近でコアを使います。ここで腹圧をあげるために腹部を膨らまします。落としていく重心を止めるために腹圧を上げ、ボトムから挙げるためにいっそう腹部を膨らまして腹圧を上げるのです。ところが日本でコーチングされると多くの場合、ここでお腹をへこめる・・・・ドローイング(Drawing)する・・・・ように教わる場合が多いのです。横隔膜の使い方としては逆の使い方が指導されることになります」

 沖浦さんから「横隔膜」という言葉が出るとは思わなかった。僕は最近まで、腹圧を上げてキープしておくというのは、クラシック音楽の歌唱テクニックであるベルカント唱法でしか使わない方法かと思っていた。水泳を教わった時、「ストロークに合わせてお腹の内臓をみんな肋骨の中にあげるように」と言われていたし、そもそも横隔膜というものを意識するのは、腹圧を上げる時だけだからだ。
 ところが、僕が角皆君と一緒にスキー・キャンプをやるようになって、講演会の中で横隔膜と腹圧のことに触れると、角皆君がただちに僕に反応した。
「三澤君、君の言っていることは、現在のスポーツの最先端技術と共通しているんだ」
沢山の世界記録保持者を生んでいるスタンフォード大学の研究によると、お腹を膨らませながら泳ぐ方が明らかにベターな結果を引き出せること、遠山さんの専門である太極拳や気功の世界でも、同じように丹田を中心に腹圧を意識することが重要だと、彼は言っているのだ。
 それで僕も今は、プールに行ってもベルカント唱法で泳いでいる(笑)。すると、即座にふたつの際だった長所に気付いた。ひとつは、腹圧で支えられているため、体が反ったりせずに体幹が自然に安定すること。もうひとつは呼吸が安定して行えることだ。

 角皆君は(天才だから)なんと、スキーの初心者が必ず通らなければならないプルーク・ボーゲンを通らないで、いきなりパラレルで滑れたんだって!でも、ワールドカップに出るようになった時、いちばん感じたのは、
「おろそかにしてきたプルーク・ボーゲンという技術に復讐されている」
という思いだったそうだ。自分の技術を向上させるために、必要なトレーニングがプルークやシュテムにばかりあることに気付いたということである。
 だから彼は、キャンプなどのスキーのレッスンでも、プルークにこだわり、プルークの精度を上げることに時間と労力を費やす。プルークって普通、「初心者がパラレルに到達するまでの単なる足がかり」くらいにしか位置づけられていないじゃないですか。だから、みんなプルークは下手なのが普通。ところが、ここを矯正することによって、相当高度なレベルにおいても、技術上の欠点が自然に改善されるのだ。
「たかだプルーク、されどプルーク」なのである!

 その他に、かつて黎明期のフリースタイル・スキーヤーたちは、今のようなカーヴィングスキーやツインチップで自由に滑っていたのに、それがFIS(国際スキー連盟)に取り入れられるにつれて、短いスキーが批判の対象になり、190センチのスキーを無理矢理履かせられるような規則が生まれてしまった・・・・とか、権威が自由な発想を駆逐してしまう例など、おお、ここまで言ってしまっていいのか?という暴露本ギリギリのスッパ抜き発言が飛び交うなど、ハラハラドキドキかつ深く考えさせられる話題に事欠かない。

 とにかくみなさん読んで見て下さい。トップアスリートたちの、率直なお話しって、なんて楽しいんだろう!スキーをやる人には必須、スキーをやらない人だって、とってもとってもためになります。

東京バロック・スコラーズの久し振りの全体練習
 東京バロック・スコラーズ(TBS)では、今年3月の「ヨハネ受難曲」演奏会が、来年3月に延期になったが、残念ながら、さらに先に延期を余儀なくされた。何故かというと、そもそも来年のためにすでに予約していた武蔵野市民文化会館のキャパシティでは、通常の場合でも、「ヨハネ受難曲」という大曲の演奏会を行うには、会場の規模も、チケット販売部数から割り出す演奏会会計の点からも、ギリギリかやや赤字という状態であったのだ。
 それがソーシャル・ディスタンスや、ステージ上の演奏者数の制約などが残った場合、団員や演奏者(特に弦楽器奏者)などの数を制限しなければならないし、様々な意味から、充分な演奏内容を聴衆に提示できる保証が得られないと判断したからだ。
 それで、今年「ヨハネ受難曲」演奏会を行った場合に来年に計画していた「バッハとパロディー」演奏会を、オーケストラの規模を縮小して、僕が解説する「レクチャー・コンサート」として行うことに、最近になって決定したのである。

 TBSの練習は、緊急事態宣言後、僕が関わっているどの団体よりも早く、6月10日から再開した。当時はまだ「ヨハネ受難曲」を来年やるつもりではいたが、ダラダラと練習しても仕方ないので、夏くらいまでは「バッハとパロディー」の演目に取り組もうとして、ミサ曲ト長調の音取りから始めた。
 初回の練習場であるティアラ江東のリハ室には制約があって、ソーシャル・ディスタンスを考慮した25人以下だったので、練習の様子は、Zoomでリアルタイム配信して、残りのメンバーは在宅でマイクをミュートして自主的に練習参加ということにした。

 一度、団員達とZoom会議をして、練習のあり方についての様々な意見を伺った。すると、案外団員達はZoomを上手に活用していて、予想したよりもずっと練習のZoom配信が有用だという認識を新たにした。また、仮にリアルタイム配信を観ることができなくても、団からメールで送られてくるURLを辿って録画を観ることもできる。
 これらを皆さんうまく利用しているのだ。手前味噌で言うと、TBSの団員は、そもそも簡単ではない入団オーディションを乗り越えてきたこともあって、音楽に取り組む意識が高く、また、コロナに対する認識も、ワイドショーなどによる“過度の恐怖心への煽り”などには惑わされず、かといって不用心になることもなく、練習に出る場合も、在宅で参加する方達も、それぞれが責任感を持って真摯に関わってくれている。
 僕は、彼らをとても誇りに思っているし、とても感謝している。このあり方が、コロナ禍におけるひとつのモデル・ケースとなってくれるよう祈っていたが、実際に他の合唱団が関心を示してくれて、Zoomのひとりに加わりたいという代表者もいると聞く。

 さて、9月19日土曜日の練習は、僕には初めての浜田山会館という場所で行われた。これは、練習が中断された2月終わり以降、画期的な日となった。僕の行う土曜練習は、これまで幡ヶ谷のスタジオASPIAアスピア・ホールで行っていたが、10:00-13:00の時間帯を二つに分け、前半と後半でメンバーを入れ替えて、同じ内容を2度繰り返して行ってきた。しかし、広い浜田山会館では、入れ替えることなく一度に練習できるのである。
 ということで、久し振りにTBSの量感のあるマッシブなサウンドが聴けた。メンバーにとっても、少人数やあるいは在宅での練習とは、全く違った体験をあらためて味わえたと思う。

 来年3月の演奏会で取り上げる曲は、バッハ作曲小ミサ曲ト長調BWV236と、その元曲となったカンタータ79番と179番。バッハの小ミサ曲の各曲は、ほとんどそれ以前にバッハが作ったカンタータなどから、パロディーとして取り入れられて新構成されている。
 何故なら、カンタータは、その内容のテーマ性により、年間の決まった主日にしか演奏されないが、ミサ曲であれば、その制約がないので、より多くの機会に演奏可能なのである。昔は、録音してCDにして残しておくようなことは不可能だったので、自分の曲を1回でも多く上演して欲しいと思うのは、作曲家なら当然なのだ。
 さらに、パロディーとしてわざわざ取り上げるということは、自分としてその曲が気に入っている証拠である。そのことから結論づけられることは、とどのつまり、小ミサ曲は、それだけで、バッハの珠玉の名曲の集合体ということなのである。

 こうしたことを、僕は原曲のドイツ語につけられた音楽と、ラテン語のミサ曲への転用に際しての変更点などを比べつつ、レクチャーで説明しながら演奏会を進めていこうと考えているのである。
「ヨハネ受難曲」がまた伸びてしまったことは残念だけれど、これはこれで、とっても有意義で、そして楽しい演奏会になります。

2021年3月21日日曜日、武蔵野市民文化会館に於いて演奏会は行われます。



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