パオロとの再会と「ドン・カルロ」

   

三澤洋史 

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パオロとの再会と「ドン・カルロ」
 指揮者のパオロ・カリニャーニは、新国立劇場「ドン・カルロ」立ち稽古初日に、僕に会うなり、
「ああ、もうQuarantenaはごめんだ!」
と言った。僕には即座にその意味が分かったと思ったので、そのまま会話を続けることができたが、後で辞書を引いて、そんな僕もちょっとした誤解をしていたことを知った。

 というのは、イタリア語でQuarantaは40を意味するので、Quarantenaという言葉を聞いて僕が即座に連想したのは、「カトリック教会における復活祭前の40日間に渡る懺悔と祈りの期間である“四旬節”」というもの。あるいは、キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、すぐに行った荒れ野における40日の断食。カリニャーニが「コロナ禍における2週間の隔離」を、辛く厳しい四旬節や40日の断食に、わざとなぞらえて言っていたのかと思ったのだ。

 ところが、あとで辞書を引いてみたら、QuarantenaあるいはQuarantinaには、四旬節や40日の断食の意味はなく、なんと、そのものズバリ「検疫隔離」の意味であったのだ。知らなかった!さらに辞書には、「検疫停船期間が、昔は40日間であったことに由来」と書いてある。
「2週間なのに40日とはオーバーだな」
なんて言わなくてよかった。
 とはいえ、彼の話を聞くと、2週間もの間、本当に高層ビルのホテルの部屋から一歩も出ることを許されなかったのは相当辛かったようだ。
「マジであれは監獄だ!独房だ!いいか、考えちゃ駄目なんだ。考え始めると頭がおかしくなる。何にも考えないで淡々と過ごすことなんだ」
と言ったので、かなり追い詰められた精神状態になっていたんだろうな。
「食事はどうしたの?」
と聞くと、僕にはよく分からないけれど、アマゾンなんとかという宅配サービスを使っていたという。聞けば聞くほど哀れになってくる。

「今朝、初めて外に出るお許しが出たんだ。それでまず何したと思う?」
「さあ・・・」
「カプチーノ飲みにいったさ、決まってるだろ!」
「やっぱイタリア人だね。即カプチーノか。セガフレードとかに行ったの?」
「いや、どこでもよかったんだ。すぐ近くにあるスターバックスに行った」
「あはははは!」

 話はそれるけれど、スターバックスのカプチーノといえば思い出がある。昔、「ユーガットメール」という映画があって、その中でトム・ハンクスとメグ・ライアンとが話していたんだ。
「スターバックスと言えば、やっぱカプチーノだよね」
というような会話。
 それからすぐに日本にスターバックスが上陸したんだ。いつの何処だったか忘れたが、
「あっ、スターバックスだ!」
と発見するやいなや飛び込んで、真っ先にカプチーノを注文して飲んでみた記憶がなつかしい。今から考えると、大味なアメリカのカプチーノに過ぎないけれど、当時はアメリカ人にとっても、あれは新鮮なものだったのに違いない。

「そうだ、Quarantenaの間に使っていたトレーニング器具があるんだけれど、お前、俺が帰る時に、以前のようにもらってくれよ 」
と言う。そういえば前にも、真ん中を持ってビュンビュンと振る長い棒の器具をもらったっけ。あれから全然使っていないんだけど・・・・。

 Quarantena出所後も同じホテルに泊まっているというカリニャーニではあるが、稽古場に来てからは、まるで水を得た魚のように元気で、このヴェルディの最大傑作のひとつである「ドン・カルロ」というオペラに生き生きとした生命を吹き込んでいる。

 パリのオペラ座から注文を受けて、最初はフランス語で書かれた「ドン・カルロ 」は、フランスのグランド・オペラの流れを汲む大規模な作品。特に、大規模なコンチェルタートを含む第2幕第2場では、スペクタクルな効果が要求され、本来のグランド・オペラでは、一番の見せ所となっているが、ここでヴェルディは、なんという独創的なスペクタクル・シーンを創り出したことだろう。すなわち、それは「アイーダ」のような華やかな凱旋シーンとは正反対の、宗教裁判によって火あぶりになる異端者達の火刑と、それを見届けようとする民衆の情景なのである。
 ソーシャル・ディスタンスを要求される今日においては、舞台上でこの場面のスペースを確保するのが大変。でも、再演演出の澤田康子さんや舞台監督達が知恵を働かせ、舞台セットをオリジナルよりもかなり広く開けたりして、なんとか70名の合唱団も全員舞台に乗って歌うことを可能にしてくれた。

 このシーンに代表されるように、オペラ「ドン・カルロ」は、作品全体が「長い、暗い、重い」と3拍子そろっている。しかしながら同時に、ヴェルディの他のオペラに見られない・・・というか、そもそもヴェルディ以外誰も描かないような、独自の「人間を観る」視点を持っていて、実に深遠な作品なのである。

 たとえば、珍しいのは、「男の友情」が描かれていること。オペラって、いつも男女間の愛情ばかりじゃないですか。しかも、
「愛か、さもなければ憎しみか」
という感じで、愛情にしても、情熱と本能ばかりだし、あとはエゴイスティックな嫉妬や、人を貶めようとするネガティブな感情ばかりがドロドロしていて、ここに見られるカルロとロドリーゴのような清らかで潔い友情は、僕の知っている限り他にはないなあ。
 秀逸なのは、その描き方も通り一遍のものではないこと。第1幕で高らかに「友情の二重唱」が歌われるけれど、途中では、大勢の民衆の目の前で、あろうことかそのロドリーゴが、カルロを裏切ってフィリッポ王に気に入られ、まんまと昇進を果たすのだ。この瞬間、聴衆は、
「え?どうして?」
と思うが、実はそれは見せかけで、ロドリーゴは、その瞬間、カルロのためにその身を犠牲にすることを決心する。

Che per la Spagna un uomo muora,lieto avvenir le lascerò.
スペインのために、ひとりの男が死ぬ
しあわせな未来を残すため
イエスの言う、
「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
(ヨハネによる福音書第15章13節)
という言葉そのままの美しい行為が舞台上で見られる。しかもその場面のロドリーゴの二つのアリアが比類なく美しいのだ。ひとつは次のアリア。
Per me giunto è il dì supremo,
no, mai più ci rivedrem;
僕の最後の時が来たんだ
もう僕たちは会うことはないだろう
その直後、ロドリーゴは暗殺者に撃たれる。そして瀕死の状態で歌う。
Io morrò, ma lieto in core,
僕は死ぬ、けれども心はしあわせだ
ché potei così serbar alla Spagna un salvatore!
スペインの救世主(カルロ)を、こうして守ることができたのだから
Ah! di me non ti scordar!
僕のことを忘れないでくれ!
 なんて純粋で無欲で清らかなんだろう!これをドイツ在住のバリトン髙田智宏さんが、実に音楽的にしかも端正に歌い演じる。観ていると毎回仕事であることを忘れてひとりの観客になってウルウルしている。

 一方、カルロの実父でありながら、かつてのカルロの許嫁であるエリザベッタを政略結婚で自分の妻にしてしまったフィリッポ王は、随所で孤独に苛まされる。第3幕冒頭のアリアは、「当然の結果でしょう」と言い切ってしまうと、その通りなのだが、それだけでは済まされない、妙に心に染み入るものがある。
Ella giammai m'amò!
王妃は、決して私を愛してくれない!
No, quel cor chiuso è a me,
いや、むしろ私に対して心を閉じているのだ
 第2幕で、フランドルの抑圧されている民衆を守ろうと乱入してきた息子のカルロが、頑なな父親に刃向かって剣を取った時、その場にいた騎士達の誰も王を守ってくれなかった深い失望感も、フィリッポの肩にのしかかっていたのだ。このフィリッポ王を妻屋秀和さんが見事に演じている。彼の声は、基本的にしなやかさとまろやかさを含んでいるので、フォルテで歌っても硬いギスギスした響きにならないのがいい。

 外国人歌手達は、勿論みんな素晴らしいが、エリザベッタを歌う小林厚子さんの美しい声と表現といい、日本人勢の健闘が嬉しい。
 合唱団と一緒に行動するテバルドという役に、新国立劇場合唱団のメンバーでもある松浦麗さんが選ばれているが、彼女にカリニャーニが目を付けて、
「あの子はいいね。典型的なイタリアのメゾ・ソプラノの声で、脇役とはいいながら、ああいう声の人がこういうシーンには必要なんだ」
と僕にコソッと言ってきた。さすが、イタリア人。脇役になんか目もくれないと思っていたが、見るところ見ているねえ。

 その他にも、カルロを横恋慕して悪女を演じていたエボリ姫の懺悔のアリア(アンナ・マリア・キウリも素晴らしい)など、本当に随所に聞き所満載で、こんなに名場面が充実したオペラは他にないのではないか。

 そこで僕は決心した。まだ来週の話であるが、真生会館「音楽と祈り」の5月講座の内容に「ドン・カルロ」を取り入れ、それを題材に「人間」について語ってみよう、と。詳しいことは、来週のこの「今日この頃」で書くが、なんとなく考えていることは、以下のようである。
 基本的なテーマは「ロマン派」についてである。それをドイツ・ロマン派とイタリアにおけるロマン派とに分けて論じようと思う。まず、ドイツ・ロマン派については、先日のマーラ作曲交響曲第3番を演奏した感想と合わせて、ドイツ・ロマン派が、幻想的なものへの憧れや、自然から得るスピリチュアルなインスピレーションを元に、形而上的なベクトルを常に持って発展していったことについて語りたい。
 それとは対照的に、イタリアについては、常に対象が「人間の赤裸々な姿」に向かっていったということ。しばしば、ドロドロした感情の真っ只中から、リアリズムの眼を持って人間を描き、その向こう側に、神の視線を映し出そうとしたように僕には感じられる。
 そのひとつの典型的な例として「ドン・カルロ」を挙げてみたいのだ。そして、そのどちらへのアプローチも、結局辿り着くところは同じで、人間には常に限界があること、だからこそ、至高なる存在にあこがれ、永遠なるものを目指して生きていくべきであること。そんな結論に至ってみたい。
 その具体的な例として、「ロドリーゴの生き方」と「フィリッポ王の生き方」とに焦点を当ててみようと思う。

 まあ、「音楽と祈り」5月講座のある5月27日木曜日では、もう残すところあと1公演だけになってしまっているので、公演にお誘いする効果はないかも知れないけれど、それとは別に、原作者のシラーの「ドン・カルロス」という作品に賭ける想いと、それにヴェルディの想いとが重なって、オペラ「ドン・カルロ」として仕上がった接点の火花には、みなさんに出遭ってもらいたいのだ。

 それよりも、ここのところずっと思っていることがある。「音楽と祈り」講座の内容を、限られた人たちに限定しておくのはもったいないと感じているのだ。初期の内容の多くは、僕の著書である「ちょっとお話ししませんか」(ドン・ボスコ社)に納められているが、新しいものは、まとまった時間が取れるこの夏の間に、Youtubeとか、なんらかの形で残してみようかと思っています。

往年の名指揮者を並べて観た
 上の記事のスケッチを、昨晩すなわち5月16日の夜は、杏樹を寝かしつけてから居間に戻ってきて書き始めていた。いつもの二階のデスクトップではなく、ノート・パソコンを居間のテーブルに置いて、その脇には、最初はビール、それからEarly Timesのソーダ割りとツマミを置き、目の前のテレビには、カラヤンがチャイコフスキーの「悲愴」交響曲を指揮している映像が流れていた。

 NHKのEテレで、21時から「クラシック音楽館」という番組をやっていて、「カラヤンとバーンスタイン伝説の名演奏」というタイトル。「冷凍保存されていた名演フィルムがリマスターで鮮やかに」といううたい文句なので、今日は特別に階下にいた。
 本当だったら、お酒なんか飲まないで、姿勢を正して聴くところだが、その日は「ドン・カルロ」舞台通し稽古でいろいろ気を遣ったので、リラックスして聴くことにしたのだ。まあ、予想通り、原稿はあんまり進むはずがなく、大部分は今朝作り上げたが、お酒の方は良く進んだ。ツマミはキュウリを切って金山寺味噌を付けてポリポリと地味に・・・。

 あらためて観る往年の巨匠達を、今の僕の目で見るといろいろ面白いことが分かった。まずカラヤンの指揮であるが、ひとことで言うと、僕の「スーパー指揮法」の通り。彼の指揮法は、現在の僕には100パーセント理解できる。ああいうアクションをしたら、弦楽器はああいう風に弾きたくなるだろう、管楽器もああいうアンサンブルになって、全体のサウンドもあんな風にしなやかだけれどパワフルなものとなるだろう。あのアクションをするカラヤンの頭の中では、紛れもなくあの音が鳴っていて、そしてベルリン・フィルでは、かなりそれが成就されているのではないか。
 今回新たに思ったのは、それにしても指揮棒を持つ手を、腕の付け根というか肩から動かしすぎじゃね?ということ。第3楽章なんか行進曲なんだから、もっとシンプルでもいいでしょう。でも、マーチでさえ彼は豊穣な音が欲しいんだね。
 そして思った。やっぱりこの人は豊かなサウンドをオケから弾き出すことしか頭にないんだ、ということ。だってさ、第1楽章も第4楽章も、華麗過ぎて、全然チャイコフスキーの胸の内の悲壮感が伝わってこないじゃないの。第4楽章なんて、聴いている最中も、聴き終わってからも、全く内面的感動が残らなかった。
「ああ、ベルリン・フィルが良く鳴っていた!凄いオケの機能性!もうお腹いっぱい!」という感想であった。

 実は、バーンスタインがマーラーの第5交響曲を指揮し始めた時、僕はもうかなり酔いが回っていた。冒頭のトランペットは美しかった。ムジークフェラインザールのステージいっぱいに群がるウィーン・フィルのメンバーを見て、
「なんて密なんだ!ドキドキしちゃう!」
と思って可笑しくなったが、ああ、あそこで僕もマーラーの「復活」交響曲を振ったのだ、と懐かしくなった。あそこに僕も立っていたし、僕のすぐ右には高橋広君が腰を浮かしながら弾いていたんだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい(笑)。で、バーンスタインのマラ5は一体どうだったのかというと、彼の音楽作りに関しては凄く楽しめた。やっぱり、バーンスタインは、マーラーのとっ散らかっているところを変に納めたりしようとしないで、そのまんま出すので、テンポ・チェンジの個所なんて、とっても唐突で笑ってしまうが、それがマーラーですよね・・・という感じで、酔いがどんどん進んだ。原稿はほとんど止まっていた。

でも、観ていながら、これまで感じなかったふたつのことを感じた。

 ひとつは(恐らく自分でマーラーの作品の指揮を経験したことが大きいと思うが)、マーラーがユダヤ人で、バーンスタインもユダヤ人だから、その演奏は特別な共感を持っているというステレオタイプの批評が全く意味を成さないことに気付いたこと。
 作曲家マーラーに関して言えば、確かに、ベートーヴェンやブラームスが、それ以前のバッハなどのモチーフの展開や主題労作の方法論を受け継ぎ、これを継承しようと努めたが、マーラーはあえてその方法をとらなかった、ということは否定しがたいが、マーラーがあのように作ったのは、マーラーという個人がそういう人だったので、マーラーがユダヤ人という特性とはあまり関係ないのではないか、ということ。
 それに加えて、バーンスタインもユダヤ人なので、マーラーの解釈に特別なものが宿っていて、それはユダヤ人同士でないと分からない、などというのは、全く愚かな偏見にしか過ぎない、と僕は思うんだ。
 ユダヤ人的作曲や、ユダヤ人的解釈って、一体何だ?たとえば僕が、マーラーのスコアの1音1音に直(じか)に向かい合ってそこから汲み取ったものは、マーラーというひとつの魂に対峙しただけであって、そこに国境や血の違いなんてないでしょう。同じように、バーンスタインのマーラーは、バーンスタインという個人がマーラーという個人と出遭って創り出したワールドなのだ。だから万人の心を打つのだ。

 もうひとつは、バーンスタインのマーラーには結構感動したのだが、彼の指揮のオーバー・アクションがかなり鼻についたこと。もし指揮のレッスンで弟子があのようにやったら、きつく叱るだろうな。指揮者はショーマンではない。聴衆に自分の指揮ぶりを見せるのではなく、オーケストラに自分の音楽を示し、オーケストラに共感してもらって、その結果、それが聴衆の耳に届くことをもってよしとするべきだ。
 その意味では、カラヤンの方が、より自分の創りたい音楽の使徒だといえる。カラヤンには無駄な動きはひとつもない。だけど、バーンスタインには要らない動作が多すぎる。
「ほら僕は、こんなにも今楽しいんだ!」
本当に楽しければ、あんな動作はしないんだ。今の僕には全て分かる。
 たとえば、よく女性ピアニストが弾きながら恍惚の表情をするだろう。あれもいやらしいねえ。本当に音楽に浸っている時の表情は、全然違うんだよ。
僕がもし、マーラーの第3交響曲終楽章で、
「ほら僕、今酔っているんだ。見てよ、みんな!」
という表情をしようと意識するとする。すると、その瞬間、本当の恍惚感は自分から逃げて行ってしまうだろう。

 ただ無心であること。その瞬間にだけ本当の恍惚感は宿るんだ。だから、多くの瞬間で、残念ながら指揮するバーンスタインからは、一番良いものが逃げている。この違いは微妙だけれど、とても大切なことだ。

まあ、なんだかんだ言いながら、それでも、実に楽しい2時間でした。



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