66歳の誕生日を迎えるにあたって
3月3日は僕の誕生日。昭和30年に生まれたので66歳になる。それに先立って、昨年の65歳のお誕生日を振り返って見た。
びわ湖ホール主催の「神々の黄昏」公演の準備のために大津にいたが、午前中は「びわ湖バレイ・スキー場」に来ていた。
その時、僕の心はとても傷ついていた。新型コロナ・ウイルス感染拡大の影響で、これまでの生涯で一度もしたことのない決断をしたばかりだった。つまり、東京バロック・スコラーズ「ヨハネ受難曲」演奏会を、自ら中止することだった。あんなに楽しみにしていたのに。最高のメンバーで自分のこれまでのバッハ演奏の集大成を成し遂げようと、精神的に禊ぎの時期に入っていた。それなのに・・・・。
その一方で、ホウライ・パノラマ・ゲレンデのてっぺんから見たびわ湖の眺めは唖然とするほど美しかった。不思議だ。今振り返って見ると、甦ってくるのはむしろその美しさだけ。そして、びわ湖に天空から飛び込んでいくような滑走の爽快感!
あの傷心は、想い出としてだけはあるが感情が抜け落ちている。一体どこに消えてしまったんだ?
この1年間の内に、本当に様々なことが起こり、様々なことを感じたはずだ。演奏会という演奏会がどんどんなくなっていって、愕然とし、怒り、焦り、自分の音楽家としてのアイデンティティーが脅かされ、存在意義が否定されたように感じ、しかしながら受け入れるしかなくて諦め、意識の冬眠が行われ、瞑想的な日々を送っていた夏過ぎまでの日々。やがていろいろがゆっくりと動き始めて今日に至っている。
それなのに、今はびわ湖のパノラマの美しさと滑走の爽快感のみが僕の胸の中を支配しているなんて。
あの悩ましい日々は何だったのか?
あの苦悩に何の意味があったのだろうか?
いや・・・・爽快感が残ればそれでいいではないか。もうそれ以上何も考えなくていいではないか。1年巡って爽快感が残ったなら、要するに、そういう人生だったってことさ。素晴らしい人生ではないか!
年が明けてから、再び緊急事態宣言が発令されたが、新国立劇場の「トスカ」も二期会公演の「タンホイザー」も無事行われた。そして週末には、白馬五竜スキー場で、「マエストロ、私をスキーに連れてって2021」キャンプを行い、滞りなく終了した。
本当に、神に感謝である。
「コロナなんてないさ」などとは決して言わない。けれども、コロナによって導き出された自分の身の回りの現実は、コロナのせいではなく、その人の意識が創り出しているものだ。今僕が言っていることは、世界の奥義である。僕は瞑想によってそれに気付いた。そして、僕の前には、常に、僕の意識が創り出した現実が展開している。
それが65歳の誕生日と66歳の誕生日との僕の意識の大きな違い。
もう一度言う。コロナは存在している。けれども、たとえばあなたがそれによって一歩も自分の家から出られなくなっていたとしたなら、それをさせているのは、もはやコロナではなく、あなたの意識である。あなたの意識が世界を再創造していく。
2月28日日曜日。「マエストロ、私をスキーに連れてって2021」キャンプ終了後、僕の家族を含む参加者はみんな帰っていったが、僕はたったひとり白馬に残ってさらに1泊した。3月1日月曜日。午前中だけゲレンデに出て、12時29分神城(かみしろ)駅発の電車で帰途についた。
誕生日を前に、あえてひとりの時間を作りたかったのだ。今の僕は孤独をとっても愛している。
孤独の空間は“しあわせ”に満ちている。
孤独の空間は“愛”に溢れている。
大気は“聖霊”で充満している。
僕の心にはもう何があっても“憂い”はない。「創造主から命が与えられている」という至福感のみがある。
理屈ではない。
これが66歳を迎える僕の偽らざる心情。
死はもう怖くない。
そして、これから死ぬまでの僕の人生は、愛としあわせに溢れている。
僕がそう信じているから、そういう人生が展開し続けるのだ。
実は真生会館「音楽と祈り」講座は行われていた
真生会館「音楽と祈り」2月講座が行われるのだったら、当然先週の「今日この頃」で、その要約された記事が出るはずだと思っていた方はいらっしゃるでしょう。でも、それはあえて出さなかった。
何故なら、基本的にはリアルな講座は中止になっていて、その代わりZoom配信による講座となっていたのだ。ただし、会館としては「お試し」という色が強かったので、これまでの受講者のみにお知らせを送り、無償での提供を行ったのである。
だから、2月25日木曜日は、いつものように信濃町駅前の真生会館に出掛けて行って、いつもの地下の岩下ホールでパワーポイントを動かしながら、ピアノの即興演奏を行ったりCDで音楽を聴かせたりして講座を進めていったのだ。
その日の演題は「置かれた場所で咲きなさいPart 2」。1月のYoutube講座で言い足りなかったことについて述べた。しかしながら、このタイトルそのもので、キリスト教としても仏教としても、あらゆる種類の話ができると思いませんか?それくらい、このタイトルの言葉って奥が深いと思う。要するに、人生って、自分が置かれた場所で、どれくらい素晴らしく咲けるのかにかかっているのさ。
前半は「神の意志と人間の自由意志」というタイトルで、次の事について語った。(以下レジメからの抜粋)
Question:
1.置かれた場所は、本当に神が置いたのか?Answer:
2.どんな時も、置かれた場所に感謝しなければいけないのか?
3.置かれた場所は、本当にいつも最良の場所なのか?
1.上の3つの質問の答えは、全てYes。
ただし置かれた場所は、本人として常にHappyとは限らない。
2.置いた本人:基本的には神。
ただし、半分はそれ以前の“本人の行動”の結果でもある。
自由意志→結果
人間には“自由意志”というものがある。自由意志も神が与えたもので、それを使って「想い、言葉、行い、怠り」というActionを起こしたならば、必ずその結果が返ってくる。
結果は、必ずしも本人が望んだものではないかも知れない。しかし、それは新たな「置かれた場所」となる。
何故ならば、そのことによってその人は、何らかの学びをしなければならないから。
まずその結果を受け入れ、感謝すること。そして、その意味を探り、それからの解決方法を模索すること。そのことによって、その人の魂のステージは一段階上がる。
魂のステージを上げる
仏教の「輪廻」のもうひとつの意味。
ある人の「想い、言葉、(怠りを含むところの)行い」に問題があるならば、その問題が引き起こすところの「本人にとって望ましくない」結果が繰り返し起こる。「輪廻」とトラウマ
その原因に本人が気付くまで、その不快な結果は何度も繰り返される。
しかし、一度気が付いて、その人が直そうと努力するならば、それはもう二度と起こらず、魂は次のステージに進む。
貧しい境遇、だけど今は頑張って成功 → 過去を笑って語れる過去は存在しない。あるいは、自分が縛られていない過去は忘れ去ってもいい。
貧しい境遇、だから何をやってもうまくいかない → 過去に縛られ、過去に責任転嫁
とっても実りあるスキー・キャンプ!
2月27日土曜日と28日日曜日は、「マエストロ、私をスキーに連れてって2021」キャンプであった。予想していた通り、今年はコロナで参加者が少なかったが、その分、ひとりひとりとの触れ合いの充実度が高く、レッスンそのものも、ひとクラスだけだったけれど、これを聞いたらみんながよだれを垂らしてうらやましがるような内容であった。
青空&快晴無風の「マエストロキャンプ」
(F-styleから引用)