ヴァイグレと仲良し

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

歩道橋の上から拝む富士山
 みなさんにとっては何でもない画像かも知れないが、これは今の僕にとってはかけがえのない風景だ。孫の杏樹が立川にあるシュタイナー学校に行く時、彼女を送っていく妻や長女の車に便乗して、僕は日野橋近くの駐車場まで行く。そこから彼女たちと別れて、家までの距離を散歩コースとするのが日課となっている。
 ある時は、日野橋を渡って向こう岸の土手を行き、石田大橋を逆に渡って帰ってくるし、ある時は、そのまま中央高速道路の近くののどかな田園風景の中を歩く。しかし、散歩の最後はいつも決まっている。甲州街道から国立府中インターに入るためのT字路に架かる歩道橋を渡る。そこから見える富士山を、両手を合わせて拝んでから家に辿り着くのが日課となっている。

 キリスト教的に考えると、そういうのは偶像崇拝というのだろうか。しかしながら、教義はともかくとして、芸術家としての僕は自分の感受性を大切にする。富士山を見ると、常にその崇高な姿に心打たれるのだ。その感情の何処に偽りがあろう。
 最近、バシャールの本を読んでいたら、日本における最大のパワースポットとして富士山が挙げられていた。さらに富士山の近辺には沢山の異界への入り口があるという。ピラミッドもそうだけど、あの三角形や円錐形というフォームにスピリチュアルなパワーが宿るということである。

 まあ、それもどうでもいい。とにかく僕は、誰が何と言おうが富士山が大好きだし、富士山を毎日眺められる所に住んでいることに限りなく幸福を感じている。そして毎朝、散歩の最後には心の中でこう祈っている。
「今日も富士山の気高い姿からエネルギーをもらうことができました。ありがとうございます!一日頑張ります!」

写真 歩道橋の上からみた青空に頭を突き出した富士山
歩道橋の上からの富士山

真生会館1月の講座はYoutube配信
 真生会館「音楽と祈り」講座に参加されているみなさん!緊急事態宣言を受けて、またまた真生会館の講座が中止となってしまいました。しかし、あきらめてはなりません。むしろ朗報です!
 真生会館からは中止のお知らせと共に、次のお話しをいただきました。
「昨年は先生のご厚意でYoutubeを立ち上げていただき、普段受講できない遠方の方にも楽しんでいただくことができました。もし、また動画を立ち上げてくれるならば、今回は通常の受講料のお支払いを検討しております」
 なんというありがたいお言葉!とっても嬉しいです。しかし、本当のことを言うと、僕はお金なんか要らないんです。これは仕事というより僕のミッションなのだから!おそらく今回も、頼まれなくとも勝手にYoutube画像を作ったと思うよ。
 ただね、お金を払ってくれようという気持ちが嬉しいじゃないですか。やるよ。やりますよ。喜んでやっちゃう!

 ただね、昨年は完全な失業状態で時間が有り余っていたが、今は「トスカ」と「タンホイザー」が同時進行しているだけでも、あの時とは忙しさが違う。録画はもう始まっているが、編集や最終アップには、通常の講座と違って、もう少しまとまった時間が必要だ。
 本来の講座は1月28日木曜日だが、それまでには恐らく間に合わない予想。とかいいながら、27日水曜日にはガーラ湯沢に滑りにいくんだけど・・・・ま、それは置いといて・・・。
 28日は、14時から「トスカ」の本番。翌日の1月29日金曜日の午前中には、イタリア語のレッスンが入っていたのだけど、これを28日午前中に移してもらった。そうすると29日は1日きれいにオフとなるわけ。ここで集中的に編集してアップまでもっていくんだ。早朝から深夜までかかったっていいんだ!

 ということで、真生会館「音楽と祈り」Youtube講座は、1月29日金曜日(夕方までかなあ)に発表となります。 恐らく「三澤洋史」「真生会館 音楽と祈り2021年1月」「音楽と祈りPart 1」及び「音楽と祈りPart 2」などの検索で引っ掛かってくると思います。

待ってて下さいね。必ずやりますから。

 テーマは二つあって、ひとつのファイルにするとYoutubeでは長すぎるため、今回はPart 1とPart 2に分けようと思っている。

 Part 1のタイトルは「置かれた場所で咲きなさい」。あれっ?と思う人はいるでしょう。そうです。これは、ノートルダム清心学園理事長を長らく務めた、シスター渡辺和子さんの著書と同じタイトルです。
 このタイトルが素晴らしいよね。というか、このタイトルだけで、信仰者の生きるべき全ての道が示されているようで、本を読まなくともいいくらいだ(コホン・・・失礼!)。いや、勿論この本の中身も素晴らしいのは言わずもがな。

 Part 1の前半、すなわち第1章は、このタイトルの理由となった原詩のBloom where God has planted you.を読み上げて訳したりしながら、ちょっとハードな信仰者論を説きます。すなわち、信仰者であるならば、アスリートのように自分を律して、哲学者のように人生の意味を探求し、芸術家のように人生を解き明かし、少なくとも信仰者じゃない人たちが、
「なんか私たちと違う。この原動力は何なのだろう?」
と不思議に思うような生き方をして欲しいのだ。

 後半の第2章では、「瞑想のすすめ」という内容の話をする。これは、すでにリアルな講座では夏から冬に至るまでの間で何度か受講者を前に話している内容ではあるが、いちどまとめて語って、どこかに残してみたいと思っていた。
 カトリック教会は、瞑想と近い関係にあって、それは聖堂の空間を大切にすることと密接な関係にある。秋川には神冥窟(しんめいくつ)というイエズス会の司祭が建てた禅堂があるくらいだ。
 コロナ禍で、毎日が暇だった初夏から夏の終わりまでの時期、僕はほぼ毎日立川にある柴崎体育館に泳ぎに行き、その帰りにカトリック立川教会に行って、数十分の瞑想をして帰ってくるという日々を送っていた。
 最初は禅の作法に従って行っていたが、どうもいろいろに違和感を感じて模索したあげく、「すべてを無にする」という禅とは違う「キリスト者としての瞑想のあり方」に自分なりに到達した。しかし禅を拒否するのではもちろんない。今でも聖堂の中で結跏趺坐(けっかふざ)しているし、邪念を払うまでは禅と一緒だ。
 ただその先、自己も滅却するというのでは元も子もないと思うのだ。むしろ心の奥底の核の部分を成す、“真我”と呼ばれるものに目覚め、そこに意識を集中する。すると、愛や寛容や自由に対する覚醒が訪れる・・・これ以上聞きたい方は是非Youtubeを観て下さい。

 Part 2は、「ミサ曲を指揮と共に歌う」という内容だ。教会の聖堂では、もう1年近く聖歌が響いていないだろう。信徒のみなさんも、歌っていないだろう。そこで、この際だから、僕の指揮に乗って一緒に髙田三郎のミサ曲を歌おうよという意図で、家族に手伝ってもらってミサ曲と主の祈りを収録した。これからその解説映像を収録する。
 たとえば「栄光の賛歌」などは、聖堂ではノビノビになってしまって、本来の曲の前に進むエネルギーが表現できないだろう。だから、作曲者の本来の意図というものを探求しながら、適切なテンポ感で演奏してみる。みなさん、僕の指揮と共に、楽しく聖歌を歌いましょう。  


プッチーニの大傑作「トスカ」
 1月21日木曜日は、新国立劇場で「トスカ」の最後のBO(Bünen-Orchester Probeつまりオケ付き舞台稽古)だった。実質的には、衣装メイクや照明など全て本番と同じ「ゲネプロ」(General Probe総練習)だが、場合によっては、指揮者が途中で止めたり、終了後、返し稽古が出来たりするという意味合いから、あえてBOと言っている。

 合唱の場面では、客席後方のガラス窓のある監督室(金魚鉢と業界では呼ばれている)から、合唱団のために赤いペンライトでフォローの指揮をしているけれど、それ以外の個所は暇だ。その日は観客がいないので、客席でじっくりと観た。

 これまで数え切れないほど観てきた「トスカ」。曲の隅々まで知っている。でも今回は、まるで初めてこのオペラを発見したかのように心奪われ、感動した。最近、こうした想いを持つことが多い。コロナ禍で全てがなくなった日々の後、ひとつひとつをかけがえのないものとして再認識することばかりだ。むしろ、今までどうして「当たり前のもの」として無感覚でいられたのだろう?その意味では、まさにコロナのお陰かも知れない。

 「トスカ」は紛れもなくプッチーニの最高傑作である。音楽とドラマとがこれほどまでに高い緊張感を持って融合した例は他にない・・・・といえば、
「あれ?三澤さんが好きなワーグナーは?」
と言われそうだが、ちょっと待って下さい。だんだんに説明していくからね。

 「トスカ」の物語は、ワーグナーの楽劇とは違って分かりやすい。というより、朝のワイドショー的な、言ってみれば下世話な内容といってもいい。ナポレオンの台頭がからんだ政治的要素もないではないが、それは物語に緊張感をもたらすための背景を形作っているに過ぎない。それ故に、大衆の人気を掴みやすい。
 また、プッチーニは、女性を描くことに徹している。トスカという歌姫は、「敬虔だけれども、気性が激しく嫉妬深い」女性。そのトスカを横恋慕しているローマの警視総監スカルピアは、彼女を得るためならば手段を選ばない悪党。このふたりが縦糸と横糸になって繰り広げる物語だから、どうしたってドラマチックにならざるを得ない。

 ドラマと音楽との比類なき融合を成し遂げるためのノウハウを、プッチーニは確かにワーグナーから学んでいる。しかし、ワーグナーとは意識的に袂を分かつポイントがふたつある。
 ひとつは短いこと。愛の場面ひとつとっても、ダラダラと20分も同じところで二重唱を繰り広げたりはしない。ストーリーもタッタカと進むが、音楽もしつこくなく快適に運んでいく。だから、プッチーニのオペラはワーグナーの楽劇よりずっと上演時間が短いし、聴衆は最後まで集中力を失わずに聴くことが出来るのである。
 もうひとつは、ライトモチーフ的管弦楽の扱いをするが、ひとつのモチーフにひとつの意味合いを与えたりはしない。何故なら、ワーグナーがいちいち意味のあるライトモチーフを歌詞に従ってあるいは情景にしたがって演奏すると、それぞれに時間がかかるため、リアルな芝居空間とズレることによってかえって自然性が失われるのである。
 この点においては、リヒャルト・シュトラウスも同様だ。管弦楽が雄弁にドラマの背景を運んでいくのだが、それに乗った歌手達の朗誦風の歌は、演劇のようなスッキリとした時間枠に収まって進行していくのである。
 第2幕のトスカとスカルピアのやり取りも、もしワーグナー風の冗長な音楽で彩られたら、あの緊張感は出ないだろう。まさに、その辺が「いいとこ取り」の天才、プッチーニのプッチーニたるゆえんなのである。もちろん、それはワーグナーの価値を下げるものではない。ワーグナーのあの長さも重厚さも、僕はこよなく愛しているからね。

 1月23日土曜日。「トスカ」は無事初日を迎えた。ダニエレ・カッレガーリの職人的な手堅い指揮が、ドラマを盛り上げていき、大成功に終わった。どうか、この素晴らしい公演が千穐楽まで貫かれますように。  


ヴァイグレと仲良し
 「タンホイザー」の立ち稽古が進んでいる。昨日はマエストロのセバスティアン・ヴェイグレ氏が稽古場に現れ、昼夜の立ち稽古を指揮してくれた。ヴァイグレ氏は、我が国では読売日本交響楽団の常任指揮者として知られているが、フランクフルト歌劇場の音楽総監督であり、バイロイト音楽祭で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」も指揮している著名なオペラ指揮者でもある。
 彼がベルリンのハンス・アイスラー音楽大学で勉強したと聞いていたので、
「僕もベルリンで勉強しましたよ。でもハンス・アイスラーではなくて芸術大学の方です」
と言ったことがきっかけとなって、話が弾んだ。
「私は指揮者には別に興味がなかったんです。ホルンをずっとやっていて、シュターツ・カペレ(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)で吹いていたんです」
と言うから、
「ああ、Musikerだったんですね」
と言ったら、めちゃめちゃウケて、
「あはははは、そうそうMusiker!」
と返してきた。
 この意味分かるだろうか?それはね、Musikerというと、普通「奏者」という意味に使われるのだけれど、本来は「音楽家」という意味なのだ。つまり、皮肉的に言うと、指揮者というのは「れっきとした音楽家」ではないのに、本物の音楽家Musikerに対して上から目線で偉そうに仕切る存在でしょう。だから僕が、ホルンを演奏していた彼をあえて「音楽家」と言ったことにウケたわけだ。
 勿論僕はそういう裏の意味で言ったわけではないのだが、彼がウケた瞬間に、
「ああ、そう取ったのだ」
と分かったわけ。彼は彼で、僕のことを冗談の分かる奴と理解したんだな。勿論僕の方も、そう思われたら、それはそれでいいさ。それから僕たちは大の仲良しになった。

 さて、ヴァイグレ氏との付き合いも、こうして始まったばかり。彼は僕の作り上げた二期会合唱団の演奏をとても誉めてくれた。
「よくここまで作ってくれたね。素晴らしい。ありがとう!」
とニコニコ笑って言ってくれたよ。
これからの「タンホイザー」の日々、とっても楽しみです!



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