名古屋での日々

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

ありがとう、今シーズンのゲレンデ!
 4月1日木曜日。新国立劇場合唱団のバリトン団員である秋本健ちゃんが、車にピアニストの矢崎貴子ちゃんを乗せて、6時35分に我が家に来た。貴子ちゃんは、僕の長女の志保と同じ時に新国立劇場のオーディションを受けて合格し、最近では「ワルキューレ」で稽古ピアノを務めていた。志保は、貴子ちゃんに自分のスキー・ブーツを貸し、板は家に余っているものを積んだ。こうして僕たち3人は、一路、川場スノ-・リゾートに向かった。

 今年は、12月にドカ雪が降ってスキー場が潤い、さらに今年に入ってからも雪がたっぷりあったが、3月に入ってからはほとんど降雪がなく、しかも暖かい日が続いていて雪がどんどん溶けている。このままではどのスキー場も、あと2週間もてばいいのではないだろうか?僕も、この先は、いろいろ仕事が立て込んでいるため、どう考えても、この日が今シーズンの最後のスキーとなるのが決まっている。
 ところが、僕がいつもガッツリ滑る時に行く、高手スカイラインと呼ばれる不整地や、モーグル・コースのある無名峰ダウンヒルや無名峰トライアルは、すでにクローズしている。実際に行ってみて、下から見上げたら、それらのゲレンデはもう赤茶色の土が見えているから無理もない。
 ということは、
「もう、そんなに頑張らないで、今日はゆるりと最後の滑りを楽しんでね」
という天からのお達しだと理解した。

 初級コースのワイドなクリスタルコースでは、途中から分かれて林の中に入っていく狭いコースが作られている。そこでは、上下に波形になっていて、スノウ・ボーダー達はジャンプの練習をしている。そこに僕たち3人は入っていった。僕は、ズラしてスピードコントロールをするのではなく、波の盛り上がったところで体を小さく折り曲げて吸収動作をし、低いところで足を伸ばすという、コブの練習をしていた。
 すると、一番最後の盛り上がりのところで、僕の後を滑っていた貴子ちゃんが、突然ジャンプするくらいの勢いで転倒し、板が外れた。
「だいじょうぶ?」
と心配して声を掛けたが、貴子ちゃんは、
「おかしいな?急に何かに引っ掛かった」
と言う。
 次にもう一度同じ処を僕がひとりで滑った時、いきなり何かが板に引っ掛かった。
「あっ!」
と思う間もなく、全くさっきの貴子ちゃんと同じように転倒したが、恐らく貴子ちゃんよりずっとスピードが出ていたので、大きく空中に舞い・・・・ガラガラドッシャ~~~ン!大転倒!板は盛り上がりのすぐ下に残っていたので、やはり何かに引っ掛かったとしか思えない。

 あとの二人はワイドなゲレンデの方を滑っていたので、合流した時、
「ねえねえ、貴子ちゃんと同じ処で同じように派手に転んで板が外れた」
「ええっ?それって、もしかして呪われた場所?」
と健ちゃん。
「まさか・・・」
と僕。
「いやあ、きっと呪われているんだよ」
「木の根かなんかがあるのかも知れない。一緒に行って調べてみない?」
「よし、リフトに乗って行ってみよう!」
 なんか、こういうのって、子供っぽくて妙に楽しいよね。3人で今度はゆっくりスピード・コントロールしながら、問題の場所に近づいた。
「根っこが張っていて、そこに板が引っ掛かったに違いない。そうでなければ、あんなハズレ方するわけない・・・・あれれれ?なんにもないぞ。フツーに雪だけつるんとある・・・ど、どうして???」
健ちゃんは得意な顔で、
「やっぱり、呪われてるんでさあ」
その後、何度もそこを通ったんだけど、怖いのでそこに近づくとスピードを緩めて慎重に通過する。止まったりもして、よーくあたりを観察したけれど、本当になんにもない。ただ・・・なんとなく“気”が良くない・・・きっと、ここには何か秘密が隠されているのだ。

 その晩、家に帰って来て、孫の杏樹とお風呂に入った時、杏樹にその話をしたら、
「じゃあ、それでお話しを作って!」
と言うので、
「分かった!今日は『川場んば(かわ婆ん婆)のお話しにしよう』
「早く、早く!」
「川場スキー場のある所に行くと、突然スキー板に何かが引っ掛かって板が外れて転ぶんだ。それで何人ものスキーヤーが大けがをしたり死んだりする。実は、そこにはむかーしむかし、かわ婆ん婆と呼ばれる根性の悪いおばあさんが住んでいてね・・・」
いつかそのお話をミュージカルにしようか。あははははは!

 話はスキー場に戻るが、健ちゃんと貴子ちゃんとは、最初の方だけ一緒に準備運動といくつかのドリルをやり、さらに何度かトレインをしたが、それ以外は、みんな自由に滑った。
 僕にとっては、チャレンジアブルなコースはみんなクローズしていたけれど、一ヶ所だけ、高手ダウンヒルとその下のクリスタルコースを結ぶ、ガケのような西峰ダウンヒルと呼ばれる不整地コースがあり、そこにいくつかのコブが出来ていたので、僕はそこに何度行ったことか。案外、ガッツリ学習できたよ。

 シーズン終わりの別れの時が近づいていた。最後のコブを滑り終わると、僕はちょっと胸キュンとなったけれど、コロナ禍にもかかわらず、今シーズンは思ったよりも沢山滑れたので、心残りはない。
 下のスキー・センターに辿り着いて板を脱ぐ時、今シーズンで一番使ったChargerを撫でながら、
「ありがとう!」
とつぶやいた。それからブーツにも、ストックにも、
「また来シーズンもお願いね」
と言った。
最後に、ところどころ山肌が露呈したゲレンデに向かって、
「Danke dir ! Aufwiedersehen !(ありがとう!また会おうね!」
と呼びかけてから背を向け、僕のスキー・シーズンは終わった。

 お風呂から上がって、かわ婆ん婆のお話を聞いて興奮している杏樹と一緒に食卓に着き、川場道の駅で買ってきた川場ビールの蓋をプシュッと開ける。うまい!川場ビールには、ピルスナーとかいろいろあるけれど、このヴァイツェン(小麦ビール)は、みなさん、本当にフルーティーでおいしいです!

 杏樹が食べながら言う。
「かわなちゃんは助かったけど、かな子ちゃんは、まだかわ婆ん婆の家の牢屋に閉じ込められているんだよね」
「早く助け出さなくっちゃね。でも、じいじは明日から名古屋なんだ」
志保がじれったくなって、
「ほら、話してないで早く食べなさい!」
僕は、ぼんやりと、
「やっぱり本当にかわ婆ん婆の仕業だよな・・・・来シーズンこそ、突き止めなくっちゃ!」
と夢想していた。
 って、ゆーか、早くかな子ちゃんを助けなくっちゃ。でもね。今日から新国立劇場では「ルチア」の立ち稽古が始まるんだ。杏樹の寝る時間までに帰れないかも知れない。畜生!かわ婆ん婆め!

名古屋での日々
シュウマイ弁当

 4月2日金曜日。今日は15時から大久保亮さんのコレペティ稽古。「トリスタンとイゾルデ」や「ローエングリン」の合わせを行う。その後17時には三輪陽子さんが来て、「パルジファル」第2幕のパルジファルとクンドリの合わせ。
 新幹線には新横浜から乗るが、その前にあるものを買った。それは・・・崎陽軒のシュウマイ弁当である。もう、横浜と言ったらこれである。しかも、最近はチャーハンと一緒のバージョンもあるが、あれは駄目です!シュウマイ弁当と言ったら、何と言っても「フツーの」弁当に限る。何故なら、この弁当の御飯は、ちょっと硬めでモチモチ感に溢れているんだ。これとシュウマイのコンビネーションが絶妙なのである。2流と言われようがチープと言われようが結構!これさえあれば人生ハッピーなのである。


崎陽軒のシュウマイ弁当

コレペティ稽古
 3月21日の東京バロック・スコラーズの演奏会が終わり、さらに25日の真生会館「音楽と祈り」講座が終わって、気が付いてみたら、すぐ近くに、愛知祝祭管弦楽団の演奏会のためのコレペティ稽古(自分でピアノを弾きながら歌手に細かい練習を付けること)が迫っていた。
 いっけねえ、全然ピアノを弾いていない!そこでこの一週間、忙しい時間を縫ってピアノに向かい、練習した。稽古を付けるからピアノだけ弾けても駄目なんだ。相手役を歌わないといけないし、自分の伴奏に乗って歌う歌手の発音やニュアンスを聴いて直さないといけないんだからね。
 みんな一度はやったものばかりだし、「パルジファル」第2幕のクンドリの接吻の場面などは、かつてワーグナー初心者であった清水華澄ちゃんのために、手取り足取りして教えたので、初見ではないのだが、なにせ「トリスタン」や「パルジファル」は和音が複雑なので、目で音符を追えても指がそこに行かない。

 だから前の日のスキー場との別れに浸っているわけにはいかなかった。シュウマイ弁当のお陰でハッピーな気分で、3時からの大久保亮を迎えた。「ローエングリン」「トリスタン」をやり、5時から三輪陽子さんが入って「パルジファル」の2重唱などをやった。
 翌4月3日土曜日の午前中は、初鹿野剛さんが来て、「ローエングリン」のフリードリヒや、「タンホイザー」の終景のベーヌスに絡むヴォルフラムのアンサンブル、「パルジファル」第1幕転換音楽近辺の「ここでは時間が空間となるのだ」というグルネマンツの名ゼリフなどをやって、午後からのオーケストラ合わせに備えた。

 これらのコレペティ稽古の時間は、本当に貴重である。ここで、僕の音楽的な方向性がみんなに伝わると同時に、僕の側から見た場合、それぞれの歌手達がどのような特性を持ち、どのような表現の可能性を示すことが出来るのか、といった、双方向の出遭いの場なのである。だから、僕は彼らを見ながら、自ら路線変更することも厭わないし、そこで、世界でたった一つの“僕たちならではの表現”が形成されるのである。

朝の楽しみ
 4月3日土曜日と4日日曜日の早朝6時。僕は宿泊先である名鉄イン刈谷を出て南下する。いつもの散歩コース。刈谷豊田総合病院のビルを右手に見ながら猿渡側の橋を渡り、フローラルガーデンよさみに辿り着く。ここを一周して帰途につくが、同じ道は通らない。
 それから高須天神社に寄る。この神社は大好きだ。木々に囲まれてひっそりと佇むが、凜としていてとても気が良い。ここで、一礼してから、
「払い給え浄めたまえ、神(かむ)ながら守り給え、幸(さきわ)い給え」
と三回唱え、それから二礼して、二回、柏手(かしわで)を打つ。
普通は、それでいいのだが、さらに僕は、
「ありがとうございます!ありがとうございます!・・・・」
と何度も唱える。たいてい36回。
それから、
「今日も、散歩とお祈りで一日を始めることができますことを感謝します。この健康を感謝します」
で始める自分なりの祈りを唱える。たいていは、家族ひとりひとりのことを祈る。最後は、
「全世界の人々がしあわせでありますように。全世界が平和でありますように」
と唱えて終わる。すると、心の中に、いいようのない感謝の気持ちがジワーッと溢れてくる。
このようにして始まる僕の一日って、なんてしあわせなんだろう!


高須天神社

 約1時間15分ほどのお散歩の最後に、僕は駅前のコメダ珈琲店に寄る。名古屋に来たら、何といってもやはりコメダでしょう。コーヒーにはうるさい僕だけれど、コメダのコーヒーは特にうまいわけではない。それどころか、もしかしたらマズい部類に入るかも・・・・それでも僕は、あえて「たっぷりブレンド・コーヒー」を頼む。
 厚切りトーストに塗ってあるのは、バターではなくマーガリンというチープさ。一緒に頼むサラダのドレッシングもダサイ。ゆで卵の殻をカリカリとむいて塩を付けて食べる。でも、なんだろう?名古屋の朝はこれでなくっちゃ、と思わせるものは・・・・。
 

オケ合わせは一期一会~愛知祝祭管弦楽団
 さて、2日間に渡る愛知祝祭管弦楽団の練習は、3日土曜日には初鹿野さんと三輪さん、4日日曜日は大久保さんと三輪さんが入って、とても充実したものになった。
「こんな早くからソリスト入れるんですか?」
と思う人もいるだろう。でも、これが愛知祝祭の特徴である。

 オーケストラだけ練習していても、無意味とは言わないまでも、本当の全体像は、メンバーには分からないのである。歌手が入ってこそのオペラであることは言わずもがな。それを早い内から練習するのとしないのとでは、仕上がりの一致感に大きな差が出るのは当然であろう。
 プロの世界では、経済原理が働くので、本当に本番近くにならないと歌手を参加させない。僕はオペラの当事者として断言するが、それでは本番までに細部に至るまでの表現の統一性を得られるはずがない。

 それをやるのがプロ・・・ということだろうが、プロがやっている方法が客観的に見て常に最善というわけではない。たとえば、練習場に行って初めて、これから数日後に行われる本番の譜面を見て初見で弾く、というのが最善ですか?そんなんで本当に良い音楽が出来ますか?
 合唱だって、合唱コンクールに出るために半年とか時間かけて、突き詰めて突き詰めてその音楽に向き合っている高校生達よりも、プロの合唱団員が全ての面において優れていると、胸を張って言えますか?言えないでしょう。
 僕はよく、合唱コンクール全国大会の審査員をしてから、東京に戻ってきて、新国立劇場合唱団の練習をしてガッカリして、つい説教をしてしまうことが何度かある。
「君たち、こんな緩いアンサンブルしていたら、素人に混じって合唱コンに出てみなよ。断言するけど地区予選で落ちるね。音程はバラバラだし、リズムも合っていない。高校生達がこのアンサンブルを聴いたら、恐らくみんな馬鹿にするね」
すると、怒るメンバーもいるんだけど(わざと怒らせているところもある)、中には、
「よくぞ言ってくれました。私はずっと高校生の頃合唱部にいて合唱コンの常連でした。みんな発声は良いですが、その他のところがいい加減すぎますよね。ずっと思っていましたが、今日は胸がスカッとしました」

 つまり、僕はアマチュアリズムに生きているんだ。プロに対するリスペクトは当然持っているんだけど、アマチュアの人には、変にプロのやり方にこだわらないで、アマチュアにとって最善のやり方で臨んで欲しいのだ。

 実際、「ローエングリン」第2幕の、オルトルートとフリードリヒという悪役二人のオケ合わせをしている内に、オケに俄然表情が出てきたし、「パルジファル」第2幕の、クンドリからの接吻によってパルジファルがアンフォルタスの苦悩の意味を理解するくだりも、歌手の表現力がオケに飛び火して、オケから発散するオーラが半端ない。

 技術的にはまだまだ解決するところは沢山あるけれど、それはそれ。1回1回の練習が一期一会のものなのである。僕は、満ち足りた気持ちで大府市役所を出て名古屋行きの電車に乗った。

 さて、今週末はまたまた名古屋。いよいよマーラー交響曲第3番の練習が始まります!だから今週はマーラー三昧の日々を送るんだ。



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© HIROFUMI MISAWA