京都「魔笛」の成功と「こうもり」の練習

三澤洋史 

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京都「魔笛」の成功と「こうもり」の練習
 10月28日水曜日午後4時過ぎ。京都のロームシアターでは、園田隆一郎さんの指揮でモーツァルト作曲「魔笛」の最後の和音が鳴り終わった。その瞬間、この公演に関わった全員が、
「無事終わった!」
という感慨にふけったと思う。数ヶ月前までは当然のように迎えた千穐楽が、これほど重要な意味合いを持っていようとは、誰が想像し得たであろう。

 合唱団は舞台上で縦2メートル、横1.5メートルのソーシャル・ディスタンスをキープしつつ歌い演技していた。初演の時にはギューッとかたまったりバーッと広がったりしていたが、そうした動きのアクセントが得られない分、その場所でのひとりひとりの演技に依存するところが大きい。
 それにしても、キャスト&スタッフがこれだけの大所帯なのに、よくぞ一人のコロナ感染者も出さずに、練習から公演まで無事に乗り切ったものだ。勿論、手洗いうがいが徹底させられ、日々の検温が義務づけられ、音楽練習初日から、本番の舞台出演ギリギリまでマスクをつけさせられ、ストレスも感じただろうが、やはりプロだから、本番に出てナンボなんだよね。みんな頑張ってよく乗り切ってくれました。ありがとう!ご苦労様!
 そして、新幹線で東京に帰ってきたが、翌日の29日には、もう次の演目であるヨハン・シュトラウス作曲「こうもり」の音楽稽古が始まった。新しいメンバーも何人かいるため、ゆっくりと言葉を読み、音楽稽古に入っていった。もちろんみんなマスクをつけている。しばらくはこの状態が続くのだろうなあ。でも、頑張ろうね。ひとつひとつの公演を丁寧に成功させていこうね。

バシャールと平和
 時々思っていたことがある。それは、イエスや釈迦は、自分が崇拝されたり礼拝されたりすることを本当は望んでいなかったのではないか?ということだ。そうではなくて、彼らは、宇宙の真実の姿を伝えたくてこの地上にやってきて、
「ほら、あそこに真実があるんだよ」
と指さしたのだけれど、みんなはその指の先を見ないで、
「なんてきれいな指なんだ!」
と、その指を賛美してしまった、という笑い話のような状態なのではないか。

 このコロナ禍において、夏過ぎまでの完全に真っ白になったスケジュールの日々、僕は祈りと冥想に満ちた時間を過ごしていた。それまで、頭にスコアの音符を叩き込んだり、仕事場を往復したり、知的にも肉体的にも多忙な日々を過ごしていたのと正反対に、早朝散歩でもプールで泳いでいる間でも、むしろ僕はなるべく頭の中をからっぽにして、心身ともにピュアーな状態を保とうとした。
 すると、そのピュアーな状態の中にこそ、充実するものが自分を満たしていることに、しだいに気が付いてきた。その満たしているものとは・・・・慈愛である。宇宙は、慈愛で充満しているのである。僕は気付いた。この慈愛を知れば、人々の間に争いなどなくなるのではないか。この慈愛に基づいて行動すれば、世の中に戦争も自然破壊も、自ずと消滅するのではないか。そして・・・宗教すらも、その使命を終えるのではないか・・・と。

 そんなことを思っていた時、偶然、Youtubeでスキンヘッドのダリル・アンカが大声でまくしたてる映像に出遭った。
「とにかくワクワクすることを躊躇なくやりなさい。そうすれば、あなたにシンクロニシティ(共時性)が起こって、あなたは次のワクワクに出遭い、人生が開けていくのです」
これは、オリオン座近くのエササニという星に住む、バシャールと呼ばれる宇宙人からのメッセージだという。
 そういえば、バシャールという名前はいろんなところでよく聞いていた。でも、毎回それは僕の前をスルーしていった。何故なら、僕は、宗教やスピリチュアルなことには興味あるが、宇宙人に関してはこれまで全く無関心であったから。知り合いがUFOを見たと言っても、「へえ」で終わってしまっていた。つまり、ジャンルとしてちょっと逸れていたために視界に入らなかったわけだ。
 その一方で、僕は、イエスや釈迦に限らず、その人の言っていることが真実だと思ったら、それがたとえ乞食であれ、サラリーマンであれ、バルタン星人であれ、関係なく受け入れる。こうして、僕はついにバシャールと出遭ったのだ。

 とはいえ、だからといって「激しく傾倒してこれまでの人生を一変させた」などとという感じではない。何故ならば、僕はこの教えをすでに知っているから。むしろ生まれた時から、僕はバシャールの言っているようなことをずっと生きてきたといえる。

 音楽的環境ゼロという家庭で生まれ、専門の教育などなにも受けていない状態で音楽家になろうと決心し、結果的に指揮者になれたのも、ワクワクを頼りに自分の人生の舵を切ったからだ。後から考えてみると、その瞬間から、自分の人生は、音楽家になるべく回り出したことに気付く。当時、僕なんかより全然音楽的に造詣が深かった角皆君との出遭いをはじめ、数え切れないほどのシンクロニシティが、僕を音楽家にさせてくれたのだから。
 ただ、もしバシャールのような存在にもっと早く出遭っていたら、たとえば、高崎高校という進学校にせっかく入ったのに、一流大学への道を棒に振って、音楽などというわけの分からないものにうつつを抜かしていいのだろうか?とかいう不必要な悩みに苦しまなくて済んだのかも知れないとは思う。
でも、考えに考え抜いた末に、
「やっぱり自分はこの道を行くしかない。なんにもなれなくてもいい。自分の人生だ。後悔することだけはしたくない」
と、自分自身の覚悟を確かめたわけだから、その苦悩自体は、むしろ僕の魂を磨いてくれたという意味で貴重なのだ。いずれにしても、人生全てに意味があるということだ。

 さてその後、ダリル・アンカのYoutubeを観たり、本を買ったりして、バシャールの主張に精通してくるにつれて、僕は、自分の中に眠っていた様々なスピリチュアルな要素に、あらためて目覚めてきた。
 たとえば、この世はまるで夢みたいなものだという意見。それはすでに何度かこの「今日この頃」でも僕は言っているが、この世は、ある意味バーチャル・リアリティのようなものだと僕は気付いていた。
 人は、自分に降りかかっている運命など変えられないように思っているが、世界は全て釈迦の言う「縁起の方」に支配されていて、自分の行ったことが必ず何らかの形で自分に還ってくるのだ。自分がポジティブなアクションを起こせば、ポジティブなものを引き寄せるし、その反対も真なりということである。世界はフレキシブルなのである。

 また、バシャールは、時間というものは一種の幻想だと言っているが、それに対しても、僕にはそもそも抵抗感がない。何故なら、何度も経験しているデジャブDéja vu(既視感)というものを通して、“自己”というもののエッセンスは、時間というものの制約の外に存在するものであることを知っているのだ。
 そしてその自己は、たった今において、無限の創造者であり、現在の行為が新しい未来を創り出していく。そして過去をも塗り替えていく。だから、過去のトラウマに悩まされる必要は全くないし、自分の前には無限の可能性が広がっているのである。

 バシャールは新しいことも教えてくれる。この宇宙には沢山の知的生命体が存在している。それらは互いに異なった波動あるいは周波数を持っているため、我々が肉眼で見ることが出来なかったりもするが、意識が高くなればなるほど、物質的なものから意識が離れていって、ある意味霊的になってくるという。
 すなわち、コミュニケーションをとるのも、実際の言語よりテレパシーのようにものになるだろうし、我々が認識している空間とは違った空間性を認識するだろうし、肉体も、より精妙な肉体をまとうだろうし、もっと意識が発達すると、そもそも肉体というものを必要としなくなる、ということだ。
 反対に、今の地球の物質文明は、まだまだ宇宙全体からみると重く低い波動を持つ文明だということだ。それは、「まだ戦争なんてしている」という、他の星の住人があきれるくらい原始的レベルなのだ。何よりユニークなのは、赤ちゃんとして生まれ、天上界との交信がない状態で、老化などで一生を終えてから、
「どのくらい天上的価値観に従って生きたか」
などと採点される、という、独特の設定を採用しているということだ。

 不思議なことに、僕は、こうした全てのことに全く抵抗感無く納得出来るのである。それどころか、あるとっても大切なことに気が付いてしまった。それは、釈迦が何故、あの壮大な法華経を説く時に、
「これまで私が解いた法は全て方便であった。これから本当の秘法を説くぞ」
と言ったかということの謎が解けたのだ。

 それはすなわち、悟りを開いた釈迦の覚醒が、年を重ねる毎にどんどん深まっていき、恐らくこうしたバシャール的な宇宙の法にまで開眼したのではないか。そして開眼してみると、釈迦やキリストなどは、この地上に於いては最高の霊的存在であり、救世主に違いないが、大宇宙を見渡してみると、まだまだ上には上がいるということに気が付いたのではないか。
 ああ、やっぱりそうか。だから僕はずっとおかしいと思っていたのだよ。法華経が壮大な宇宙観を持っているからといって、その意味も分からずに、ただその法華経に帰依しようとして「南無妙法蓮華経(法華経に帰依します)」と唱える日蓮宗系の勤行は、それだけでは意味ないのだ。釈迦は、その悟りの深さによって、阿弥陀如来などをはじめとする沢山の霊人たちと、宇宙的な広がりの壮大な霊的ネットワークを組んでいたのだろう。
 ネットワークといえば、イエスだって、十字架につけられる頃には、かなり悟りが進んでいた可能性がある。マタイによる福音書の17章に書いてあるような、高い山での輝ける変容の姿だって、もしかしたら過去に生きていたモーセとエリアとの語らいではなくて、波動の違う霊的存在との交信であったともいえなくない。イエスの口から、それがモーセとエリアだったとは語られていないからね。

 バシャールは、
「私を礼拝するな」
と強調する。
「私が言うことに従って生きてくれればもうそれでいい」
としつこく言う。とても謙虚だと思う。
 かつて、仏陀やキリストも、きっと自分が礼拝されるなどとは望んでなくて、むしろ真実を伝えようと必死で、
「あそこを見て下さい」
と、人差し指で真理の方向を指し示したのだと思う。それなのに、人々は真理を見ないで、むしろ救世主の人差し指を眺め、
「なんて美しい指だ!」
と、これを礼賛し崇め奉ってしまった。
こうして宗教が生まれ、仏陀やキリストが“信仰の対象”になってしまった。
 一度宗教となってみると、他の宗教との間に軋轢が生まれ対立が生まれた。そして、気が付いてみたら、人類は、宗教の名の元に「互いを殺し合う」という愚行を繰り返している。
だから最近の僕は、
「これからはもう宗教の時代ではないなあ」
と思っていたし、この「今日この頃」でも何度かそう述べていたのだ。

 まだまだこの地球上は、
「人がしあわせになるためには、苦しまないといけない。苦労し、嫌なことを我慢して生きていかなくてはならない」
という先入観に支配されている。
 僕は最近どんどん、早くみんなが、ワクワクに従って生きることに目覚めてくれないかなあと願っている。バシャールでもイエスでも仏陀でも誰でもいい。それらを信じて、世界が平和になってくれさえすればそれでいい。みんなが仲良く生きる。なんでこんな簡単なことが、いつまで経ってもできないんだ。人類は。

 

スキーZoomレッスン無事終了
 最近の一番の「謎のワクワク」はスキーだ。2009年から突然スキーにハマって今日に至っているが、何故自分はこんなにスキーにワクワクするのだ?何故こんなにスキーに駆り立てられるのだ?と思いつつここまで来た。

 その結論はまだ出ていない。でも、昨日(11月1日日曜日)の角皆優人(つのかい まさひと)君のF-styleが主催するZoomレッスンで「スキーと音楽の深い関係」についてお話ししたら、スキーをしていなければ決して得られなかった出遭いの不思議さに驚かされた。
 そのZoomレッスンに、講師側から参加してくれたスキーヤーの佐藤智子さん、スイミングの高橋大和さん、パワーリフティングの沖浦克治さんなど、僕が本を読み、共感している人たちばかりで、後半の質疑応答から楽しい語らいに発展した時間が、実に有意義であったのだ。

 佐藤智子さんは、全日本スキー連盟公認デモンストレーターとして長い間活躍していたにも関わらず、近年のカーヴィングスキーによる指導体制に疑問を持ち、全日本スキー連盟及び新潟県スキー連盟役員を辞退し、モーグルスキーの基礎をあらためて学ぶことで、スキーの根本を見つめ直したという勇気あるスキーヤーである。僕は、彼女の著書を読んで、とても感動した覚えがあるのだ。


 高橋大和さんは、角皆君たちと共著で書いた「スイミングの科学」(洋泉社MOOK)で、第2章の「平泳ぎを科学する」を受け持っていて、キックする直前に「お尻を後ろに下げる」という独特のアクションを主張している。でも僕は、彼の理論に従うことで、自分の平泳ぎの精度をずいぶん上げることができた。


 こうした人たちとの出遭いを、スキーへのワクワクが導いてくれたとしたら、それだけで人生素晴らしいではないか。実際のZoomレッスンでは、予想に反して、集まってくれた人たちが、音楽よりもむしろスキーに造詣が深い人たちばかりなので、別の意味でちょっとビビったが、とても和やかな雰囲気の中で、僕自身も伸び伸びとお話しが出来たので、今はホッとしている。

 これらの人たちと、今後どのような関係を築いていくことができるのか、僕自身またまたワクワクしながら来たるべき未来に希望を託していこうと思っている今日この頃です。



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