マーラー交響曲第3番三昧の日々

三澤洋史 

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マーラー交響曲第3番三昧の日々
 先週は、マーラー作曲交響曲第3番のスコアの勉強に明け暮れた。汲めども尽きぬインスピレーションの豊かさに、どのページを開けても、あらためて驚かされる。僕の場合、まずはスコアを見ながらピアノを弾く。
 ひとつひとつの和声や楽器編成を確かめ、たとえば第3楽章冒頭だったら、分割された第2バイオリンとビオラのピッツィカートに乗ってクラリネットがあるモチーフを吹くと、そこに即座にピッコロがメロディーを乗せていく。そこにオーボエが絡んで。それからクラリネット2本のGmとGAugmentが繰り返す和声に乗ってEbクラリネットがモチーフを吹き、フルートとピッコロがそれに答える・・・その間にピッツィカートは、ビオラとチェロに変わっている。
 このわずか15小節ほどの間に、これだけのオーケストレーションの変化が起きているのだ。それらをみんなピアノで弾きながら頭に叩き込む。大変?いえいえ、なんて楽しいことでしょう。確かに膨大に時間がかかります。

 こんなことしなくて、もっと早いやりかたでスコアを勉強し、オケ練習までもっていく指揮者をいっぱい知っているよ。数日毎に本番があるような職業指揮者では、そんなことしている暇はないだろう。スコアを聴きながらi-Podを聴くならば、ずっと能率的だろう。
 でも、いいのだ。僕は「アマチュア」なんだから。これ以上演奏会は増やさない。それで、ゆっくり時間をかけて、こんな風に曲ととことん関わる生活をするのが好きなのだ。何故なら、それがとっても“しあわせ”だから。演奏会は、その“しあわせ”の機会を提供するものであり、“しあわせ”の結果、自ずと導き出されるもの。この生き方を変えるつもりはない。

 既成の演奏の録音を聴くことにも別に躊躇はないが、むしろ積極的に聴くのは、こうした勉強がひととおり済んでから。そうでないと、きれいに仕上がった演奏に影響を受けてしまって、自分の中からの“声”が聞こえなくなってしまう。
 スコアから音をひろって、ピアノを弾いている内に、頭の中で音が鳴り出す。しかもそれは、自分の理想のバランスで、理想のテンポでなのだ。それは、世界でたったひとつの“僕のマーラーの解釈”であり、天が僕に与えてくれたものなのだ。それを、人の演奏なんかで汚されたくないのだ。

 話が横道に逸れるが、孫の杏樹が通っているシュタイナー学校では、子供には、なるべくメディアに触れさせないよう親に呼びかけている。だから杏樹には、ほとんどテレビもDVDも観せない。では杏樹は退屈しているかというと、とんでもない!
 子供の想像力って凄いんだ。それに学校では、お手玉や折り紙、縫い物など、手先が器用になることを教えているし、彼女の感性は大自然にたいして全開状態となっていて、いつも目がキラキラ輝いている。これこそ、子供の真の姿だ。メディアを避けることにより、なにより、自分の内面に目が向くようになるのだ。

 その一方で、指揮者の中でも、メディアにどっぷり漬かって、自分の持っているCDの多さを誇っている人がいるけれど、そういうのを聞くと、僕は、
「ああ、自分に自信がないんだな」
と、むしろ気の毒になる。
 指揮者は創造者だ。批評家ではないんだ。いろんな指揮者の演奏を聴いて、そのいいとこ取りをしたら、批判を浴びるような可能性はないだろうが、逆にいうと、どうして批判を恐れる必要があるのだ?自分がマーラーのスコアと対峙して、「これだ!」と掴んだものが“嘘偽りない自分の内面”から出たものだったら、何を躊躇する必要があろう?

 さて、ひととおり勉強ができて、自分の基本イメージが固まったら、i-Podを聴くが、はっきり言ってどれも気に入らない。というか、反対から言うと、この「気に入らない」状態になるまでは、(中途半端に影響されるので)聴かない方がいいということだ。
 とはいえ、あえて聴くことで得ることは少なくない。僕は作曲もするので、楽譜に書かれたものと実際に音が鳴ったものとのギャップによって、オーケストレーションの学習をしてきた。そのギャップが少なければ少ないほど、オーケストレーションの達人というわけだ。
 それで、僕がi-Podで得ることは、そのギャップだ。それは、演奏しているオーケストラによっても違うし、指揮者のバランス感覚によっても、聞こえてくる全体のサウンドに違いが出てくる。
 ほとんどは、反面教師として、
「ああ、この楽器をこれだけ出してしまうと、自分の求めた理想の音響からこれだけ離れてしまうというわけだな」
という風に聴くのだ。
 テンポに関しても、自分がそれを聴いて、どこにどのような違和感があるのか?と自分自身に問うのだ。それによって、自分が何をどう具体的にやりたいのかが明確になってくるのである。

 だから、よく訊かれるんだけど、
「三澤先生の演奏に一番近いCDを挙げていただけますか?」
という場合には、本当は、
「自分!」
と答えたいところなのだが、それだと意地悪に聞こえるので、まあまあ、これが近いかなというのを挙げておく。だから、これを読んだ方は、もうあまり訪ねないでくださいね。
 別に「天上天下唯我独尊(全宇宙でオレのみが偉い)」というつもりではないのですよ。そうではなくて、みなさん一人一人はみんな「至高なる存在と直につながっている」のだ、といいたいわけ。

だから、情報を外に求めるのではなく、自分の内へと向かうことを是非薦める。

東海グスタフ・マーラー交響楽団の初回練習
 さて、そうやって準備して、いよいよ4月11日日曜日、朝の10時から刈谷市総合文化センターの地下で、マーラー交響曲第3番の練習が始まった。このプロジェクトは、数年前にウィーンに演奏旅行に行ったメンバーが中心となって構成されていて、愛知祝祭管弦楽団の他、刈谷市民管弦楽団や山梨交響楽団など、各地から集まって来ている。
 そのため、練習回数は極端に少ないのだ。次の練習は4月24日土曜日で、もうその後は本番直前の5月2日、3日、そして当日つまり5月4日火曜日のゲネプロ、本番となってしまうという、アマチュアとしては恐ろしいスケジューリングである。

 だから、こちらに迷いやブレは許されない。それに細かい反復練習などやっていたら、たちまち時間が取られてしまう。10時から5時半という限られた時間の中で、どうやりくりして、能率良く最大の効果を上げるか、こちらの指揮者としての資質が問われている。 
 勿論、第1楽章からやるしかない。この30分以上かかる“うわばみ”のような大曲をさばくだけでも、いくらでも時間がかかるが、これを午前中でやりあげないといけない。
まあ、細かいところは、
「やっておいてね」
と言うしかないね。

 さらに、午前中の最後には第4楽章に関係する人だけ残して、振り数の説明と練習を行った。
 恐らく、指揮をするという意味では、この第4楽章が一番難しいかも知れない。チェロに7連符の連続があるし、しかもその間にフェルマータがオーボエにあったりして、正確に弾くのはほぼ不可能だ・・・というか、元々正確に弾かなくてもいいのだが、チェロの間では合っていなければならない。その兼ね合いが難しい。僕はまず、チェロ奏者達に、一度指揮に合わせて演奏させた。フェルマータのない間は、やはり指揮に合わせて演奏するのが望ましいからだ。そもそもひとつひとつの音符の早さが奏者間でブレだすと収集がつかなくなるのだ。

 その他、バイオリンの7連符にホルン奏者が割り込んで合わせるとか複雑極まりない。まあ、他の録音を聴いても、みんなテキトーで、本当はマーラー自身も、あまりこだわらないで書いているのかもしれないが、それでも一度は、
「これって、本当はどーなってるの?」
と、相互理解をしておかないと、腑に落ちないままで終わってしまうからね。
 午前中その練習をやっておいたお陰で、午後遅くにソリストの三輪陽子さんが来て合わせた時には、一回目からかなりすんなりいった。三輪さんとは、オケ練習が終わった後、夜の合唱練習までの間で、僕のピアノでもう一度コレペティ稽古をした。またまた丁寧に説明して、これでもうバッチリ。

 その休憩時間には、第3楽章でポストホルンを吹いているHさんのコレペティ稽古もした。こういうことって、オケではあまりしないけれど、これもアマチュアならではのこと。何度も何度も合わせていく内に、奏者の不安もだんだん消えてくるし、僕の気持ちも寄り添っていく。こういうことが大事なんだ。

 さて、終楽章の「愛がわたしに語ること」は、今の僕の人生観にピッタリだ。練習しているだけで、何度も胸に込み上げるものがあり、目にも涙が浮かび、マスクをしていて良かったと思った。
 昨年、この演奏会がキャンセルとなった時に、本当に残念に思ったのは、この終楽章が演奏出来ないことだったけど、この1年の間に、この曲に対する共感と理解は、また昨年とは比べ物にならないほど深くなっているので、変な話、コロナのお陰で一番良い状態でこの作品に向かい合えるともいえる。

 幅広くゆったり演奏したい曲だけれど、停滞感があってはいけない。途中のSehr leidenschaftlich(とても情熱的に)と呼ばれる部分では、
「ヴェルディを演奏するつもりでカンタービレに!ここは悟っていなくていいんだ!むしろ熱狂的に、あるいは苦悩と戦っているように!」
と言って、僕はテンポを煽る。
 どこもかしこも悟り切ったように演奏する指揮者も少なくないが、「人間的な、あまりにも人間的な」中に、悟りに至る道があるんだ。それにしても、本当に天上的な愛に溢れた名曲中の名曲だ!

 夜の、児童合唱を含む合唱団の練習は、合唱指揮者として、この曲を数え切れないほど手掛けた僕の本来の姿でビシバシしごいて稽古を付けた。新国立劇場合唱団でも、最近だけでも、マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コヴェントガーデンや、大野和士指揮、東京都交響楽団との共演をしている。そういう意味では、合唱指揮者としての立場で、この交響曲と随分関わっているわけだ。

 さて、長い一日が終わり、僕は、名古屋から新幹線に乗る。ビールの500mlの缶をプシュッと開け、グビグビと飲みながら売店で買った串カツを頬張る。心地よい疲れが全身を包む。スコアを開けてひとり反省会をしようと思っている内に、どうも瞬間的に眠りに入ったようで、新横浜が近づいたアナウンスで、おっとっとと飛び起きた。

ベルリンの「薔薇の騎士」で夜更かし
 家に着いたのが11時過ぎ。長女の志保が何気にテレビのチャンネルを回していたら、目に飛び込んできたのが、リヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」であった。指揮はズービン・メータで、ベルリン国立歌劇場の2020年2月の映像だという。コロナが蔓延する前ギリギリの公演だ。
 今日は、一日マーラーを指揮して疲れているので、ホワイトホースのソーダ割りを飲みながら、少しだけ観ようと思っていたのに、新国立劇場でも元帥夫人を演じていたカミッラ・ニールントの歌と演技が圧巻で、つい見とれてしまい、気が付いたらもう2時だよ。2幕の終わりまで観てしまった。
 オックスのギュンター・グロイスベルクやファーニナルのローマン・トレーケルなど、みんな歌も演技も達者で、自然体のリヒャルト・シュトラウスのワールドが繰り広げられている。合唱には、かつて愛知県立芸術大学で教えていた時の生徒だったテノールの木下基樹君の姿も見えた。

 僕は観ながら、
「ワーグナー以外で今一番振りたいオペラって、もしかしたら『薔薇の騎士』かも知れないなあ」
と思った。

 ひそやかに、しかし確実に、“時”は過ぎていく。決して戻らない時間。時を刻む音。それが元帥夫人には感じられる。ワーグナーには決して表現できなかったシュトラウスならではの諸行無常の表現。今の僕には出来るかもしれない、と思いながらウイスキーが進んだ。

 だから今朝は、お散歩には行けませんでした。志保は、あの後終わりまで観たんだって。寝たのは3時過ぎだそうな。



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