茅野での飛沫実験

三澤洋史 

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Zoomレッスンのやり甲斐
 Zoomレッスンが楽しい。それに、今だから出来るんだなって思う。やっぱり自分が現場の最前線に立っている時というのは、人に教えるより自分がやりたいものね。というか、それ以外の余裕がなかった、というのが正直なところ。

 でも、こうしてコロナ禍でいきなり暇になり、自分自身を見つめるようになって、自分の指揮のテクニックも整理してみると、自分がここまでに来る間に、いろんな人から教わり、いろんな人から影響を受け、盗み、反面教師としてあれだけはやるまいと決心し、今に至っていることが分かった。そういう人たちのお陰で現在の自分があるとしたら、自分も、今度は人に影響を与える立場に回るのも価値あることだと思えるようになった。
 さらにレッスンをしてみたら、僕のサジェスチョンひとつで、受講者のやりたいことが、よりはっきりと実際の表現に生かせて、彼らも喜んでくれていることを感じる。

 僕がコロナ禍で、何に深い失望感を覚えたかというと、自分が、あるいは自分たち音楽家が人の役に立っていないということだった。反対に、音楽家である僕たちの“生き甲斐”とは、とどのつまり、自分が演奏することで、誰かが喜んでくれたり元気になってくれたりすることだと気付いた。
 それが、人に教えることによっても得られるとしたら、自分の喜びの世界も広がることを意味する。僕が、ベルリン芸術大学指揮科を一番の成績で卒業することが出来た時、ラーベンシュタイン先生が僕を抱きしめて、我が事のように喜んでくれた。ああした「教師の利他の想い」というのは、自分が行為者として成功した喜びよりも、ある意味、精神的には一段高く、より深い歓びといえるのではないか。

 だから僕は、この分野を開拓することで、この歳になってまたひとつ、音楽家としても人間としても、進歩への階段を登れるような気がする。逆に言うと、新しい体験に浮かれているだけで、まだまだ教師としては新米という意味かも知れないが・・・・。

 あまり急に沢山増えると大変かも知れないけれど、まだ受講者を募集しています。やってみて分かったけれど、レベルが高いからやり甲斐があるというものでもない。それぞれのレベルなりの問題点を見極め、直していくことで、前回出来なかったことが出来るようになった受講者を見ていると、どのレベルでも同じ達成感を感じる。

 だから、初心者でも全然いいよ。今からでも申し込んで下さい。だんだん再開してくる本業に差し支えあると本末転倒なので、あと3人までくらいなら両立できると思う。
早い者勝ちです!  

茅野での飛沫実験
 9月25日金曜日の肌寒い雨の晩、あずさ号に乗って長野県茅野(ちの)駅に降り立った。茅野といったら、いつも白馬などに行く時に、電車でも通るし、中央高速道を妻の車や高速バスなどで通りながら、もうすぐ諏訪湖だなと思う地名。でも降りるのは初めて。
 駅前のどこかの飲食店で、飲まないでちゃちゃっと夕飯を済ませて、ホテル近くのコンビニでお酒などを買い込んで部屋飲み・・・と思っていたが、駅前は予想に反して真っ暗。食事だけのお店はなさそうだし、冷たい雨は案外強い・・・というだけで、気分がくじけてしまって、気が付いたら駅の向かい側の「庄や」に入って、生ビールを注文していた。そして薦められるままにサンマを注文したが、これが小ぶりではあるが安くておいしかった!それから、おしんこと煮込みと、ジャック・ダニエルのハイボール濃いめ・・・・。
 考えてみると、ホテルに泊まるのって、びわ湖ホールでの「神々の黄昏」以来だ。あれが3月初旬だったので、もう半年以上経っているんだ。それからずっと家にいて、孫の杏樹を寝かしつけるのを日課にしていたから、なんとなく独りが淋しい。どうやら、ご隠居生活がすっかり身についてしまったらしい。

写真 茅野市の朝の散歩道
茅野市朝の散歩道


 9月26日土曜日。朝8時40分集合。タクシーで目的地に向かう。今日から2日間、8人の歌手達と共に、ここで歌唱による飛沫の実験に付き合うのだ。タクシーは山の中に入り、上り坂をかなり行って別荘地に入ってきた。この一角に新日本空調株式会社の研修所と研究所がある。

写真 新日本空調の茅野研究所外観
新日本空調茅野研究所

 何故、ここまで来なければならないかというと、ここでないと飛沫が正確に測れないからだ。肉眼では見えないかも知れないが、空気中には実に沢山の微粒子が常に舞っている。その微粒子をほぼ完全に排除することが可能な実験室(クリーン・ルーム)がここにはある。そして、微粒子を計測する機器をあちらこちらに立てて飛沫を計測するというわけだ。
 その計器は、1秒間に1回だけ空気を吸い込んで、微粒子の数だけではなく大きさまで計測出来、データとして残すが、その微粒子が何であるかは分からない。だから、歌唱の際の口から出る飛沫などを正確に計測するためには、他の微粒子が舞わないような環境を作ることが必須となるわけだ。

 その実験のために、26日土曜日は男性歌手4人、27日日曜日には女性歌手4人を呼んであるが、両日とも午前中はひとりの歌手だけを使って別の実験を行う。それは、レーザー光線を使っての飛沫の可視化の実験である。といっても、3D的に見えるわけではない。垂直方向と水平方向とで2回ずつ行う。
(この映像は、我々の実験とは関係ないが、新日本空調による可視化動画の一例
 それを、マスクなし、不織布マスク、ポリウレタン・マスク、歌唱用マスク、そして最近いろんなところで使われているマウスシールドを装着して歌唱するわけだから、歌う方は大変だ。曲は第九のMという個所。
 このレーザー光線による可視化では、飛沫などの量が正確な数値としては出ないけれど、それを見て、飛沫などの飛ぶ範囲や方向が視覚的に分かるという意味では貴重である。現にこの実験を見ていて、ああ、なるほどな、と思ったり、へえ、意外だなと思ったりしたからね。ただ残念ながら、今ここでその印象を軽はずみに述べるわけにはいかない。これは、あくまで僕の印象でしかないから。大切なのは、やはり午後のデータによる計測。

 午後の実験では、いろんなところに計器を設置して、4人の歌手が代わりばんこに、「村まつり」「第九のM」「椿姫第1幕ラストの合唱」を、まずマスクなしで歌い、それから不織布マスクを装着して、それぞれが3曲を・・・・・と、延々と続く。
 それだけならまだいい。そのクリーン・ルーム内の微粒子を除去するために、歌手が入ってから、もの凄く優秀と見られる空調を2分間回し、それから1分間密閉状態で落ち着かせ(この間は歌手はなるべく動かないようにする)、それから30秒歌唱し、さらに歌唱後の飛沫の浮遊も調べるため30秒動かないでいて、それから歌手を交代し、それを繰り返すわけだ。だからつまり、果てしなく時間がかかるわけ。

 この実験は、このコロナ禍における今後の我が国の声楽演奏のあり方に大きな影響を与えるということで、各界の重鎮も同席して実験の推移を見守っていたが、この実験を仕切っている側の最重要な人物といえば、亀田総合病院で集中治療科部長を務めている林淑朗(はやし よしろう)氏に他ならない。
 林氏は、集中治療の専門家として優れているのは勿論のことであるが、ヨーロッパまでオペラや演奏会を追いかけて行くほどクラシック音楽に造詣が深く、このコロナ禍における音楽家や音楽界の実情をすでに充分に理解してくれている。
 僕は林氏に、日頃感じている、マスコミが発信しているコロナ情報への違和感などを聞いてみた。するとやはり、僕がテレビや新聞などに惑わされずに個人的に調べて得ていた情報が間違っていなかったことを確認できて嬉しかった。

 たとえば、僕は彼にこういう問いを発してみた。
「コロナは空気感染するか否かについてどう思いますか?」
「結核、はしか、水ぼうそう、この3つについては、はっきり空気感染すると断言できます。普通に空気中を漂って同室内の離れた場所にいる人にうつります。しかしコロナは、空気中ではそこまでの感染力はありません。主として飛沫による感染です」
「それとエアロゾル」
「そのエアロゾルという言葉ですが、おそらく元々は医学用語ではないので、我々も医学部で習った記憶がありませんし、医師になってからも専門用語として使用した経験がほとんどありませんでした。コロナ禍で急に使われ始めて世の中に出回り、さらにいろいろ間違った使い方をされているので、我々医療従事者の中でも混乱が生じています。エアロゾルとは空気中にある細かい粒子のことで大きさは問いません。」
「よく5マイクロメートルより小さいと聞きますが?」
「本来、粒子の大きさは関係ありません。しかし、コロナの文脈でエアロゾルという言葉が出てくる時、なぜか粒子径が5マイクロメートル未満のとても小さな粒子と誤解する向きがあります。私たちが咳やくしゃみをするとエアロゾルが飛びますが、そのほとんどが粒子径5マイクロメートル以上の飛沫と呼ばれるもので、重いので1〜2m以内の場所に重力に従って落下します。5マイクロメートル未満のとても小さな粒子は、軽いので確かに空気中に、ある一定の時間漂い、もし感染者がいた場合には空気感染のような感染ルートでクラスターが発生する可能性はあります。しかし、そのようなことが起こるのはいわゆる3密の空間です。たとえば換気の悪い狭い部屋で長時間合唱の練習などをすれば、そのようなリスクは高まるでしょう。」
「つまり、PM2.5とか花粉のようには、恒久的に空気中を浮遊してるわけではないということですね」
「そうです」
「では、外にお散歩に出て、人とすれ違ったとしても、お互い無言で通り過ぎるならば、マスクは要らないと言って差し支えないですか?」
「はっきり言って不用です」
「では、あの猛暑の中、熱中症の心配をしながら、ずっと外でマスクをしているのはナンセンスではなかったですか?」
「しかしながら、もし『外出時にマスクは要りません』とアドバイスしてしまうと、外出した人が、そのまま不用心に人が密集する場所に行って、出遭った知り合いとノーマスクでしゃべったり、コンビニや飲食店に入ったりすることもあるじゃないですか。一般の方へのアドバイスはシンプルであることも重要なので『外出する際にはマスクを』と推奨されているのです。」
「なるほど」
ね、とても有意義な会話だったでしょう。

 本当は、国民ひとりひとりにきちんとした判断力があって、ここはこういう理由でマスクは要らない、ここはこうだからマスクを付けるべき、というのが分かっていればいいんだけれど、実際に不用心なだけという人はいるし、その一方で、とっても恐がりな人もいる。

 そもそも日本人の問題はふたつある。ひとつは、こういう場合の「自己責任」という意識が育っていないこと。他人への依存心が強いから、
「大丈夫だって言われたのに、うつったじゃないか。どうしてくれる!」
というマイナス方面の被害者意識が起こりやすい。
 だから政府なども悪い方に言っておく。そうすれば、それほどひどくなかった時には文句が起きないのだ。
「このままでいったら40万人死亡」
と、プロにあるまじき発言をしたって、おとがめなしだけれど、その反対だったら大騒ぎになる。そういう空気だから、「外出する際にはマスクを」と言わざるを得ないのだ。

 もうひとつの問題はもっとやっかいだ。一度「外出する際はマスクを」というお達しが出てしまうと、今度は変に律儀な人が多くて、自分のことだけに構っていればいいものを、価値観を互いに押しつけ合い牽制し合って、マスクを付けない人を批判的な目で見るのだ。そこにはもう、「何故付けるのか」とかいう理由なんて関係ないんだよね。付けろって言われたら付けるんだ、というファシズムがあるだけ。僕たちは人の批判を恐れてマスクを付けている。なんて住みずらい世間だろう。

 音楽ジャーナリストの池田卓夫さんも来ていて、いろいろ話した。彼は、外国人が来れなくなったけれど、このコロナ禍で、日本人のアーチストには頑張ってもらいたいし、実際に頑張っている人もいる。後を振り返って、コロナ禍は、悪いことばかりじゃなかったじゃないか、と言われるように、自分も頑張りたい、と言っていた。僕は、そんな池田さんをとっても尊敬したよ。こういうポジティブな人が今は絶対に必要だ。

 さて、この実験の結果は、3週間後に出るという。それぞれのポジションに置かれた計器からは、単に数字の羅列しか出てこないという。それを取り出し、誰の何の歌のどこで計測した値とか並び直し、さらに様々な解析を行って、最終的に我々が認識できるようにするわけだ。
 林先生はおっしゃる。
「実験でデータが得られても、安全基準があるわけではありませんので、解釈は様々です。今回の実験ではリスクを可視化することに意味があります。リスク許容度は、プロかアマチュアか、団体の特性、価値観、健康状態、年齢などによって大きく変わります。ゼロリスクを求めると社会活動の再開は不可能です。プロの音楽家のように、活動再開しなければ生きていけないのであれば、リスクを知った上でそれを受け入れることも時には必要です。そして、私たちのような専門家は、そのリスクを無くすことはできませんが、可能な限り少なくするお手伝いはできます。」

ゴルバチョフの言葉
 9月25日の朝日新聞朝刊によると、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領が、「試練としてのパンデミックと21世紀の新思考」と題する論考を朝日新聞に寄せた。朝日新聞では、新聞の一面を使ってその要約を載せていたが、全文はA4判で30ページに及ぶという。
 しかしながら不思議なのは、その後インターネットでどこを調べても、全文掲載は探し出せない。紙の新聞ならば、紙面に限りがあるが、ネットならばいくらでも載せられるだろうに・・・・・僕は、ロシア語が読めないので、誰かが訳してくれた全文をなんとかして読みたいのだ!朝日新聞だって、せっかく自分のところに寄稿してもらったというのに、全文載せないのでは失礼にあたるだろう。まあ、そういう生意気な新聞社であることは知っていたさ。

 家では確かに朝日新聞をとっている。でもね、それは朝日新聞が好きで、朝日新聞の言うことを信じているからではない。それどころか、かなり偏った新聞であると思っている。安倍晋三元総理のことなんか、朝日新聞は大嫌いで、そこまで言わなくても、もう少し業績の部分に関しては評価してもいいんじゃないの、と思っていたしね。
 かつては東京新聞もとっていた。両社とも極端で、あまりに言っていることが真逆なのでウケていたが、比べてばかりいるのも疲れた。そこで、どうせ偏っているならば、国民が広く「こうだと信じている」今の情報を知るために、発行部数の多い朝日新聞のみを残しておいたのだ。

 さて、ゴルバチョフ氏の新思考に話を戻そう。この要約だけでも僕は感動した。まだ世界には「良心と良識」とが残っているのだと思って嬉しくなった。僕も同じ事を言い続けてきたけどさ、僕なんかのようなチンピラではなく、こうしたビッグな人があえて語ってくれると、むしろどうして他にこういう意見を持つ人がどんどん出てこないのだと、怒りすら覚えるよ。

 この言葉のどれがゴルバチョフの文章で、どれが朝日新聞がまとめたのか分からないが、それをさらに僕が要約するとこういうことだ。

新型コロナのパンデミックは、現代文明を脅かす新たな試練となっている。
それに対しては言葉も軍事力も効かない。
国境では止められないし、戦いでも勝てない。しかし毎日、人々の命を奪っていく。
おそらく人類は初めて、人間の幸福はみんなに共通している、ということを意識した。それは、国家のレベルを超えたものだ。

今回の危機は、文明が瀬戸際にあることを示している。
人類は包括的な対応を一緒に練り上げる必要がある。
国際協力に踏み出し、より信頼できる国際安全保障システムをつくるために。

パンデミックの試練は、現在のグローバルな不均衡に根ざすもろさをあらわにした。
米国が経済的孤立主義に向かい、英国は欧州連合(EU)から離脱した。
富める国と貧しい国の間のギャップと、拡大する格差は、どの政府も一国では解決できない問題を生んでいる。
パンデミックは、米国と中国の間の緊張の高まりから生じる新たな二極対立を顕在化させ、悪化させた。
二極対立のどのようなシナリオも、国際政治の展望に好ましい要素を見せることはあり得ない。

パンデミックは、対立から協調へと速やかに以降する必要性を改めて問いかけている。
世界は岐路に立っている。
国家のエゴイズムが生み出す本能に追随するのか、あるいは、文明は瀬戸際にあり、新しい世界政治にとって国家の相互の結びつきや相互依存が必要な時だと自覚するのか。

人類の未来は、この選択にかかっている。
 こうした意見に触れただけで、僕の中のDNAが騒ぎだし、感動して涙してしまう。これって、僕が著書「ちょっと お話ししませんか」(ドン・ボスコ社)の「あとがき」で書いたり、カトリック生活の6月号のエッセイで書いたりしたことと完全におんなじじゃない!
 僕ねえ、みんなが本当はこういう考えを心の中に持っているに違いないって、子供の頃からずっと信じてきた。今でも、本当は信じている。
だからこそ、こうした記事を読んで、即座にあっちからこっちから、
「そうだ!そうだ!その通りだ!」
という大合唱が聞こえてこなければおかしいと思うし、何故聞こえてこないんだ、とも思うのだ。

世界は岐路に立っている
対立から協調へ


この言葉をみんな噛みしめようよ!



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