コルベッリという歌手~「チェネレントラ」開幕直前

 

三澤洋史 

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コルベッリという歌手~「チェネレントラ」開幕直前
 リッカルド・シャイイ指揮、チェチリア・バルトリが主人公を歌っている「チェネレントラ」のCDではダンディーニを歌っているのが、今回ドン・マニーフィコ役で来日したアレッサンドロ・コルベッリだ。
 彼だけスケジュールの都合でみんなより大分遅れて稽古に参加した。
「高齢でもあり、大変な大物だが、かなり気難しい」
という噂で、彼が来日して初めて我々の稽古に参加したオーケストラ合わせでは、みんな気を遣っていたが、いやいやそんな心配は全く要らなかった。

 彼の歌は天衣無縫という感じで、もう全身からドン・マニーフィコに成り切っていて、歌のみならず、ひとつひとつの仕草が実に楽しく、彼自身もエンジョイしているし、元来陽気な人だった。
 休憩時間にイタリア語で自己紹介したら、
「分かってるよ。合唱指揮者だよね。さっき裏コーラスを指揮していたね」
と、まるで子供のようないたずらっぽい笑顔を浮かべた。

 CDでダンディーニを歌っていただけあって、彼の声種は、バスというよりは実はバリトンであるが、体全体がよく鳴っていて無理がないし、下の音域でも何の不満もない。
「ああ、こういうのがベルカント唱法として理想なんだな」
と納得させてくれる。
 ロッシーニのオペラには、こうしたバスの役に、かならず機関銃のように超高速で言葉を連発させるアリアがあるが、まあ、よくこんな風に力が抜けて言葉が飛んでくるものだと感心してしまう。

 さあ、これで役者は揃った。このプロダクションはねえ、今世界中探しても、これだけ粒の揃ったキャストの公演に出遭うのは難しいよ。

 合唱は、男声だけで、しかもわずか20人ではあるが、響きは充実している。合唱団員の衣装は真っ赤な燕尾服で、一個所だけ(みんなおじさんなのに)バレエ用のチュチュを着て踊るシーンがあるんだ。オエッ・・・あ、失礼・・・って、ゆーか、かなり笑えます。
 舞台は原色で彩られていてかなり派手!色彩豊かだが、中心になっているセットはモノクロのものも多く、そのコンビネーションに、舞台美術家チャンマルーギのセンスが光る。

 昨日のオケ付き舞台稽古から、主役達はマスクを取った。アンジェリーナ(チェネレントラ)役の脇園彩(わきぞの あや)さんの歌が、マスクを取ったら、こんなにも透明感溢れる声で会場の隅々まで飛んで、こんなにも表情豊かに歌われているのかとあらためて驚いたし、顔つきや表情も、こんなにも場面に応じてチャーミングに変わるのかと、新たな発見をした。マスクって、このコロナ禍では仕方ないんだけれど、こんなにも表情を隠すのか・・・・だって目しか見えないんだから仕方ないよね。

 さて、今日の午後は最後のオケ付き舞台稽古。明後日の9月29日木曜日にゲネプロ(総練習)があって、10月1日金曜日からいよいよ今シーズンの幕が開く。

「うた 祈りを 日本語に乗せる」真生会館9月講座
 9月30日木曜日10:30-12:00の真生会館「音楽と祈り」9月講座のタイトルは、「うた 祈りを 日本語に乗せる」である。真生会館の講座は、毎月第3週であったのだが、23日が休日だったため、今月だけ第4週となっている。

 今回の講座は第1部と第2部とに分かれている。第1部では、「髙田三郎のアプローチ」、第2部は、恥ずかしながら「三澤洋史のアプローチ」とした。

 作曲家髙田三郎については、この講座が始まった2019年の7月の講座で「ミサと音楽」というタイトルで一度触れているが、もうかなり前のことだし、この辺でもう一度取り組んでみるのもいいかと思った。

 実は昨日、すなわち9月26日日曜日に、僕は二期会日本歌曲研究会に講師として招かれた。テーマは髙田三郎の歌曲で、前半は講演、後半は公開レッスンであった。前半の40分程度の講演では、作曲家髙田三郎の簡単な経歴を辿りながら、髙田氏が、歌曲や合唱曲、または典礼聖歌を作るにあたって、いかに日本語と対峙していったかという軌跡について述べてみた。
 後半は5人の歌手にそれぞれ20分程度の時間を取り、各自が髙田氏の歌曲を歌い、僕が、レッスンというまではいかないが簡単なサジェスチョンを与えた。僕ごときが、プロとして活動している歌手達に何をか言わんや、という感じで、やや緊張して始めたが、やり出したら、結構言いたいことが出てきて、予想以上に役立ったみたいだ。
 典礼聖歌や合唱曲に深く関わっていた間に、髙田氏の癖や、彼が音符にしたためる「そのこころ」というものに僕は触れていたのかも知れない。だから音符の表面しか読まないで臨んだ歌手には、ちょっと厳しかったかな。

 二期会の準備をしている内に、その第1部の内容は、少し幅を広げたらそのまま9月講座に使えるなと思い始めた。今は、どこの教会でも聖歌を歌うことが禁じられているし、司祭も歌ミサを行うことができないが、祈りと音楽が出遭う瞬間の火花を見るような感動は、信仰の世界ではどんな時も失うべきではないと思う。その意味でも、今回の講座の第1部を僕は重要と考えている。

 そして第2部であるが、9月15日発刊の月刊誌「カトリック生活」10月号が、「音楽の中のイエス・キリスト」という特集を組んで、僕に原稿依頼をしてきたので、僕は、いろいろ考えたあげく、自作ミュージカル「愛はてしなく~マグダラのマリアの生涯」に関する記事を載せたのだ。
 それで「音楽と祈り」受講者には、特別に、そのミュージカルのハイライト・ビデオを解説付きで観ていただきながら、実際に舞台にイエスを登場させるとはどういうことか、などを語ってみたいと思っている。
 僕も、髙田三郎氏とは別の意味で、日本語の台本を書くにあたって、どう言葉を選んだら、簡潔な表現で状況を的確に描けるか?また、それを音楽に乗せる時には、どうしたらいいのか?いろいろ試行錯誤したあげく、自分なりの方法論を作り出している。
 その軌跡を描くことで、もういちど、日本語とはどういう言語か、信仰を持ち、神に近づこうとする時、日本人であること、日本語で思考し生きていくことにどんな特性があるのか・・・・というところまでいろいろ突っ込んだ話も出来ればいいと思っている。

この講座は、オンラインでの受講も出来るので、遠方の方もどうか興味のある方はご参加ください。
http://www.catholic-shinseikaikan.or.jp/courses

読書週間
モーツァルトは子守唄を歌わない

 コロナで自宅療養している間に、体はすっかり治っているのに外に出られないで時間を持て余していたので、何気なく家にある本を取って読み始めた。そういえば、ここのところずっと、何かの資料を調べることはあっても、小説などは読む時間なかったし、なにより興味がそちらの方に向いていなかったらしい。

 僕には、買うだけで家に積んでおいて、読まないという本はほとんどない。ケチではないけれど、買ったからには読まないともったいない、という気持ちがとても強いのだ。でも、今回、ボーッと本棚を見回していたら、あった、一冊だけ。それは、森雅裕という人の書いた「モーツァルトは子守唄を歌わない」(ワニの本)という小説。
「なんで家にあるんだろう?買った覚えはないなあ」
といぶかしく思った。誰かにプレゼントされたのかな?とりあえず暇だし、読んでみた。

 主人公は、なんとベートーヴェンなのだ。それで、モーツァルトが毒殺されたという証拠を追い求めていて、その秘密が「モーツァルトの子守唄」という曲の中に隠されているというもの。
 ほらほら、読者の中にはもうニヤニヤ笑っている人がいるね。ちなみに、日本語で「眠れよい子よ」と歌われている「モーツァルトの子守唄」という曲は、実はモーツァルトの作曲ではなくて、本業は医者でアマチュア作曲家のベルンハルト・フリースの作であるというのが定説である。
 この小説の中で、この子守唄がモーツアルトの作でない証拠として挙げられている、和声進行の過ちや、伴奏と歌の声部で音がぶつかっていることなどの洞察は見事だと思う。その通りだ!それぞれは小さな過ちだろうが、巨匠モーツァルトは絶対にやらない。巨匠の腕の確かさというのは揺るぎないのだ。

 ベートーヴェンが探偵もどきの推理をすることや、まだ少年のシューベルトがいろいろ活躍したり、サリエリやチェルニーやコンスタンツェや、彼女と再婚してモーツァルトの伝記を書いたニッセンなどが登場するだけで、まあ面白いといえば面白いのだが、でもねえ・・・「ンなハズねーだろ!」というのが多すぎて、結構馬鹿馬鹿しい。
 まあ、コロナ禍でなければ一生読まなかったかも知れないが、期待し過ぎて読まなければ、当時のウィーンの雰囲気などは伝わってきて楽しいところも少なくない。軽くお奨めしておきます。

秋吉敏子と渡辺貞夫
 その後、すでに読んだ本だが、あらためて手に取って面白かったのは、西田浩著の「秋吉敏子と渡辺貞夫」(新潮新書)。まず秋吉敏子が、バークリー音楽院に入学するまでのいきさつが凄い。

 1953年のこと。米国のプロデューサーのノーマン・グランツが率いるJATPというジャズマンの一行が来日公演を行った。秋吉さんがピアノを弾いていた銀座のクラブに、ある時、JATPに参加していたオスカー・ピーターソンがふらりとやって来て彼女の演奏を聴いた。
 即座にピーターソンは、
「彼女はレコードを出すべきだ」
と言ってグランツに掛け合い、約一週間後、レイ・ブラウンなどのJATPの蒼々たるメンバーをバックにレコーディングが行われた。録音は日本のスタジオだったが、レコードは、グランツが経営する米国の一流会社から発売されたのだ。
 それを聞いた、バークリー音楽院は、なんと学校自体が保証人になってくれて授業料免除という破格の待遇で彼女を迎えたというのである。

 秋吉さんがボストンに向けて出発したのが1956年。それから5年後の1961年。人気サックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚して日本に凱旋公演をした秋吉さんは、渡辺貞夫氏に対し、
「バークレーで勉強してみない?」
と呼びかけ、学校に掛け合って、彼にも学費免除の待遇を与えてもらったという。

 その渡辺氏は、帰国すると今度は、すでに一流になっている日本のジャズメン達を集めて、バークレーで習ったジャズ理論を教えるのである。きっかけは、ピアニストの菊池雅章が、
「教えてください」
と訊ねてきたことに始まるが、彼の自宅で始まったジャズ教室は、口コミでどんどん広がり、一時は、自宅に毎日30人~40人がたむろするサロン状態になったという。
 それではどうにもならないので、銀座のビルを借りてヤマハ音楽振興会で行われるようになり7年ほど続いたそうだ。教えを請うた弟子たちの中には、山下洋輔(ピアノ)、富樫雅彦(ドラムス)、渡辺香津美(ギター)などをはじめとする日本を代表する人たちが沢山いる。

 なんと美しい話だ、と思う。なかなかこういう美談は、クラシック界にはないなあ、と、この本を読みながら随所で感動した。この本が書かれた2019年1月時点で、秋吉敏子さんは89歳、渡辺貞夫さんは85歳だというから、2021年9月時点では、それに2を足すのか。うわあ、もうそんな・・・・。

そして行き着いた「青春の門」漂流篇
 これは、自宅待機期間が過ぎて、新国立劇場の「チェネレントラ」の稽古に通い出してからの事だ。五木寛之著「青春の門-第9部漂流篇」が出ているというのを京王線車内の釣り広告で見て、
「ええっ!」
と驚いた。
「ま、まだ書いてんの?」
というのが最初の感想。とにかく、恐い物見たさで、早速Kindleで購入し、読んだ。

 なんとこの人、1969年からこの長編小説を書いているんだぜ。だから、いくらなんでもいよいよ完結かと思いながら読んだのだが、衝撃的なことに、この第9部でも、まだ終わらなかった!
 というか、そもそも終わらせるつもりもないのかな、とも思いながらネットを探ったら、どうやらただ今第10部を執筆中で、著者の言葉によると、来年の夏くらいには完結するという噂だ。

 朝日新聞のインタビューで著者は言っている。

ラストシーンは決めている。29歳の信介が、筑豊のボタ山からかつての炭鉱地帯を見下ろし、自分の青春は終わった、とつぶやく――。
「とはいえ、そんな構想も絵に描いた餅。そのようになればいいなというだけで、未完ならそれはそれで構わないんです」。
全ては「他力」の風次第なのだ。
(板垣麻衣子)=朝日新聞2019年10月23日掲載
 あのさあ、五木寛之氏って1932年9月30日の生まれだっていうから、あと数日で89歳だよ(計算合ってる?)。それなのに、まだ第9部では主人公が20代半ばのままで、ラストシーンでも29歳の若造が「自分の青春が終わった」とつぶやいて、この50年以上に渡る長編を終了させるつもりかい。ホント変わってるよねえ。

 それでも凄いと思うのは、とにかくこの人の書くものは面白い!読み始めたら止まらなくなって、電車の中でも、「チェネレントラ」の舞台稽古中で客席後ろの監督室で赤いペンライト持ちながらでも、家に帰って来てベッドに入っても、ずっとずっと読んでいて、2日間で一気に読んじゃった。けっして短くはないんだよ。後で、本屋さんに行って、あらためて単行本を見たら、まるで辞書のように分厚い本なので笑ってしまったほどだ。

 (注:ややネタバレ)漂流編というサブタイトルの付く第9部では、主人公の伊吹信介は、バイカル湖のほとりでドクトルと呼ばれている男にかくまわれていて、ドクトルの愛人となっているタチアナにロシア語を習うなど内省的な日々を送っている。途中、タチアナと怪しい関係になりかけるなどあるが、ドラマチックな変化はない。でも、読み進めていく内に、日本のシベリア出兵や、ロシア革命やロマノフ王朝のことなど、随分勉強させてもらった。こんなにストーリー的に動きがないのに退屈しなかったのはそのせいだ。

 その一方で、戦後の芸能プロダクションを描く、オリエの近辺は動的でめくるめく世界が展開する。この戦後の、レコードを中心とする業界から、テレビの普及に伴って世の中の動きが急変していく様子は、先ほど触れた「秋吉敏子と渡辺貞夫」でも描かれていて、このふたつの本が、読み進めるに連れて妙にリンクしてくるのである。

 ジャズの方の本では、戦後すぐは、進駐軍相手のジャズの仕事だったら、多少下手でも決して食いっぱぐれることがなかったし、コンサートの後は、女の子達が楽屋口で大勢出待ちしていたのに、ロカビリーが流行るやいなや、みんなどこかへ消えてしまったという。 一方、「青春の門」で描かれている芸能界では、世の中がどんどん変わっていく中で、以前の価値観にこだわっている人は消えていって、時代を読みながら常識に縛られない人は生き残っていく。

 いずれにしても、人は時代に翻弄されていく。我々もそうだ。コロナ禍で、世の中がどう転んでいくか?その中で、我々はどう振る舞い、どう自分の生き方を規定していけば良いのか?いつもいつも問われているのだ。

 その中で、五木寛之氏が、高円寺竜三のような、時代を感じながらも自分の信念を曲げない人を描いているのはさすがだ。また、このオリエを取り巻く芸能界で、まるで主人公のような役目を果たしている山岸守は、どこか信介の分身のようで親近感が湧く。彼が禁欲的だから、それだけに、野心と欲望とお金の渦巻く業界の凄さが際立っているわけかも知れない。
 一方、ジャズの世界でも、フリー・ジャズ、フュージョンなど、様々なスタイルの変遷を通り過ぎながら、なお頂点に君臨し続ける秋吉さんや渡辺氏にも、ど真ん中に決して揺るがない“自分の真実”があるから成し遂げることができるのだろう。

 これ以上ネタバレすると良くないので、とにかく五木氏よ、なんとか第10部で完結して下さい。それで、やっぱし織江ちゃんと信介ちゃんを結びつけて下さいよ。89歳の五木氏を目の前にして言うのもなんだけど、この結末を読まないでは、死んでも死にきれません!



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