ワーグナー・ガラスペシャル無事終了と夏休み

三澤洋史 

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ワーグナー・ガラスペシャル無事終了と夏休み
 愛知祝祭管弦楽団による「ワーグナー・ガラスペシャル」が終わって、もう一週間以上になるが、本当に出来たんだなあ、とまだ信じられない。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」公演が中止になってからというもの、ひとつひとつの練習に通うだけでも、「今日はまだ中止になっていないな」と懐疑的になっていた。

 ましてや、8月14日の本番前日の練習が滞りなく始まった時などは、
「まだまだ油断できない。バス・クラリネットやイングリッシュ・ホルンなど、代わりがきかない楽器の人たちは、みんな元気かな?」
とか、
「ソリスト達の体調は、本当のところどうかな?無理して来てないか?」
など、要らぬ心配をしていた。合唱団、バンダの人たちを合わせると、おびただしい人数なのに、一人残らず元気だなんて、かえって信じられないではないか!

 僕は、アマチュアのオケにガッツリ関わることはこれまで本当に少なくて、その意味では、愛知祝祭管弦楽団が初めてだといっていい。だから今でもあまり慣れていないことがある。たとえば、プロだったら練習の初回から全員が揃っているのが普通だろう。
 でも、たとえばハープ奏者は、プロの神谷知佐子さんだけれど、今日(14日)が初めての参加で、明日もう本番だし(でも彼女はいつも完璧)、普段の練習で全メンバーが揃うということはほとんどないと思っていた方が良い。

 チューニングが終わって指揮台に立つと、今日は真っ先にみんなに訊いた。
「いよいよ明日が本番ですが、今日はみんないますか?」
「はい!」
「いない人はいないですか?」
「いません!」
そして練習が始まった。
 バリトンの初鹿野剛さんが歌う「タンホイザー」の「夕星の歌」の前奏。フルートが3本でアンサンブルをするはずなのに2声しか鳴っていない。驚いて止めると、奏者も驚いている。
「3番はいないの?」
「・・・・」
みんなポカーンとしている。僕はスコアを持って奏者達のところに行く。驚いたことに3番奏者はいたのだが、そもそもパート譜に書いてなかったのだ。思い返してみると、これまでにも練習中こうだったのだが、
「ああ、今日はきっと誰か休んでいるのだ」
とチェックしなかったのだ。
 はじめの頃は、いちいち驚いていたのだよ。鳴るはずの音が抜けているので、そちらの方を向くと、
「2番トロンボーンが休みでーす」
とか、
「ホルンは午前中2番が抜けて、午後は、2番はいるけれど4番が抜けていまーす」
クライマックスが来たと思ってティンパニーのために腕を大きく上げてアインザッツを出すと、
「すみません、ティンパニーは午後だけ居ないんです」
とかあってガックリするんだけど、その内、妙に物わかりが良くなって気にしなくなったのだ。
 ということで、本番前日に第3フルート奏者が鉛筆で音符を書き込んで、やっと「スコアに書いてある音が初めて出た」、などという状態の中、練習は滞りなく進んでいった。

 妻が孫の杏樹を連れて前の日から名古屋入りしていた。でも、愛知県芸術劇場地下の中リハ室での練習に立ち会ったら密になってしまうので、その日の練習を聴くことは見送り、練習が19時に終わるとホテルで一緒になる。彼女たちは、近くに夕食をとりに行って、その店で作ってもらったお土産のお惣菜を持って部屋に戻り、僕はコンビニでお酒を買って、そのお惣菜をつまみながら部屋で夕食。そういえば、5月のマーラー第3番の演奏会の時も、こんな風に部屋呑みしたっけ。コロナ禍ならではの風景だが、これはこれで楽しい。
 本番当日の早朝。僕たちは東急ホテルから護国神社までお散歩した。祈っている内にピンときて、
「あ、この演奏会は大丈夫だな!」
と思ったので、
「この演奏会を成功させてくださって、ありがとうございます!」
とお祈りした。杏樹が笑いながら、
「まだやってないよ」
と言ったけど、
「先に感謝しておくの。そうすると神様も気を良くして叶えてくれるからね」
と言った。こう思えた時は、絶対大丈夫!

 なにしろ正味だけで3時間たっぷりかかる演奏会だから、ゲネプロといったって、全曲演奏することなどできない。それに加えて、今回は演奏会形式なのだが、会場の向かって左側奥に設置された歌唱のためのいわゆる“お立ち台”に、誰がどちらからどの順番で登場して、どういう位置関係で歌うかということを決めなければいけない。そんなに難しいことではないのだが、舞台奥や袖から、どのくらいで辿り着くのかという距離感は、実際の現場で動いてみないと分からないのである。
 「タンホイザー」のヴェーヌスや、「トリスタン」のブランゲーネなどは、2階左前方から歌うことによって、空間的立体感と残響を伴った快い響きでとても効果的であった。そこで、「ローエングリン」の第2幕のエルザも、「2階から歌い始ようか?」と池田香織さんが言い始めた。
 天真爛漫なエルザは、途中で降りて来るが、その間にオルトルートの「ヴォーダン、フライア!」と呼ぶ呪いのような場面が入る。しかし、この2階席のエリアから、一度舞台裏エリアを通り抜けてエルザが間に合うかは、やってみるまで分からない。結果的にはうまく間に合ったが、こうした試行錯誤をゲネプロで繰り返していたわけである。

 さて、本番であるが、超当事者である僕が自分で言うと、自画自賛になってしまうか、さもなければ、反対に反省会になってしまう。幸い、評論家の池田卓夫氏がわざわざ名古屋まで足を運んでくれて、とても好意的な批評を書いてくれたから、ここに紹介したい
 こういう聴衆がいてくれると、本当に嬉しい。こう言うと上から目線であるように見えるが、聴いて欲しいところを全部漏らさず聴いてくれている。ただ、ひとつだけ弁護したいのは、ローエングリンとパルジファルを歌った大久保亮さんのこと。

 後半の2作品でのカット及び選曲の結果、主人公の歌唱が比較的大人し目の個所に集中したそしりは免れないかも知れない。しかしながら強調しておこう。今、日本で「ローエングリン登場の挨拶」をあのようにコントロールしてノーブルに歌えるテノールが一体何人いよう?まるでクラウス・フロリアン・フォークトのようではないか?
 また、大久保さんの声質は、むしろ受難曲の福音史家に相応しいが、そのドイツ語の語り口を味わっていただいて、声だけ大きくて大味なワーグナー歌手のイメージを払拭していただきたかった。

 その意味では、たとえば「タンホイザーのローマ語り」の菅野敦さんにも、コレペティ稽古当時から、
「歌わないで、もっと語って!」
とフレーズ毎に丁寧に指摘した。それは池田卓夫さんも読み取ってくれていて、
「言葉のニュアンスを大切にして、力で押すよりも音楽のスタイルに即した再現だった」(トリスタンとイゾルデ)という文章で表してくれた。
池田香織さんのエルザも、
「フレーズの最初はビブラートをやや抑えめにして、スーッと伸びやかで美しいラインを描くことだけを考えて、声量は犠牲にして構わないから」
と指摘したら、リリック・ソプラノ顔負けのなんとも清楚なエルザを作ってきてくれた。聴いていた長女の志保が驚いて、
「あんな池田さん見たことない!」
と言っていた。
とにかく「1に声量、2に声量」の誤ったワーグナー観を僕は世界から一掃したいのだ。

 さて、あれから一週間以上経っているが、ちょっと先週あたりから、遅い夏休み中。「おにころ」、中止になったけれど「マイスタージンガー」、そして「ガラスペシャル」と、駆け抜けた感があるからね。
 すこしペース・ダウンして、いろいろを蓄え(勉強は怠ってはいない)、また秋に向かってだんだんアクセルをふかしていこうと思っている今日この頃である。

   

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