「音楽と祈り」6月講座は「作曲家にとっての50代」
真生会館「音楽と祈り」講座では、先月はロマン主義について語り、特にヴェルディ作曲歌劇「ドン・カルロ」を題材にして、カルロとロドリーゴの友情やフィリッポ王のまわりに漂う寂寥感について話してみた。
そのフィリッポ王の話題を、今回はリレーでつないで・・・という意図があったわけではないが、王の寂寥感を形作るひとつの要素である“老い”をキーワードとしてつないで、もう一方のオペラの巨匠であるワーグナーについて語ってみようと思い立った。
きっかけは、先週も書いたことだけれど、現在、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の合唱稽古を行っていて、主人公の騎士ヴァルター・フォン・シュトルツィングが歌合戦で素晴らしい歌を披露した瞬間、陶酔しながら彼を讃える合唱が響き渡った余韻の中で、管弦楽に流れる「諦念の動機」が、妙に僕の心を打ったからである。
靴職人であるハンス・ザックスは、エヴァを密かに愛していた。しかし、そこに若い騎士ヴァルターが現れ、たちまちエヴァの心を奪う。それを見ていたザックスは、ヴァルターを指導して、親方歌手(マイスタージンガー)の称号を手にする歌合戦に勝利させる。それから彼は、自分の結果に満足し、自ら身を引いて、若い二人の門出を祝福する。
こうした「若い恋人同士のために密かに身を引く」などというストーリー展開は、それまでのワーグナーでは考えられなかったことだ。「諦念の動機」は「迷妄の動機」とも呼ばれ、ザックスが想いに浸っている時に流れるが、何とも言えないしみじみとした情感に溢れ、ワーグナーが“老い”をテーマとしていることが明らかである。
ヴェルディとワーグナーは、共に1813年に生まれている。だから同じ年代に起こった事は、自動的に同じ年齢に起こったこととなる。たとえば、ヴェルディが「ドン・カルロ」を書いたのが1867年で、ワーグナーが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を書いたのも1867年と言ったら、共に54歳の時に書いたことになる。なんという偶然!
「音楽と祈り」講座では、巨匠達の50代半ばと自分の経験を合わせてみたい。その頃の自分を振り返って見ると、この50代半ばという頃は、今よりもずっと自分の“老い”というものを意識した年代であった。
視力の衰えに始まり、記憶力や体力の衰えを意識し、それから(もっと大事なことであるが)女性を見つめる自分の瞳から、ギラギラしたものがなくなってきているのを感じ、そのことに男としてなんともいえない寂しさを感じていた。
それは、つまりは、まだ老人の入り口に立ったばかりということなんだけど、
「ああ、これから自分はだんだん老いていくのか」
という先細りの感覚が確かにあったのだ。
不思議なのは、かえって今の方が元気なこと。老人の入り口どころか、「ただいま老人街道絶賛走行中」という感じで、60代も後半に入ると、老人なのは当たり前。もう自分に出来ることと出来ないことがはっきりしてきて、人生の中から、人と競争したり、認められようとやっきになったり、なにかを得ようと焦ったりする要素がストーンとなくなってきて、力を抜いてありのまま自然体でいられる。女性を見る目も、妹や娘や、時には孫を見つめる視線となり、自分が今、柔らかい眼差しで見守っているなあと思うことが多い。
こうなると、人生はもうオマケみたいなもので、毎日毎日元気でいられることが、ただ感謝。自分が自分でいられて、自分らしく生きられていればいい。そんな境地になる。
その視点から、50代半ばのヴェルディやワーグナーを眺めてみた時、
「なんだ、まだ充分ギラギラしていたやんけ!でも、そんな時だから“老い”はリアルに感じられ、これを表現として残しておきたいと感じたのだろう」
と、ある種の懐かしさのような感情に包まれる。
ワーグナーはその後69歳まで生きたし、ヴェルディに至っては、なんと87歳まで生きたが、それだからこそ、この50代半ばの心境と、その心境を抱きながら生みだした作品が醸し出す、独特の趣きが貴重なのかも知れない。
その意味でいうと、35歳で亡くなったモーツァルトはいわずもがな、50歳で亡くなったマーラーにも、この年代の心境はあり得ないし、56歳で亡くなったベートーヴェンにとっては、実際の死を目前にした最晩年であったので、ワーグナーやヴェルディが味わったような過渡期的な感情は知るよしもない。
ということで、貴重な50代半ばの心境について語りながら、知らず知らずの内に、「マイスタージンガー」の素晴らしさに、みなさんを導いて差し上げましょう。
渡辺真知子にハマってます
老いの話の続きではないけれど、かつて一世を風靡した歌謡曲歌手である渡辺真知子に、この歳になってハマっている。渡辺真知子といえば「カモメが翔んだ日」が一番有名であるが、僕が好きなのは「唇よ、熱く君を語れ」という曲。1980年1月にシングルをリリースした曲で、カネボウの口紅のCM曲としてヒットした。
しかしながら、僕はあの時代、あまり彼女のことを知らなかった。彼女がデビューし活躍した1980年前後というのは、僕にとっては、人生で最も辛く大変な時期。国立音楽大学声楽科を卒業したばかりで、親に反対されながら無理矢理今の妻と結婚し、指揮者になる勉強を必死でしていて、ベルリン留学(1981-84)を夢見ながら、ピアノ弾きのアルバイトをしてお金を貯め、山田先生のところに指揮のレッスンに通っていた。テレビなど観る暇もなかったのだ。
昨年の新型コロナ・ウイルスの蔓延と緊急事態宣言をきっかけに、よくYoutubeを観るようになった。仕事が一段落した時とか、ふとした合間に、息抜きの意味も兼ねて観る。その最中、ごく最近、何気なく渡辺真知子の歌に出遭った。
パワフルだがしなやか。とても発声が良く、頭声は艶やかにどこまでも伸びる。フレージングも良い。とにかくうまい!それに、歌っている目がキラキラ輝いている。すっかり魅せられて、気が付いてみたらCDを買って、i-Podに入れてよく聴いている。
「唇よ、熱く君を語れ」には、現代にはない、昭和のバイタリティを感じる。あの頃、みんな未来を信じていた。女性も自立して、自分の信じる道を歩もうとしている時代。それよりも、僕はね、人生、自分の周りは女性だらけなのだ。母親にとっても愛され、祖母にもとっても愛され、二人の姉妹に囲まれて育ち、妻と出遭って結婚して子供が生まれても娘が二人。孫も女の子。
そして、長女はピアニスト、次女はメイクアップ・アーチストなので、究極的に働く女性の味方なのだ。妻も、最近キャンドルという、自分がワクワクするものを見つけた。こうした“歓びを持つ女性”を僕はとことん応援する。そんな僕の心に、渡辺真知子の発するメッセージが飛び込んできたわけだ。
唇よ、熱く君を語れ調べてみたら、渡辺真知子って1956年生まれだから、僕よりひとつ下なんだね。
舞い上がれ 炎の鳥になれ
唇よ、裾せた日々を朱く
愛にいだかれて あやしくなれる
Oh, Beautiful and Free
唇で語れ 明日を
(作詞:東海林良 作曲:渡辺真知子)
朝日新聞をとるのをやめました~メディアの緩慢な自殺
写真を見て下さいな。これが朝日新聞6月19日土曜日夕刊のトップ記事だ。もう気が抜けちゃうでしょ。ずうっとこんなです。
これがトップ記事!
共産主義の理想と現代のバール信仰
マルクスやエンゲルスが唱えた社会主義思想そのものに対して、僕は決して悪感情を持ってはいない。資本を社会の共有財産(きょうゆうざいさん)に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨(ひさん)な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている基本的な考え方そのものは、むしろ賞賛している。
問題はイズムではなく人間の心にある。社会主義あるいは共産主義が否定しているのは、悪しき資本主義である。それは、人間の飽くなき欲望から来るもので、留まるところを知らぬ所有欲が、被雇用者から無限の搾取を行い、富の偏りを生み、それによって富裕層と貧困層との断絶を社会に広げる。これがなくなったら、地上にパラダイスが生まれるに違いない。
ところが現実を見てみよう。共産主義、社会主義の国々の現状を見る限り、とてもパラダイスとは言えない。何故か?これも人間に起因しているのである。社会主義体制を作り上げるためには、社会構造そのものを変えなければならないから、革命によって格差のない世の中をまず作らなければならない。ここまでは良い。
しかし、一度絶対権力の側に立ってしまった人間は、ある時気付くのである。
「あれっ?革命で無理矢理民衆を封じ込めた世の中では、俺たち、実はなんでも好きなこと出来るんじゃん。自分に逆らう者は捕まえて処罰したっていいのだ。あはははは、これはまさに俺たちにとってのパラダイスだね」
かくして、一握りの者達だけにとってのパラダイスが生まれてしまった。それを人は独裁政治という。あれ?どうしてこうなるのだろう?
かつての原始キリスト教団は、ほとんど共産主義のような集団であった。人々は自分の財産を持ち寄ってグループの共有財産としていて、必要な物はみんなで分け合っていた。その中心には神への信仰があり、善意があり、エゴイスティックな所有欲は皆無であった。
つまり、本当は、資本主義であれ社会主義であれ、最終的には、それに関わる者達のモラルに帰するのである。無私や愛他の気持ちにみんながなれば、本当に地上にパラダイスが生まれるが、エゴイスティックな気持ちであったなら、地獄的な社会になるだけだ。実に簡単なことだ。
それに、富の格差をなくすのは分かるのだが、どんなに一生懸命働いても儲からないし、真面目に働かないでも食えるのであれば、そもそも労働意欲がなくなってしまう。弱者に優しい社会は良い。しかし、その一方で、努力が報われない社会は、巡り巡ってパラダイスとはならないのだ。
マルクス主義では、宗教を否定しているけれど、ここにも自己矛盾がある。つまりマルクス達は、人間という存在を買いかぶり過ぎたわけだ。人間って、実は弱くて低きに流れやすい。しかも、場合によっては簡単に邪悪になり得る。その点に対する冷徹な視点が欠けていた。
中国では、もっと深刻な問題が起きている。不思議なことに、共産主義の本質から最も遠い現象の中にいる。それどころか、極端な資本主義が最悪の形で辿り着いた典型的モデルと言ってもいい状態にある。
昔、北京に「アイーダ」公演をしに行って驚いたことがある。最初の晩、富裕層達が出入りしているレストランにソリスト達と一緒に招待され、北京ダックやサソリの唐揚げなどをご馳走になった。お勘定を見たら、ほぼ日本の物価と同じくらいだった。
次の日、街に出て、地元の飲食店でお昼を食べた。すると、お腹いっぱい食べてだいたい100円くらいだったのに驚いた。つまり庶民は日本の10分の1の物価社会に生きているのだ。この二重の物価構造が中国を豊かにした事を、僕は瞬間的に悟った。
外国の資本家がここに目を付けるのは当然だ。中国に沢山工場を作り、10分の1の賃金で働かせば、極端な話、10分の1の値段で商品を作れる、それを自国で売れば、笑ってしまうほど儲けることができる。それを成し遂げるためには、その格差を利用してくれる外国の存在が不可欠。これは誤ったグローバリズムである。
こんな風に外国資本を入れるのは、そもそも共産主義に最も反しているのに、それどころか、そのおこぼれをもらい、中国人の中でも、10倍の報酬で生きている人と、100円でお昼を食べる人との格差が生まれた。コロナ直前まで我が国に来て爆買いをしていった人たちは、その10倍組の人たちだ。
これって、すでに共産主義でもなんでもないよね。むしろズブズブの資本主義で、ある意味、マルクスが最も嫌っていた社会ではないか。富の分配はどこへ行った?搾取による格差社会の撲滅はどうなった?今頃、マルクスやエンゲルスは墓場の陰で泣いているよ。
さらに、そこで資本を手にした中国人達は、海外に出かけていって様々な投資を行っていく。ある人たちは、米国などの社会に紛れ込んでいって、その膨大な資金力で、様々なことを陰から操っていく。そしてそれを欧米の資本家達も巧みに利用している。
中共の人に共産主義って何ですか?と聞いてみたら、一体どんな答えが返ってくるのだろうか。
「あ、それは、とどのつまりはバール信仰(拝金主義)のことです」
と言ったらどうしよう・・・そうなったら僕はエリアを呼ぼう!