バッハに浸るたったひとりの至福

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

素晴らしい誕生日プレゼントと、僕のお気に入りの板
 先週の「今日この頃」でこのことを書こうと思ったのだけれど、宅配便で送ったものが家に到着してからにしようと決めた。実は、角皆優人君の奥さんの美穂さんから素晴らしい誕生日プレゼントをいただいたのだ!

 それはMissconductというK2フリースキー用のツインチップ(板の後部も前部と同じ形をしていてバックでも走れる)の板なのだ。いちおうレディース仕様になっているけれど、欧米の大型女性用に作られているため、日本人では男性でも充分機能する。
 169cmの長さを持ち、サイドカットが116 /88/ 110とやや太めであるが、整地でも勿論、コブが得意で、しかも新雪にはもってこいのオールマイティな板である。美穂さんは、今レッスンではこの板を好んで使用しているとのこと。
 ちなみにこのMissconductというのはmiss(誤った)conduct(振る舞い)。すなわち非行とか不良とかいう意味です。な、なんという命名!この板履いたからには、不良しちゃうぞ!ということかしら。いや~~ん!

 もらった時には勿論、もらったことで嬉しかったけれど、「マエストロ、私をスキーに連れてって2021」キャンプが終わって、それまで使っていたChargerを妻に車で家まで運んでもらった後、月曜日の朝、履いて滑ってみたら、嬉しさは、実際に使用した歓びに変わった。
 なんといってもコブが滑り易い。グランプリ・コースの下部にある、結構深いコブに試しに挑んでみたら、あれれ?結構楽に滑れるぞ!ビンディングがほぼ中央、つまり普通の板よりもちょっと前についているので、テールが長く感じる。それ故、深いコブにズレないでちょっと攻撃的に入っていっても、板そのものがクッションの役目をして、適度にブレーキがかかる。
 ただ、油断して吸収動作を怠っていると、そのクッションの反動がコブの出口で利きすぎてピョーンと外に飛び出してしまった。まあ、それも楽しい。とにかく、遊び感覚満載。そのコブを何度かアグレッシブに完走しました。ヤッター!

 さて、我が家で、目下のお気に入りの板を並べて写真を撮ってみた。
手前(下)からSpeed-Charger、Charger、Missconduct、244。

写真 三澤洋史が所有する4組のスキー板
お気に入りの板たち

Speed-Charger:
K2が本気出して作ったスラローム用板。この4つの中では最も高価。
高速での安定度が抜群
超爽快!この板でアルプス平のグランプリ・コースでロングターンをすると、背中に翼が生えて大空に飛翔していく気分!
カーヴィングもしっかり効くし、エッジが鋭いためアイスバーンでも平気。
ただし、コブは不向き
板の中に硬いメタルが2枚も入っているため、全然たわんでくれないので、コブの深い溝にトップから飛び込んで行くと、衝撃をモロに受けてしまう。
角皆君は、構わずトップから飛び込んでいってこの板を3回曲げたと言っていたけれど、僕は怖いから板を曲げてまでこの板でコブを滑ろうとは思わない。
しっかし・・・あいつアホやね。3回曲げたって。どんだけの速度と力でコブに突っ込んで行くんや?!
「三澤君、板の上に体重かけて乗れば、曲がったの直るから心配要らないよ」
だって。
Charger:
Speed-Chargerの下位機であるが、決して劣っているわけではない。
メタルが入っていない分、柔軟に曲がってくれるので、コブでは安心して滑れる。
Speed-Chargerを知らなければ、整地での高速滑走にも不満を持つ人はいないだろう。かなりの爽快感を保証する。
オールマイティーな板であり、この1本で不整地や新雪など、あらゆるコンディションにフレキシブルに対応してくれるので、シーズン中最も使用頻度が高い。
Missconduct:
そのオールマイティーなChargerに突如強力なライバル出現!
ただし先日滑って、Chargerとの役割分担がはっきりした。
沢山の新雪が降って深雪にまでなってきたら、僕は間違いなくこの板を選んでゲレンデに出るだろう。
板の幅が広く、ビンディングが板のほぼ真ん中についているので、両足を使ってスキー板の裏面全体で新雪に乗ることが自然に出来るから。
新雪で隠れたコブを滑る時にもこれが最良でしょう。
その一方で、コブ+整地の高速滑走の場合はChargerだろうな。
何故なら、
Chargerは、下位機とはいえど、スラロームの流れを汲んでいる板。
一方で、Missconductは、フリースキーの上位機だということがコンセプトの分かれるところ。
244:
モーグル専用の板。
R(カーヴィングの半径)26mと、ほとんどカーヴィングが効かない板なので、最初「これを買おうかな」と角皆君に言ったら「つまんないからやめな」と言われた。
でも僕はあえてこの細くて長くて(173cm)サイドのフラットな板を選んで、スキーの基本に還ろうとした。
つまり、カーヴィングでない板に乗ることで、カーヴィングをより良く知ろうと思ったのだ。
その結果、ふたつの重要なことが学習できた。
ひとつは、カーヴィングに頼らずブーツを回し入れることでターンする昔のスキーの基本。スキー板に仕事を任せっきりではなく、自分でターンを操りたいじゃない。パソコンだって僕は自分の好みにカスタマイズするんだから。
もうひとつは、カーヴィング時代に毒されてターン初動で内傾する僕の癖を、内足のアウトエッジが全く役に立たないこの板で補正できたこと。
切り替えした直後、新しい外足にしっかり乗ってから、ターンを始めるのだ。
カーヴィング・スキーの場合、コブの中では、しばしば、ズレようとしてもカーヴィングに乗ってしまって体が置いて行かれることが起きる。しかしこの板では、それが全くないので、落ち着いてコブを学習できる。
コブに特化したらこの板に勝るものはないです。
唯一の欠点は、細身なため、新雪では面白いくらい潜ってしまって、全く駄目なことです。
かぐらスキー場ではひどい目にあいました。あははははは!

バッハに浸るたったひとりの至福
 3月21日日曜日、武蔵野市民文化会館で行われる、東京バロック・スコラーズ主催のレクチャー・コンサート「巨匠の創作の足跡」の勉強をしている。

 もう分かっているカンタータのドイツ語の歌詞を、それでもあえて辞書を使って、まるでドイツ語学科のゼミのように一文ごとに「この単語がどこに係るか」などと調べたり、アリアや重唱のひとつひとつの音符や和声を頭に叩き込んだりしている。
 合唱のフーガでは、主題がどこにどのような形で移っていくか、全体の調性的構造がどのようになっているかを把握し、それから主題に対する対旋律のあり方を探る。まるで解剖してひとつひとつの臓器を吟味するように。

 こんなことなどしなくとも、演奏会の指揮はできるんだよな、と自分でも時々思う。指揮者なんてインチキなもので、4拍子の曲は、間にどんなに沢山音符があっても4つで振っていて、やれ音程が悪いの、リズムが悪いのなど、適当なことを言っていれば、練習もどうとでもごまかせる。
 オペラで舞台に立つ歌手達とは違って、指揮者にとって暗譜は義務でもなんでもないし、それどころか、初見でも、極端に複雑な曲でなければ演奏会で指揮することは難なくできるだろう。だから、はっきり言って、演奏会で指揮者に求められる最低限の行動というものは、実にユルユルなのである。

 しかし僕は、もう一週間以上、バッハのふたつのカンタータと小ミサ曲ト長調に向かい合っている。時間を湯水のように使っている。それはまあ、好きでやっているのさ。別にいいだろう。バッハが好きだから。バッハの創作の源泉に少しでも近づきたいと思っているから。

 カンタータ第79番のレシタティーヴォでの歌詞、

Wir wissen den rechten Weg zur Seligkeit;
「私たちは至福に至る正しい道を知っています」
で、Weg(道)が男性名詞なので「正しい道を」という目的格はden rechten Wegと活用するわけだが、次の文章はこう続く。
Du(Jesus)hast ihn uns durch dein Wort gewiesen.
「あなた(イエス)は、言葉でもってその道を教えてくださった」
の中のihnという言葉は「男性代名詞の目的格」であるから「道」を指すが、日本語で考えると「彼を」というわけ。うわあ、道なのに「彼を教えてくださった」となっちゃうんだ。理屈っぽいな、ドイツ人は!
 もし僕が口語でドイツ人と話すとしたら、性は気にしないで構わずdas(それ)という言葉を使って、しかも倒置して、
Das hast du uns durch dein Wort gewiesen.
と言ってしまうだろうな。巷でみんな言っているから、純粋な言語学的見解はともかく、恐らく間違いではないだろう。でも文語では厳密なんだ。

 たとえば、カンタータ第179番では、珍しく教会の堕落がテーマとなっている。「今日の信徒の信仰は生ぬるく、それでいて高慢で見てられん!」
と第1曲目の合唱フーガからテノールのレシタティーヴォとアリアの間、ずっと厳しい言葉が並ぶ。特に第3番アリアでは、
「誤った偽善というものは、まるでソドムのリンゴのようだ。外見は立派だが内側は汚辱に満ちている」という厳しい歌詞が、いきなり2度和音属七と呼ばれる緊張した和声の上に歌われる。この言葉に、よくぞこれほどマッチした音楽をつけてくれました、と拍手を送りたい。
 ところが・・・である。バッハは同じ音楽をパロディー(転用)として、なんと、
「主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高しイエズス・キリストよ」
という歌詞で、小ミサ曲で歌わせているんだぜ。しかも・・・しかも、「誤った偽善」のメロディーと和声を使いながら、あたかもこの敬虔な歌詞のために作られたかのように感じさせてしまうのだ。ひどいと思わない?まったくペテン師だよね・・・あ・・・いや・・・これぞ、まさに天才というものだね。

 大切なことは、こんな風にミニマムにいろんなことを感じながら、“曲と過ごす日々”を持つということだ。それによって何が得られるかというと、ふたつある。ひとつは、曲の解釈が“揺るぎないもの”となること。テンポひとつ、ニュアンスひとつひとつを吟味し尽くし、これしかないというところまで突き詰める。
 よく、やるごとにテンポの変わる指揮者がいるけど(音感の良い指揮者に多い)、そういう人は、スコアを読む力が早いんだろうが、恐らく、こうした“曲と過ごす日々”を知らない可能性がある。
 ではその“日々”を知らないと、どういうことが起きるかというと、べつに何も起きないし、誰からも批判されない。でもね、演奏する曲が「自分にとってかけがえのないもの」となってない可能性がある。
C'est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.
君が君のバラのために無駄にした時間、それが君のバラをかけがえのないものにするんだ。

Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoisé.
君は、自分が面倒を見たものに対してずっと責任を持たないといけない。
Tu es responsable de ta rose.
君は君のバラに対して責任があるんだよ。

         Antoine de Saint-Exupéry Le Petit Prince 21
         サン=テグジュペリ 「星の王子さま」より第21章
 バッハをこよなく愛している僕は、こうした無駄のように見える日々を持つことによって、バッハとのかけがえのない関係を築こうとしている。
C'est le temps que tu as perdu pour la musique de Bach qui fait Bach si importante.
君がバッハの音楽のために無駄にした時間、それがバッハをかけがえのないものにするんだ。
バッハの音楽に仕え、バッハの音楽にどっぷり漬かる時間を意識して持つことは、まるで僕にとっては行(ぎょう)のようでもある。それは、清らかな学徒の至福のひとときでもある。
Voici mon secret.Il est très simple:
ほら、僕の秘密を言おう。とっても簡単なことだよ:
On ne voit bien qu'avec le coeur.
心を使ってしか、よくは見えないんだ。
L'essentiel est invisible pour les yeux.
大事なものは目には見えないんだよ。

         同じく「星の王子さま」第21章
 話は脱線するけど、写真の手前は僕が日々愛用しているコーヒーカップ。向こう側のは、孫の杏樹のもの。共に、関越自動車道の寄居上りパーキングエリアで購入した。

写真 三澤洋史と杏樹の愛用コーヒーカップ
星の王子さまカップ

僕が買ったのはもう随分前。僕は「星の王子さま」のこの狐との会話が大好きなので、毎日午前中のコーヒータイムで、このカップの中にサイフォンで入れた琥珀色の珈琲を入れて眺めながら飲んでいる。それを見てうらやましがっていた杏樹が、最近買ってきたが、残念ながらこの「星の王子さま」事業は、今年の3月で終了するそうだ。

 さて、人は僕が暗譜で指揮することばかり強調するけれど、それは僕にとって全然大切なことではない。本番では、別に目の前に譜面を置いてもいい。だって暗譜するしないという次元ではなく、それ以上の、演奏会には現れないもっともっと沢山の経験を、ひとつひとつすでに重ねているんだ。
 僕は、バッハの作曲上の微笑ましい癖も、誰も知らないであろう欠点も知り尽くしている。僕だけが知っていること。表に出ないこと。それが僕の内面を豊かにし、バッハへの愛は、僕の人間性を高めてくれているのだ。

ふたりの女性ジャズシンガーを紹介します
 歌が好きだ。というより「“うた”が好き」と言った方がいいな。色彩的で圧倒的なボリュームを誇る大管弦楽には圧倒されるし、指揮者としては、それを自分の腕で操ることに無上の喜びを感じるのは勿論であるが、たったひとりの歌手のしみじみとした歌を聴いて、
「ああ、負けているな。それに比べたら、こんな大袈裟なもの、何の役にも立たないんだ」
などと思うことはよくある。

 さらに、もうひとつ言わせてもらうならば、仕事の他にクラシック歌手の歌を好んで聴くことが少なくなった。今、僕のi-Podを見てみると、入っているのはエリー・アメリンクのシューベルト歌曲集とディートリヒ・フィッシャー=ディスカウの「美しき水車小屋の娘」。また、時々聴くのはチェチーリア・バルトリの古典イタリア歌曲集。そのくらいかなあ。
 それに比べると、ポップスの女性歌手の歌を聴くことが圧倒的に多い。サンバ歌手のRoberta Saホベルタ・サは、いつもi-Podに入っていてよく聴いているし、YoutubeではVanessa da Mata、Maria Rita、ちょっと歳はとっているがMaria Bethania、イタリア人のAnima Novaなどは、仕事の合間に必ずといっていいほど聴いている。彼女たちに共通していることは、まず声が良いこと。そして、歌が心に染み入ってくること。サンバ歌手だから当然であるが、リズムが体の芯まで入っていること。

 さて、そんな僕にも、最近変化が訪れている。昨日、家に2枚のCDがAmazonから届いた。Sophie Milmanソフィー・ミルマンとDiana Krallダイアナ・クラールというふたりの女声ジャズ・シンガーのCD。ここのところ、割とジャズから遠ざかっていたけれど、このふたりの演奏だけはYoutubeでよく観ていたのだ。
 ソフィー・ミルマンは、アントニオ・カルロス=ジョビンの名曲Chega de Saudadeの演奏をYoutubeで探していた時、No more bluesというタイトルで英語で歌っているのを発見した。楽器で言ったらバイオリンよりもビオラのような、やや陰りを帯びた太めの声が印象的で、とにかく節回しが見事。即座にマークした。





 一方、ダイアナ・クラールは、もっと多彩で、歌と同じくらいジャズ・ピアノが巧みなのだ。しかも、その演奏は、ひとことでいうとセクシー。僕がこの言葉を使うことはほとんどないでしょう。でも、そういう言葉しか思い浮かばないのが彼女の演奏の本質である。ルックスもそうだけど、肝心なのは歌とピアノだからね。クールに見えながら、情感に溢れる歌。独特のフィーリング。
 引用したYoutube映像のFly me to the moonでは、往年のフランク・シナトラがカウント・ベイシー楽団をバックに歌ったスタイルを真似しながら、彼女独自のワールドを繰り広げているのが楽しい。
まあ、理屈抜きで聴いてみてくださいな。





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