「こうもり」初日レポート
11月29日日曜日。喜歌劇「こうもり」初日の幕が開いた。ここのところ新型コロナ・ウイルス感染者がどんどん増えてきているので、全員無事で初日を迎えること自体が奇蹟のように感じられ、感謝の想いでいっぱいである。
結構客席を埋め尽くしている観客は、とても反応が良く。数々のギャグにもウケて笑ってくれる。我々当事者が驚くほどだ。スタッフと話していたんだけれど、みんなやっぱりこうした笑いに飢えていたのかも知れない。
何か少しでもハメをはずそうとしたら、シビアな視線にさらされるようなコロナ禍で、ひとりひとりが窮屈な思いを強いられていたのか?だとしたら、こうした喜歌劇も存在意義があるというものだ。
第2幕後半で、「みんながDu(君)で呼び合って友達になろう」というDui-duという個所があるが、客席後方の監督室から赤いペンライトで合唱団のフォローのために指揮していたら、なんとなくウルウルしてしまった。
「そうさ、今は断絶ではなく、融合し、友愛を育む時なのだ。みんなが心でつながり合う時なのだ」
喜歌劇もね、馬鹿にしたもんじゃないぞ。人をハッピーにさせるという意味では、とっても波動が高い空間を作り出しているのだ。
新国立劇場でこの先、12月1日(火)、3日(木)、5日(土)、6日(日)と4回公演の後、札幌に行って札幌文化芸術劇場 hitaru で13日(日)と15日(火)と2回公演。どうか最後まで、みんな元気で頑張れますように!
それで、あわよくば、札幌公演の間のオフの14日には、テイネ・スキー場に行けますように・・・あれ?
アメリカ選挙の行方
今頃になってどうして「桜を見る会」の問題が再燃されているか分かりますか?それは、ある大事な事件から、大衆の目をそらすためだと思う。あるいは、今、新型コロナ・ウイルスの感染が拡大しているが、そのニュースも(こちらは意図的ではないかも知れないが)、テレビや新聞にとっては、好都合なのだと思う。
これまでにもありましたよね。よく芸能人が麻薬で捕まったりとかする事件。そんな時には決まって、陰でもっと重要なことが起こっていたのだ。メディアというものは、通常は情報を流すものなのであるが、しばしば意図的に情報をコントロールして、都合の悪い情報を流さないという事があるのを、我々は分かっておいた方がいい。つまり、我々一般人は、メディアによってかなりあざむかれていると考えていい。
さて、アメリカ選挙の話をする。
「え?それはバイデン氏の当選で決着が付いたでしょう」
と思っている人は、是非次のYoutubeを開いてみてください。
シュタイナー教育から壮大な文明論に・・・
孫の杏樹の通っているシュタイナー学校で行われている授業を見ていると、自分が子供の時、こんな学校があったらどんなにか良かっただろうかと、うらやましさでいっぱいだ。
小学校の頃の僕は、授業がつまらなくていたずらばかりしていて、しょっちゅう先生に怒られていた。僕には、学校でやっていることといえば、面白いことをわざとつまらなくしているとしか思えなかった。きちんと取り組めば、どんな科目でもワクワクできるものを、授業では、まずその芽を丁寧に摘み取ることから始める。
「いいか、世の中は、つまらないこと、辛いこと、苦しいことを我慢してやることに価値があるのだ。学校では、まず楽しいことを全て手放して、つまらないことを淡々とやる癖をつける。その中で一番忍耐強い者が社会の勝者となるのだ」
という価値観で、世の中が成り立っていると大人達誰もが信じているようであった。
僕は、そんなことまっぴらごめんだと思ったが、周りを見回しても、誰もそれに疑問を投げかける者はいなかった。みんな、学校ってそんなもんだと思っていたし、どの生徒もタニシの腐ったような目をして勉強していた。
それでも知育偏重教育の恩恵を被って、そんな不真面目な僕でもバカにされるどころか結構ちやほやされた。テストをやると、僕は誰よりも良い点を取ったから、みんなもそうだけれど、先生ですらも一目置いてくれたのだ。悪い気はしなかったが、そのこともバカバカしかったねえ。
そうした公立小学校のやり方から見ると、シュタイナー教育の学校では、毎日遊んでいるように見えるだろう。でもね、それが素晴らしいんだ。シュタイナーがこの時期で目指していることは、少しでも早く読み書き計算が出来たり知識を詰め込むことではなくて、むしろ将来、学問に正しく取り組み、エンジョイできる人間になるための素地作りをしているのだ。
たとえば、ひらがなの「あ」という字を習うとする。杏樹が学校から持ち帰ったエポック・ノートを覗くと、「あ」の字が埋め込まれたクレヨン画が何枚もあったりする。風景の中に「あ」が溶け込んでいたり、いろんな色を使って「あ」を虹の絵画のように描いているのだ。
また杏樹が家でやってみせてくれたけれど、「あ」の字を、足を使ってオイリュトミーのフォルメンのように歩いたり踊ったりしている。つまり「あ」というものを徹底的に味わうのである。
また、歌を歌いながらお手玉を足の間にくぐらせたり、折り紙を使って30面体のような複雑なものを作ったりしている。
「宿題だよ。家族も一緒にやるんだって」
と言われて、僕たちも巻き込まれて、踊ったり歌ったり、お手玉をさせられるが、いやいや、遊びどころか、やっていることはかなりガチです。
こうしたことは、公立小学校的には、足踏みしているように見えるかも知れないが、やがてある時に、しっかりした結果を出すと言われているし、僕も見ていてそうなるに違いないと思う。
話は変わるが、僕は東京藝術大学で10年以上、オペラ科で教えていたり、声楽科合唱の授業を受け持っていたりしたが、芸大生特有の現象を目の当たりにして驚くことがよくあった。
それは、あんなエリートばかり集まっているのに、学年の半数以上の生徒がやる気がないのである。その反面、芸大でトップクラスの学生といえば、プロになれる可能性は確かに高いので、先生も褒めるし、学生も生意気でプライドを持っている者が多い。つまり、学生が完全に二極化していて、もう3年生ともなると、人生の結果が見えたとあきらめてしまう生徒がバラバラと目立つようになるのだ。
要するに何が言いたいかというと、我が国のエリートの中には、上昇志向だけで頑張ってきた人が少なくないのではないか。彼らが求めてきたのは、人からの評価。極端な言い方をすると、「評価されるために一番いろいろを我慢した忍耐強い者」が上位を占め、勝ち組の仲間入りできるのかも知れない。
その証拠が、芸大生なのに、自分の将来に可能性がないと分かるやいなや、すっぱりと諦めてしまう生徒がいることだ。ええ?人に誉められなくったって、これまでに、自分なりのかけがえのない日々があっただろうに・・・歓びだってあっただろうに、そんな簡単にあきらめられちゃうの?と言いたい。
コンクールで優勝する人にもそういう人が少なくない。頑張って頑張って、上ばかり見てきて、優勝して、さてどうする?となった時に、自分の中に語るべきものがない。目の前にニンジンをぶら下げてくれる人がいない。というか、ニンジンは自分でぶらさげるものだということに気付いていない。ニンジンはワクワクだ。自分の中から溢れ出てくるものだ。
もう聴かせる相手は審査員ではない。技は技だけでは意味を持たない。一般の聴衆が望んでいるのは感動だ。そのためには、自分自身がその音楽の中に、自分だけのかけがえのない感動の世界を持っていなければならない。演奏家は、音楽を通して“本当の内面”に到達して初めて、それが普遍的な説得力を持つという真実を知らなければならない。
シュタイナー教育は、まずそれぞれのワクワクを見つけることから始まる。今の社会常識からはかけ離れているかも知れないが、これぞ教育の原点かも知れない。そうやって考えていたら、いろいろなことを思い出した。
高校一年生の時に、親友の角皆優人君が言っていたこと。
「受験勉強って何だ?なんのために僕たちはこんなことをするんだ?良い大学に入って偉くなるんだって?勉強が出来ることが人格を高めるというのか?逆かも知れないじゃないか。勉強が人格を歪めさせ、人間性を破壊することだってあり得るだろう」
群馬県一の進学校で、こんなことを言ってる奴がいたんだぜ。考えられないよね。でも、今だから僕は言い切れるね。彼の思っていることは正しかった。今のこの地上では、極端な知育偏重主義が蔓延しているのだ。それは害悪ですらある。
まず頭が良くなければ何も始まらない、とみんなが思っている。だから、なるべく幼少の頃から頭に知識を詰め込んで、ヨーロッパだったら飛び級が素晴らしくて、一番成績の良い順から一流大学に入って、一流企業にはいって、社会のトップに躍り出て勝ち組に入る・・・・ところがさあ・・・蓋を開けてみたら、そうでもないことが少なくないよね。
頭だけは良いけど気が利かない人とか、いくらでもいるし、社会で成功している人が、必ずしも学校時代にトップクラスだったかというと、関係なかったりもする。
いや、知性の牙城である研究者や学者だって、学校時代むしろ劣等生だったなどという人がいるよね。そういう人たちはみんな、人生のどこかで、学校でのつまらない勉強から、本当の“学問”へとシフトした時があったと思う。断言するけど、自分のやっていることにワクワクしない人は決して一流の学者にだってなれないからね。
また、長い期間に渡って人々の尊敬を集めている人には、必ず、知性の他に、豊かな感性とか、包容力とか、判断力とか、いろんな要素がある。要するに、現在の学校教育で教えられることというのは、その内のごく一部なんだ。学校の勉強だけからは何も生まれないってことだ。
人智学の創始者であるシュタイナーの思想は膨大で、思想家、哲学者、神秘主義者に始まり、教育、社会改革論者、農業、医学、建築、芸術と多岐に渡って独自の理論を展開している。その著書はみんな難解であるが、今回ちょっと家にある本を紐解いてみたが、「あれれ!」と思った。
あのねえ、こんなこと言うと、シュタイナー主義者に怒られてしまうかも知れないが、「アカシャー年代記」ひとつとっても、言っていることがバシャールに似ている。まあ、これ以上言うと、いろいろ問題も起きるからやめておくが、どうも今の地上の現代文明というものそのものが、教育だけではなく、全ての分野において見当違いの方向に発展してきているような気がする。
だって僕たちは、ピラミッドが何のためにあるのかすら分かっていないし、電気以上に頼れるエネルギーを持っていない。チャクラの存在も眉唾的なもの以上の意味を持たないし、シンクロニシティがあることも信じていない。その点では、恐らくレムリアやアトランティスの時代よりはるかに退化しているといえる。
また、宗教ですら何の権威も持たないし、むしろ世界の断絶の原因を作っている。いまだに、僕たちの世の中からテロや戦乱の危機は去って行かないし、各国はエゴイスティックなポピュリズムを推し進めてばかりいて、特にこのコロナ禍においては、差別や排除や分断をますます推し進めている。
人類は、なんという野蛮人なのだろう!
頭だけ良くったって何にもならないではないか!
あーあ、日本中の学校がみんなシュタイナー教育を取り入れればいいのに!